あなたが理性を消し去る。

@kuon5711

第1話

吸血鬼。伝記、伝承で継がれ続けるその存在は、人間に勝る存在でありながら、一部は人間の世界に適応していた。それは、吸血鬼の番となる存在が、吸血鬼の族に留まらなくなったからだ。神のいたずらか、それは、獲物である人間の中に存在している。




九条楓は、人間の世界に馴染み、何度目かの高校生活を送っていた。

今後、自分のいる学校に真祖の末裔が入学すると愛華から聞いていたが九条楓にとって生活に変化はなかった。しかしそれとは関係なく、何故か今日は起き抜けからどこか落ち着かず、何が違うのか探してみても見当たりもせず思い当たりもなかった。



気のせいかなぁ。なんだろ、



普段通り過ごそうと頭を切り替えて、制服に袖を通しリュックを背負う。いつもの時間に家を出ていつもの道を歩いた。気づくとすでに学校前で、なのにいつも見る顔ぶれがなかった。楓はスマホを取り出して時間を確認する。普段より時刻が早い。だいぶ早く歩いていたことが分かった。

しょうがない、と学校の門を過ぎる。体の奥がずくん、と疼いた。その感覚は馴染みがあったため、さほど戸惑いはなかったが、疑問が浮かぶ。



「……枯渇、?かなぁ。まだそんなんじゃないと思うんだけど……」



枯渇は、人間でいう空腹のようなものだ。しかし、これは吸血鬼によっては自我を失い、人間を襲ってしまう。うまく付き合わなければならない。九条楓の吸血行為は、標準的とは言いがたかったが、自制が強い方だった。一定の条件や期間を自ら決めていることで、人間との生活の均衡を測る生活を送っていた。



「おはよ、九条。何してんの」



後ろから声を掛けられて振り向くと、馴染みの顔があった。

峰山愛華。真祖の側近であり、吸血鬼の管理を担っている。


「あ、愛華。なんだか体がドクドクしててさ。なんだろーって」


「ふぅん。…九条のことはそんな注意されてないけど、気をつけなよ。変なことする前に離れてね」



楓の言葉に、愛華は何かを思い出すようにしたが、特別なことは言われなかったため、楓は少し安心した。



「うん」


「……まぁ、なつもいるし。必要とされないとしょげちゃうからさ、その時は呼んでやって」



愛華は複雑そうに言葉を漏らす。それに、楓は笑顔を見せた。愛華は、楠本なつを大事にしている。昔からの友人だが、それだけはずっと伝わってきていた。そんな楠本なつという存在は、同じ吸血鬼であり愛華とともに真祖の側近である。治癒と記憶操作の能力があり、その立ち位置にいる。事実、楓はその能力に何度も助けられてきた。



「大丈夫だよー」



じゃあまた、と楓は手を振ったが、愛華は素っ気なく背を向けて歩き出してしまった。

教室に入り、自分の席に座る。ガヤガヤする教室はいつも通りだった。そうじゃないのは、自分だけ。学校に着いた瞬間の疼きから、楓の脳裏には数回にわたり周囲の人を襲ってしまいそうな感覚が過ぎていた。幸い、自制の強い楓はその行動には至らないが、これは明らかに普段と違う。気のせいなんかではなかった。朝のホームルームは五分前に迫っていたが、あまりの違和感に楓は席を立つ。普段ニコニコと会話に入ってくる楓と違うことに気づいたクラスメイトが声を掛けた。



「九条さん、どうしたの?」


「え?」


「なんだか顔色悪いし…」



クラスメイトは制服を緩く着用していて、首元が見えていて、楓は一瞬目が離せなくなる。



「九条さん…?」


「!、あ、ごめん。ちょっと体調悪くて。朝早く来すぎたせいかな?」



へら、と笑顔を作って、楓はクラスメイトと別れた。教室を出てから、『何か九条さん怖い…』と話し声が聞こえて、やはり自分がおかしいのだとハッキリ分かった。少し急ぎ足で保健室へ向かった。




――ガラ、



「…おはようございまーす、」


小声で開けたその空間に顔だけ出して声を掛ける。少しして、カーテンの奥から返事が帰ってきた。保健医の松本弓希は、吸血鬼であり、直接的な協力はないがこういう時は面倒がなくて済む。



「おはようございます。あら、九条さん。どうしたの?」


「ちょっと調子悪くて…、あ、でも誰か休んでます?」



普段開いているカーテンが閉まっていて、人の存在に気づく。



「大丈夫だよ。まだもうひとつあるから。どうぞ?」


「すみません、」




――ドク、ン




「―――、」


「……九条さん?」




保健室に向かっている途中から、おかしいと思っていた。それは朝からの異変だけじゃなくて、保健室に近づくほどに動悸が強くなるような、疼きが抑えられなくなるような感覚だった。しかし、余程調子が悪いのだと思っていた。だから人のいない保健室を目的に来た、はずだった。まさか、保健室に原因があるなんて、思ってもいなかったのだ。



「――、愛華。すぐ来て」



楓の異変に気づいた松本が、手早く愛華に連絡を入れる。しかしその瞬間には、楓は床に膝を落としていた。




ーーー血が、ホシイ、




頭の中を、ガンガンと本能が叩き、支配していく。理性が押されるなんて、九条にとって有り得ないことだった。




「――、っ。う、」


「九条さん。息吸って。しっかり、負けないで」



そう言われて、呼吸すら出来ていないのかと自覚する。呼吸という生命活動をすれば、本能が勝ってしまう気がしていた。



おかしい、なんで、こんな……



「弓希!」


「愛華!なつも、」


「九条さん、どうしたの?」


「……!弓希。奥に誰かいるの?」



愛華とともになつが保健室へ走りこむ。なつがドアを閉めている間に、愛華は楓の状態を確認した。そして、すぐさまカーテンの奥にいる存在に気づき松本へと声をかけた。



「え?あ、今日転校予定だった子よ。緊張してるのか顔色悪くて休ませてるの。でも怪我もしていないし、血なんて」



出血がなければ、吸血鬼の刺激には乏しい。それこそ人間の溢れる学校で生活する、自制も強い九条楓に影響があるとは思えなかった。しかし愛華は、眉間に皺を寄せた。早口で言葉を繋ぐ。



