第3話
フランク・ロイド・ライトのフロアライトの柔らかな灯とジャズの調べ、棚にびっしりと並べられたお酒の瓶が心地よい店内。
美しく磨きあげられたカウンターにつくと、「お酒、飲める?」と矢嶋マネージャーは東子にきいた。
「はい、飲めます」
「苦手なお酒は?」
「特には」
何でも飲めるのは、東子の隠れた特技だ。
「そう。良かった。本間さん、今日は一時間もしないで出るから、一杯だけにします。ということで、あれを作ってもらえる?」
矢嶋マネージャーがオーダーすると、本間さんと呼ばれたバーテンダーさんは、
「かしこまりました」
と答え、ぽってりとした大きさのブランデーグラスを二つ、バーカウンターに並べた。そして「これは桃です」と、取り出したタッパーからスプーンにたっぷり、ピューレ状になった桃をすくい、グラスに入れた。そこにゆっくりとシャンパーニュを注ぎ、そっと混ぜる。
「ベリーニですか」
何度か飲んだことがある。桃とシャンパーニュを使った有名なカクテルだ。東子が飲んだことのあるものは、ピューレじゃなくて桃のジュースを割っていたけれど。
「まだ。続きがあるの」
矢嶋マネージャーが言い、本間さんは笑った。そしてまたタッパーを取り出すと、今度は「アイスクリームです」と、バニラアイスの大きなスクープをすくい、ころりとベリーニに載せた。そしてきれいな所作ですっと、ブランデーグラスを矢嶋マネージャーと東子の前に置き、パフェスプーンを添える。
「わあ」
東子は声を出した。とてもおいしそうだ。ごく薄い黄色にシャンパーニュの泡、白いアイスが美しい。
「桃とシャンパーニュのパフェです。毎年ひなまつりに女性のお客様にだけ、お出ししています」
「あ」
そういえば。
「その顔は、忘れてた?」
「――はい」
おかしなものだ。毎朝保育園に飾ってあるお雛様を見ていたというのに、今日がその日だということがすっかり頭から抜け落ちていた。
「それほど、イヤイヤ期のストレスが大きかったのかもね」
矢嶋マネージャーに指摘され、東子は頷いた。激しさを増す耀のイヤイヤに、毎日が戦場のようだった。
「食べましょ」
促され、ベリーニがアイスに沁みたところをすくって口に入れる。
「――すごく、おいしい」
桃とシャンパーニュとアイスクリーム、すべてのおいしさが混然一体となっている。絶妙なバランスだ。
「でしょ。私甘いものってほとんど食べないんだけど、これだけは別」
それから二人は黙々とスプーンを動かし、やがてパフェがなくなる頃。
「育児のことは私にはわからないけれど、仕事に関しては、藤野さんはもう少し手を抜くことを覚えた方がいいかもね」
「ええっ!? 手を抜く?」
矢嶋マネージャーがおかしなことを言うので、東子は勢いよく聞き返してしまった。少し酔ったせいもあったかもしれない。
「……ちょっと言い方が悪かった。手を抜くというか――職場に休みに来る日があってもいいんじゃないか、って私は思うの」
ますます意味不明だ。
「つまり、今日みたいに家で大変なことがあった日や、疲れが溜まっている時は、職場では休憩を多めにとるとか、注意が必要な仕事じゃなくて単純業務を増やすとかする、ということ」
「で、早退したり」
東子が付け足すと、矢嶋マネージャーは笑った。
「そう。根を詰めすぎると、結局うまくいかないでしょう。だから、上手に休むのも仕事のうちだと私は思う」
へえ、と東子は思った。会社に休みに行くだなんて考えたこともなかったし、いつもキリキリしている矢嶋マネージャーがそんなふうに考えているだなんて、思ってもみなかった。
矢嶋マネージャーとひなまつりにパフェを食べてから十年がたった今でも、東子は時折「職場に休みに来る日があってもいい」という言葉を思い出す。耀のイヤイヤ期や不登校を乗り越えてこられたのは、少なからずあの言葉のおかげでもある。
矢嶋マネージャーはその後、ヘッドハンティングされて会社を去ってしまったが、あのバーはお気に入りで、たまに丸の内から遠征してくる。というわけで、ひな祭りの日はもちろん、その他の日にも、都合が付けば二人で一緒に飲むのが東子の楽しみになっている。
(了)
ひなまつり オレンジ11 @orange11
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます