第8話 港の残響

 松田修平は帯広を後にし、南西へ進んだが、途中で西へ向かった。


函館の港町なら追手を遠ざけつつ、船で青森へ渡る道が開けるかもしれない。広尾から北上し、函館市街にたどり着いた時、空気が微かに塩辛く、時間が現実より少し遅く流れる気がした。彼は新しい名を呟いた。「小林和夫」。これが次の仮面だ。


 函館の「函館山」は、夜景で知られる観光地だ。修平は山麓のロープウェイ乗り場近くで「臨時作業員募集」の貼り紙を見つけ、管理棟に近づいた。


「お前、誰だ?」と出てきた四十代の管理人・田辺は、ぶっきらぼうに聞いた。


「小林和夫です。仕事探してて、ここで働けませんか」


「春先に来る奴なんかいねえな。まあ、ロープウェイの清掃と荷物運びやれ。人手足りねえから」と田辺は面倒臭そうに肩をすくめ、言う。


「分かりました」と頷き、函館山での日々が始まった。

 仕事は慣れるのに時間がかからなかった。ロープウェイのゴンドラを拭き、駅舎の雪解け水を掃き、観光客用の荷物を運ぶ。数日で動きに慣れ、修平は淡々とこなした。 ある日、清掃中に若いスタッフ・美穂が通りかかった。二十代前半の美穂は素っ気なく、


「新入りか。こんなとこで働くなんて物好きね」

「あんた、ゴンドラの窓、ちゃんと拭いときなよ。客が文句言うから」



「分かった」と頷いた。数日後、彼女が


「まあ、悪くないね。あんた、慣れてきたじゃん」と少しだけ笑い、


「そうか」と小さく応じた。微かな心の通い合いが、冷たい空気に溶けた。


 昼休み、田辺が「お前ら、食っとけ」と紙包みを渡してきた。中には函館名物の「イカ飯」が入っていた。


炊いた米をイカの胴に詰め、醤油と砂糖で煮込んだ一品だ。修平が包みを開けると、甘じょっぱい煮汁の香りが立ち上り、イカの表面が艶やかに光る。一口かじると、柔らかいイカの歯応えと、米に染みた濃厚な旨味が広がった。イカのほのかな磯の風味が米と混じり、煮汁の甘さが舌に残る。噛むたびにじわりと温かさが広がり、どこか現実の味とずれて、時間が一瞬止まるような感覚があった。


「これ、旨いですね」


「函館のイカは新鮮だからな。港で獲れたばっかだ」と田辺は鼻を鳴らし、


「あんた、初めて食った顔してるな。まあ、悪くないよね」と美穂が珍しく笑った。


修平は黙って食べ進め、港の味に少し癒された。 数日後、美穂がゴンドラの清掃を手伝ってくれと声をかけてきた。「お前、一人でやってると遅いだろ。手伝えよ」とぶっきらぼうに言う。修平は「いいよ」と答え、二人で窓を拭いた。田辺が通りがかり、「お前ら、仲良くやってんな」と無関心に呟きつつ、「荷物運びも忘れんなよ」と一言加えた。


夕方、ロープウェイが山頂へ登る音を聞きながら、美穂が「お前、変な奴だけどさ…まあ、いてもいいかな」と小さく言った。修平は「そうか」と笑い、異様に長い夕陽が港を赤く染めるのを見た。この世界の光が、少しだけ歪んでいる気がした。


夜、管理棟の隅で寝ようとすると、港の汽笛と風の音が響く。目を閉じると、漁村の夜が蘇る。血に染まった床、美奈の小さな手、ナイフの感触。でも、それが自分の罪なのか、誰かの影なのか、輪郭はぼやけたままだった。「俺は…知らなきゃいけない」と呟き、汗を拭う。


外で物音がし、覗くと田辺がタバコを吸っていた。「お前、寝ねえのか」と低い声で言う。修平は「少しだけ」と答えた。


 だが、平穏は続かない。ある朝、物資を運ぶ業者が別のスタッフと話す声が耳に届いた。


「そういや、最近函館の港で警察が何か見てたらしいな。網走絡みだってさ」。


手が一瞬止まり、雑巾を握る指に力が入る。平静を装って作業を終えた。


「お前、なんか落ち着かねえ顔だな」その夕方、田辺が無愛想に言う。


「疲れてるだけです」


「ふん、好きにしろ」と背を向けた。


「ここも長くはいられない」と修平は棟に戻り、荷物をまとめた。


 函館を去る夜、「道は…隠れる場所を選ばせる」と呟き、彼は西へ向かうことにした。函館から国道5号で大沼方面へ。港の喧騒が隠れ場だったここを離れ、湖と森の広がる土地なら青森への道が近づくかもしれない。


山麓の道を歩く彼の背後に、異様に長い汽笛が響き、田辺の「おい、小林。どこ行くんだ」という声が小さく聞こえた。美穂は無関心に眠っているようだった。


修平は振り返らず、闇の中へ消えた。港の残響が彼の足跡を包み、罪の輪郭を追い求める旅が、次へと移っていく。

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