第2話
だが仕事で矢嶋マネージャーに手がかからなくなるのと入れ替わりに、今度は息子の耀のお世話が大変になった。間もなく二歳、イヤイヤ期が始まったのだ。
もとから、周りの子どもたちと比べて少し育てづらいんじゃないか、という気持ちはあった。登園時にベビーカーに乗りたがらず癇癪を起こしたり、離乳食のえり好みが激しかったり。
それが一層激しくなり、朝起こすのも、ご飯を食べさせるのも、保育園に連れて行くのも、まるで戦争のような有様になってしまった。夫の助けを借りられれば良いのだが、彼は六時に家を出てしまう(その代わり、お迎えは担当してくれている)。
壮絶なイヤイヤ期は一年近く続き、東子は疲れ果て、三月のある日の午後、(それにしても今朝のはひどかったな……)と、ぼんやりトイレで鏡を見ていた。
すると不意に、「藤野さん、大丈夫? 最近、やつれてない? 業務、忙しいの?」とトイレに入って来た矢嶋マネージャーに声をかけられた。
「え……」
東子は驚いてしまった。矢嶋マネージャーに出会って約二年、労りの言葉はかけられたことがないし、何よりその声には、本当に東子を気遣うような響きがあったのだ。
矢嶋マネージャーは、東子が驚いていることには気づかない様子で続ける。
「業務のことなら相談に乗るけど」
「いえ、大丈夫です」
「お子さん?」
「え?」
「今二歳だっけ、もしかしてイヤイヤ期?」
「――はい。もう少しで三歳なんですけど、イヤイヤ期、一年近く続いていて」
「あら大変ね。私は結婚していないし子供もいないけど、甥っ子が何にでも『嫌だ嫌だ』って言ってたの、覚えてる。まるで暴君だった」
暴君、という言葉に思わず笑ってしまう。
「ほんとですね。暴君。今朝は特にひどくて」
「何があったの?」
「納豆ご飯を出したら、お茶碗に手を突っ込んでかきまわして、叱ったら、お茶碗ごと壁に投げつけ……」
今朝の光景がフラッシュバックした。いくら愛しい息子でも、あれはひどすぎだ。壁にねっとりぐちゃぐちゃとこびりついた納豆と白米を思いだし、あろうことか、東子の声は少し掠れてしまった。
「――それは、メンタル削られるね。片付けてから出勤したの?」
「はい」
「よく定時に間に合ったね」
「ええ、何とか」
少しでも遅刻したら注意されると思って保育園から駅まで猛ダッシュした。
「そういう時は、遅れていいから」
「はい?」
だが予想外の言葉に、思わず声が裏返る。
「だから、遅れていいからって。この会社ではサブマネージャー以上は管理監督者だから勤務時間に裁量があるの、知ってるでしょ。一応時間管理のためにタイムカードは押しているけど、業務上問題がなければ出退勤の時間、前後していいから」
そういえば、昇進時にそんな話を聞いたっけ。周囲には、早朝出勤と残業こそすれ遅出・早退をする管理職がいなかったので、すっかり忘れていた。それに。
「でも矢嶋さん、いつも始業三十分前に来て残業も多いって」
香苗が言っていた。
「まあね。仕事が沢山あるから。でも落ち着いている時には一、二時間早く退社するときもある――ちょうど今日、そうするけど。藤野さんも早退したら? 業務落ち着いてるんだったら」
「……そうしてみようかな……」
至急の業務はないし、パートさんもいるから、問題ないだろう。何より直属の上司も早退というのが心強い。
思わず空いた一時間、久しぶりに一人でお茶でもして帰れば、気分が上向くかも――東子は思考を巡らせたのだが。
「じゃ、決まりね。四時に一階のロビーで待ち合わせましょう。後でね」
そう言い残し、矢嶋マネージャーは颯爽と出て行ってしまった。
まさかの、お誘い?
どうしよう。
緊張しながら迎えた午後四時。
ロビーに降りると、そこにはもう矢嶋マネージャーがいて、東子が「遅れてすみません!」と駆け寄ると、「いいのよ仕事じゃないんだから」と言い、カツカツと先に立って歩きだした。
会社前の広い道路を渡り、千代田区から赤坂へ。繁華街の入りくんだ路地を進み、着いたのは、隠れるようにして佇む細い七階建ての雑居ビル。四人も乗れば満員になってしまう小さなエレベーターに乗ると、矢嶋マネージャーは「4」を押した。
気まずい少しの沈黙の後、チン、と控えめなベルの音が鳴り、エレベーターのドアが開く。
矢嶋マネージャーの後について降りると、「いらっしゃいませ」と、壁の影から現れたのは、ワイシャツにネクタイとベスト、ソムリエエプロンを身につけた男性で、彼は「いらっしゃいませ、矢嶋様、お連れ様」と感じよく微笑んだ。
(続く)
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