三月三日 夜九時
ざぁざぁと水音がする。ぼんやり聞いているうちに意識が覚醒し、わたしは焦って飛び起き――ようとして失敗した。
熱はまだ下がっておらず、身体は重く頭も痛い。うつ伏せたスマートフォンをちょっと持ち上げて確かめれば、時刻は午後九時になろうとしていた。
水音の正体もわかっている。この部屋の本当の主、
わたしが高校生のときに家庭教師をしてくれたという、ただそれだけの縁だったけど、わたしには他に頼る相手がいなかった。
「起きてたのか。薬、まだ飲んでいないだろう。お
優しい声に聞き
「頭が動かなくて、ぼーっとしてました……」
「熱があるんだから仕方ない。でも、残念だったな。毎年、楽しみにしていたんだろう?」
その一言で母の言葉がよみがえり、途端、止まっていた涙がまたあふれ出した。悠さんがうろたえたようにわたしを見ている。
眼鏡の奥で目が大きく見開かれ、真面目そうな顔には困惑の色。ああ、ごめんなさい。悠さんのせいではないのに、これじゃ当てつけみたいだ。
「ちが、違うんです……! ほんとは、いきたくなくて、わたしっ……。でも、そんなつもりで、熱を出したかったわけじゃ、なくてっ」
「わかってる、ごめん。つらいときに、無神経なことを言ってしまった」
「そんな、ことない」
悠さんが差し出してくれた濡れタオルに顔を突っ込んで、わたしはもう少し泣いた。恥ずかしいことだけど、泣いているうちに少しずつ気持ちは落ち着いてきて、代わりにお粥はすっかり冷めてしまった。
悠さんは文句も言わずに温め直してくれているけど、ちゃんと食べ切れるかが不安で、視線はつい下に落ちてしまう。
「
「……?」
言われた意味がすぐにはわからなくて、変な顔をしたのかもしれない。悠さんは、悠さんにしては珍しい得意げな顔で、お皿を傾けて見せた。
なんの変哲もないお粥――ではなく、鮭フレークと三つ葉で彩られた三色お粥が。
「えっ、可愛い」
「そうだろう。まぁ、味は普通の鮭お粥だ」
「わたし、全部は食べられないかも」
心遣いが嬉しくて、申し訳なくて、心がきゅっとなる。居候をしている身で出されたものを残すなんて、失礼にも程があると思う。
悠さんは少し黙っていたけど、やがてわたしにお皿を手渡して、言った。
「がんばらず、美味しいと思える量だけ食べてみて。俺は次からその量に合わせて作るよ」
「……でも」
「たとえば鳥は飛ぶために体を軽くする必要があるから、食い溜めができず、日に何度も餌をさがす。うさぎは健康を保つために、栄養効率が低くても牧草を主食にする。千花さんだって、自分に合った食べ方を模索していいんじゃないか」
思いがけない――でも悠さんらしいたとえ話にびっくりして、夢の中のおばさん雀を思い出した。
悲しさと自己嫌悪で
「……うれしい。ありがとうございます」
「い、いや、よく考えたら例えが不適切だったかもしれない! とにかく、俺は、千花さんが美味しいと感じてくれたら十分報われるわけなので」
珍しく、悠さんが照れてる。つられて笑ったら、胸のつっかえも取れて心がふわっと軽くなった。
いただきます、と言葉にしてから口にした三色お粥は、春の味はしなかったけど優しく染み渡る美味しさだった。
やっぱり全部は食べられず半分以上を残してしまったけど、悠さんが何か偉業でも成し遂げたみたいに褒めてくれたので嬉しかったし、お薬もちゃんと飲むことができた。
明日には少しでも熱が下がって、少しでもまた美味しく朝ごはんを食べられますように。
ふと、投げ出しっぱなしだったスマートフォンが目にとまる。既読スルーのまま四時間以上も放置してしまい、今さら言い訳も何も思いつかない。
夢の中で見た割烹着のおばさん雀を思い出し、なんとなくスタンプをさがした。もふもふふっくらしたスズメが「ありがとう!」と言っているスタンプを選んで、言葉は添えずに送信し、既読は確認せずスマートフォンの電源を落とす。
母が何を思い、どんな返事をくれるのか、わからないけど。今日は、美味しくひな祭りを祝えた、そのうれしさだけを抱きしめて眠ろうと思う。
明日のことは誰にも、わからないのだから。
終
【KAC20251 ひなまつり】雀のお宿とひなまつり 羽鳥(眞城白歌) @Hatori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます