第6話 「なぎさ学園」

 石垣島の夜は、湿った潮風がゆるやかに吹いていた。

 長野の乾いた冷たい空気とは違い、夜になっても肌にまとわりつくような湿気がある。

 遠くから波の音が響き、空には雲がなく、月がやけに明るかった。


 部屋のドアを開けると、リビングの灯りがついている。

 コージはソファに座り、スマホをいじっていた。


 「……で、どうだった?」


 ヨーコは靴を脱ぎながら、少しだけ動きを止めた。


 「何が?」


 「長野で何があった?」


 視線を合わせないままの問いかけ。

 いつもなら冗談めかして聞いてくるのに、今夜は違う。


 ヨーコは息を吐いて、バッグを床に置く。


 「……私、石垣島の施設から養子に出されてた」


 コージがわずかに表情を動かした。


 「施設?」


 「なぎさ学園っていう、児童養護施設」


 コージは腕を組み、少し考えるように視線を落とす。


 「名前だけは知ってる。昔からある施設だよな。たしか、丘の上にある白い建物の……」


 「そう、それ」


 静かになった。

 波の音だけが、遠くから聞こえる。


 「それで、どうするつもりだ?」


 「……週末に行ってみようと思う」


 コージはヨーコの顔をじっと見て、それから小さくうなずいた。


 「俺も行く」


 「え?」


 「ヨーコがどんな答えを見つけても、そばにいるから」


 ふっと、緊張がほどけるような感覚があった。


 けれど、週末までの数日は落ち着かなかった。


 仕事は山積みだった。

 長野へ行っていた間の業務が溜まり、撮影のスケジュール調整や問い合わせ対応に追われる。

 いつも通りに働いているつもりだったが、頭の片隅ではずっとあのことが引っかかっていた。


 ——私は、石垣島の施設から養子に出された。


 それが事実ならば、自分の人生の起点は、ここにあったことになる。

 幼い頃の記憶はない。だからこそ、この場所で確かめなければならない。


 

  週末、ヨーコとコージは『なぎさ学園』へと向かった。


 石垣島の市街地から車で20分ほどの場所にあるその施設は、海を見下ろす小高い丘の上に建っていた。

 白い壁の建物が、どこか穏やかで優しい印象を与える。


 門をくぐり、受付で訪問の理由を伝えると、職員が奥へと案内してくれた。


 「園長が少し時間を取れるそうです。どうぞ、こちらへ。」


 通された部屋の中には、大きな木の机と、壁いっぱいの本棚。

 窓からは海が見える。


 やがて、部屋の奥から、一人の老人が現れた。


 「こんにちは、園長の内田です。」


 70代くらいだろうか。

 白髪混じりの髪をきちんと撫でつけた、穏やかな雰囲気の男性だった。


 ヨーコは、深く息を吸い、静かに口を開いた。


 「……私は、昔、この施設にいた子どもなんです。」


 園長の目が、少しだけ見開かれた。


 「そうですか……。あなたのお名前を伺っても?」


 「ヨーコです。」


 園長は少し考えるような表情をし、机の引き出しを開けた。

 そこから、古い記録のファイルを取り出し、めくり始める。


 「もしかすると……」


 指が、あるページの上で止まる。


 「……ここに、あなたの記録が残っているかもしれません。」


 ヨーコの鼓動が、少しだけ速くなった。


 園長が開いたページには、古びた手書きの記録が残されていた。


 ——1987年6月14日、白保海岸にて保護。


 波打ち際で発見され、当時の園長が保護し、児童相談所を通じて学園に引き取られたことが書かれていた。


 「ここに来たとき、あなたはまだ二歳くらいだったようです。」


 園長の言葉が、静かに部屋に響く。


 ヨーコは、ページに書かれた『白保海岸』という文字を見つめた。

 それは、つい最近、転覆したボートの男性を助けた、あの海岸だった。


 (……私が、見つかった場所。)


 「ヨーコ?」


 コージの声で我に返る。


 「……ううん、大丈夫。」


 「それにしても、不思議ですね。」


 園長は、海を眺めるように目を細めた。


 「今でも、あなたがこの場所に導かれるように戻ってきたというのは……」


 「……そうですね。」


 ヨーコは、窓の外に広がる海を見た。


 波は穏やかに打ち寄せ、どこまでも青く広がっている。


 ——私は、この海から来た。


 それだけは、確かなことだった。


 園長は、少し間を置いてから、静かに言った。


 「実は……あなたがここにいた頃、学園には、あなたのことを気にかけていた人物がいました。」


 「え?」


 「直樹さんのこと、ご存じですか?」


 「先日、初めて叔父がいることを知ったんです。」


 ヨーコは、園長の口から聞いた名前に、僅かに眉をひそめた。


 「もともとは東京の会社にいたそうですが、沖縄に転勤し、その後、石垣島に来られました。最初は別の仕事でしたが、なぎさ学園の事務局長を務めることになり、東京に戻ることなく、ここで生涯を終えられました。」


 「彼は、あなたをとても気にかけていました。」


 園長は、ゆっくりと続けた。


 「当時は、縁があれば養子に出すことが、たまに行われていたんです。ここは島ですからね。」


 ヨーコは、そっと拳を握った。


 叔父は、私のことを守ろうとしてくれたのだろうか——。


 この場所に、私の過去がある。

 そして、それを知るために、私はここへ戻ってきたのかもしれない。


 コージは、静かにヨーコの手を握った。


 「ヨーコ、受け入れるのは少しづつでいいから。」


 その温もりが、ヨーコの迷いを少しずつ溶かしていくようだった。

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令和マーメイド、写真に映る カミオ コージ @kozy_kam

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