ひな祭り戦争
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ひな祭り戦争
ひな壇の上に並ぶ朱色の
ぼんぼりに灯るLEDライトの温かな光が、人形たちの繊細な衣装の刺繍を、美しく浮かび上がらせていた。
一人の女性が楽しげに童謡・「うれしいひなまつり」を口ずさみながら、人形の並べ替えをしている。
シックなカラーのワンピースを着た女性だ。
腰まで伸びたストレートの髪を緩く一つにまとめている。
瞳の色は茶色に近い黒。少し垂れ目気味だが、穏やかな眼差しをしていて、口元はいつも優しく微笑んでいるように見える。
名前を遠藤
白い指先が、小さなお内裏様の衣をそっと整え、淡い紅をさしたお雛様の頬を優しく撫でた。明子の表情は、まるで我が子を愛している母親らしかった。
「ふふ……。やっぱり華やかねぇ」
明子の声が静かに響く。
雛人形を飾る雛壇は、名が示すように本来は七段が基本の飾り方となっている。
五段や七段の飾り方では、飾られる人形は全部で15体。
ただ、近年の住宅事情により、三段以下の雛壇飾りが多くなってきており、最近では小さいショーケースの中に「お内裏様」だけが並んでいる雛飾りもある。
遠藤家では、昨今の住宅情報に合わせた様に、男雛と女雛の2体だけを飾る『親王飾り』となっている。
親王飾りは一段だけで飾るため場所を取らず、現代的なインテリアにも調和させやすいことも魅力だ。歴史的にみても、男雛と女雛を対で飾る親王飾りのほうが古く、江戸時代まではこちらが主流だったと言われている。
明子は、お姫様の
優雅で穏やかな空気が満ちる――部屋だが、それが嵐の前の静けさだとは、このときの明子はまだ気づいていなかった。
そこへ、玄関のドアが開く音が響いた。
「ただいまー」
同時に女性の声が聞こえてくる。
声のトーンからして、まだ若い。
程なくして明子が居る居間を横切る形で、一人の女性が明子に気づく。
「お母さん、ただいま」
娘の声に、母は笑顔で答える。
「お帰り、柚葉」
明子は大学生の娘の帰宅に喜ぶ声を投げかけた。
肩甲骨あたりまである栗色の髪をハーフアップにして束ねており、毛先がふわふわと揺れている。
大きな瞳は、ぱっちりとしていて二重瞼、睫毛も長く、肌の色は健康的な小麦色で、唇はぷっくりとして艶やかだ。
そんな、とても愛らしい容姿をした女性なのだが、言動はやや子供っぽいところがある。
彼女の名前は、遠藤
「あ。お母さん、もう雛人形を出してたんだ」
柚葉は、キレイな雛人形を目の前にして嬉しそうに声をあげる。
「キレイでしょ?」
母の問いかけに、娘は大きく頷く。
雛人形は、一般的に立春(節分の翌日、2月4日ごろ)から2月中旬頃までに飾るのがよいとされている。地域や家庭によって多少の違いはあるが、立春を目安にお天気の良い日に飾り始めるのが理想的となっいる。
遠藤家では、特に決まりは無いが、明子は2月4日になって雛人形の飾り初めているので、早い方と言えた。
「わぁ、今年も豪華だね!」
柚葉が弾むような声で言うと、明子の目元が緩む。
娘の反応を見ることが楽しみの一つになっているのだ。
柚葉は明子が飾り付けた雛人形に対し、しげしげと見つめる。
「……お母さん。このお雛様だけど、こうした方がバランスよくない?」
そう言いながら柚葉は手際よく人形の位置を直していく。
「ふふ。柚葉は昔から細かいところにこだわるのよね」
明子は優しく微笑みながら、柚葉が手際よく人形の位置を調整する様子を眺めた。
「だって、お雛様は綺麗に飾った方が映えるでしょ? ほら、お内裏様を少し左に並べて……そうそう、この距離がいい!」
柚葉は真剣な表情で、お雛様とお内裏様の位置を微調整する。
「うん。やっぱり、こっちの方が良いと思うんだ」
彼女が満足そうに聞こえると、明子もつれて笑っていた。
