三月七日、音楽室。
野村絽麻子
あこがれ
『動悸がヤバかった』
『つ 求心』
『そーゆーんじゃなくて』
『そんなこと、あなたのして来た事の言い訳にはなりませんよぉっ!!』
『動機じゃなくて。つか右京さんて』
『ブルブルブル……』
『震えるなよ、しかも』
茶色くて丸っこい鳥が妙にすました顔をしているスタンプが送信されてくる。書き文字で「トリの降臨」と書き添えられているけど、あんまり見たこともないヤツだ。相変わらず変なスタンプばっかり持ってる。
問題は、それからちょっとの間のあと、投げかけられた一言。
『宣言しよう、そこは沼であると』
*
昨夜、友達の美羽と行われたメッセージアプリの馬鹿なやり取りの履歴を眺めながら、廊下を歩く。昼休みの早い時間、特別教室棟はまだ静まりかえっている。この辺りがざわめき出すのは皆んなが一通りお昼ご飯を食べ終えてから。こんな時間に私がここに居るのは、部室に用事があったからだ。
「沼」は、はまると簡単に抜け出せないとか、足を取られて動けなくなるとか、そういった辺りから転じて「深くはまり込んでしまう」状態を現すオタク用語からきている。要するに、美羽は私が「高瀬くん沼」にハマったのではないかと言いたいのだ。
ここでひとつ、反論しよう。
世の中には吊り橋効果という言葉がある。
心拍数の上がる状況下に置かれた男女が、そのドキドキを恋愛によって生じたドキドキだと勘違いしてしまう、という有名なアレだ。
あの日、私は子供じみた替え歌をうっかり聴かれてしまい、かなり動揺していた。緊張したしドキドキした。つまり、コレはそういう事なのでは。
「沼落ちじゃない、ってこと」
宣言し返そう。そう、これは沼落ちではない、と。
そんなことを考えながらスマートフォンをブレザーのポケットにしまう。ふと、耳が音を拾った。途切れ途切れに聴こえてくるこれは、ピアノの音だ。音楽室に誰かいる。それに、どこかで聴いた覚えのある旋律。何だっけ。
自然と、足がそちらに向かう。
たどり着いたドアの前で、はっきりと聞こえるピアノの音には淀みがない。と言うか、かなり慣れた人が弾いてるのでは。覗きは良くない。良くないのだけれど……でも、……ちょっとだけ。確認するだけ。
そうっと戸に手を添えて、音が鳴らないようゆっくりと静かに引き戸を滑らせる。
黒い光沢のあるピアノの前に座っていたのは……
「……ぎ、」
危ない。なんとか声を押し留めたけれど、叫びそうになってしまった。だって、ピアノの前に座って鍵盤に指を走らせていたのは、沼落ち疑惑の張本人こと高瀬くんだったのだ。
私は息を殺したまま、戸の隙間から覗き込んだ姿勢で動けなくなる。聞いてない、高瀬くんがピアノ弾ける人だなんて。雰囲気ありすぎでしょ。むしろ、何で黙ってた?
切なげな旋律は少しずつ流れを変えながら何度も繰り返されていく。私はこの曲が終わらなければ良いのになんて頭の片隅で思ってしまいながら、完全に状況を忘れてしまう。昼間の光が眼鏡の向こうの表情を隠し、髪を透かす。優雅な手つき。心地良く耳に届く和音。うっとり聞き惚れていると最後の一音が鳴り、高瀬くんが鍵盤から手を浮かせて……。
「人の視線ってわりと気付くもんだよね」
「……ごめんなさい。覗くつもりは」
「いいけど、別に」
スツールから立ち上がり、制服のジャケットを手に取るとこちらへやって来る。後ずさってしまいながら結果的にドアの前を開けた格好になって、そのスペースを通り抜ける高瀬くんが笑みをこぼした。
「まだ完璧じゃなかったんだけど、ま、それはそれって事で」
「それ?」
「いつか聴いて欲しかった……って言ったら、笑う?」
高瀬くんの手が私の頭にポンと軽く触れて、離れていく。私は触れられた辺りが妙に熱を持ったような錯覚に陥る。熱い、ような。頭が。いや、頬が?
再びドキドキとうるさく鳴り始めた自分の鼓動。それすら邪魔に思ってしまう程、高瀬くんの弾いていた旋律を忘れたくない気持ちになっていた。
三月七日、音楽室。 野村絽麻子 @an_and_coffee
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