第9話 湖の静寂
松田修平は函館を後にし、国道5号を西へ進んだ。網走刑務所からの脱走から1ヶ月が過ぎ、彼の足跡は大沼へと向かっていた。
大沼の湖と森なら追手を遠ざけつつ、青森への道が近づくかもしれない。函館市街を抜け、森の細道を進むうち、大沼国定公園にたどり着いた。
空気が微かに湿り、時間が現実より少し柔らかく感じる場所だ。彼は新しい名を呟いた。「佐野孝之」。これが次の仮面だ。
大沼国定公園は、駒ヶ岳のふもとに広がる大沼湖と小沼湖が美しい名所だ。修平は湖畔のビジターセンターで「臨時作業員募集」の貼り紙を見つけ、ドアを叩いた。
「お前、誰だ?」と出てきた五十代の管理人・岡崎が、普通に聞いた。
「佐野孝之です。仕事探してて、ここで働けませんか」
「春になって人が増える前だな。まあ、遊歩道の掃除とボートの整備やれ。人手が足りねえ」と岡崎は肩をすくめ、言う。
「分かりました」と頷き、大沼での日々が始まった。
仕事はすぐに慣れた。遊歩道の落ち葉を掃き、ボートのロープを点検し、湖畔の看板を拭く。 ある日、清掃中に若いスタッフ・智子が通りかかった。二十代後半の智子は、
「新入りか。よろしくね」
「遊歩道のゴミ、捨てといてくれる?」と翌日頼み、
「お前、仕事早いね。助かるよ」と数日後に自然に言った。
「そうか」と小さく応じ、近すぎず遠すぎないやり取りが続いた。
昼休み、岡崎が「お前ら、飯にするか」と声をかけてきた。大沼名物の「わかさぎ天ぷら」と聞き、修平は「手伝います」と申し出た。
「まあいいよ」と岡崎が言い、智子が
「じゃあ、私が揚げるからお前はわかさぎ捌いて」
修平は湖で獲れたばかりの小さなわかさぎを手に取る。冷たい水滴が指に残り、銀色の鱗が微かに光る。包丁を手に持つと、刃先を腹に当て、慎重に滑らせた。薄い皮が裂け、内臓が小さな塊で現れる。それを指でつまみ、湖水で洗う。頭を落とし、尾を揃えてまな板に並べると、10匹ほどのわかさぎが整然と横たわった。小麦粉と卵を混ぜた衣を用意し、一匹ずつそっと絡める。衣が粘り、わかさぎの形を柔らかく包んだ。
智子が鍋に油を熱し、じゅわっと音が響く。修平が衣をつけたわかさぎを渡すと、彼女は油に落とし、軽い泡が立つ。揚げるたびに香ばしい匂いが立ち上り、黄金色に変わるまで見守った。皿に盛ると、熱々のわかさぎ天ぷらが並ぶ。一口食べると、サクサクの衣が歯に当たり、中のわかさぎはほのかに甘く、柔らかな身が口で溶けた。湖の鮮度がそのまま閉じ込められ、時間が現実より少し遅く流れる味だった。
「これ、旨いですね」
「湖のわかさぎは新鮮だからな」と岡崎が呟き、
「まあまあだろ」と智子が笑った。
その後、智子が「もう一個作ろうか」と言い、大沼だんごの材料を出してきた。
修平は団子粉をボウルに取って水を少しずつ加え、指で混ぜる。最初は粉っぽく、徐々に粘りが出てくる。力を込めてこねると、生地が滑らかになり、手の中で丸める感触が心地よい。一つ一つ丁寧に丸め、10個ほどの団子が並んだ。茹でた団子に醤油と砂糖のタレを絡めると、つややかな茶色が光った。食べてみると、もちっとした弾力と甘じょっぱいタレが混じり、素朴なのに深い味わいが広がる。どこか懐かしく、時間が歪んだような余韻が残った。
数日後、智子がボートのロープ点検を手伝ってくれと頼んできた。
「お前、一人じゃ面倒だろ。一緒にやろう」と自然に言う。
「いいよ」と答え、二人でロープを解いた。
「お前ら、手際いいな」と岡崎が通りがかり、呟きつつ、「看板も拭いとけよ」と一言加えた。
夕方、湖畔でボートが揺れる音を聞きながら、智子が「お前、変な奴だけどさ…まあ、悪くないよ」と普通に言った。
「そうか」と笑い、異様に長い夕陽が湖を赤く染めるのを見た。この世界の静寂が、少しだけ柔らかい。
夜、センターの隅で寝ようとすると、湖の水音と風が響く。目を閉じると、漁村の夜が蘇る。血に染まった床、美奈の小さな手、ナイフの感触。でも、それが自分の罪なのか、誰かの影なのか、輪郭はぼやけたままだった。 「俺は…知らなきゃいけない」と呟き、汗を拭う。
外で物音がし、覗くと岡崎がタバコを吸っていた。 「お前、寝ねえのか」と普通に言う。 「少しだけ」と答えた。
だが、平穏は続かない。ある朝、物資を運ぶ業者が別のスタッフと話す声が耳に届いた。
「そういや、最近函館の方で警察が何か見てたらしいな。網走絡みだってさ」。
手が一瞬止まり、箒を握る指に力が入る。平静を装って作業を終えた。
「お前、なんか落ち着かねえ顔だな」とその夕方、岡崎が普通に言う。
「疲れてるだけです」
「そうか、好きにしろ」と背を向けた。
「ここも長くはいられない」と棟に戻り、荷物をまとめた。
大沼を去る夜、「道は…隠れる場所を選ばせる」と呟き、彼は西へ向かうことにした。大沼から国道5号で森町方面へ。湖と森が隠れ場だったここを離れ、次の町で青森への船に近づけるかもしれない。
湖畔の道を歩く彼の背後に、異様に長い水音が響き、岡崎の「おい、佐野。どこ行くんだ」という声が小さく聞こえた。智子は眠っているようだった。
修平は振り返らず、闇の中へ消えた。湖の静寂が彼の足跡を包み、罪の輪郭を追い求める旅が、次へと移っていく。
『罪の輪郭』 @nanonaruo
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