「本当に几帳面ねぇ。でも、そのお陰で、今年も素敵な雛壇になりそうだわ」
二人は向かい合って、どこか似た笑みを沈める。
明子の年齢は40歳に近い年齢だが、柚葉と一緒に街を歩けば姉妹と間違われる事も多い程に若々しい美貌を保っている。
また、長身で和服を着こなす姿は、モデルのような出で立ちなのだ。
普段着であっても、着物姿で歩くだけでも人目を引くのだが、そこに黒髪ロングヘアーがよく似合う日本人離れした美女っぷりを発揮するため、歩いている間中ずっと周囲の視線を浴びてしまうほどだ。
対して柚葉は小柄ではあるが、引き締まった長い手足を活かしたファッションはとてもスマートに見える。美人系というよりも可愛い系の風貌で、男性だけでなく同性からも好感を持たれるタイプであった。
性格の方も明るくて人懐っこいので、誰からも好かれる愛されるタイプの人間とも言えるだろう。
親と娘という間柄なのにこうも違うものなのか……と思わせるほど、親子には似ていない部分が多い。
「そういえばさ、お母さんがこうやって毎年雛人形を飾ってくれるのって、小さい頃から変わらないよね」
柚葉は雛壇を見つめながら、ふと懐かしそうに呟いていた。
「毎年、私と貴志が一緒に手伝おうとしたけど、結局お母さんが全部やっちゃったよね」
明子の手伝いをしたい柚葉と貴志二人の微笑ましい光景を思い出して、母と娘は微笑みあった。
貴志というのは、遠藤家の長男で、柚葉にとっては弟であり、明子からは息子に当る存在だ。
「ふふ、だって二人ともすぐに飽きちゃうんだもの。最初だけ勢いあるけど『ぼんぼりを取る!』とか言いだして、一瞬で興味無くしちゃってね。途中でおやつを食べたり、おもちゃで遊び始めたり……」
明子は柚葉と貴志の小さい頃を懐かしく思い出した。
「うっ……。言われてみれば、そんな気がする……」
柚葉は思わず苦笑した。当時の自分が取った行動を思い出してしまったからだ。
柚葉は小学生で、貴志は未就学児の頃の話だが、確かにあの頃は、自分も姉として頑張ろうとしていたような記憶がある。
しかし、途中から何か別の目的に没頭していて、気がついたら何も手伝ってくれていなかったという事があったような気がする。
明子も、お手伝いをしたいという二人の子供の相手をしながら、ひな祭りの準備をする事は効率が悪かったが、それでも二人の子供に囲まれて過ごす時間が好きだった事を思い返していた。
「でも、貴志もきっと、こういうことを覚えてるよね。毎年お母さんが丁寧に飾ってくれてるって」
明子はその言葉目を細めて、雛壇を見つめる。
「ええ、覚えていてくれてるわ」
温かな空気が流れる中、柚葉はもう一度、雛人形の位置を確認する。
内裏雛を中心に、後ろには金色の屏風がそっと輝きを放つ。その光沢は柔らかな
左右に並ぶ
内裏雛の微笑みは、穏やかな春の陽射しのように、二人の衣の襞には、まるで本物の絹がそよぐような繊細な陰影が降り注ぐ。
光の加減によって、金襴の刺繍がかすかに煌めき、豪奢ながらも品のある美しさを醸し出す。
まるで計算し尽くされた黄金比のように、すべてが調和し、一枚の絵画のような完成度を見せていた。
柚葉はそっと息を求めて、満足げに微笑む。
「うん。これで完璧!」
日本の伝統が持つ、静謐な美しさが、そこには存在していた。
柚葉は満足げな声でそう呟いた。
「さすが柚葉。私の娘ね……」
明子は、もう娘に雛飾りを教えることは何も無いと思うのだった。そう思うと、嬉しくて口元に笑みが浮かんでいた。
邪を含んだ笑みが――。
「これで柚葉も、早くお嫁に行けるわね」
明子の何気ない言葉が、その場の空気を一変させる。
柚葉はぴくっと手を止め、じろりと明子を見た。
「……何それ? お母さん、まさか私に家を出ていけって言ってるの?」
明子と目が合い、二人の間に一瞬沈黙が生まれる。
