一月某日

晴鮫

一月某日




 夏の日とは比較にできないほど早くなった日の入りが、まだ十六時だというのに辺りを薄暗く染めあげる。夜の帳は、より一層の寒さを引き連れ降りていく、一月のある日。


 とある公立高校の文芸部に所属する内藤ないとう冬樹ふゆきは、部室に一切の暖房器具が存在しないことを心の底より呪った。

 体の底まで冷やす寒気は、末端組織である指先をいとも容易く凍えさせ、かじかむ彼の右の手は、原稿用紙にのたうち回ったミミズしか生み出さなくなっていた。


 暖房が無い事に加えて、執筆に使う道具も旧態依然とした原稿用紙とペン。このデジタル全盛の時代に、文芸部の部室には事もあろうにノートパソコンの一台も無いのだ。顧問の教師は紙とペンを使う事で学習にもなる、と部員たちに方便を述べていたが、結局のところ部費が無いというだけである。


 ただでさえ執筆に難儀して筆が止まりがちな上に、この寒さである。いよいよ耐えかねた冬樹は部室を出て、何か温かい物でも、と校内にあるカップ式自動販売機の前へとやって来たのだが、財布を開いて愕然とした。六十円しか無かったのだ。

 しかし一番安いホットの緑茶が、その中身全てと同額である事に彼は一先ずの安堵を覚え、なけなしの硬貨を投入し、一時の暖を得た。


「あれ?」


 そうして緑茶を飲み終えた冬樹が空のカップを近くにあるごみ箱に捨てようと視線を動かした時、彼の視界の端に妙な物が映った。

 そこには紺色の合成皮革で作られた財布が落ちていた。誰かの落とし物であることは容易に想像できる。加えて冬樹はその財布と、それに付いていたデフォルメされた柴犬のストラップに見覚えがあった。


飯島いいじま先輩の財布だ」


 冬樹は呟く。その財布は一時間ほど前、彼と同じく温かい物を飲みに部室を出た際、その先輩が手にしていた物と同じ物であったのだ。


 飯島先輩こと、飯島明音あかねとは冬樹の所属する文芸部の三年の先輩であり、部長でもある。

 彼女の書く小説は文芸部の部員たちから多大なる賞賛と尊敬を集め、昨年には作家を志す者の登竜門、村雨文庫の新人賞に見事受賞していた。

 若き天才と言っても良いのだろう。他の部員たちと同様に、彼女の一つ下の学年の後輩である冬樹も、いつか彼女の様な素晴らしい小説を書いてみたい、と先輩に憧れの念を抱いてはいるものの、新人賞の審査員どころか、部活仲間の評価すらまともに得られない自分の小説では雲泥の差である、と常々感じていた。


 冬樹は落ちていた財布を拾う。先輩は冬樹が自販機へと向かう直前、用事があるから、と言って早めに部活を切り上げ、帰りの支度をしていた。

 財布を拾ったと明音に連絡をする為、彼はスマホを取り出すも、タイミングが悪い事に電池切れ。

 今ならまだ間に合うかもしれない。そう考え、冬樹は走り出した。





 果たして冬樹は先輩に追いついた。学校を出てしばらく走り、車道で隔たれた先、スーパーマーケットの前の歩道に、明音が歩いているのを彼は発見した。


「飯島先輩!」


 冬樹は明音に聞こえるように大声を上げた。彼女はそれに気付き、声のした方角を見る。彼は手にした財布を高く掲げ、「財布!」と続けた。

 明音はしばらく肩に下げていた学生カバンの中を改め、次いで自分の着ていたブレザーやスカートのポケットの中身を確かめるように、彼方此方をポンポンと叩くように触っていたが、やがて何か納得した表情を浮かべた。


「ありがと」


 近くの横断歩道を渡り、財布を手渡す冬樹に、明音は礼を言った。

 息を切らしながら、いえいえ、と首を横に振る冬樹。


「スマホで連絡すれば良かったのに」

「電池切れでして」

「あー、成程。ごめんね走らせちゃって。ジュース奢るよ、内藤君。お礼に」

「え、いいですよ別に」

「いいから遠慮しなさんなって。コーヒーでも紅茶でも炭酸でも、何でも好きなのを言いなー?」


 そう言って明音は遠慮する冬樹の袖を引っ張り、すぐ近くのスーパーの入り口に置いてあるカップ式自動販売機の前に立つ。そして彼女は財布を開き、しばらくの沈黙の後に振り返り、彼に言った。


「……やっぱ緑茶で良い?」


 冬樹は苦笑して、頷いた。



 そうして先輩から緑茶の入ったカップを受け取った冬樹。カップの水面にふうふうと何度も息を吹きかけ、湯気を飛ばしながらちびちびと飲んでいる彼の横で、制服のポケットに財布を収めかけた明音はふと何かに気が付いたように、そういえば、と口を開いた。


