ひなの間の夜

くれは

ひなの間にて

 桃花とうかは雛人形が苦手だ。もっと言ってしまえば、怖い。

 白いのっぺりしたおもてに、黒い墨で引かれた目。普段アニメや動画で見ている華やかな女の子たちに比べると、まるで表情がわからない。だというのに、同じ部屋にいればこちらを見られているような、そんな気がする。気味が悪い。

 そして、怖い理由はそれだけじゃない。


「今日からひな祭りまではお雛様を飾るけどね、いいかい、夜はひなのに入っちゃいけないよ」


 祖母から毎年毎年、何度もそう言われていたせいもある。


「入るとどうなるの?」

「ばあちゃんもばあちゃんから聞いたんだよ、夜にお雛様を見たら良くないことが起こるって。ずっと昔にそういうことがあったって。だからうちでは、夜にお雛様を見ては駄目。わかったね」


 そう語るときの祖母の声音はいつだって妙に固く、子供を怖がらせてからかうにしては変に真剣な表情で、桃花は毎年おとなしく聞いていた。それで今年もやっぱりこくりと頷くと、飾られたばかりの立派な七段飾りの雛壇を見上げた。

 高い雛壇の一番上ではお雛様とお内裏様が、やっぱりのっぺりとした白いおもてで、じっと桃花を見下ろしていた。目が合った気がして、恐ろしくてすぐに目を逸らした。人形なのに、目が合うことなんてないはずなのに。

 桃花は開け放たれた障子戸から、庭を眺めた。樟脳のにおいの薄暗いひなのと違って、外は明るく日が差していた。外から入ってくる春にはまだ早い冷ややかな空気は、雛飾りのまとう雰囲気を吹き飛ばしてくれるようで、桃花はどこかほっとした。


 ──夜にひなのになんかこない。怖いもん。


 夜の暗い部屋で雛人形がどんな顔をしているかなんて、桃花は想像したくもなかった。






 その頃、桃花は小学生になるからという理由で、自分の部屋をもらった。これまでは父母と一緒の部屋で寝起きしていたが、ひとりの部屋で寝起きするようになった。

 ひとりで寝るのは少し寂しい気もしたが、自分の部屋があるのはなんだか少し大人になった気分だった。新しい学習机も買ってもらって、ランドセルはたくさんの色からラベンダー色を選んだ。

 だから、ひなのに立派な雛人形を飾ってからしばらく経ったひな祭りの前日も、桃花はひとりで寝ていた。寝支度はまだ少し、母に手伝ってもらっていたけれど。

 ひとりきり、夜中にふと目が覚めてしまった。誰かが桃花の名を呼んでいる。自分を呼ぶ声に、桃花は目を開いた。

 豆電球の明かりが灯る中、誰が自分を呼んでいるのかと不思議に思い、桃花は体を起こした。声は途切れ途切れに小さく、でもはっきりと聞こえた。


「桃花、一緒に遊ぼう」


 ──こんな夜に?


 思い出したのは、祖母の声。夜にひなのに行ってはいけない、という言葉。


 ──きっとお雛様だ。お雛様に呼ばれてる。


 そう思うと、昼間に見た雛人形の顔が思い浮かび、桃花は布団をたぐり寄せた。そしてそのまま枕に顔を伏せて、布団を頭まで被る。桃花を呼ぶ声は、それでもまだしばらく聞こえていた。


「ねえ、遊ぼうよ、桃花」


 そうやってどのくらい震えていただろう。遊ぼう、と呼ぶ声の合間に、くすくすと笑うような声も聞こえた。息を殺して、布団の中でじっと縮こまって、そうしているうちにふと、声はやんだ。

 それでも桃花は怖くて、しばらく布団から顔を出すことができなかった。それでいつの間にか寝てしまったらしい。

 朝起きれば、カーテンの向こうは明るい。まるで夜なんてなかったみたいな日差しだった。それでも桃花の耳には、自分を呼ぶあの声が、くすくすと笑う声が、はっきりとこびりついていた。