それから数秒後、先に口を開いたのは明子の方だった。彼女は、笑顔を崩すことなく答えた。
「柚葉、知ってる? 雛人形は《婚礼の儀》を表しているの。そこから、『早く飾るほど早くお嫁に行く』、『早く片づけるほど早くお嫁に行く』といった言い伝えが生まれたのよ。
つまり、柚葉はもう大学生なんだから、さっさと男でも見つけてデキ婚でも、学生結婚でもして出て行けって事! そして、私は、貴志と一緒に二人っきりで暮らせる幸せが欲しいわっ!!」
明子は息子の貴志とラブラブな恋人生活を想像し、夢を見るように頬を染める。
「ふふ……♡ 貴志と二人だけの甘い生活……想像するだけで幸せだわ……♡」
明子の脳内には、貴志との生活がまるで映画の様に再生されていた。
以下、明子の妄想。
「貴志♡ 起きて♡」
明子は新妻らしい可憐なエプロン姿で、優しく貴志を揺さぶる。
すると、貴志は寝ぼけ目のまま、もぞもぞと動き意地悪に甘えるように抱きついてくる。
「貴志ったら朝ごはん、冷めちゃうわよ?」
「じゃあ……お母さんが起こして……♡」
「……もう、仕方ない子ね♡」
——そこで、おでこに優しくチュッ♡
「貴志、お母さんのご飯、おいしい?」
「うん、お母さんのご飯が一番好き」
「ふふ、それはよかった♡ ほら、あーんして♡」
「え……でも、僕もう高校生だし……」
「はい、あーん♡ 」
( ぱくっ )」
「ふふふ♡ かわいい貴志♡」
貴志が学校へ行っている間、明子は新婚妻らしく家をピカピカに掃除し、愛する旦那——いえ、息子の帰りを待っています。
そして、夕方。
玄関のドアが開き、貴志が帰宅する。
「おかえりなさい、貴志♡」
エプロン姿の明子が優しく出迎え、貴志は、ほのかに香る手料理の匂いに包まれる。
「貴志、お風呂わかして待っていたわよ♡」
「ありがとう、お母さん。……一緒に入る?」
「まぁ……貴志したら♡ でも、まだちょっと恥ずかしいわ……///」
そして、夜の寝室——
月明かりが差し込む中、並んで二人で寝る。
「貴志……おやすみ♡」
「お母さん……おやすみ」
「ふふ……♡」
ぎゅっ♡
以上、妄想終了。
「……はぁぁぁぁ♡ なんて素晴らしいのかしら……!!」
妄想の世界から戻ってきた明子は、頬を染めながら身悶える。
それを見ていた柚葉は拳を握って怒り心頭の様子となる。グッと奥歯に力が入ると、ガリッと歯ぎしりする音が漏れた。
(このババア。絶対、今頭の中でいかがわしいこと考えてただろ……!! なんで貴志が、こんなババアと二人っきりで生活しなきゃならないのよ! そこは、もっと若くて可愛い、私が相応しいでしょ!)
ふつふつと湧きあがる母親への憎悪に身を焦がすかのように、激しく憤りを感じていた。
二人は貴志を溺愛する性格の持ち主、ブラコンと逆マザコンなのだ。二人共基本的に常識を持っているが、貴志のこととなると、理性を失い暴走してしまう傾向にある。
もちろん、本人達はそれを自覚していない為、尚更タチが悪いと言えるかもしれない。
柚葉は優雅に微笑みながら腕組みをし、余裕の態度で母親に宣言する。
「そう言うけどさ。貴志が『お姉ちゃんの作る、お弁当が一番美味しい』って言ってたの知ってる?」
それを聞いて、明子は驚きの表情を見せる。
「……な、何ですっって!?」
その様子を見て、柚葉の口元がニヤリと歪む。これはチャンスとばかりに言葉を続ける。
「この間、貴志に作ったお弁当。貴志、すごく喜んでたのよねー?」
明子は、ハッとなり悔しそうな表情に変わる。
あの日は、仕事の関係で、朝のお弁当作りができず、柚葉にお願いして作ってもらったものだ。その時のことを思い出していると、あの笑顔が自分に向いていないという事実に気づいてしまったのである。
(この小娘。誰が料理の、イロハを教えてやったと思ってるのよ……!)
