月になった街
千羽稲穂
コーヒー一杯分の街の話
月に行きたいですって? 冗談はおよしなさい。あの月はどこまでも強欲で飢えている獣のような生き物なのだから。あそこへ行けばきっとあの光に熱せられて、熟れても熟れきらず肉体が腐食するまで何かを追い求めることになる。何か、はきっと一生見つからないものよ。空っぽの欲望をたぶらかし、月を煌々と光らせるの。どんな人でもあの光にとりこになって帰ってきやしない。
なんでそんなことを知っているかって? あなたよりもうんと昔から生きているからよ。古ぼけた老女の戯言かもしれないけれど、お年寄りの言葉には耳を傾けるべきよ。それでも、行きたいのなら、少しばかしここでコーヒーでも飲んで月でも見ながらお話をしましょう。夜はまだまだ長く、月の光は果てしないから、時間はたくさんあるわ。
コーヒーはブラック? ミルクはいる? 砂糖は置いておくわね。
そう、ブラックね。
私と一緒。
昔から私は、コーヒーを静かに飲みたかったわ。ただそれだけが欲しかった。こうしてゆっくり誰かと過ごしながら月を見上げるの。だから、焦がれた。月の光が欲しかったの。あの、何もかもと引き換えにできる光。
最初の願いはそれだけ、だった。私は貧民街出身で、あの街はこりごりだった。誰もが誰も、何かに飢えていて、獣のように人の物を欲しがった。空腹が耐えきれなかったから物を盗んで、隣の奥さんが美しかったから強奪して、顔を羨んだ女は顔を潰して綺麗な顔へと手術して、相手の想いがほしくて殺してでも手に入れた。そうでなくとも、ほとんどの人はお金がほしくて必死に朝から晩まで働いて、覇気のない顔をして仕事をした。最初は欲しかったものが手に入れば次へ。手には入ったらじゃあ、それを続けるために永遠とそれをし続けた。
だから、街は私に持ちかけたの。
「この街には、欲しいものが欠けているんだ。街には象徴が必要だ。今欲しいものよりも焦がれるものを。君も欲しいものがあるんだろ? なら、叶えてあげる。だから君にしてほしいことがあるんだ」
路上で眠っていたときのことだった。街の声が降ってきたの。雪も降ってきて凍え死ぬ寸前。手の感覚はなくなって頬は既に地面についていた。
あの持ちかけは、今になって解ったけれど、ほとんど脅しだった。私は受けるしかなかった。死にたくなかったの。手を伸ばしたらぬらっと生ぬるい感触が掌に触れた。二の腕、肘、脇へと感触は入りこんで、胸を握りしめて心臓の動きを速くした。鼓動がこみ上げて口から出そうになって、意識を失った。
その日から、私の身体には奇妙な熱が宿るようになったわ。馬力は今までの何万倍。動きたくてしかたなくて、路上で踊り出した。私の身体が舞うと同時に街が動き出して、リズムを作っている気がした。植えられた木々は幹をゆすり、地面は跳ねた。
舞は街の人々の目に止まったわ。街の人々は私にお金を添えるようになった。次の日は倍に。その次はもっと倍に。次第にしけった熱を帯びた眼差しで、私にお金を与えるようになった。そうして、私は躍りで食べていけるようになった。
夢だったコーヒーも休みをつくってひっそりと飲むようになったの。
毎日毎日踊っていたおかげかしら。常に私にお金をベットしてくれるお客さんもできるようになった。まるで私がいなければ生きていけないといったように、じっと見つめてくるの。他のひとたちよりも大きなお金を添えるような人。その人は、私を見てぼそっと「なにしたい?」と聞いてくるの。だから、コーヒーの豆が欲しい、と言ったら、コーヒーの豆をどっさり持ってきてくれた。でも、それと引き換えに私の顔をラベルに使いたい、と申し出た。欲しかったものが解った私はラベルのお仕事を引き受けることになったの。
これが、街と交わした契約の始まり。
街は、私に
私の顔は、一気に街の各地で有名になった。欲しいものが何か解らず、欠けたまま自分の欲しいものを追求していった人々は、アイコンを見つけて飛びついた。街の魔力をまとった私の顔は、変な魅力をまとい続け、脳内に残った。飢えた獣がようやく見つけたオアシスであるアイコンは、彼等を動かすにはうってつけだった。
街の端から私に会うために一年間必死になって働いてお金をかせいで来た人もいれば、私に会うために顔を整形した人まで。私に恥をかかせないために、私のために。そうして、私自身舞い上がってしまった。
お仕事がたくさんきたの。大きなステージに上がって踊るものや、オリジナル楽曲を歌ってCDを売るようになったり。劇場やドラマなんかもださせてもらった。たった一つ。コーヒーのラベルから一気に引っ張りだこになった。
街を歩けば、私の顔にぶつからないことはなかった。階段をあがれば私の広告。街の人々は私の噂で持ちきりで、ずっと私の動向は見守られていた。熱気の種類が、以前とは全く別物になっていた。私は街の顔で、私のためにみんな働き、私がしたいことをしてほしいと願い、私になりたいと憧れ、そして私とは異なることで安心して、私を全力で推した。歯車のような日々から一つ、生きる糧を与えた。
だけど、私は次になにをすればいいか解らなくなった。私が発言したことは全部、街は叶えてくれた。広告は全て私にしてほしい、とか。どの会社の広告にも私を起用してほしい、とか。ドラマを数本連続で出演したい、偉い人と同じカーペットを歩きたい。全部もう叶えてしまった。なのに、街はまだ欲した。まだ何か進みたがった。こんなにもアイコン一色なのに。人々は輝いていたのに。
そこで、私は街の意思に沿って、街の決まり事を決める政治にも立候補することになった。
打ち出したのは、街ごと宇宙に行く計画『月街計画』だった。
あまりに無謀。でも、あのときの街の活気ならできると思ったの。なにより街は光を欲していた。ずっと動き続ける、人々を。
計画を打ち出した次には、偉い人とお話することになった。さすがに受け入れられないと思ったから、裏から手を回そうと思ったの。偉い人の上に立たないと私はなにもすることができないし、計画も通るには偉い人の了承が必要。
私も欲しかったの。何かが欲しかった。そのときは子の計画を果たした後に手に入ると思っていた。
ステージに上がっても、人々に顔を知られても、誰もが私のために動いても、欲しいものが目の前に現れる。どんな手でも使ってほしくなって、偉い人と密会して、お金を渡して計画に賛同してもらった。
でも、裏で手を回したことって、下手をすれば悪評に繋がる。触れたとたん悪評は燃え広がり、私のアイコンとともに穢される。
ある日、街の新聞一面に私の裏金問題がとりざたされた。その日はライブをする日だった。私の頭はまっしろになったわ。どうしたらいいのか。きっと、外に出たら石を投げられる。怖くて仕方なくて家に引きこもってしまった。何もかも遮断して、人の目も怖くなって、耳をイヤホンで閉じた。
私は逃げたの。あらゆる何もかもから。
今までは、人前に立つことなんて怖くはなかった。顔が知られることは嬉しかった。私をみとめて話しかけてくれるのは、自分の何かが満たされるようだった。
何ヶ月も誰かの声を聞けなくなった。目も欲しくはなかった。今まで欲したものが逆転して私を攻撃してくるんじゃないかって恐怖した。
そうして、半年。じっとしていたけれど、ふと今、外はどうなっているのか気になってしまった。私は逃げたけれど、あの計画やあのライブは。そういえば、私に無理矢理に会う人はいなかった。家に引きこもっても連絡はならなかった。ぞくぞくと何かが這い寄ってきた。その何かが欲しかったのに、今度は首を絞めるほどに苦しめさせた。
私は外へ出たの。人の目が怖くて、すれ違う人には顔を背け、帽子や眼鏡をして顔を隠したわ。ライブは、あの計画は、私のアイコンは、どうなったの。
繁華街にでたところ、私は立ち止まったわ。電化製品店のテレビが飾られていた。久々に見たテレビの中で、私は踊っていた。あの頃と変わらず。
でも、おかしいの。そのライブは私が逃げた半年間の間に行われたもの。なのに、私は、そこにいたの。
よく見ると、テレビの中の私は影のようにぶれていた。もやがかかり、ライトの中でふらふらと機械的に動いている。誰も、ステージの上にはいなかった。
次に示された『月街計画』の特別収録番組でも、私はいないのに、いるようにコメントがなされていた。テレビを見ている周囲の街の人々も、一心にテレビの中の私を見つめている。裏金問題も、汚職も、なにもなかったように。私というアイコンだけを求めていた。
私は帽子も眼鏡もとったけれど、誰も私がテレビの中の人物だと解らなかった。周囲の目はただ街が作る幻影を追っていて、何かを欲して、信じていた。バラバラだった欲しいものが、私というアイコンを通して一点に絞られ、大きなうねりとなり何かは街ごと獣にしてしまった。
それは街の願いだった。焦がれていたのね。ずっと。あの街は最初からきっと焦がれていたの。強く、強く、光と熱気をかき集めて。宇宙に散らばる星のように。
私は街を去ったわ。
その後、街はね、月に行ったの。街ごと月に行って、今もまだきっと、その何かを求めてギラギラと輝いているのよ。
見て。この宇宙の星の数を。これら全て、何かを求めて輝き続けている街なの。私の街のようにずっと何かを欲している。
私? なぜこんなところで見上げているのかって。
昔ね、私はコーヒーを飲むのが夢だったの。貧困のときにのぞき見た家で夜にゆっくりとコーヒーを飲んでまどろむ老婆がいたの。その方はね、きっとこういっていたの。一杯のコーヒーがあれば十分ってね。
それを思い出したの。だから、街にはいなくて良かった。私が憧れたのは、これ一杯だけだったのよ。
月に行きたい思いは変わらない? そう、そうね。でも、もう一杯欲しい? あら、強欲ね。いつかあなたも月になるかも。いえ、コーヒーを飲み過ぎたら、真っ黒になって輝きを失うかもしれないわね。
じゃあ、もう一杯。
次の街の話をする?
じゃあ、次は違う星になった街の話でもしましょうか。まだ夜は長いわ。
あなたが月へ行くまで付き合ってあげる。
月になった街 千羽稲穂 @inaho_rice
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