あなたはあこがれのひと

未来屋 環

この気持ちを何と言えばいいだろう。

 夜の星をつかむようなあこがれは

 決して相手に届かないなんて、誰が決めたの



 『あなたはあこがれのひと』/未来屋みくりや たまき



 篠崎裕美ひろみが初めて滝内早織を見たのは、演劇部に仮入部した時のことだった。


 周囲の上級生たちが明るく話に花を咲かせている中で、彼女だけはその輪の中でにこりともせず、静かにたたずんでいた。

 短めに切り揃えられた黒髪、切れ長の瞳、高く形の良い鼻と、上品な色をした薄い口唇くちびる――そのりんとした雰囲気に、最初から惹かれていたのかも知れない。


 そのあこがれが決定的になったのは、入部して一ヶ月後に行われた部内発表会の時だった。


 入部したての一年生が幾つかのグループに分かれて、上級生たちに寸劇を披露していく。

 「七月公演のオーディションも兼ねているらしいよ」

 一年生たちの間ではそう噂されていた。


 裕美も仮入部で一緒だった女子二人と三人組を作り、自分の出番を待っていた。

 どのグループの女子たちも、懸命に与えられた役柄を演じている。

 少しでも上級生たちのお眼鏡めがねにかなおうと必死な彼女たちを、オーディションに興味のない裕美は少し冷めた眼差しで見ていた。


 中学の頃、裕美は周囲の女子たちからうとまれていた。

 裕美がサッカー部の男子のことを振ったからというのが理由らしい。

 「ちょっと可愛いくらいで調子に乗って」と言われたが、裕美は自分のことを可愛いとも調子に乗っているとも思っていなかった。


 あらゆることが面倒になり、裕美は大半の同級生が進学する近場の高校ではなく、自宅の最寄り駅から電車で四十分かかる私立の女子校に入学した。

 女子だけの環境であれば面倒な思いをしなくて済むだろう、そう考えていた。


 しかし、ここでも火種は至る所にくすぶっているように感じられた。

 年頃の女子たちが集まれば、様々な思惑が交錯こうさくする。


 「可愛いね」とクラスメートに褒められても、笑顔の裏にどんな気持ちが隠れているのか読み取れず、「そんなことないよ」としか返せない。

 その度に相手が見せる困ったような微妙な表情を見て、裕美はとにかく目立たないように過ごそうと考えた。

 演劇を観るのは好きだったので、近くで演劇に触れられる演劇部を選んだ。

 衣装を作るスタッフであれば必要以上に目立たないし、こつこつ何かを作るのは自分のしょうに合っていると思った。



 しかし、裕美たちのグループの出番になった時――想定外の事態が起こった。


 ――ズダン!!


 大きな音がホール中にこだました。

 それは、ステージの端で裕美が転倒した音だった。


 裕美はうつ伏せに倒れたまま、呆然としていた。

 ステージに打ち付けた膝と両手が、じんじんと痛む。

 混乱と痛みの中で、裕美は舞台袖からステージに出ようとした時、何者かに足を引っかけられたことに気付いた。


 足下の方から、くすくすと囁くような笑い声が響く。

 それは裕美の耳にしか届かない程小さかったが、彼女の尊厳を傷付けるには十分過ぎるものだった。

 公衆の面前で転んでしまった羞恥と、新しい環境下でもぶつけられた悪意に、裕美が立ち上がる気力をくしかけた――その時


「――大丈夫?」


 頭上から、穏やかな声が降り注いだ。

 女性にしては低く落ち着いたその声は、裕美のぐしゃぐしゃになった心を優しく撫でる。

 戸惑いながら顔を上げた裕美のに映ったのは、しゃがみ込んでこちらに右手を差し出す早織の姿だった。


 ***


 それ以来、裕美の高校生活は色付いた。


 演劇部の練習は週四回――それは、裕美が最低でも週四回は早織に逢うことができるということを意味している。

 と言っても、衣装スタッフに配属された裕美が、早織と直接会話することはほとんどない。

 教室の前方で練習する彼女の姿を、衣装をつくろいながら人知れず目で追っているだけだ。


 早織はその整った容姿と確かな演技力で、常に男性役のメインキャストを演じているようだった。

 元々学内にもファンが多いそうだが、部内発表会での裕美への振舞いを見て、一年生もこぞって早織にご執心だった。

 裕美に足を引っかけたと思われる女子は端役ではあるもののキャストを勝ち取り、早織に何かと話しかけている。

 そんな彼女を軽くあしらう早織を見ると、裕美は少し胸がくような思いがするのだった。


「滝内さんって、何だか裕美にトクベツ優しい気がする」


 時は経ち、文化祭の時期が近付いていた。

 授業の合間の休み時間中に、クラスメートで同じ演劇部員の千佳ちかが、じとりと裕美を見てくる。

 千佳もご多分たぶんに漏れず滝内早織のファンを公言していたが、さっぱりしていて裕美とは良い距離感の友達付き合いをしてくれる。

 裕美にとっては話しやすい存在だった。


「そんなことないと思うけど。そこまでしゃべったことないし」

「そう? この前喋ってたじゃん、衣装のことで」


 その千佳の台詞せりふで、裕美は先週の出来事を思い出した。


 先週の練習の際に、早織に衣装の試着をしてもらった。

 丈など特段問題なく、あとは細部の装飾を仕上げればそのまま本番を迎えられるだろう。

 早織の衣装に不備がなかったことに、裕美は内心胸を撫で下ろしていた。


「じゃあ、取りますね」


 そう断って、早織の首に巻いた衣装の蝶ネクタイを取ろうとした時、ふと彼女の視線が自分の手に向いた。

 もしかして苦しいのだろうか――裕美は努めて冷静に、それでいて素早く蝶ネクタイを外す。


 ――その瞬間、早織は言ったのだ。

 「篠崎さんの指、綺麗だね」と。


 静かな眼差しで伝えられたその台詞に、裕美は自分の体温が数度上がるのを感じた。

 今思い出しても、ドキドキする。

 千佳の言葉を否定しておきながら、自分だけに向けられた言葉に愉悦を感じているのも事実だった。


「――おい、休憩時間終わってんぞ。席戻れ」


 裕美の甘い記憶を、野太い声が切り裂く。

 次の授業は数学――担当教師の影野が教室に入ってきていた。

 千佳は「はーい」と気怠けだるそうに答え、席に戻っていく。


 裕美は授業を受けながら、早織との一時ひととき反芻はんすうした。

 何度も何度も、頭の中のリプレイボタンを押して映像をチェックする。

 時に、早織が自分に手を差し出したシーンも挿し込みながら。


 夢見心地で黒板を見ていると、影野に当てられた。

 予習は万全なのですらすら答えると、影野は大袈裟に溜め息をいて「篠崎、聞いてねぇように見せかけて、ちゃんと聞いてんのかよ」と言った。

 あいかわらずの乱暴な言葉遣いに、裕美は心の中で溜め息を吐き返す。


 この高校の男性教師の中では二十代後半と若い部類に入るからか、彼にも何人かファンがいるらしい。

 確かに男らしい精悍せいかんな顔付きは悪くないと裕美も思う。

 ただ、がさつな印象を拭えない発言や、にこりともしない不躾ぶしつけな態度に辟易へきえきとしている生徒も少なくはなかった。


 ――こんな男より、早織の方が余程『男前』だ。

 少なくとも、裕美はそう思っていた。 


 ***


 季節は巡り、二月が訪れる。

 早織の卒業まであと一ヶ月半。


 早織が部活を引退してから、裕美は心にぽかりと穴が開いたような感覚から逃れられずにいる。

 それでも、たまに学内で早織を見かけることがあると、ほうっと心があたたかくなった。


 千佳情報によると、早織は推薦で昨年末には進学先が決まっていたらしい。

 だから受験シーズンであるこの時期も、変わらずコンスタントに登校しているのだろう。

 裕美にとってはありがたいことだ。


 二階の教室の窓から三年生の教室がある三階を眺めていた時に、廊下を通り過ぎる早織を見付けたこともあった。

 突如として訪れた僥倖ぎょうこうに、裕美が熱心に早織を見つめると、ふとその顔がこちらを向く。


 思いがけず視線が交錯し、裕美は固まったが、一方の早織は――わずかにその表情を緩めた。


 自分に笑いかけてくれたのだということに裕美が気付いた時には、既に早織の姿はない。

 裕美は夢を見ているような心持ちで、その場から暫く動けなかった。



 それから数日も経たない内に、その日はやってきた。

 二月十四日、バレンタインデー。

 世の女子達にたがうことなく、女子校でもこの日は盛り上がる。

 友人同士で渡し合う『友チョコ』が主流だが、あこがれの念をいだいて贈られるチョコレートもゼロではない。


「滝内さん、やっぱモテるわー」


 昼休みにチョコレートを渡しに行った千佳が、溜め息交じりに報告してきた。

 早織の机には、既に幾つかの箱が積まれていたようだ。

 「そうなんだ」と興味なさげに答えながら、心の端が、ちり、とける音を聴く。

 鞄の奥底で眠るチョコレートの小箱を、裕美は放課後早織に渡すつもりだ。


 六限終了のチャイムが鳴り、帰り支度を始める。

 千佳に別れを告げ、三階にある早織のクラスへと足早に向かった。

 この曜日、この時間であれば、まだ早織はいるはずだ。


 人目を気にしながら教室に辿り着き、中を覗き込むと、早織の姿はなかった。

 机の上には、鞄だけが置いてある。

 黒を基調とした、早織らしい硬派なスクールバッグだ。

 持ち手の根元に控えめに留まる猫のピンバッジが光を反射している。


 そのまま待つのも居心地が悪く、裕美は行く当てもなく歩き出し、そして――廊下を曲がろうとしてすぐに、慌てて近くの掃除ロッカーの陰に身を隠した。



 人気ひとけの少ない三階の通路には、各教科の準備室がある。

 その内の一室、数学準備室の前に――早織と影野が向かい合って立っていた。


 早織はいつものクールな表情で、影野に小さな箱を差し出す。

 影野はそれを自然に受け取った。

 「開けていいか?」という影野の問いに、早織は無言で頷く。

 影野は丁寧とは言い難い手付きで包み紙を開き、出て来たものを見て、小さく笑った。


「超美味そうじゃん。滝内、毎年ありがとな」


 その声は、教室で放たれる粗野なものとは違って、角の取れた丸みを帯びて響く。

 それを聴いた早織の頬には――柔らかな朱色が差していた。



 その後、どうやって家まで帰り着いたのか、裕美はあまり覚えていない。

 チョコレートだけは、早織の机の上に置いて帰ったと思う。


 あれは何だったのだろう。

 思い返すと胸がざわつく。

 もしかしたら夢でも見ていたのかも知れない。


 それでも――頬をあたたかく染めた早織の表情は、見たことがないくらい綺麗で、裕美の心に強く刻み込まれた。


 ***


 ――卒業式が終わった。


 会場である体育館の外には、多くの在校生達が集まっている。

 少しずつ出てくる卒業生たちの中から、後輩たちは目当ての先輩を探し出しては、駆け寄っていった。


 早織と演劇部の三年生たちが出て来る。

 裕美は千佳たちと共に卒業生を迎え入れ、皆で集合写真を撮ったり、寄せ書きを渡したりして、限られた時間を過ごした。


「――あ、篠崎さん」


 不意に早織に声をかけられ、裕美は顔を上げる。

 直接話すのはどれくらい振りだろう。

 少し緊張した面持ちで早織の前に立つと、小さな袋を渡された。


「えっ?」


 袋の中身は、小さな金平糖だった。

 カラフルに存在を主張する星たちを手に、裕美は目の前の早織に視線を戻す。

 彼女は変わらない表情のまま――しかし、柔らかな雰囲気を纏わせて、言った。



「遅くなったけど、チョコレートありがとう。美味しかった」



 ――その一言が、裕美の想いを押し留めていた何かを、壊す。


 驚いたように目を見開く早織の顔が、滲んでぼやけていった。

 「ちょっと、裕美!?」と焦ったような千佳の声が響く。


 一度決壊したら、もうそれは止まらなかった。

 涙は止めなく溢れ出してくる。

 早織に泣き顔を見られまいとうつむいたところで、目の前に淡いブルーのハンカチが差し出された。



 ――そんなあなたに、どうしようもなくあこがれていた。



 ハンカチを手に取って、両目を拭う。

 左手の金平糖は、きっとたまらなく甘くて――そして、ちょっと苦い。


「――洗濯して、ちゃんと返しに行きます」


 そう言って顔を上げると、目の前のあこがれのひとは、優しく微笑んだ。



(了)

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