娘と思って今まで培ってきた信頼関係が裏目に出てしまい、悔しさのあまり親指の爪を嚙んでいたが、弱味を見せてはいられない。
母親は勝ち誇った顔で反撃に出ることにした。
「……あら、それはきっと『気を遣った』のね。だって、私の料理は愛情がこもっているものを作っているのよ。貴志は、きっと心の中ではこう思っているはずよ……『お母さんの手料理が食べたい』って!」
そう言って勝ち誇る明子の顔を睨むと、柚葉はフンっと鼻を鳴らす。
「へぇ〜? でも貴志、この前私が洗濯してあげたシャツの匂い嗅いで『お姉ちゃんと同じ匂いがして、落ち着く』って言ってたけど?」
「ッ!!」
明子の顔が引きつる。
(な、何ですって。よりにもよって、この小娘。自分好みの柔軟剤を使って、自分の洗濯物と貴志の洗濯物だけを一緒に洗っていたって言うの!)
明子は柚葉のブラやショーツが、同じ洗濯槽の中で貴志のシャツが揉まれている姿を想像したのか、般若の形相に変わりかける。
「な、なにそれ!? この小娘が、そんなことで母親の愛には勝てないわよ! 大体ね、貴志は赤ちゃんの頃、私の腕の中でしか寝られなかったの! 貴志が一番落ち着くのは私なのよ!」
その言葉にカッとなった柚葉は即座に反論する。
「ふふん、それならこっちも切り札よ。貴志が未就学児の時に1976年版の『犬神家の一族』をテレビで見て、夜中に『お姉ちゃん、一緒に寝て……』って泣いていたの知らないでしょ?」
それを聞いた明子の表情がピシッと音を立てて固まった。
「な、な……!? ちょ、ちょっとそれ本当に貴志が言ったの? 私が貴志と同衾したのは5歳までよ。よりにもよって、こんな乳臭い小娘なんかと一緒に寝ていたなんて!! いやぁぁぁあああ!!!」
柚葉の「一緒に寝ていた」発言を聞いた明子は、両手で顔を挟み悲痛な声を上げると、膝の力が抜け、床にへたり込んだ。
(勝った!)
柚葉は自分こそが、貴志に愛されていると確信し、勝利宣言をする為に仁王立ちになった。
頭の位置をより高きに置くもの。それが勝者だ!
柚葉は得意げに腕を組み、胸を逸らす。
完全に打ち拉がれた母を前にしていると、同じ男を愛してしまった女として少しだけ同情を覚えたものの、やはりここは譲れないものがあるのだ。
そもそも、自分を追い出したいと思っていたようだし、丁度良いではないか。そう思い直す事にした。
「どうやら、出ていくのはババアの方ね……」
そう言いながらフッと笑う。
次の瞬間——。
「……ふふ……」
と、低く笑う声が部屋に響く。
「……ふふふふふふ」
明子の肩が震え、その笑い声は徐々に大きくなっていった。
「ふふ、あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
明子は床に向けて項垂れていたが、勢いよく顔を上げたかと思うとキッと鋭い視線を柚葉を睨みつけた。その瞳の奥にある狂気にも似た感情に気づき、柚葉はびくりと体を震わせると一歩後退りした。そこで、高らかに笑い出した明子を見て、柚葉は思わず笑ってしまった。
「な、何よ……。気でも触れたの!?」
柚葉が警戒する中、明子はすっと顔を上げ、ギラギラとした眼差しで娘を見据えた。
「ふふ、小娘が良い気になって。肝心なことを見落としをしているわよ?」
明子は乱れ髪の向こうから、柚葉を射殺すような視線で見据え、低い声を出した。
ゾクッとしたものが背筋を走り、柚葉はごくりと喉を鳴らしてしまう。本能的な恐怖を感じてしまったのだ。
そんな娘の様子を見て、明子は不敵な笑みを浮かべると、母はゆっくりと立ち上がり、両手を腰に当て胸を張るポーズをとった。
その姿は威風堂々という言葉がぴったりであった。
明子の姿を見ると、柚葉は圧倒されそうになる心を奮い起たし、負けずに睨み返す。
年増ババアの言動など全て跳ね返してやるという思いを込めて。
「な、何よ。今更、負け惜しみとはみっともないわ……!」
強気の姿勢を保つ娘を見下ろし、明子は嘲笑うように言い返した。
「いい気なるんじゃないわよ小娘」
明子は勝ち誇る。
「はぁ?」
理解できていない柚葉は聞き返す。
