『明日、ここにいないわたしたちへ』

海乃

第1話

 「わたし、春風萌花は今日、普通の女の子に戻ります。……いいえ、本当は……わたしはもともと普通の女の子のままだったのかもしれません」


 そこで一旦言葉を区切ると、有り余るスポットライトに照らされた彼女はマイクを口元から離した。そんなことないよ、と心の中で必死に叫ぶ。思わず息を呑みすぎてうまく出せなかった声の代わりに、両手に1本ずつ持った桃色と白色のペンライトを彼女に見えるように精一杯振った。わたしにとって萌花ちゃんに代わる人なんていない。きっと、なんて保険をかけなくてもそれだけは自信を持って言える。この2年間労働も生存も頑張ってこられたのは萌花ちゃんに会うっていう目標があったから。


 ありがとう、と零されたマイクを通らなかった小さな声も、彼女のほんのり歪んだ目元もすべて手に取るようにわかる。彼女が目を細めるたびに淡いコーラルピンクのアイシャドウのラメがきらりと光るのも、唇を噛み締めたせいで可愛らしいちゅるんとしたリップグロスがとれかかっているところまで見えてしまう。


 それが最前列の良いところでもあり、悪いところでもある。大好きなひとのどの瞬間も見逃したくないと思うのと同時に、舞台の上ではいつも笑顔を絶やさなかった彼女の表情が曇る瞬間なんて本当は見たくなかったなんて気持ちもある。普段から眠そうな赤ちゃんみたいなタレ目が可愛いと思って見てきたけど、そんなに目尻を下げなくていいんだよって今は言いたくなってしまう。無理に上げられているせいか小刻みに震えている口角を隠して、彼女はまた口元にマイクを戻した。


「だけど、この舞台にこうして立たせてもらえた2年間。ここから見た景色も、応援してもらった声も、たくさんの方に支えてもらったことも、ぜんぶぜんぶ今でもありありと思い出すことが出来ます」


 彼女のマイクを握る手がほんの少しだけ震えている。


 大丈夫だよ。ゆっくりでいいよ。萌花ちゃんが伝えたい言葉で今の気持ちを教えて。そんな、言葉にするとどことなく上から目線になってしまう声援を叫ぶ。


 思わず漏れてしまった声に自分でも驚く。どうやらペンライトを振るだけ、に満足できなくなってしまったようだった。視界いっぱいに彼女を映していたいのに、揺れてしまってうまく彼女にピントを合わせられないのが悔しい。目の前が歪む。鼻の奥がつんと痛くなって、目頭が熱くなってきた。目の上に膜がはったみたいに涙が膨らんで零れ落ちた。いつもよりも萌花ちゃんが、萌花ちゃんを照らすライトが眩しく見えた。


「わたしのことをどれくらいの人たちが憶えてくれているかはわからないけど、わたしは今ここにいるみんなと積み重ねてきた思い出と、こうして応援してくれるひとりひとりが宝物です」


 萌花ちゃんのこと、どれくらいの人が知ってるかとかは関係ない。わたしがいつまでもいつまでも、ここに大好きなアイドル”春風萌花”がいたことを憶えてるから。


 ダンスも歌も他のメンバーよりも自信がないって言ってたけど、この2年ですごくすごく上手になって陰で萌花ちゃんがどれだけ努力してきたか知ってるよ。他のメンバーのSNSでも褒められてたり、萌花ちゃんだけは練習でも無遅刻無欠席無早退だったって【大事なお知らせ】の中で運営さんからその真摯な姿勢を評価されていた。曲に合わせて感情をのせて歌うのも、特にこの半年ですごく上手になったよね。


 次々と他のメンバーが脱退・卒業していく中で表向きではポジティブな発信しかしなかった萌花ちゃん。でも別れのバラードの歌い方、変わったよね。みんなと歌ってた時は不器用な彼女らしい、がむしゃらで力が入った感情の入れ方も好きだったけど。今の聞いているだけで泣きたくなるような、切なく心が抉りとられる歌い方も好き。萌花ちゃんもほんとうは寂しかったのかな、なんて聞くのは野暮だからSNSでも特典会でもその話題は出さないようにしてきた。


 でもね、ほんとうは隠しているようで隠しきれていない人間らしさが可愛いと可愛いの隙間から漏れ出る瞬間が一番好きでごめんね。


「最後に、ここまで応援してくれたみんなに感謝と精一杯の愛情を込めて。最高のお別れになるバラードをお届けします。聞いてください、『明日、ここにいないわたしたちへ』」


 息をのむ。同じように彼女も息を吸う。萌花ちゃんのマイクに入るくらい、大袈裟に息継ぎをしてから歌い始めるところが好き。ああ、よかった。今日も彼女のブレスが聞こえた。


 ああ。でも、もう最後なんだ。この曲が終わったら、終わっちゃうんだ。そう思ったらいつもよりほんの少しだけペンライトを振る力が強くなってしまった。⋯⋯たった1ヶ月でお別れの準備をしなくちゃいけなかったわたしたちの気持ち、萌花ちゃんにわかる? わからないよね。だってわたしも萌花ちゃんがなんで卒業を選んだのかわからないもん。


