そんな憧れは疾うの昔に

保紫 奏杜

願わくば

 捨てたはずだった。

 ガキの頃、他所よその家庭に見た羨望せんぼうなど。

 そんなものはうの昔に――。


「Shit……ッ」


 夜雨の中、私は悪態を吐いた。

 帰路を急ぎながら右脇腹を抑える手には、濡れた感覚。かすった銃弾にえぐられた痛みが、神経をむしばんでいる。


 仲間と合流することはできなかったが、は果たした。その内にボスから何らかの連絡があるだろう。


 私は鬱々うつうつとした気分でアパートメントに裏口から入り、足早に暗い階段を上がった。根城アジトのドアを押し開け、中へ滑り込む。濡れたままの手で扉横にあるスイッチを押せば、えとしたいつもの空間が自分を迎え入れた。


 私の足は自然と部屋の奥へと向かう。

 鍵を掛けていた部屋の戸を開ければ、起きていたのか、薄暗い部屋の奥で幼子おさなごが動く気配があった。ひと月前、気紛れで助け、さらってきた子供だ。


 痛みが増してくる中、私は戸を開けたまま壁に背を預けた。そのままずるずると座り込む。

 気付けば、毛布に包まったままの幼子が傍にまで来ていた。


 事故に巻き込まれたショックで記憶を失っている幼子は、これまでほとんど言葉を発していない。表情も人形のようにとぼしい。そんな幼子の顔が、初めて大きくゆがんだ。暗褐色ダークブラウンの瞳が揺らいでうるみ、あふれた大粒の涙が頬を伝っていく。そのさまを、私はどこか別世界のものを見るような気持ちで見ていた。


「いたいの?」


 幼子の不安げな声に、我に返った。

 二つの澄んだ瞳は、確かに私を映している。


「……ああ。痛いし、ひどく寒いよ」


 自分でも可笑おかしい気分になりながら、私は答えた。


 真っ当な子供の扱いなど知らない。

 近所の悪ガキ共には拳か蹴りをくれてやればいいし、私もそういう環境で育った。歳の離れた兄にとって私は都合の良いサンドバックだったし、両親はいつも喧嘩していた。いつだか父親に殴られた母親をかばったが、その翌日には母親は別の男と何処どこかへ逃げた。それ以来、見ていない。


 嫌な面々を思い出していれば、私に伸ばされた小さな手があった。 

 頬に触れてきたぬくもりは、泣きたくなるほどの柔らかさだ。


「お前はあたたかいな」


 慣れない笑みを向ければ、愛らしい笑みが返る。

 私は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えながら、血に濡れた手で幼子を抱き寄せた。



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そんな憧れは疾うの昔に 保紫 奏杜 @hoshi117

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