闇の奥の花

真花

闇の奥の花

 黒で丁寧に塗り潰したような闇の中、僕が座っているベンチだけがスポットライトみたいに照らされていた。いつから座っているのか分からない。一番新しい記憶は自室で破裂するように痛む胸を縋って押さえたことだ。その後にここに来たのだとしたら、僕は死んだのだろう。人間五十年と信長は言ったが、実際にそこで終わってみると短い。右も左も何があるのか、何もないのか分からない。どうしてベンチなのか、服装がお気に入りのシャツなのも、体の調子がいいのも、一切が理由が不明だ。

 ずっとここにいなくてはならないのか、暗闇に探索に出るべきなのか、それとも現世のようにバスか何かが迎えに来るのか。……面白い。一つ一つ試そう。まずは、クモのように待ってみる。何も巣にかからなければこっちから出向けばいい。のんきな昼休みのように頭の後ろで手を組んで背もたれに寄りかかる。

 五分か十分か、もしかしたらもっと長く待っていたら、右から足音が聞こえた。

 首をフクロウのように捻って音のする方を凝視する。足音が光に照らされて足になり、近付くにつれて幕を上げるように音の主が姿を現わす。全貌に息を呑む。

 僕はやはり死んだのだ。だが、これなら死んでもよかった。

らん

 僕の視界が、蘭を見詰めたいのに意地悪をするように滲む。蘭が僕の隣に座った。

「ずいぶん早かったね」

 間違いない、もう二度と聞けなかった蘭の声だ。僕は涙を消しゴムで消すように拳で拭う。

「君がいないと、ダメだ」

 蘭が、しょうがないね、と笑う。

「まだ、やることがあるでしょう?」

「僕はもう死んだ」

 蘭は首を振る。花を散らすみたいに。

「まだ戻れるよ。あっちに行くの」

 蘭は正面の闇を指差す。「あっち」に何があるのかまるで見えない。僕は指し示された闇を月を追う狼のように見て、それから、蘭を太陽を追うコンドルのように見た。

「ここで、蘭といる」

 蘭は僕の背中を叩く。衝撃が芯を揺らすように響いた。

「何言ってるの。どうせまた会えるんだから、ちゃんとやることやりなさい」

「でも」

 蘭は、まったく、もう、と腕を組んで風船のように膨れる。

「私はどこにも行かないから。生きてるときだってそうだったでしょう? 私はユウさんだけのもの。先に死んじゃったのはごめんだけど、ずっとそうやって生きて来たじゃない」

「でも」

 蘭は再び僕の背中を叩く。いつか喧嘩をしたときと同じ痛みだったが、少し暖かかった。

「ユウさんそのものが好きだけど、やりたいことをやっているユウさんも好きなんだよ」

 僕の胸がキュッと掴まれる。蘭はずっと僕がやりたいことに付き合ってくれた。僕の中を見れば、やりたさは永遠に消えない炎のように燃えている。それはきっと蘭も望んでいる。……死んでいる場合ではない。

「分かった。僕は戻る」

「うん」

 蘭が死んだとき、僕は側にいることが出来なかった。蘭には蘭の家族があったし、僕には僕の家族があったから。本当は蘭は僕に看取られるべきだった。最期に手を握るのは僕じゃなきゃいけなかった。持てる全てを捨ててでもそうしに行く覚悟が僕に足りないせいで蘭に砂漠のような最期を迎えさせてしまった。次に会ったなら絶対に謝ろうと思っていた。だが、ごめんねが喉の下で膨れ過ぎてバスケットボールのように支えて出て来ない。次に会えるのはきっと本当に死ぬときだからそれまで待てない。それなのに、言葉に出来ない。

 蘭は僕が立ち上がるのを待っている。僕は立たない。

「どうしたの? あまり長居すると帰れなくなるよ」

 僕は改めて蘭の顔を見る。いつも見ていた蘭だ。

「あのさ」

 僕は口からボールを出そうとする。だが出ない。汗ばかりが出る。

「何?」

 蘭は僕の口から不安の種が出て来ることに構えるような顔をする。違うんだ。僕はもう一度吐き出そうとして、出なくて、飲み込んだ。僕は何かを言わなければならない。もう一つの、蘭にずっと訊けなかった言葉が、ポン、と声になった。

「蘭は幸せだった?」

 蘭は水を浴びせられたみたいな顔をしてから、花が綻ぶように笑う。

「幸せに決まってるじゃない」

「あんな終わり方」

「バカね、最後だけで全部が決まる訳ないじゃない。独特の関係だったことも、それでも一緒の時間を過ごしたことも、何だって、ユウさんといたから、私は幸せだったし、今だって幸せだよ」

「そっか」

 僕の中のボールが溶けて消えた。僕も幸せだったと言おうとしたが、それも出せなかった。だが、蘭は満足そうに笑った。

「そろそろ本当に行かなくちゃ。ねえ、いつもみたいに……」

 僕は頷いて、蘭に口付ける。二回。一回は今日の終わりを、一回は明日の約束を。必ず別れるときにしていた。

「行くね」

「じゃあ、またね」

 僕は立ち上がり、蘭が指差した方に向かって歩く。振り返ると蘭がベンチの前に立って手を振っていた。三度目に振り返ったとき、蘭もベンチも消えて、闇だけが奈落のように広がっていた。


 病院らしきところに横にされていた。点滴や酸素が僕を束縛するように繋がっている。肉体は鉛のように重い。

 もうしばらくは生きよう。何よりもまず書きかけの小説を仕上げないと。

……蘭に怒られる。

 僕の口許が花が咲くように緩んだ。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

闇の奥の花 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