「急いで九条をここから出して」



その指示が松本となつに入る。しかし、瞬間。カーテンが開かれた。

今の今まで床に落ちていた、九条楓の手によって。



「九条⁉」


「―――ミツケタ、」



「…え?」



・・—・・



「……ぅ、」


「大丈夫?」


「……あれ?私…」


「余程緊張してたみたいでね、保健室で休んでいたんだよ。覚えてる?」


「えっ!す、すみません!ど、どうしたら…今何時ですか⁉」


「大丈夫だよ。担任の先生とご家族様には説明してあるから。もうすぐ昼休みだし、挨拶は午後からにしましょう?」


「…うそ。…すみません」



松本の説明に、転校生の少女、三波綾は体を小さくして後悔に駆られながら返事をした。

松本はそんな姿を見ながら、先程の事態を思い返し、これからなかなかに難しい問題が出てくるのかもしれない、と心の中で小さくため息をついた。



・・—・・



「はぁあ。ダメだと思ったら帰れよ、九条」



ため息とともに、愛華の呆れたような声が飛ぶ。



「ごめん、」


「そんな怒んなくてもいいじゃん」



落ち込む楓の姿に、擁護に入ったのはなつだった。



「あのねぇ、なつ。ちゃんとわかってる?今の事態。ただ人を襲おうとしたのとは訳が違うんだよ?」


「………」


「………」




黙り込む二人に愛華は再びため息をついた。ソファに座り込み、ポケットからタバコを手に取る。最初のひと息を吸って火をつけると、そのまま灰皿に置いた。


あの後、少女を襲おうとした楓は、愛華となつによって保健室から引きずり出された。距離をとったことで楓の自制が取り戻され、少しの安堵が訪れた。

そこから、目の前の状況に混乱する少女の処理をして、三人でなつの自宅に帰ってきたのだ。

楠本なつは、記憶操作と治癒の能力を持っている。少女の記憶から、今回の事態は綺麗になくなっている。朝、愛華が楓に伝えたのは、枯渇して吸血行為をしたらその能力を行使しろということだった。



「…ねえ、臭い」


「なつはすぐ文句言うー」


「それ意味あるの。いつもすぐ置くじゃん」


「あのね。一応これ人間様の吸うのと違うからね?二人のためでもあるんですよ?」



二人は初耳だと言わんばりの表情をする。ふわふわと部屋に行き渡っていく煙を眺める。これが?と思考は重なっていた。



「ま、秘密ですけどね」


「ねえ、絶対嘘じゃん」


「ほんとですー」





午後。

三波綾は、午後一に挨拶をして、用意された机に座っていた。午後の授業は、なぜだか頭がぼやけていた。

視線を横に移すと、リュックが掛かったままの机があった。体調でも悪いのだろうか、と思い保健室を思い出す。自分が起きた時、隣のベッドは空いていたから午後の授業前に体調を崩したんだろうか。しかし隣の席なら、来た時に挨拶しやすいかもしれない。あとで挨拶し直さなければと、ぼやけた頭で必死に考えていた。



・・・


きっと、君は私の番なんだ。運命で、生まれる前から決められた相手。

理性も思考も関係なくて、ただただ相手を求める。君と私は、どんなに遠回りしたとしてもきっと運命を共にする。


そうじゃなきゃ、

きっと空虚な世界が待っている。


・・・



「ねえ、ここの席の子ってあんまり来ないのかな」


「ん?来るよー、良く分かんないけど今は体調悪いのかもしれへんなぁ」



そんな三波綾の言葉に答えたのは、クラスメイトの香柄和那だった。

転校して一週間、空席の続く席を綾はなんとなく気になっていた。それはただ隣の席だからかもしれないが、その心に根付き口から出るほどになっていた。



「ちょっとなんで今関西弁使ったの」


「なんでそんな怒るんですかー」



綾が関西出身と伝えてから、和那は綾と絡むときは必ずと言っていいほど、変なイントネーションを付ける。綾がそれだけは苛立ちを隠せず、和那はその反応を面白がっていた。しかし、転校してきたばかりにも関わらずこうして綾が気軽に話せたり笑えるのはその存在が大きいのは事実だった。和那のおかげで、転校してからの学校生活は順調だった。空席だけが、綾の気がかりだった。




・・—・・


「………ねぇ」


「んー?」


「いつまでいんの、マジで」


「………もう少し。」


「そんなこと三日前にも聞いたんですけど」



愛華の言葉に、楓は少しだけ気まずそうに答えた。そんな空間に、マグカップを三個持ったなつが入る。



「愛華もいつまでいるの。ここ私んちなんだけど」


「なんでそんな事言うの!私となつの仲じゃん!」


「ちょっと危ない!」



なつの言葉に愛華がじゃれつくと、マグカップを並べようとしていたなつの体が揺れて中身が溢れそうになる。叱責され、愛華はつまらなそうに体を離した。



「てかマジでさ、どうすんの学校。いつまでも休んでられないでしょ。一応『高校生』なんだからさ」


「………そうだよね」


「実方はなんか言ってるの?」


「まだ何も。様子みてくれてんじゃない?九条はそんな要注意人物じゃないし」


「そっか。九条さんは、…行けない理由があるの?学校」



実際。なつも愛華も、楓が学校に行かない明確な理由を知らない。お互い干渉しないことが、吸血鬼という長い時間の中では必要なことだと分かっていた。だから、干渉しない距離を図っていたけれど、このままではいかないだろうと思う。『高校生』をしている以上、社会から反することは存在を隠す上で避けたいことだった。



「……あの、保健室の子」


「あぁ、あの保健室で寝てた子?」


「うん」



楓が小さく言葉を発し、なつが小さい声をつぶさないように拾い上げる。明らかに楓がおかしくなったあの時。そこに、彼女がいた。



「……なに、怖いの?また会うのが」


「…たぶん、なんだけど」



先を促すように愛華が詰める。なつはその言葉に楓が口を噤んでしまうと焦ったが、楓は話すペースを崩さなかった。そうして、ゆっくり、言葉を選ぶ。



「運命の人、だと思う」


「「運命?」」



少女マンガの世界の単語が発せられて、なつの頭にはてなが浮かぶ。しかしその言葉とはかけ離れるほどに楓の表情は苦痛に歪んでいた。ガサっと音がして、愛華が葉巻に火を付ける。少しイラだったように顔を歪ませて、いつもより多く煙を吐く。ぶわぁ、と纏まった煙が、ゆっくりと部屋に溶けていく。



「じゃあ、転校でもする?」


「え?」


「そういう話でしょ?今ここに逃げてるってことは。」



葉巻が皿に置かれる。ソレはゆっくりと、それでも確実にその身を削って煙を作り出していた。



「愛華、そんな言い方しなくても」


「九条はね、すごく自制が強いの。今まで一度だって、本能に負けて人を襲ったことなんてない」


「!そう、なんだ…」


「だからひとりで人間との生活も許されているし、高校生だって出来る。本来なら強制的に人間の群れに混じる環境なんて避けたいところなんだよ?」


「………」


「だから、保健室での状況は異常なんだ。本来なら起こるはずがない。有り得ないことだった。他の誰も反応しなかったのに、九条だけが本能に突き動かされるなんて」


「まだ、はっきりしてない。だから、もう一度あの子に会いたい。けど…」


「それが事実なら、もう一度会えばもう戻れないよ。いいの?」



九条楓は自制が強い。枯渇しようと飢えに襲われようと理性なく人を襲うことはない。しかし、保健室でそれは崩された。その事態は、今、楓の口にした言葉すら叶えられない可能性がある。しかし、『運命』と言った楓の言葉が事実ならば、愛華が行うべきは決まっていた。峰山愛華は立場上、いつだって、感情に揺り動かされないように、立場からものが言えるように、心を強くしなければならない。それが突き放すような言葉だとしても。そんな愛華に低くて優しい声が届く。



「……愛華、」


「…大丈夫だよ、なつ。ありがと」


「……うん」



なつはこういう時に自分の無力さを思い知らされる。言葉が上手く伝えられない。心配だと、無理しないでと言いたいのに、『大丈夫』だと言われると何も言えなくなってしまうのだ。



「なつ」


「え?」


「分かってるから、そんな顔しないで」



愛華が、なつの頭を撫でる。無力のくせに、愛華には甘えてばかりだと思う。しかし、その存在だけで、声をかけて自分を想ってくれる、その存在こそが、愛華にとってどれだけ心満たすか知らない。



「明日」


「ん?」


「……明日の放課後、あの子に会いに行く」



楓はその言葉とともに、目の前の二人を見た。

さっきまでの会話から、明日の放課後なんて愛華にも予想つかなかった。もしかしたら本能が思考を支配し始めているのかもしれないと思う。



「大丈夫なの」


「だから、ふたりにも来てほしい。また、そうなったら、殴ってでも止めてほしい」


「………また襲おうとしたら、報告するしかない。それこそ運命じゃないなら、処分だって免れない」


「うん。…きっと大丈夫。運命の人なら一緒にいられるはずだよ」



そういった楓の表情は笑顔だったけれど、少し緊張していた。



・・—・・


翌日。学校には規則的な終業の鐘が鳴り、生徒は帰り支度や部活の準備をし始める。そんな中、三波は一人席を立った。



「綾?帰んないの?」


「あ、和那。なんか松本先生から呼ばれてるの。行ってくる」


「松本先生?保健の先生から呼び出しとかある?」


「ね。よく分かんないけど…」


「……。ちょっと話したいことあるからさ。待ってていい?」


「え?今聞くよ?」


「ううん。後でで良いんだ。私はこの後用事もないし先に済ませてきてよ」


「そう?」



綾は和那のいつものふざけた様子じゃなかったことに、気がかりはあったものの、先生の呼び出しはやはり後回しにして良いことは無い。和那を教室に残し、綾は早足で保健室に向かった。綾が出ていった後、入れ替わりで女生徒が一人教室に入った。



「……和那、」


「あぁ涼葉、なに。覗き?」



冗談を言うように、和那は自分の名を呼んだ上矢涼葉に反応する。しかし特に取り合うことなく、綾との約束のために近くの席に座った。涼葉はそんな和那にゆっくりと距離をつめながら、距離を保つ位置で足を止めた。無言の世界にぽつり、と涼葉の声が響く。



「……三波さん、どうするの?」



その問いかけに、目もむけずに和那は答える。



「……、たぶんそろそろ九条さんが動くと思うから。だから少しでも抵抗してみようかなって」


「危ないよ」


「………」



その言葉に、和那は今度こそ視線を向ける。その目に、涼葉は顔を赤くしながら目を逸らした。その様子に、和那は溜息をつきながら鞄から小説を取り出す。パラパラとページを目的もなく動かした。涼葉はそのきれいな指先をじっと見つめた。



「……私も争い事はやなんだけど、薄れたとはいえ役割があるからさぁ。平和にいきたいよ、……ほんと」



最後の一言が消え入りそうなくらいに小さくこぼれる。和那の言葉が、ただ1人、涼葉にだけ届いて弱音と言えるかわからないそれに嬉しくなる。けれど同時に、いつも笑顔で全てを受け入れる彼女がいつか壊れてしまわないか心配だとも思った。



・・—・・


「せんせー?」


「あ、三波さん。ごめんなさい、呼び出してしまって」


「全然大丈夫です」



保健室に顔を覗かせると、保健医の松本が顔を上げる。綾が松本に近づくと、引き出しから取り出されたものが渡された。綾にとって馴染みのある髪留めだった。



「これ…」


「三波さんのだと思ったんだけど、違かったかな?」


「いえ、そうです。失くしたと思ってました……」



それは、転校日につけていたお気に入りの髪留めだった。嬉しいはずなのに、綾の頭はモヤがかかったようにスッキリせず喜べなかった。その顔を違うと勘違いした松本は心配したよう綾に声をかける。



「三波さん?」


「……あの、」


「ん?」



あの日、ここにいた人は誰だったんですか?



そう聞けばいいだけなのに、何かに止められる。そして、なぜと問われたら何も答えられないと意味の分からない罪悪感に包まれた。


―何人かの女の人の声。

―カーテンが開く音。

―そのあとの慌ただしい物音。


そうして、誰かがモヤをかける。ごめんね、と。言われた気がしていた。





「……大丈夫?」


「……はい、すみません。ありがとうございます」



髪留めを握り、綾は松本に笑顔を返した。しっかり頭を下げて、保健室を後にする。こめかみを擦ってみたが、眉間の皺は取れることはなった。

綾は、モヤがかかったような感覚が少しづつ薄れるけれど、気持ちは一層もどかしく感じていた。思い出したい記憶ほど、思い出せないのはよくある展開だ。テストの答案を埋める時、覚えたはずの単語が思い出せない感覚と似ている気がした。



「ん、おかえりー」


「あ。忘れてた」


「え、ひどっ!」



教室に戻れば、和那が自分の後ろの席で小説を読んでいた。綾はその姿に教室を出た時の約束を思い出した。



「松本先生、なんて?」


「ああ、忘れ物渡してくれた」


「忘れ物?保健室なんて行ったの?」


「転校初日にね、体調悪くて」



綾はまだ、転校してきて一ヶ月も経っていない。転校生なんてレッテルは、注目をされるのに不足なかった。けれど和那は綾が保健室に行ったなんて知らなかった。



「……大丈夫だったの?」


「うん。寝たら落ち着いたから」


「そう。…誰かに会ったりした?」


「それがさー、誰か来た気はするんだけど思い出せないんだよね。夢だったのかも」



…接触済、かぁ。九条さん相手に、これはヤバいのに手出しちゃったかも。



そんな和那を知る由もなく、綾は別の話を始めた。途中まで帰り道は同じだったため、一緒に教室を出て昇降口で靴を履き替える。綾は思い出したように『そういえば、』と言葉を繋ぐ。



「話したいことってなに?」


「ん?んー。告白?」


「なんで疑問形やねん」


「うちにもわからへんのですよ」


「ちょ。やめて。マジで腹立つから」


「うわー。いややわ、怖いわー」


「和那!」



笑い合う姿はまるで青春だった。綾は『話したいこと』が流されていくことには気づいていたけれど、和那が話さないのであれば深く追求するつもりもなかった。





「げ。なにあれ」


「あ、和じゃん」


「なつ!喜ばない!」


「え、ごめん」





そんなじゃれ合う和那と綾の姿を、綾の帰宅道を遡っていた楓、愛華、なつが発見する。綾に会えたのは良かったけれど、和那がいることは予想外だった。まだ距離があったため、綾以外が互いの存在に気づく。



「どうする、九条」


「………、」


「別に和がいても平気じゃない?」


「ある意味抑止力にはなるだろうけどさ、平気ではないだろ」



楓は、鼻から息を深く吸い込み、言葉を言い切る。



「…行く」


「おっけ。じゃ。行くよ」



楓のその言葉に、愛華は何も問うことなく歩みを進めた。そして、顔が固くなっていく和那に綾は気づく。



「和那?どしたの?」


「…いや。……まじか」


「え?」


「はじめまして。三波さん」


「え、?」



綾は声をかけられて相手を見上げる。目の前に立つその人は、なんだか見覚えがある気がした。同じ高校の制服を着ているから、どこかで見たのかもしれない。けれどそれよりも、この張りつめた空気の方が気がかりだった。和那は相変わらず、硬い顔でその人を見つめている。しかし、逆にその人は自分を優しい目で見つめてきていた。



「あ、あの……」


「九条楓です。転校生だよね?」


「あ、はい。三波綾です。九条さんって隣の席の…?」


「ううん。学年が違うから、席は違うかな。誰か休んでるんだね」



綾は気になっていた隣の席が判明せず残念だと思うと同時に、雰囲気に年上だと理解した。



「ちょっと。こんなところじゃなくて、学校で話したらいいじゃん」


「和那は黙っててよ」



和那が嫌そうに会話に入ってくる。綾は和那がそんな風に言うのを見たことがなかった。いつも人当たりが良くうまく付き合っている人というイメージだった。少し驚いたが、それ以上に楓の後ろに人がいたのだと気づき、自分が楓しか見えてなかったと自覚して恥ずかしくなった。

三波綾自身は気づいていなかったが、それほどまでに九条楓に魅了されていた。



「てかなんで愛華もなつもいるの!学校来なよ!」


「和那に言われたくなーい」


「なんで?私ちゃんと行ってるじゃん」


「和、ちょっと臭いときあるから」


「ほんとやめて!!気にしてるんだから!!」



騒ぎ出す三人に、綾は呆気に取られながら見つめる。そんな綾の香りや存在に、楓の理性は揺るがされていた。



「………綾ちゃん」


「え?」


「綾ちゃんって呼んでもいい?」


「…っ、はい」



楓の柔らかい声と表情に、綾は胸が苦しくなる。

どこか、気を許せば。どこまでも、飲み込まれてしまいそうだった。



「綾!帰ろ!」


「あ、うん」


「……またね、綾ちゃん」


「……、はい、また…」



和那に手を引かれて、綾の足が進む。けれど、綾の意識は楓から離れなかった。

土生の目が怖いと感じるくらいに惹き付けられて、飲み込まれそうで。それなのに、自分はどこか、彼女の隣に立ちたくて仕方がなかった。

綾と和那が、帰路の分かれ道につく。ここに来て、やっと和那の手は綾を解放した。向き合うようにして少し気まずそうに、和那は話を始める。



「ごめん。変なことになって」


「ううん。気にしてないよ。びっくりしたけど」


「あのさ、話したいこと、なんだけど」


「え?」



和那は、意を決したように真っ直ぐに綾を見る。綾は、今日はもうその話をしないと思っていたから、それに少し戸惑う様子を見せた。しかし和那がふざけているようには見えなくて、綾は視線を向ける位置を考えて泳いでしまう。結局相手の足元を見つめた。



「…九条さんには気をつけて。あんまり近づかないほうがいいから。なんかあれば、私の事呼んで」


「……うん」



意味が分からなかった。聞き返したい気持ちもあった。しかし、ぐっ、と喉が詰まる感じがして、綾はそれしか返答出来なかった。

九条楓という存在を目の前にした感覚は、もしかしたら恐怖なのかもしれない、と綾は思う。それがなぜなのかは分からなかった。しかし、そのせいで、和那の言葉の意図は感じ取れてしまった。綾の返事に安心したのか、和那はいつもの笑顔を咲かせた。



「また、学校でね。バイバイ」


「バイバイ……」



・・—・・


和那は自宅につき、ベッドに転がる。まとわりつく服が邪魔だと思って、自分の性分を自覚した。別に困ってないし構わないけれど、なつの言葉を思い出して凹む。



「仕方ないよね、狼なんだもん」



人間と、吸血鬼。その世界には狼が存在する。吸血鬼が無秩序に人間を襲わないように。吸血鬼と人間の均衡が、吸血鬼優先に崩れないように。吸血鬼の管理など、その種族優位に傾くことなど珍しくないから。狼はこの世界で、弱く脆い人間の守護者の役割を持っていた。

香柄和那、上矢涼葉は両名とも、狼の種族であり、吸血鬼の動向に目を光らせていた。


人間を襲うことはほぼなく、人間に害はない。しかし人間の世界に溶け込むことが日常になり徐々にその欠点が、精神的に当人を傷つけることがある。人間には感じられない臭い。気づくのは、鼻の効く吸血鬼だけだった。




・・—・・


登校して廊下の途中、綾に聞き覚えのある声がかかる。



「おはよう、綾ちゃん」


「九条先輩」



楓から向けられる笑顔。眩しいくらいの優しい。けれど、自分の後ろからはあまりいい空気は流れていないのを感じていた。

通学路が途中から一緒のため、今朝は和那とともに登校していた。だから余計に昨日言われた言葉が印象強く、楓を前にどうすべきなのか分からなかった。



「おはようございます、九条さん」


「おはよう、和那」



沈黙の空気の中、代わりと言わんばかりに和那が挨拶を投げ、言葉が交わされる。綾には、どこか牽制し合っているように見えた。廊下で立ち止まったまま、楓と和那は視線を重ねた状態で固まる。二人の間で小さくなる綾に、救いの声がかかる。



「和那」


「涼葉、どうしたの」


「狼谷先生が呼んでる。早く行った方がいいかも」


「うわ、マジか。ごめん、綾。またね」



狼谷蜜は教員の一人。理不尽はないが、厳しい一面を持つ。和那は慌てたように涼葉に鞄を預け職員室に走っていった。その後ろ姿を三人で眺め、楓は声色を変えずに涼葉へ何人目かの挨拶をする。



「涼葉、おはよ」


「………」



それに反応して涼葉は顔を向ける。口を閉ざしたまま、目元が鋭いため少しキツい印象だが、一瞬で、表情を和らげた。



「おはようございます。九条先輩、三波さん」


「!あ、おはよ!」



綾は、涼葉に名前を呼ばれると思っていなかった。予想外の状況に綾は反応が遅れてしまうが、それを見て楓は笑い声をこぼした。



「綾ちゃん、そんな怖がらなくても大丈夫だよ。涼葉は可愛いんだから」


「九条先輩、止めてください。そんなんじゃないです」


「ふふ、本当。可愛いです」



涼葉は照れたようにはにかんでいて、頬を染める。その姿は同性から見ても可愛かった。綾の印象では、涼葉はよく和那の傍にいる。控えめに立っていたりする姿を見て、どこか二人に上下関係のような、なにか別の関係性があるような印象を受けていた。しかし、それは和那といる印象であって、涼葉自身についてはあまり知らない。そんなことを、楓の言葉に照れる涼葉に改めて感じていた。自分はまだ、この人達の輪の中に入れてないのだ。

少しの会話をして、じゃあまた、と涼葉は教室に入っていった。



「綾ちゃん?」


「ん?」


「なんか香水とかつけてる?柔軟剤とか」


「柔軟剤は使ってます…」


「すごくいい匂いするよね、好きだな」



『好き』



あまりに唐突で直球な言葉に、綾は反応に詰まる。そして自分にだけ向けられたその顔が、あまりに『良く』て苦しくもなった。香りの話であり、趣向の話だと分かっているのに、その一言に、綾の胸が跳ねた。まだ、ここに来てさほども経っておらず、楓とは昨日顔を合わせたばかりにも関わらず、こんなにも振り回されている。

つい先ほど、この人達の輪に入れないと感じたばかりで、現実、そんな深まるような関係性ではないと、否定を含めて心を落ち着かせた。



「………」


「綾ちゃん?」



見つめれば、優しい表情と声が返ってくる。いわゆる人たらしなのだろうと楓を睨んだが、そんなのは楓には伝わらず、にっこりと満面の笑みが返されただけだった。綾の中に、楓の言葉が張り付いてしばらく離れそうになかった。



・・—・・


「よ、九条。襲ってない?」



午前中の授業が終わって昼休み。楓が教室を出ると、それが分かっていたように愛華に声をかけられた。



「うん、大丈夫」


「じゃ、保健室行くぞ」


「え?」



驚く楓に、愛華はバレてるんだよ、と背を向けながら言葉を投げた。楓は申し訳なさそうに笑い、その背中について行った。



・・—・・


「……九条さん、これ」



楓と愛華が共に保健室に着くと、中には保健医の松本、そしてなつがいた。楓は、なつの存在に数日前の愛華の言葉を思い出した。

そんな中、松本の声に思わず謝罪の言葉が漏れた。しかし、その言葉に松本は厳しい目を変えなかった。目の先、楓の腕や手のひらには爪を立てたような傷が複数個所及んでいた。出血は止まっていたが、傷の数は注意で済む範疇を超えていた。松本がガーゼ等で傷を綺麗にすると、なつが治癒能力を行使する。楓の傷は徐々に消えていった。



「我慢できそうになくて…、」



欲に溺れないように、飲み込まれないように。楓は、痛みで意識を繋ぎ止めるしかなかった。襲いそうになるたび、瞼の裏に血まみれの姿が映るたびに皮膚を裂いていた。そんなことをしたとしても、そばにいたい。そばにいられる時間が、欲しかった。そしてそれは、愛華にはお見通しだった。



「……やっぱ無理なんじゃないの?」



愛華から冷たい現実が突き立てられる。楓が視線を上げると、愛華は壁にもたれかかり、少し切なげな瞳を向けられていた。



「…吸血鬼にとって、九条の言う『運命』の番と出会えることは希少だ。それをそう簡単に失うわけにはいかない。それも分かっている。だけど、こんな自分のこと傷つけなきゃいられないなんてどうなの」


「それでも…私は綾ちゃんといたい」



愛華の言葉に、楓は想いが揺れることはなかった。

楓のたった一つの願い。盲目的ともいえる、この状況は、運命というより宿命に近い。希望は脅迫的でもある。離れることを許されないかのようだった。



「でも九条さん、今は傷が大したことないからまだ良いけれど、これが続くのであれば私も黙っていられないよ」


「……っ、でも、」



しかし、松本にも現実を突きつけられ、楓が悲し気に眉を寄せる。楓の感情と世界の現実が繋がらない。しかし、松本も愛華も、それを叶える方法を知っていた。むしろ吸血鬼は知っている。なのに、楓はその選択を口にしない。『運命』ならば、それ以外の選択がないにもかかわらず。



「ずっとこのままで居られないのは、わかってるでしょ?」


「……うん」


「…ぜんぶ、九条さん次第だよ」



やわらかくて、真面目で真剣な声が届いて、楓は松本を見る。先ほどまでの厳しさだけではない。その中にも、優しさと、その先を知っている強さがあった。



「三波さんとどうするのか。愛華の言う通り、このままじゃいられないのは事実だから。決めなきゃならないよ」



楓の処置にあたっていた二人の手が離れる。傷は消えていた。あの傷は弱さの証だった。傷は消えてもそれは情けない象徴でしかない。しかしそうしなければ、今頃血まみれだったのは綾だったと楓は思う。この行動は間違いではない。



「――…」



間違いなんかじゃない。彼女を守るために必要だった。あの行為がなければ、彼女は。そんな楓の自己犠牲などに、本能が負けるわけもなく、思考は徐々に本能に染められる。


もし、『そう』することが出来たなら。

きっと、この身もこの心も、満たされて。私は、これまでにない本能と幸福に滑落する。血に汚れた三波綾をこの腕に抱き、笑みをこぼすんだ。その瞬間は満悦に違いない。

これは、間違いではなく。吸血鬼の本能――



「九条。何考えてんの」


「え?」


「目ヤバいよ」



楓の瞳は真紅に染められていた。愛華の声に、楓は思わず下を向いて顔を隠した。三波綾と保健室で接触した時にも、楓の瞳は染まりかけていた。その様子に、愛華は楓の限界を感じていた。



・・—・・


それから一か月。楓の持ち前の理性の強さは、その期間を綾との人間のような関わりを持ちこたえた。周囲の協力はあったが、愛華の予想は大幅に裏切られた。



「あっつ〜」


「……溶けそう、」


「うちらは灰だよ、なつくん」


「あ、そうかぁー」



何度目かの高校生。何度目かの体育祭。ため息が出るほどの晴天。吸血鬼だけではなく、人間すら体調を崩している環境下。怠そうに木陰に項垂れ掛け合う愛華となつを、楓は隣の木陰から眺めていた。



「大丈夫?」


「くじょー、なんでそんな涼しい顔してんの。意味わかんない」


「やめて愛華。暑苦しい」



暑さのせいか、だらだらと互いに思いのぶつけ合いをしている。ふたりが喧嘩にならないのは仲がいいからなのか暑いからなのか。きっと前者なのだろうと楓は片づけた。



「綾ちゃん、大丈夫かなぁ」


「あぁ、チーム違うんでしたっけ。私と愛華は、九条さんと一緒でしたよね」


「そう。あとは和那が綾ちゃんと一緒。私たちは涼葉とも一緒だよ」


「うわ、びみょう。狼組と分かれたのか」



楓だけが学年一つ上に属している。体育祭は学年関係なくチーム分けになっているため、もしかして接点ができるかもと思った楓は、この結果に残念がった。しかし、愛華はそれに安心していた。それにしても暑い、と三人思考の終わりには同じ結末が待っていた。本当に地球はどうなってしまうんだろうか。



「…今、なんの競技?」



なつが思い立ったように口にする。



「えっと、借り物競争かな。愛華もなつも出ないんだね」


「私らは最後のリレー組。ある程度セーブしないと世界記録出しちゃうけど、あんまり遅いとクラスで反感買うからちょっと面倒。まあでも、代わりにそれまでは休みかな、たぶん」



パン、とスタートを知らせる音が聞こえて、応援する声が上がる。何度目かの体育祭なんて、どちらが勝つとか負けるとかあまり気にならなかった。しかし、そんなこと堂々とは言えないし、言うつもりもなかった。そんな時期は何度目かの時期に終えていた。


二人が眺めている中、楓は熱心にグラウンドを見つめる。綾が、借り物競争に出ているのだ。



「愛華―!」


「え?なに」


「ちょっと愛華!早く来て」


「やだ、違うやつでいいじゃん!」


「いーから!」


「はあ!?うわ!」



何かを理解する間もなく、借り物競争で指定され、愛華はクラスメイトに連れていかれた。騒いでいたけれど、途中で吹っ切れたように一位でゴールを切っていた。



「大丈夫かな、愛華。一体なんの借り物だったんだろ」


「愛華なら上手く逃げてきますよ。こんな日差しの中、ひとに付き合うタイプでもないですから」



サァ、と風が吹く。その風に、暑さに項垂れていたなつの視界が開けた。体育祭。ここにいる人間は、人生一度きりの高校生活を送っている。なつは、それがとてつもなく寂しくなった。



「九条さんは、」


「うん?」


「三波さんのこと見て、どう思ってるんですか?」


「……んー、食べたい。とか?」



素直ですね、楓の答えになつは笑ってそう返す。口元を覆って笑ったあと、グラウンドの学生たちを見た。あの人たちと、自分たちは違う。そして、愛華や楓とも、一線を引かなければならないと、なつは思っていた。楓の知らない、なつの生い立ちはいつも影がつく。



「私は、そういう欲求があんまりないので、番と巡り会うのも正直羨ましいっていうか。…九条さんは苦しいのかもしれないけど、」


「苦しいけど、それ以上になんかこう、心が弾むっていうか。色んなこと吹っ飛ばして、綾ちゃんが欲しいって思ってる。でもまだ、それはしちゃいけないって思う。彼女には彼女の人生がある。私の欲だけで潰したくない」



彼女ためなら、なんでもしたい。なんとかしたい。でも、傷つけたくはない。


その考えこそが最たる矛盾だと、楓は知っていた。



「………」


「きっと、なつも出会えるよ」


「え?」



楓の言葉に、なつは思わず視線を向ける。柔らかすぎる楓の笑顔があった。



「難しいこと考えられないくらい、好きな人」



ざわっと、周囲の声色が変わり楓は視線をグラウンドに戻す。

順番待ちをしていた綾は、借り物に指名されその列から引っ張り出されていた。相手と手を繋いで走り出した瞬間、綾の靴が脱げ、その場に転んでしまった。



「ッ!」


「待って!九条さん、今行ったらダメです」


「……っ」



飛び出しそうになる楓をなつが止める。視線の先で、綾は直ぐに立ち上がり再び走り出し三着でのゴールを果たした。笑いあう、その手には、赤い血が見えていた。



「…、九条さん離れましょう」


「……なつ、離して」


「えっ、うわっ!」



楓の腕を掴んでいたなつの手が、乱暴に振り払われる。抑制が効かないその力に、なつの体が浮いた。



「なつ!」


「っ、愛華、?」


「大丈夫?」


「ごめん、平気。ありがと」



地面に落ちる瞬間、どこからか駆けつけた愛華がなつを受け止める。そんな程度では大した怪我もしないが、なつの返答に愛華は安心した顔をした。



「愛華イケメンすぎ、」


「…はいはい」



なつを下ろして、二人が顔を上げる。既に楓の姿はなく、グラウンドにいたはずの綾すら姿を消していた。



「早。」


「追おう、愛華」


「はいはい。あれは?和那は?」


「和?三波さんと同じだったよね?」




・・—・・



「…っ、九条先輩…?」


「大丈夫?綾ちゃん」


「そんな血相変えて来なくても、転んだだけですよ」


「……」


「ていうか、ここ教室…ですよね。早すぎじゃないですか?」



誰もいない教室。綾は壁を背に床に降ろされる。体育祭の今日、使う予定のないそこは、外からの陽の光だけで照らされていた。普段見る教室よりなんとなく薄暗い。怪我をした綾を、楓はこんなところではなく救護室に連れていく、つもりだった。



「えっと、外戻らないとですよね。いてて」


「………、」



綾の声が、楓には甘く響く。正気に戻ろうと引っ張る理性を隅に、楓の目は、血を滲ませる手のひらに吸い込まれてしまう。なつに返した冗談めかした『食べたい』は、楓にとって本心だ。


その肌に、その肉に。爪を、牙を、立てて。

全てを、貪り尽くしたい――



「っ⁉九条先輩!なにして、?」



まるで、性行為のように、楓は綾の足の間に体を入れ込み、その甘みを滲ませる手を取った。

綾の抵抗は意味はなく、楓の警告を鳴らす自我はなんの役にも立たず。瞳を赤く染める吸血鬼は、その赤い血に、舌先を伸ばした。




―――‼‼




「…っいった」


「…和那⁉」



舌が触れる瞬間。綾が恐怖に目を閉じた瞬間。教室には衝撃と、重い音が響き渡った。そして、間延びした声が響き、綾は目を開けた。



「消えたからどこ行ったかと思ったよ。大丈夫?綾」


「和那…」



敢えて明るい声と笑顔を見せる和那に、綾はわけも分からず泣きそうになる。そんな綾の頭を撫で、座り込んでいた体を立たせる。ゆっくりと立たされた綾の視界の先には、崩れた机たちの中から楓が立ち上がる姿があった。薄暗い教室の中、その赤い眼光が貫く。



「………、」


「怖いですよ、九条さん」


「、邪魔するの」


「……します。こんなやり方、邪魔するしかないでしょ」


「そんなの、だめ。返して」



一人で来るんじゃなかった、と和那は心の中で舌打ちをする。しかし、呼んでくる余裕もなかった。競技中じゃなきゃ、スマホだって持っていたのに。



「……綾。上矢涼葉、分かるよね?」


「うん、」


「走って、呼んできて。九条さんは私が止めるから」



和那は、愛華やなつも呼びたいところだったが、そんないくつも要求している場合じゃないと判断した。目の前で、立ちながらぐらぐらと体を揺らす楓は、いつ綾を襲いに飛んできてもおかしくない。ギリギリの理性が踏みとどまらせているだけだった。

綾が和那の後ろからドアに走り出すと同時、楓が床を蹴り動き出す。和那は、正面から止めに入る。純粋な力勝負。本能に駆られた吸血鬼に勝てる確信など、なかった。



「……っ」


「ジャマしないで、」


「はは、邪魔ぁ?…ッしないわけないだろって!!」



体を横に回転させ、力を流し楓を綾の進む反対側へ投げる。しかし、そんな動作は吸血鬼にはなんの意味もなさなかった。



「ああ、くそ。もう。ほんとヤバいなのに手ぇ出しちゃったなぁ、」



・・—・・



「はぁ、はぁっ、」



綾は廊下を走る。しかし途中で足は止まり、キョロキョロと周りを見渡した。



「、ここ、どこ?」



もともと、綾は迷子気質だった。加えて理解の追い付かない展開と衝撃。脳は普段の理解力を手放し、どこかも分からない教室から、どうすればグラウンドに出られるのかすら考えられなかった。



「和那が死んじゃうっ」



それだけが口から零れ落ちる。迫る楓に腕を取られた感覚、机がなぎ倒される衝撃の後立ち上がる姿、赤い眼光。恐怖に染まった頭は、和那が無事で済むとは考えられなかった。とりあえず下に降りようと、目の前の階段を駆け下りる。学校の生徒も教員も体育祭で外だ。屋内に助けを求められる存在はいなかった。


だれか、だれか……!


出口を探しているのか、人を探しているのか。恐怖で思考が狭められて訳が分からなくなる。



「……っ、ああもう!ばかすぎるッ」



恐怖が思考を狭くする。焦りが、視界を狭くする。荒れた呼吸と心臓が、聴覚の邪魔をする。落ち着けと警鐘が鳴るのに、眼前に現れた非日常の光景、隣に潜む『死』が明確に目の前に現れた現実に何の意味もなかった。

普段なら気づく何気ないものが、気づけない。学校が迷路のようで苛立ちすら募り始める。



「うわ!」

「うぶ!」


「あ、」



走る綾の体が何かにぶつかる。反動で後ろに倒れそうになったが、ぶつかった相手によって支えられそれ以上の衝撃は免れた。



「大丈夫?三波さん」


「三波がここにいるってことは、意外とまずいのかな、」



人だ!それだけを認識して、自分以外の人に安堵する。しかしそれも一瞬で。すぐに本来の目的を思い出した。



「あっ、あの!」


「九条だよね?わかってる」


「えっ?!」


「大丈夫だよ。和ことも」


「……!」



わけも分からず助けを求めようとしていたけれど、二人の余裕な反応に綾はその顔を見る。ちゃんと認識すれば見覚えのある相手だった。



「あの時の、人…」


「場所分かる?三波さん」


「あ、えっと…!」



なつに問われて、応えようとした瞬間、綾は言葉が出なかった。綾は無我夢中で走ってきた。

どこを走ったのかすら覚えていなかった。



「えっと、…っ」


「落ち着いて、大丈夫だから」



綾の体が震えだす。思わず自分の来た廊下を振り返ったけれど、ヒントはない。いくつの階段を降りたか。窓から見えた景色はなんだったのか。出てきた教室はなんの部屋だったか。

なにも覚えていない。記憶に残る視界は、どこまでも続く廊下だけだった。



「……なつ。三波を連れて外に行け。涼葉がいたら呼んで。狼なら臭いで来れるはずだ。私は九条たちを探しに行くから。とりあえずは三波が来た方向行くしかない」



パニック状態の綾からこれ以上の情報を得られないと判断した愛華が指示を出す。なつはそれに不安げな視線を向けた。



「でも…」


「三波を連れていった方が危ない。それに、少しも離れればこの間みたいに九条も自制を取り戻すかもしれない。多分、和那もそれで三波を逃がしたんだ」


「………わかった」



可能性はある。楓の自制が戻れば、最悪の事態は避けられる。血を滲ませる綾の対応は、吸血欲の少ないなつだから危険が少ない。そして、愛華の方が状況判断も力もある。なつは愛華の意図を理解した。なつはひと息吐いてから、改めて愛華へ視線を向けた。



「……気をつけて」


「うん。そっちは任せた」



愛華の背中を送って、なつは綾の震える手を引いた。



「三波さん、行こう」


「っ、」



・・—・・


―――‼


教室に、再び衝撃が走る。弾かれるように離れた二人は、互いに体制を整える。痛みに襲われるのは和那だった。



「っ、痛ぁ」


「……邪魔、しないで」


「九条さん、もう止まってください」



対して楓は、どこも負傷していないようだった。



「もう、戻ってますよね。止まれるはずです」


「……、もう無理だよ、」


「…」



和那の言葉に、楓特有の優しい声が返される。それは、本能に突き動かされていた声とは明らかに変わっていた。



「綾ちゃんの匂いが、離れないんだ」



楓は、自身の手を見る。

綾の腕を掴んだ、手。掠めた髪。触れた肌。漂う空気を吸った、この鼻腔。全てが、脳にこびりついて。自分を傷つけたくらいじゃ、もう、止まれない。



「意識の話じゃない。自制の問題じゃない」



理性は、本能に呑まれた。



「ーーっ、九条さ、!!!?」



和那は紅い瞳と、目が合う。視線がぶつかった瞬間、楓が一気に距離を詰めた。和那の脳も体も、追いつけなかった。



―――‼‼



衝撃の状況を理解する間もなく、和那は圧迫感に襲われる。楓は、和那に馬乗りになり、その首に手をかけていた。



「全身が、もう、限界…」


「ぅ、ぐ……ぁ」


「ねぇ、和那。邪魔するんなら、止められないよ……?」


「あ、ぁ……か、!」



最早、和那の意思は関係なかった。徐々に、楓の力は強くなり、和那は空気と血液の道を狭められていく。言葉を発することも、呼吸をすることも困難で、和那は楓の腕を掴んで抵抗し、そのまま楓の腕を裂く。しかし、その手が緩むことはなかった。体が反射的に反応し、胸郭を動かし呼吸を求め始める。けれどそれに応えた酸素が入ってくることは無い。



「ーーーっ……っ…――!」



唾を飲むことすら出来ず、口角から溢れ出す。和那の目には、霞ながらも楓の顔が映っていた。

紅く、欲にまみれた、吸血鬼―――。




…―――!!




意識が途切れる寸前。物音と衝撃が襲い、和那の体に空気と血液が回り始める。急激な供給に、体は悲鳴を上げた。



「っげほっ、っ、……っおえ゛!-っはぁ!ごほっ」



解放された和那の体は、本能的に起き上がり腕をつく。そんな和那を、続け様に響く物音と衝撃が囲んでいた。物がぶつかり、落ちる。弾き飛ばされ押しのけられて、机たちは本来生むはずのない音を次々と打ち出していた。



「っ、りょう、は…っ…?」



ボヤけた和那の視界に、見慣れた少女の姿が入り込む。楓を押しのけ、自らに手を伸ばそうとするそれを、体ごと弾き飛ばしていた。しかし、感じられるのは、防衛ではなく殺意だった。



「っ涼葉‼やめて!」



和那は声を上げるが、涼葉には届かず音は止まない。和那に背を向け教室から出ようとする楓すら捕まえていた。同族の和那ですら恐怖を感じた。逃がす気はなく、その動向に意味を見出さない。終結は、その存在の抹消のみ。



「――涼葉!止まれ‼」



和那の体はまだ動かなかった。叫んでいるそれも、叫べているのか分からなかった。和那の体は、本当に限界まで楓に追い込まれていたのだ。

涼葉は、和那に特別な感情を持っている。大切な存在である和那を、傷つけられて。涼葉自身、感情が爆発していた。



「っ、涼葉も邪魔するの」


「そんなもの関係ない…!」



いくら人間を守ることがきっかけであったとしても、狼が吸血鬼を殺すなどあっては全ての均衡が崩れてしまう。その罪は重い。



「ーーーっ!」



涼葉の一撃が楓を床に落とす。倒れこんだ楓に、涼葉は牙を向く。そんな涼葉を、楓は冷徹な瞳で見やっていた。離れた所から見ていた和那だけが気づく。涼葉の死角から、楓が涼葉をトめる突いをその心臓に向けていたことを。