 次の日のひな祭りには、桃花は祖母と母と一緒にひなので甘酒を飲んだ。雛人形に見つめられて飲む甘酒はどろりと重い。べたべたと甘くてちっとも美味しくない、と桃花は思う。

 桃花の耳にはまだ夜の呼び声がまとわりついていて、怖くて視線をあげることもできなかった。目が合ってしまったら、またあの声が聞こえるかもしれない。

 そして雛人形は片付けられた。樟脳とともに箱に入れられ、押入れの奥にしまわれて、桃花はようやく逃げることができたと思って、ほっとしたのだった。

 少なくとも、来年のひな祭りの時期までは。






 そして翌年も、豪華な雛人形は飾られた。相変わらず雛人形は怖かった。飾られた雛壇を見上げると、やっぱり雛人形たちは表情のわからないのっぺりとした白いおもてで、桃花を見つめてくる。

 薄暗いひなのには樟脳のにおいが満ちていて、息苦しいくらいだった。そして鼻にまとわりつくようなそのにおいは、桃花にあの呼び声を思い出させた。遊ぼう、と桃花を呼ぶ声。

 ざわり、と背中を撫でられたように感じて、桃花は雛人形から視線を逸らした。

 そして祖母はまた今年も言う。


「夜にひなのに入っちゃいけないよ、良いね」

「入らない。絶対入らない」


 桃花は強く言い切った。こんな恐ろしい場所、昼間だっていたくなかった。






 だというのに、ひな祭りの前の夜中、桃花はまた目を覚ましてしまった。豆電球だけが灯る天井を見上げる桃花の耳に、またあの声が聞こえる。


「桃花、遊ぼう」


 去年と同じように、声は桃花を呼んでいる。桃花は布団を握りしめて体を固くした。くすくすと笑い声も聞こえてくる。

 桃花は布団を被る。


「一緒に遊ぼうよ。ねえ、桃花」


 布団の中で桃花は震えているというのに、声は楽しげに、桃花を誘う。そのちぐはぐさが、桃花には余計に怖く思えた。


 ──どこかに行って! はやく! いなくなって!


