掬い

「また伸びたんじゃない？」

その声は、ちょっと浮ついて聞こえた。

いや、今に始まったことやないか。

「髪すいてくれや」って頼むと

こいつは決まって「仕方ないわね」と

無愛想に答えるくせして

なんやかんや、ご機嫌に俺の髪をすく。

「まあな」

「めんどくさがりなくせに、

手入れはちゃんとしてるよね」

「それが紳士の嗜みっちゅうやつやからな」

「似合わないこと言っちゃって。

それなら、すくのも自分でやってよね」

「いやや。お前にやってもらうんが ええねん」

「変なの。

…でも本当にきれい」

「せやろ。

お前も伸ばしたくなってきたんちゃうか？」

「うーん…」

「なんや？」

「いや、私はこのままでいいかなー、なんて。

やっと扱いにも慣れてきたし… なにせ、楽なのよ」

楽…ね…。

俺は別に、今の短い髪がイヤっちゅうわけやない。

ただ、無邪気にキャッキャッしとった

あの頃のお前を取り戻させたいだけや。

ホンマは伸ばしたがっとるお前の

後ろ髪を引く過去、悲しみと

決別させてやりたいだけなんや…。

「ねえ、見て！ お母さまが結ってくれたの」

「ほー、お前の母ちゃんて器用やな」

「そうなの！」

「たいしたもんや」

「へへ。

それから？」

「はあ？ それからってなんやねん」

「似合（にお）てるなとか、

かわいいやんけとかないの？」

「ああ、まあ こましには見えるんとちゃうか」

「もういい。あなたに聞いたのが間違いだったわ」

「拗ねんなや」

「知らない！」

「こましなんが台無しになるで」

「うるさい！」

「ねえ、そろそろ放して？」

「えーなんでや」

「気が散るの」

「気にすんな、気にすんな」

「ずっと髪をもてあそばれてて、

気にしない方がムリ」

「そう言われてもなー。お前の髪、やらこうて

触り心地ええから、俺の手が放したがらんのや。

高級猫を撫でてるみたいでな…」

「ふんっ！ 私の髪は高いわよ」

「ほー、言うようなったやんけ。

ええで。今度 かんざしでも、くれたるわ」

「え、ほんと！？」

「おう。うんとええもん、やる。

俺のセンスに任しとき」

「なんか、急に心配になってきた」

「おい」

その日 俺は、とびっきり似合う かんざしを手に

会いに行った。

それを付けて喜ぶ姿を想像しながら———。

部屋に差し掛かった時、フサッと何かを踏んだ。

それが何かに気づき はっと見上げると、

そこには喪服姿で はさみを片手に

髪の海原を突っ立っとる お前がいた。

「お前…、それ…」

「私の髪をきれいと言って、すいて

結ってくれた人は、いなくなっちゃったの。

だから、もう要らないかなって」

その顔、その声からは何の感情も

読み取れんかった。

泣き虫やのに、

その時は泣いた跡すらなかった。

母親が死んだと分かった時も通夜ん時も

泣かんかった、いや泣けんかったんやろう。

ただ、その切り乱れた髪の毛だけが

お前の深い悲しみを痛々しいほどに物語っとった。

その時の俺は何も言えず、

残された髪を

不器用ながらに切りそろえてやることしか

できんかった。

俺は、お前の長い髪が好きやった。

その髪を指ですくのが好きやった。

よう、いじくっては

ぶつくさ文句 言われたもんやけどな。

ほんで何よりも、結ってもらっただの

かわいい髪飾りを貰っただのと

うれしそうに はしゃぐ お前を見んのが好きやった。

今でも たびたび思う。

あの頃「お前の長くてきれいな髪が好きや」って

はぐらかさず素直に伝えとったら

少しは変わったんかなって。

「俺は、お前の長い髪 好きやったで」

「え、何 急に」

「別に… 急やない」

あっけらかんとしとる。

「ねえ、もしかして…」

「なんや」

「ううん。なんでもない」

「なんやねん」

「ありがとう。

…今までも」

「あほー、お礼の言葉は受け付けてませーん」

「はいはい。じゃあ

待ってて」