明子は満面の笑みを浮かべながら、ゆっくりと柚葉の鼻先に指を立てた。
「貴志が小さい頃、一緒に寝てたのはあなたかも知れないわ。でもねぇ?」
その指をしっかり自分に向けている。
「私は、貴志を産んだ女のなのよ!」
「!!?」
柚葉の顔が一瞬で青ざめる。 その様子を見た明子は満足そうに頷くと、声を落として囁きかけた。
「貴志を、最初に抱きしめたのは誰なのか? 一緒の布団で最初に寝たのは? 最初におっぱいをあげたのは? 最初に『大好き』って言ってもらったのは? それは全部——」
明子の瞳は妖しく光る。その視線に当てられたように、柚葉がその場に立ち竦む。
そこに追い討ちをかけるべく、言葉を紡いだ。
「この私なのよっっ!!」
母親の圧倒的な母性オーラに、柚葉は完全に気圧された。顔が蒼白になり、瞳が焦点を失う。全身からは冷や汗が流れ出し、呼吸さえままならなくなっていた。
もう何も言えず、ただただ立ち尽くすことしかできない状態になっていた。
「そ、それは……! でもっ……!!」
柚葉は乱れた精神を立て直そうとしているが、明子の猛攻撃は止まらない。
「それでねぇ、柚葉……?」
明子は、ニヤリと悪魔のような笑みを落とす。
「あなた、貴志のシャツを洗濯したことを自慢していたけど——。知ってる? 貴志の肌着を選んでるのは誰なのか?」
明子は指摘する。
「な……!」
柚葉の顔がみるみる青ざめる。
「そう、私よ。貴志の下着のサイズを一番理解しているの、彼の成長が一番近くで見ているの、この私!!!」
畳み掛ける様に言葉を放つ母の迫力を前にして、柚葉は愕然とした表情で固まるしかなかった。
自分こそが貴志と初めて寝ていたという事実は実は二番目だった。貴志がお姉ちゃんと同じ匂いがすると言っていたシャツも下着も全部、母親が選んだものだったという事実。
その言葉の力強さに押し切られるように、柚葉はふらふらと体が揺れる。よろめく体を何とか踏みとどめようと足を踏ん張ろうとするのだが、上手く力が入らない。そのまま崩れ落ちるようにして尻餅をつく。
頭上の頂きの高さが、勝者だと知っているにも関わらず、柚葉は自ら膝を折ってしまっていた。
「ぐぬぬぬ……!!!」
完全にペースを持っていられた柚葉は、悔しさのあまり拳を握る。
明子は勝って誇ったように微笑み、優雅に髪をかき上げた。
「ふふ……。どう? 母の愛の深さ、思い知ったかしら?」
その時、玄関に繋がる扉がガチャリと開く、音がした。
「ただいま」
と明子と柚葉の耳に聞こえてきたのは、間違いなく貴志のものであった。
「「貴志~。お帰り」」
明子と柚葉の行動は愛する息子、弟を玄関まで迎えに行こうとするものだった。
この時ばかりは二人のタイミングが完全に一致してしまったことで、お互いに存在を忘れてしまっていた。
玄関に着いた二人が見たのは、学生服の少年だ。
身長は平均よりもやや低めで童顔、顔立ちも整ってはいるが幼さが残り、髪型は前髪が長めの黒髪と、全体的に幼い印象を受ける少年だ。
どことなく幼子のような、あどけなさが残っており、庇護欲を誘う雰囲気を纏っている。
しかし、それでいて、どこか強い意志を感じさせる瞳を持っていた。
名前を遠藤貴志という。
貴志が玄関に靴を揃えて、振り返った瞬間、彼を中心に右に明子、左に柚葉が位置取りし、貴志は片腕を母と姉に抱きつかれた状態で挟まれることとなった。
「え? な、何??」
貴志は突然の事態に訳も分からず混乱する。
「聞いて貴志、そのババアが私のことを家から追い出そうとするの」
柚葉は目の端に涙を溜めつつ訴える。
「何よ、この小娘。人聞きが悪いわよ。行き遅れないように、早く雛人形を出してあげただけでしょうがぁ~!」
今度は明子が訴えてくる番だった。
一体全体どういうことなんだと困惑するしかない状況の中、貴志は二人のお互いを罵り合う《ババア》と《小娘》という単語に、二人が自分を巡って完全にスイッチが入っていることに気づいた。
「……はぁ」
貴志は大きな溜息をした。
そして、言った。
