ひなの間の夜
くれは
ひなの間にて
白いのっぺりした
そして、怖い理由はそれだけじゃない。
「今日からひな祭りまではお雛様を飾るけどね、いいかい、夜はひなの
祖母から毎年毎年、何度もそう言われていたせいもある。
「入るとどうなるの?」
「ばあちゃんもばあちゃんから聞いたんだよ、夜にお雛様を見たら良くないことが起こるって。ずっと昔にそういうことがあったって。だからうちでは、夜にお雛様を見ては駄目。わかったね」
そう語るときの祖母の声音はいつだって妙に固く、子供を怖がらせてからかうにしては変に真剣な表情で、桃花は毎年おとなしく聞いていた。それで今年もやっぱりこくりと頷くと、飾られたばかりの立派な七段飾りの雛壇を見上げた。
高い雛壇の一番上ではお雛様とお内裏様が、やっぱりのっぺりとした白い
桃花は開け放たれた障子戸から、庭を眺めた。樟脳のにおいの薄暗いひなの
──夜にひなの
夜の暗い部屋で雛人形がどんな顔をしているかなんて、桃花は想像したくもなかった。
その頃、桃花は小学生になるからという理由で、自分の部屋をもらった。これまでは父母と一緒の部屋で寝起きしていたが、ひとりの部屋で寝起きするようになった。
ひとりで寝るのは少し寂しい気もしたが、自分の部屋があるのはなんだか少し大人になった気分だった。新しい学習机も買ってもらって、ランドセルはたくさんの色からラベンダー色を選んだ。
だから、ひなの
ひとりきり、夜中にふと目が覚めてしまった。誰かが桃花の名を呼んでいる。自分を呼ぶ声に、桃花は目を開いた。
豆電球の明かりが灯る中、誰が自分を呼んでいるのかと不思議に思い、桃花は体を起こした。声は途切れ途切れに小さく、でもはっきりと聞こえた。
「桃花、一緒に遊ぼう」
──こんな夜に?
思い出したのは、祖母の声。夜にひなの
──きっとお雛様だ。お雛様に呼ばれてる。
そう思うと、昼間に見た雛人形の顔が思い浮かび、桃花は布団をたぐり寄せた。そしてそのまま枕に顔を伏せて、布団を頭まで被る。桃花を呼ぶ声は、それでもまだしばらく聞こえていた。
「ねえ、遊ぼうよ、桃花」
そうやってどのくらい震えていただろう。遊ぼう、と呼ぶ声の合間に、くすくすと笑うような声も聞こえた。息を殺して、布団の中でじっと縮こまって、そうしているうちにふと、声はやんだ。
それでも桃花は怖くて、しばらく布団から顔を出すことができなかった。それでいつの間にか寝てしまったらしい。
朝起きれば、カーテンの向こうは明るい。まるで夜なんてなかったみたいな日差しだった。それでも桃花の耳には、自分を呼ぶあの声が、くすくすと笑う声が、はっきりとこびりついていた。
次の日のひな祭りには、桃花は祖母と母と一緒にひなの
桃花の耳にはまだ夜の呼び声がまとわりついていて、怖くて視線をあげることもできなかった。目が合ってしまったら、またあの声が聞こえるかもしれない。
そして雛人形は片付けられた。樟脳とともに箱に入れられ、押入れの奥にしまわれて、桃花はようやく逃げることができたと思って、ほっとしたのだった。
少なくとも、来年のひな祭りの時期までは。
そして翌年も、豪華な雛人形は飾られた。相変わらず雛人形は怖かった。飾られた雛壇を見上げると、やっぱり雛人形たちは表情のわからないのっぺりとした白い
薄暗いひなの
ざわり、と背中を撫でられたように感じて、桃花は雛人形から視線を逸らした。
そして祖母はまた今年も言う。
「夜にひなの
「入らない。絶対入らない」
桃花は強く言い切った。こんな恐ろしい場所、昼間だっていたくなかった。
だというのに、ひな祭りの前の夜中、桃花はまた目を覚ましてしまった。豆電球だけが灯る天井を見上げる桃花の耳に、またあの声が聞こえる。
「桃花、遊ぼう」
去年と同じように、声は桃花を呼んでいる。桃花は布団を握りしめて体を固くした。くすくすと笑い声も聞こえてくる。
桃花は布団を被る。
「一緒に遊ぼうよ。ねえ、桃花」
布団の中で桃花は震えているというのに、声は楽しげに、桃花を誘う。そのちぐはぐさが、桃花には余計に怖く思えた。
──どこかに行って! はやく! いなくなって!