「内藤君、よくこれが私の財布だって分かったね?」

「先輩が財布を持って部室を出た時に、そのストラップがぶら下がってたのが見えたので」


 紺色の財布を見せそんな事を訊ねた明音に、ぶら下がっている柴犬のストラップを指差して冬樹は答えた。

 何処か感心したような様子の彼女はふぅん、と頷く。


「変わったところ見てるね」

「それって褒めてます? それとも何かの皮肉ですか?」

「褒めてるよ。そういう一風変わった視点を持つ事が創作には重要だったりするからね……って一丁前に創作論なんか語っちゃったけれども」

「一丁前でしょう。先輩は。書籍化が決まってる立派な作家さんなんですから」


 冬樹は苦笑する明音に言った。それを聞いた彼女は目を細め、じとりと彼の方を見る。


「それって褒めてる? それとも何かの皮肉?」

「褒めてるに決まってるじゃないですか」


 冬樹は若干ながら嘘を吐いた。賞賛の言葉の中に混じっていたのは皮肉ではなく、ちょっとした嫉妬である。当然その本心は言わず、彼はそれをそっと心の中に仕舞っておいた。

 誤魔化すように冬樹はカップの緑茶に息を吹き、ちびりと一口。先程よりかはカップの湯気の勢いは無くなったものの、それでもまだまだ彼にとっては熱かった。


「あと俺、犬派なもんで。犬には目が無いんですよ」

「猫舌なのに?」

「関係あります? それ」


 明音に猫舌を見破られ、彼はばつが悪そうに眼を逸らし、唇を尖らせて言った。


「関係は無いかも。ちなみに私は猫派だよ」

「え? じゃあ何で猫派なのに柴犬のストラップを付けてるんですか?」

「関係ありますぅ? それぇ」

「何か腹の立つ言い方だなぁ……」


 冬樹の問いに、明音はぷいと顔を逸らし、わざとらしく唇を尖らせて答える。

 先程のどこかの誰かをオーバーな表現にして真似したような彼女の様子を見て、彼は若干イラっとしてしまった。

 そんな苛立ちを冬樹は緑茶で流し込む。勢い良く呷ったのが不味かった。まだ熱かったようで、彼は口の中を火傷した。


「別に、猫派が犬のストラップ付けても良いでしょ?」

「それは、まぁ、そうですね」


 頷く冬樹。彼も犬派だからといって猫が嫌いな訳ではない。ぶっちゃけ可愛ければどっちも好きであり、敢えて言うとすれば犬が好きというだけなのだ。

 彼は明音の財布に付いていた柴犬のストラップを思い出す。いかにも女性受けしそうなデザインであった。気に入れば猫派だろうと付けるのだろう。


「まぁ、可愛らしいデザインですし、猫派の人でも気に入るのは分かります」

「それは、まぁ、うん……」


 そう思って冬樹は明音に言ったが、何だか彼女の反応は芳しくなかった。

 疑問符を浮かべる冬樹に、明音はぽつりと呟いた。


「実は……犬と猫を間違えて買っちゃってさ」

「え……流石に冗談ですよね?」


 犬と猫を間違える。柴犬を、猫だと思って買ったというのか。

 明音の有り得ない間違いに思わずドン引きする冬樹に、彼女は慌てて訂正する。


「いや、ネットショッピングでクリックする所を間違えただけだからね? 流石に犬と猫それ自体は間違えないよ? 変な勘違いはしないでね?」


 それを聞いて、冬樹は胸を撫で下ろした。


「あぁ。間違えたのは犬でも猫でもなくマウスの方だったんですね。良かったです」

「上手い事言ったつもりか!」


 ぺしん、と明音のツッコミが冬樹の背中に入った。


 基本的に人当たりとノリが良く、どこか抜けているところがあったり、度々悪ふざけで人を茶化したりする事がある明音。そんな彼女の姿を見て、その度に冬樹は思うのだ。

 この人があんなに綺麗で繊細な文章の小説を書き上げてしまうなんて、信じられないと。


 冬樹のみならず、他の文芸部員たちもそんな明音の姿と性格を知っている。他の部員たちも、冬樹と同じ事を思っている。

 しかし、それでいて彼女の文章は読む人を惹き付け、他者からの賞賛と尊敬を集めてしまい、そして皆そんな彼女に憧れてしまうのだ。

 魔性と言い変えても良いだろう。才能とは得てしてそういうものである。





 スーパーの自販機前での雑談もそこそこに、そろそろ飲めるようになった緑茶のカップに口を付けながら、冬樹は明音に訊ねる。


「用事があるって聞きましたが、こうして話していて大丈夫なんですか?」

「んー、そろそろ行かないとヤバいかも」

「ヤバいじゃないですか」


 慌てて緑茶を飲もうとする冬樹を見て「何で内藤君の方が慌ててんのさ」と笑う明音。

 確かに、自分には予定なんて無いのだから慌てる必要なんてないな、と冷静になる冬樹。落ち着いた彼は本来ならば慌てるべき人間に、行かなくていいのかと視線を送った。


「大丈夫大丈夫、多少遅れても編集さんは怒らないから」

「多分それ怒らないだけで怒ってるとは思いますよ」