「お姉ちゃんも、お母さんも、俺が戻ってくるなりケンカしないでよ。ひな祭りって女の子の幸せと健やかな成長を願ってお祝いする日だよ。どうして僕を巡ってケンカするの? せっかく、みんなで食べようと思っていたのに……」
貴志は、少し悲しそうな表情をする。
その時、貴志の左に位置取りしていた柚葉は、貴志がお重の風呂敷包みを手にしていることに気づいた。
ほのかに甘い、春を感じさせる香りだ。
「貴志、それ何?」
明子が訊いた。
すると貴志は目尻を下げて笑う。
「桜餅だよ。学校の授業で作ったんだ。二人共甘いもの好きでしょ」
その言葉に、明子も柚葉も目を輝かせる。
「えっ、桜餅?」
と柚葉。
「貴志が作ったの?」
と明子。
「うん。僕が作ったの。みんなで食べようと思ってね」
それから3人は、雛人形を飾ってあるリビングで、お重の包みを開いていた。
桜餅が、ふんわりとした姿を現す。
透き通るような淡い桃色の餅生地は、光を受けてほのかに艶めき、しっとりと柔らかそうだ。その表面を包む桜の葉は、落ち着いた緑色を保ち、長く見える葉脈が繊細な美しさを醸し出している。
作りは、関西風とされるものだ。
「きれい」
「おいしそう」
思わず感嘆の声を漏らす2人に、貴志は箸を使って二個ずつ皿に取り、二人に差し出してくれた。
「どうぞ」
貴志に勧められ、明子と柚葉は桜餅を手にする。
一口かじると、もち米のつぶつぶとした食感と共に、甘酸っぱい餡の香りが口の中に広がった。中に詰まった、こしあんは滑らかで、口の中ほろりとほどけながら、上品な甘さを残してゆく。
噛むたびに桜の葉の香りがほんのり立ち上り、春の空気を口の中に運んでくれる。
甘さと塩気が絶妙に調和し、咀嚼するほどに甘さが増し、美味しさが増すような味わいである。和菓子ならではの奥深い旨さがあった。
また、ひとくち食べ進める度に舌触りの良いもち米から上品な風味が広がり、心が満たされていくのが分かった。
まだ桜は咲いていないが、柚葉も明子も目を閉じれば、満開の桜の下に居るかのような錯覚すら覚えたのだった。
「おいしい」
「本当」
柚葉の感想に、明子も同意した。まだまだ子供だと思っていたのに、いつの間にこんなに美味しいものを作れるようになったのだろうと思うと同時に、何だか感慨深くなってしまう。
思えば、貴志が生まれてきてから、色々なことがあった。
いつの間にか自分たちを追い抜かすくらい背が伸び、声も低くなった。気づけば中学生となり、今年の春からは地元の高校に通うことになっている。
時間が流れるということは早いものだなぁと感じた。
ふと気づくと、小さな男の子ではなく一人の人間として、少しずつ成長してきていることに気づかされる毎日でもある。
貴志も桜餅を口にして述べた。
「桜餅はね。春の訪れを告げる縁起物として親しまれているだけでなく、家族の健康や商売繁盛、幸せの象徴としても重宝されてきたんだって。……あれ?どうしたの二人とも急に黙って……」
貴志が、不安そうにこちらを伺う姿に、二人は顔を見合わせて笑った。
「ううん。何でもないのよ。ただ、貴志が成長したんだなって思っただけ。ね、柚葉」
明子の言葉に、柚葉は大きく頷く。
「そうね、お母さん」
その様子を不思議そうに見ていた貴志だったが、やがて微笑んだ。
どこか素直じゃない二人だったけど、今は和やかな空気が流れていた。
貴志はそれを見て、ホッと一息をつく。
窓の外では、まだ蕾のままの桜の枝が風に揺れていた。
桜餅の甘さが舌に残り韻を残して、穏やかな空気が流れる中、明子と柚葉はふっと力を抜き、肩をすくめて笑い合った。
貴志はそんな二人を見て、やっと心の底から安堵したように微笑んだ。
「ねぇ貴志。ひな祭りには、また桜餅が食べたいわ。作ってくれる?」
柚葉の問いかけに、貴志は笑顔で「うん」と答えた。
「その時は、お母さんとお姉ちゃんも一緒に作ろうよ」
明子と柚葉は顔を見合わせ、表情を和ませる。
窓の外では、春を待つわびる風がそっと吹き抜けていく。
まだ寒さの残る空気の中に、確かに、春の気配が感じられたていた。
ひな祭り戦争 kou @ms06fz0080
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