桃花は涙の滲む目をぎゅっと閉じた。そんな桃花を追いかけてくるように、声はまだ聞こえてくる。
そうしているうちに、声はぱたりとやんだ。諦めてくれたのなら良い。桃花はほっとして、眠りに落ちた。
ひな祭りの甘酒はやっぱりべたべたと甘く、美味しくなかった。はやく雛人形を片付けてしまいたくて、桃花は無理矢理飲み込んだ。
桃花は小学二年生になった。もうじき三年生になるという頃、雛人形はまた飾られた。
相変わらずののっぺりした白い
──こんなの、ただの人形。怖くなんかない。
心の奥底にある恐怖心を押さえ込んで、桃花は雛壇を見上げる。お雛様もお内裏様もそんな桃花をじっと見下ろしていたが、桃花は唇を曲げて堪えた。
飾り付けを終えた祖母は、いつものように桃花に言って聞かせる。
「夜はひなの
「わかってる。平気だもん」
毎年のように桃花は頷いた。でも、正直少しうんざりもしていた。
そもそも雛人形が怖くて仕方なくなったのは、祖母のこの言いつけのせいなのだ。こんな怖い話で脅かされなかったら、桃花はこんなに雛人形に怯えずに済んだかもしれない。
部屋いっぱいの樟脳のにおいの中で、桃花は夜中に自分を呼ぶ声を思い出す。あの声だって、怖がった桃花がそんな夢を見ただけかもしれない。
──だから、大丈夫。怖くなんかない。怖くない。
それでも、何を考えているかわからない雛人形の顔は、やっぱり桃花をじっと見ているように感じられた。気持ち悪くて桃花はそっと俯いた。
開け放たれた障子戸から外の光は差し込んでこない。薄暗いひなの
きっとあの声は怖がる自分が見た夢だったのだ。そう思っていた桃花だったけれど、ひな祭りの前の晩、今年もまた夜中に目を覚ましてしまった。
天井の小さな豆電球の明かりが目に入って、桃花はまだ夜中だと気づいてぞっとする。
──ううん、これも夢だ。きっと、夢。だから大丈夫、怖くない。
そう自分に言い聞かせたとき、その声はまた聞こえてきた。
「桃花、遊ぼう」
今までと同じだ。どこからか桃花を呼ぶ声。桃花は唇を噛んで、思い切って体を起こした。くすくすと笑い声が聞こえる。
桃花はそっと布団から抜け出すと、静かに戸を開けて自分の部屋を出た。廊下は暗く、ほんの少し先も真っ暗で、昼間とはまったく違って見えた。
「ねえ、遊ぼうよ、桃花、待ってるよ」
声はまだ聞こえている。桃花は少しだけ迷ってから、廊下を歩き出した。声のする方へと。
足先に感じるのは廊下の冷たさ。しん、と静まった廊下に桃花の小さな足音が響く。父母が気づいて止めてくれるかもしれない、と小さく期待したが、誰も起きてくる気配はない。桃花は暗い廊下の中でひとりきりだった。
くすくす笑う声が徐々に大きくなってくる。まるでまとわりつくように。それに導かれるように進んだ先は、予想していた通りにひなの
「桃花、待ってたよ、おいで。一緒に遊ぼう」
障子戸の向こうから、桃花を誘う声が聞こえる。空気の冷たさに桃花は少し震え、それでもその手を障子戸にかけてしまった。
静かに、ゆっくりと障子戸を開く。暗い部屋の中で、雛飾りのぼんぼりがほんのりと明かりを灯していた。ゆらりと、影が揺れる。
「桃花」
名前を呼ばれて、桃花は雛壇を見上げた。そして、見てしまった。一番高いところに飾られた雛人形の、その表情のない白い
「これであなたの番ね」
くすくす、と笑い声が響く。桃花の視界がぐにゃりとねじれた。体が何かに引っ張られるような感覚。意識はそこで途切れてしまった。
桃花はふと目を覚ました。薄暗い部屋。自分の部屋じゃない。どこだろう、そう思って違和感に気づく。体が動かない。視界もおかしい。
視線をさまよわせて、どうやらひなの
三人はひなの
甘酒をこくりと飲んだ桃花は、見下ろす桃花の視線に気づいたように見上げてきた。そうして、うっすらと笑みを浮かべる。それで桃花はようやく、自分が雛人形になっていると気づいた。
──お母さん、おばあちゃん、助けて! わたしはここ!
どれだけ呼びかけても、声は出ない。届かない。祖母も母も、桃花ではない桃花に疑いを持っていないようだった。
「わたし、ひな祭りって大好き。とっても、とっても楽しい」
桃花が──偽物の桃花が言う。その後には、あのくすくすという笑い声をあげる。そんな偽物の桃花に、祖母はいつものように言って聞かせる。
「お雛様は今日で片付けるけど、夜の間に見たりしたら……」
「知ってる。夜にひなの
「わかってるなら良いけどね。夜に雛人形を見ると、良くないことが起こるんだよ」
「うん、わかってるよ、大丈夫。わたしはそんなことしない」
そうして偽物の桃花は、またくすくすと笑った。雛壇に座る桃花の方を、ちらりと見上げながら。
それで桃花は、もう二度と戻れないのだと思い知った。
ひなの間の夜 くれは @kurehaa
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