 桃花は涙の滲む目をぎゅっと閉じた。そんな桃花を追いかけてくるように、声はまだ聞こえてくる。

 そうしているうちに、声はぱたりとやんだ。諦めてくれたのなら良い。桃花はほっとして、眠りに落ちた。

 ひな祭りの甘酒はやっぱりべたべたと甘く、美味しくなかった。はやく雛人形を片付けてしまいたくて、桃花は無理矢理飲み込んだ。






 桃花は小学二年生になった。もうじき三年生になるという頃、雛人形はまた飾られた。

 相変わらずののっぺりした白いおもてが、桃花はやっぱり苦手だった。それでも、雛人形が怖いだなんて、なんだか子供っぽい気がして、桃花は強がった。


 ──こんなの、ただの人形。怖くなんかない。


 心の奥底にある恐怖心を押さえ込んで、桃花は雛壇を見上げる。お雛様もお内裏様もそんな桃花をじっと見下ろしていたが、桃花は唇を曲げて堪えた。

 飾り付けを終えた祖母は、いつものように桃花に言って聞かせる。


「夜はひなのに入っちゃいけないよ、わかったね」

「わかってる。平気だもん」


 毎年のように桃花は頷いた。でも、正直少しうんざりもしていた。

 そもそも雛人形が怖くて仕方なくなったのは、祖母のこの言いつけのせいなのだ。こんな怖い話で脅かされなかったら、桃花はこんなに雛人形に怯えずに済んだかもしれない。

 部屋いっぱいの樟脳のにおいの中で、桃花は夜中に自分を呼ぶ声を思い出す。あの声だって、怖がった桃花がそんな夢を見ただけかもしれない。


 ──だから、大丈夫。怖くなんかない。怖くない。


 それでも、何を考えているかわからない雛人形の顔は、やっぱり桃花をじっと見ているように感じられた。気持ち悪くて桃花はそっと俯いた。

 開け放たれた障子戸から外の光は差し込んでこない。薄暗いひなのは、外の明るさから切り離されてしまっているようだった。






 きっとあの声は怖がる自分が見た夢だったのだ。そう思っていた桃花だったけれど、ひな祭りの前の晩、今年もまた夜中に目を覚ましてしまった。

 天井の小さな豆電球の明かりが目に入って、桃花はまだ夜中だと気づいてぞっとする。


 ──ううん、これも夢だ。きっと、夢。だから大丈夫、怖くない。


 そう自分に言い聞かせたとき、その声はまた聞こえてきた。


「桃花、遊ぼう」


 今までと同じだ。どこからか桃花を呼ぶ声。桃花は唇を噛んで、思い切って体を起こした。くすくすと笑い声が聞こえる。

 桃花はそっと布団から抜け出すと、静かに戸を開けて自分の部屋を出た。廊下は暗く、ほんの少し先も真っ暗で、昼間とはまったく違って見えた。


「ねえ、遊ぼうよ、桃花、待ってるよ」


 声はまだ聞こえている。桃花は少しだけ迷ってから、廊下を歩き出した。声のする方へと。

 足先に感じるのは廊下の冷たさ。しん、と静まった廊下に桃花の小さな足音が響く。父母が気づいて止めてくれるかもしれない、と小さく期待したが、誰も起きてくる気配はない。桃花は暗い廊下の中でひとりきりだった。

 くすくす笑う声が徐々に大きくなってくる。まるでまとわりつくように。それに導かれるように進んだ先は、予想していた通りにひなのだった。


「桃花、待ってたよ、おいで。一緒に遊ぼう」


 障子戸の向こうから、桃花を誘う声が聞こえる。空気の冷たさに桃花は少し震え、それでもその手を障子戸にかけてしまった。

 静かに、ゆっくりと障子戸を開く。暗い部屋の中で、雛飾りのぼんぼりがほんのりと明かりを灯していた。ゆらりと、影が揺れる。


「桃花」


 名前を呼ばれて、桃花は雛壇を見上げた。そして、見てしまった。一番高いところに飾られた雛人形の、その表情のない白いおもてを。目が合ってしまった。


「これであなたの番ね」


 くすくす、と笑い声が響く。桃花の視界がぐにゃりとねじれた。体が何かに引っ張られるような感覚。意識はそこで途切れてしまった。






 桃花はふと目を覚ました。薄暗い部屋。自分の部屋じゃない。どこだろう、そう思って違和感に気づく。体が動かない。視界もおかしい。

 視線をさまよわせて、どうやらひなのらしい、と気づいたところで障子戸が開いた。入ってきたのは祖母と母とそして──桃花自身だった。

 三人はひなのに座って、甘酒を飲む。いつものひな祭りだ。桃花は呆然と、甘酒を飲む自分を見下ろしていた。視線は動くのに、まぶたを閉じることはできなかった。手も足も、何も動かない。

 甘酒をこくりと飲んだ桃花は、見下ろす桃花の視線に気づいたように見上げてきた。そうして、うっすらと笑みを浮かべる。それで桃花はようやく、自分が雛人形になっていると気づいた。


 ──お母さん、おばあちゃん、助けて! わたしはここ!


 どれだけ呼びかけても、声は出ない。届かない。祖母も母も、桃花ではない桃花に疑いを持っていないようだった。


「わたし、ひな祭りって大好き。とっても、とっても楽しい」


 桃花が──偽物の桃花が言う。その後には、あのくすくすという笑い声をあげる。そんな偽物の桃花に、祖母はいつものように言って聞かせる。


「お雛様は今日で片付けるけど、夜の間に見たりしたら……」

「知ってる。夜にひなのに入っちゃ駄目、でしょう」

「わかってるなら良いけどね。夜に雛人形を見ると、良くないことが起こるんだよ」

「うん、わかってるよ、大丈夫。わたしはそんなことしない」


 そうして偽物の桃花は、またくすくすと笑った。雛壇に座る桃花の方を、ちらりと見上げながら。

 それで桃花は、もう二度と戻れないのだと思い知った。




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