 そんな言葉が返ってきて、彼は呆れ顔となった。

 いい加減話を切り上げるべきだと分かってはいるが、明音のセリフに気になったワードが出てきたので、ついつい冬樹は彼女に訊いてしまった。


「編集さんって言ってましたが、もしかして用事って出版に関する事ですか?」

「え? あぁ、そうそう」


 詳しい事はまだ言えないんだけどねー、と平然と頷く明音の様子を見て、冬樹は溜め息を吐いた。

 村雨文庫の新人賞の受賞、そして自分が書いた本の出版。それらは冬樹の夢であった。しかしこうして彼にとっての夢を叶えているにも拘らず、あっけらかんとしている彼女の様子を目の当たりにして、最早嫉妬を覚える事すら烏滸がましいのではと思うほどに、自分との間に大きな差を感じてしまったからだ。


「……何か、先輩が雲の上の存在に見えてきましたよ」


 冬樹が肩を落として言う。すると明音は吹き出した。


「別に、そこまでじゃないでしょ」

「いや、だって。俺の書く小説はつまんないし語彙力も無いし、読み辛いって部の奴らに不評だし。先輩とは雲泥の差。俺は泥沼の底ですよ、ホント」


 冬樹は自分の言葉で部員たちの、彼の小説に対する批評を思い出し、そして深く落ち込んだ。

 小説の好き嫌いは人により異なり、それに対して賞賛、批判する権利と自由は誰彼問わず持ち合わせているものである。彼自身そう考えており、どのような賞賛も、批判も受けて構わないと考えてはいるものの。


 しかし、応えるものは応えるのだ。

 そして、それが彼の筆を止める原因にもなっていた。


「私は良いと思うけどなぁ」


 どこかぼんやりとした様子でそう呟いた明音のその言葉を、冬樹は安いお世辞か慰めとしか受け取れなかった。

 彼はカップに残った緑茶を一気に飲み干し、空になったカップをくしゃりと丸めて、近くのごみ箱に捨てた。


「そう言って下さるなら幸いです。時間取らせてすいません。お茶、ご馳走様でした」


 悴むほどに冷たい両手を握りしめ、冬樹は軽く礼をし、背を向けて立ち去ろうとした。その時。


「内藤君」


 明音の呼ぶ声を耳にして、冬樹は振り返る。


「私はホントに好きだから、内藤君の書く小説。周りが何を言っても、私は好きだから。だから、ちゃんと次も書いてよね。待ってるから」


 彼は明音のその言葉を、俄かには信じられなかった。まさか、天と地ほど自分との才能の差がある彼女が、冬樹の小説が好きだなどと。

 だが、明音の顔を見て、冬樹は目を見開いた。いつものようにどこか茶化したり、ふざけているような彼女の表情はそこには無く。真剣な表情で真っ直ぐと冬樹を見つめるその瞳は、どこまでも透き通っていて、彼女の嘘偽りない本心を映し出していた。

 それに気付いた冬樹は、まるでその瞳に吸い込まれていく様な感覚を覚え、思わず言葉を失う。


「あ……」


 それでも何かを言わなければならないと思った彼は、頭の中で散り散りになった言葉を必死にかき集めて、何とか感謝の言葉を口にする。


「――ありがとう、ござい……ます」


 冬樹の途切れ途切れとなったその礼を聞いて、明音はふっと笑った。


「それじゃ、また明日」


 そうして手を振り、彼女は去って行く。冬樹はその場で動けず、何も言えず。去り行く先輩の後ろ姿を、彼はしばらくの間見つめていた。





 学校の部室へと戻る為に、元来た道を歩いている冬樹の頭の中で、先程の明音の声が繰り返された。

 その度に、彼の頭の中は歓喜によって満たされていく。自分の小説を好きだと言ってくれる人がいる事。そしてそれが自らが憧れ、目標となっていた人であった事。彼はそれがたまらなく嬉しかったのだ。


 また、歓喜とは別に、他の感情が彼の心より湧き出てきた。それは憧憬とは似ているが、少し異なる。そして湧き出たそれに沈み、流されてしまうと、それまで見上げていた目標をまともに見られなくしてしまうだけの魔力があった。


 すなわち、盲目になってしまうのだ。

 小説を書くには少し厳しい。


 鼓動が少し早くなっているのは、先輩を追いかける時に走ったからに違いない。

 頬が熱を帯び、赤くなっているのは熱いお茶を飲んだからに違いない。

 飽く迄も、彼女に抱いている感情は憧憬であると。

 そう思いたい冬樹は、その歩みを早めた。あの後ろ姿に追い付きたいが為に。



 夏の日とは比較にできないほど早くなった日の入りが、雲の多い空を薄暗く染めあげる。夜の帳は、より一層の寒さを引き連れ、体の底まで冷やさんと降りていく、一月のある日。


 冬樹の手は、悴んではいなかった。





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一月某日 晴鮫 @spring0205

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