 ねえ。『帰るって言った でも帰れなかった ごめんねは言わないよ』ねえ、萌花ちゃん。歌詞が刺さって痛いよ。


 間奏中、萌花ちゃんの瞳がきらりと光る。泣かないで、泣かないで萌花ちゃん。でも、彼女の涙はしゃぼんだまみたいに透明で、宝石よりもきらきらと輝いていた。




「いつもありがとう、萌ぴ~ちゃん♡」


「萌花ちゃん! 今日歌いながら泣いてたでしょ! せっかくの国宝級にかわいくてプリティーなお顔がもったいなかったんだから!」


 最後の特典会くらい上から目線のお小言みたいなことは言いたくなかったのに、溢れてしまった気持ちを静めるのは難しかった。


「じゃあ、萌ぴは泣き顔の萌花は可愛くないって思うの?」


「っ‼‼ そんなことない、萌花ちゃんは今日も世界一かわいい‼ 泣いてても涙がね、宝石みたいにきらきらしてて人生ではじめて涙も国宝級だって思ったよ」


 萌花ちゃんはいつもわたしが彼女の顔面に弱いことを利用して、おちょくってくる。でもわたしのお小言みたいな物言いを笑顔で受け止めてくれるし、たまに笑顔以外の激レアな表情も見せてくれるから、いつもそのやさしさに甘えてしまっていた。


「一番最初の頃からわたしに魔法をかけ続けてくれて、ありがとう。萌ぴの言葉のおかげで、わたしは最期の瞬間までアイドルになれたんだよ」


 どうやら萌花ちゃんは最期の最後の瞬間までやさしくしてくれるようだった。ほんとうはもっと他にも言いたいこともたくさんあるし、萌花ちゃんのどこが好きかとか、今日のライブの感想とかひとつ出せばいくつも付随して出てくるくらいには話したいことに溢れていた。


 でも逆に話したいことがありすぎて、飽和してしまって、すべての感想の上澄みしか吐き出せない。かき混ぜるのを忘れたカルピスの上澄みみたい。水っぽくて、薄くて、それでいて口の中に張り付いて離れないような。


「……萌花ちゃん……本当に……ほんとうにアイドルになってくれて、ありがとう」


 そんな言葉しか結局言えなかった。SNSならもっとうまく話せるのに。


「萌ぴがわたしの最初のファンだって今でも憶えてるし、きっとずっと忘れないよ」


 萌花ちゃんは相変わらずお話上手で。まさか今日いっぱいで最高アイドル萌花ちゃんから、萌花ちゃんになってしまうなんて信じられない気持ちだった。アイドルじゃなくなっても、ずっとずっと萌花ちゃんが元気で幸せに暮らしてくれればいいなあ。


 でもあわよくばSNSのアカウントは残してほしいし、定期的に日常投稿とか自撮りをあげてほしいけど、言わない。それを決めるのは萌花ちゃんだってちゃんとわかってる、だからちゃんとわたしは言わないことを選んだ。かわりにお祝いの言葉を口に出す。


「萌花ちゃん……卒業、おめでとう」


 すんでのところで『萌花ちゃん、卒業しないで。アイドルをやめないで』なんて言葉を飲み込んだ。初心に戻って2人でハートを作るポーズでチェキを撮ってもらった。最初に撮ったチェキのポーズだよって隣でハートを作る萌花ちゃんに言われて、彼女の記憶力の良さに驚いた。そして同じくらい嬉しかった。


「見て見て~萌ぴ♡」


 落書きをしてくれた萌花ちゃんからもらったチェキには、ピンクと白のペンで描かれた可愛い装飾と一緒に『萌ぴとのラスト♡』『だいすき』『ありがとう』と書かれていた。これまで一度も書かれたことのなかった『だいすき』の文字に心が躍る。


「ありがとう、萌花ちゃん。わたしも大好きだよ」


 あ、そう。これ、と最後に渡した手紙に彼女は一瞬大きく目を見開いた後、「いいの? ありがとう~」と三日月形に目を細めて微笑んでくれた。


「では、お時間です~」


 運営さんに声をかけられて、萌花ちゃんとの時間が終わる。最後の最後までわたしに手を振ってくれた萌花ちゃんはやっぱり最強に可愛くて、わたしにとっては最高のアイドルだった。


 後悔はしてない。後悔したところで1傍観者であり、1オタクであるだけのわたしに変えられることなどひとつもないのだから。だけど春風萌花というアイドルの人生を推し続けられたことには1ミリたりとも不満も後悔もない。幸せだったな。なんて萌花ちゃんとのツーショットチェキを胸元に抱きしめながら、ライブハウスを出る足取りはどこか軽く、その背中を彼女が寂しそうに眺めていたことなど知る由もなかった。

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『明日、ここにいないわたしたちへ』 海乃 @kura_kura_kurari

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