燻る梅
あげあげぱん
第1話
私が小さい頃、毎年三月には家の大部屋に雛人形が飾ってあった。畳張りの和室には雛人形が似合っていた。当時の私は、毎年その季節を心待ちにしていた。今ではもう、私は大学生になり、私のために雛人形が飾られることはない。それを少し、寂しく感じる。
大学に入ってから、二年間実家には帰っていなかった。両親には悪いと思いながらも、なにかと都合が合わなかったのだ。そんな私が実家へ帰ることを決意したのは、母が子どもを生んだと聞いたからだ。私からすれば妹ということになるが、なにか妙に思えた。
母は私を三十歳の頃に生んだ。その時、父は四十歳を越えていた。私の妹の、五十歳の母と六十を越える父。かなりの高齢出産だと思う。世界に例が無いわけではないけど、かなり珍しい事例に思える。それだけに現実感というものが無かった。母が私の妹を生んだという知らせは奇妙な物語のように感じられたのだ。
実家へ帰った私を両親は優しく出迎えてくれた。ただ、おそろしく奇妙な光景がそこにはあった。母が抱く、おくるみからは、太い根っこのようなものが覗いていた。それが人間でないことだけはすぐに分かった。そもそも、生き物ですらない。一年ぶりに会った両親は、おかしな人たちになっていた。
私は、ひとまず両親に話を合わせながら家に上がった。母が「あの頃のように、大部屋にお雛様を飾っているのよ」と言って「もし良ければ見てきたら」と私に勧めてきた。その提案は、一度頭を整理したいと考えていた私にはありがたかった。ほんの少しで良いから、一人でこの状況について考えたかったのだ。
大部屋には、雛人形らしきものが飾ってあった。らしきもの、と思ったのは、それらが日本人形の服を着せられた根っこだったからだ。かつて幼い私が見ていた人形たちとは違う、奇妙な人形……本当に?
私の記憶の中の人形は、どのような姿をしていた? それらは、木の根ではなかったか? 私の古い記憶が鮮明になっていく。が、それは本当に私の記憶なのか? 私の記憶の中の人形も、木の根に服を着せられたものではなかったか?
何か、思い出してはいけない恐ろしい記憶が甦る気がした。うろたえて、たたらを踏んだ。体を支えようと部屋の柱に触れて、その時あまりに気が動転していたからか指先を擦ってしまった。指先を見ると、そこから流れる血は、やけに茶色っぽくて粘着性があった。
いや、血ではない。これは……樹液だ。人間の指先から樹液など流れるはずがない。なら、これはなんだ……私は……何者なのだ? ずっと人間だと疑ってこなかった私という存在は、もしかすると。
その考えを私は認めたくなかった。両親が引き留めるのも無視して、逃げるように実家を後にした。
今、私は駅のトイレにある鏡の前で自分の姿を眺めている。どこからどう見ても、人間だ。指先には樹液らしきものが付着している。さっき指先から流れているように見えたものは何かの見間違いだったかもしれない。きっとそうだ。心を落ち着けなければ。
駅のトイレには誰も居ない。どうせ田舎の小さな駅だ。私は、最近吸い始めた煙草に火をつける。息を吸い、ゆっくり吐くと、辺りに煙が漂う。
煙からは梅の木の匂いがした。それは懐かしくて心の落ち着く香りだった。
燻る梅 あげあげぱん @ageage2023
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