馬の精霊

葛西 秋

馬の精霊

 妖精と云うと西洋のイメージが強いが、日本にも妖精という存在はあって、それは妖怪という名称で呼ばれるものだという。


 正直、釈然としない。


 もう一つ精霊という言葉があり、こちらは生物であるか無生物であるかに拘わらず、あらゆる万物にやどる霊的存在という意味になるようだ。こっちの方が本邦の妖怪のイメージに近い。


 言葉遊びのような妖精の定義はさておいて、オシラサマと関連の深い馬について、妖精や妖怪のそれぞれの例を挙げてみよう。


 馬の妖精として有名なのはスコットランドのケルピーという水棲馬だろう。

 水辺に棲むこの妖精は、通りがかる人間を水の中に引きずり込んで命を奪う。また人間の男に変身して娘を誘うこともあるという。水棲馬はいくつか名を変えながらヨーロッパに広く伝わる妖精である。


 日本に伝わる馬の妖怪には首切れ馬の伝承がある。

 四国で有名なこの妖怪は、首のない馬が乗り手のいないまま長者屋敷の跡や寺や神社の境内、古戦場などをさまようという。この話にはバリエーションがあり、馬の首だけが徘徊したり、首と足のない馬がうろついていたりと様々である。


 その他に有名な絵師が絵馬に描いた馬が毎夜絵馬から抜け出して作物を荒らすという伝承も各地に伝わる。


 精霊はどうだろうか。

 精霊馬という藁でできた馬を祀る行事は、これも全国的に見られるものである。その時期は七夕やお盆など地域によって違いがある。

 七夕の時期に作られる藁でできた精霊馬は、江戸時代以前からの古い農耕祭祀を引き継いでいるという。お盆でよく見る胡瓜で作られた精霊馬は、死者の霊を迎えに行く役目を持つ。


 一見してヨーロッパの妖精馬、四国の首切れ馬、そして精霊馬はそれぞれ異なるものに見えるが、すべてのルーツは一つに収束している。


 まずケルピーという水棲馬の水辺で人を襲う性質は、アジアの馬の伝承にも類例が見られる。最もイメージしやすいのが日本でも良く知られている西遊記の話だろう。西遊記では水辺で悪事をしていた竜が三蔵法師の法力によって白馬に変化し従うようになる。

 三蔵法師を乗せた白馬の轡を取るのは、お供の孫悟空の役目である。沙悟浄でも猪八戒でもなく、なぜ孫悟空が馬を引いているのか。これには明らかな理由があってアジアで独自に展開した馬の信仰が関与している。


 アジア発祥の宗教の一つである仏教はインドから始まったとされる。そのインドの馬匹文化では猿が馬の健康に欠かせない存在だとされていた。もしかしたら猿の体の一部を病気の馬に食べさせたことが源流にあったのかもしれない。猿と馬の関係は、ある種精霊的な伝承としてインドに根付き、仏教とともに東アジアへと広がっていった。


 馬とその守護神となった猿との互いに分かち難い存在としてのイメージが西遊記の孫悟空と白馬にも反映されていると考えられる。


 ただ水辺で人に害をなす馬の負のイメージが消えたわけではない。仏教の守護獣や王者の権力の象徴として馬の地位が向上すると、やがて馬が持っていた負のイメージは馬の守護神である猿の方へと移っていった。

 ただ猿はもともと水辺にすむ動物ではない。守護すべき馬を失い水辺に棲んで人を襲うは河伯と呼ばれるようになり、日本に伝わった後には河童という妖怪として有名となった。


 河童は、元は馬の妖精だったのだ。


 また人の娘を誘うというケルピーの性質は、オシラサマ発祥譚として語られる人の娘と婚姻を結ぶ馬のイメージと重なる。馬と恋に落ちた娘が双方の死を以て結ばれ、残された人々が神として祀るという顛末の伝承はオシラサマ信仰の在る土地には珍しくない。


 ロシアとウクライナの国境に近い地域で5千年前に始まったとされる馬の飼育にまつわる文化、馬匹文化は、ユーラシア大陸の東西に驚くほどの速さで伝播した。その際に馬にまつわる伝承も一緒に伝えられたため、現在もヨーロッパとアジアには馬に関して共通するイメージが伝わっているのだろう。


 東西に共通する馬の伝承とは異なり、東アジアで独自に発祥した馬の信仰文化がある。

 それは馬が神と人との間にある存在であるとする考えで、人間が神へ願い事をする時に馬をその使者にするというものである。馬は贄となって神のもとに遣わされ、あるいは神の使いとして此の世の外の彼岸から人間の世界に現れる。とりわけて馬はアジアの稲作文化にとって何よりも重要な神に雨を願う祈り、すなわち雨乞い祭祀の際に神への贄として使われていた。


 絵馬から抜け出る神馬の伝承や此の世とあの世を繋ぐ精霊馬は、東アジアに伝わる馬の信仰の系譜を引いているといえるだろう。


 日本に馬匹文化がもたらされたのは弥生時代の後期から古墳時代にかけてだとされている。馬匹文化の発祥地からユーラシア大陸を横断し朝鮮半島から日本列島にもたらされた馬は、古墳時代の支配者層の権威の象徴となった。


 馬はやがて誕生する強力な王権の象徴となった一方で、馬を贄とする祭祀も日本に浸透していった。


 飛鳥時代、乙巳の変を一つの契機として古墳時代が終わり、大陸の律令制を取り入れた国造りが行われるようになると王権は馬を贄とする祭祀を禁じた。祭祀は王権が主催するものであり、かつ国の財産である馬を民が殺すことを許さなかったのだ。


 その代わり古代律令国家は土で作った土馬や板に馬の絵を描いた絵馬を祭祀に用いることを推奨したようだ。大化の改新が発せられた難波宮跡からは、祭祀に使われたと思われる絵馬や土馬が発掘されている。また地方各国の役所である国衙や郡衙の遺跡では、土馬を用いた呪術が行われていた形跡が認められている。


 しかし馬を贄とする祭祀は、既に支配者の権力とは分岐して民間にしっかりと根付いていた。この祭祀は王権の目を逃れて継続し、明治大正時代を経て昭和になってもある土地では行われていたという記録が残る。


 首切れ馬の伝承は、そのような国家の支配者層から隠れて行われた民間祭祀で贄となった馬の姿を現していると解釈されている。実のところ実際に馬を殺すことはなくなったとはいえ形を変えた馬の祭祀は今も日本各地で行われている。


 話を律令制が成立した後に戻そう。公的な馬匹技術(死馬から脳を取り出し皮なめしに用いる技術を含む)と馬がもつ霊性を利用した儀式は、朝廷から国府へ、国府から郡衙へという律令国家の仕組みによって全国に伝播した。


 国府を介して中央から地方の郡衙へと伝えられた技術は馬匹技術の他にもある。それが養蚕と機織りの技術である。


 ある時期の国府では、地元への馬匹技術と養蚕技術の教授が同時に行われたこともあっただろう。具体的に云えば、死体から剥がされた馬の皮を建物の日陰で干し、その建物の中では養蚕や機織りの技術の教授が行われたこともあったのではないだろうか。


 本来ならば全く異なる技術なのに、あまりにも近接した馬と蚕の存在。

 そして馬と養蚕信仰の要素を持つオシラサマは古代律令制の有り様を今に伝える民間信仰と云えるのではないだろうか。


 未だ古代律令国家の成立とオシラサマの由来をこのように結び付けて明らかにした論説はないが、私のフィールドノートは数ページにわたって様々な方面から集めた資料のメモ書きで埋め尽くされている。


 いつかこのメモが何かの役に立つことがあるのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

馬の精霊 葛西 秋 @gonnozui0123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