悲鳴をあげる体を、無理やりに叩き起し、和那はその体をふたりの間に飛び込ませた。




・・・


頭は怖いくらいにすっきりしていて。

純粋に、貪欲に。あの子だけが欲しかった。


どこかで、なつが羨ましかった。あれほどに欲のない体質ならば、きっとあの子のことを傷つけたり、怖がらせたりしない。


・・・



―――…ぐじゅ



生々しい音が木霊する。静寂の中に、雫が落ちる僅かな音が一際大きく響いていた。



「――、ぁ…はぁ……っ」


「……和那、…?」



目の前の光景に目を見開く涼葉の手に、和那が血に濡れた手を重ねる。ぐっと握りこまれて、事の重みと制止への意志を伝えられた。その重みに、涼葉は呼吸を震わせた。



「…ぁ、」


「涼葉、もういい。……っ、は、ぁ…」


「無茶したね、和那」



涼葉を止めたことで意識が薄れ、和那の体が倒れる。その体を、愛華が支えた。愛華に想像以上の体重がかかり、和那の負担が愛華に伝わった。



「でも、助かったよ」


「私も…、ありがと」



和那は涼葉をかばうように体を割り込ませた。突いに貫かれる瞬間、駆け込んだ愛華が間一髪でその軌道をずらした。一瞬が重なり合い、和那の致命傷は避けられたものの、その腹は抉られ血が溢れていく。体は必死に、血液を全身に回そうと動き出すけれど、それは空回りするように血液は充足することはなかった。呼吸ばかりが荒くなっていた。

愛華は和那の体を支え、楓から降ろす。涼葉も目も前の現状に脱力しながらも、和那を追う。楓は、その光景を見つつゆっくりと体を起こした。楓の目は活力を失ったように虚ろで、真紅は影もなかった。



「九条、」


「…分かってる」


「…、涼葉。なつと弓希連れてきて」


「っでも!」


「和那の傷、治さなきゃならない。狼だからって油断できないよ」


「………分かった」



愛華の指示に、涼葉は苦しげに教室から出ていった。愛華は、その後ろ姿を視線で追いながら、もし自分の特別大切な人が和那のように重傷を負ったとき…あんな理性的に行動することはできないと思った。そんなことを思いながら、愛華は羽織っていた上着を和那の傷口の上から被せ、押さえた。



「、いっ!もっと優しくしてよ、っは、」


「はいはい…」


「はぁ、…、は、なに……?」



じっと見つめる愛華の視線に和那は違和感を覚える。見定められているようで、何か言いたそうな視線だった。



「お前、…涼葉のこと、大事なんだね。ただの後輩なんじゃないの」


「…別に、そんな大それたものじゃない。ずっと一緒にいれば情だってあるし」


「好きなの?」


「はあ!?」



愛華の言葉に、和那はごはっと音を立てて咳き込み、吐瀉物が散った。



「え、血ぃ吐くなよ。汚れる!」


「おま、……、!」



和那は瀕死の息遣いをする。愛華はどこか遊んでいるようで、絶えず和那の意識を確認していた。人間だったら意識を失い死の淵を彷徨う重症だが、狼の回復力と頑丈さは吸血鬼さえ上回る。それでも、重症であることは変わりなかった。

そんな二人に、楓は暗い目をそのままに言葉を投げる。



「……ごめん、」


「………」



楓の手は、和那の血で汚れ、それが乾いて僅かに思い通りにならない。楓は、自分の未来を示されている気がした。今回のことは、自分が引き起こし人間を守ろうとした狼を傷つけた。それは、今までの九条楓の管理が大きく変わること、処分が下ることは避けられない。楓はこれから先、生きていてもどこか制限されていくのだ。三波綾と会うことは二度とない。番に変わりはいないのに。

相手を欲のままに傷つけた、汚れたその身を抱え、満たされることない一生に浸る。



「……綾ちゃんにも、伝えて」


「やだよ」



楓の言葉に、和那は間を置かず拒否した。楓はそれに目を固く閉じる。



「自分で、言ってよ。そんな、責任取りたくないし、……綾だって、可哀想でしょ」



しかし、次いで繋がれたのは楓の思っていた言葉ではなかった。楓は思わず顔を上げるが、和那は怒りの意図など全く感じさせることなく、楓を見つめていた。



「和那が頑張ったとこ悪いけど、九条曰く『運命の』番らしいから。これからわかんないもんだよ、お互い」


「……うんめい?」


「そう。九条曰くね」


「っ、え、待ってよ。聞いてない、そんなの」



愛華の言葉に、和那が慌て出す。和那は、楓が綾と接触済だったことは知っていた。楓が綾に執着していることも分かっていた。しかし、楓にとって綾が『番』の相手だなんて、知らなかった。出血と関係なく、血の気が引いていく。そんな和那の反応を、愛華は分かっていたかのように見つめていた。

そこに、涼葉がふたりを連れて教室に戻る。その中で最初に声を上げたのはなつだった。



「和!大丈夫?」


「そんな、こんな血まで吐いて」


「えっ!そんなのなかったのに!」



涼葉の鋭い眼光が愛華に向けられる。涼葉の想いを知る愛華は、否定するように手を振った。



「いや、私のせいじゃないからね」



松本が、救護室から持ってきた救急箱を開く。傷を刺激しないようにして洗いながら布を剝がすと、なつはそこに手を当てた。



「っう、」



和那をジリジリとした小さな痛みが襲う。痛み自体は大したことなかったが、重症の体にはその痛みすら声が漏れてしまった。なつの可能な範囲を治癒し、あとは松本の役割となった。



「和、…大丈夫かな」


「狼だし、ヤワじゃないよ。…なつもしばらく通うの?」


「うん。弓希と行けば少しは役に立つかもしれないし」


「そう」



愛華はなつの返事に微笑むと、楓に視線を移した。いつからか、楓の自我は戻っていた。しかし、止まらなかった。その事実が、九条楓にとってどれほどのものか。しかし、楓の口にした『運命』は、確実に九条楓の光を消していた。



「…九条さん、」


「行くよ、九条」


「……、うん」



愛華の指示に、楓は素直に立ち上がる。その後ろを、なつが付いた。愛華は弓希に和那、綾のことを任せ、教室を出た。



・・—・・


三人が実方邸に着く。実方は、愛華、なつが側近をする真祖の末裔だった。愛華が先に連絡を入れていたこともあり、実方瑠衣は来訪を待っていた。瑠衣の部屋に通され、楓に関して番や狼の件を含めて報告をした。実方瑠衣には初耳だった。



「……そうだったんだ」


「……」


「今、三波綾さんは?」


「まだ学校に。松本弓希が付いています。あと、おそらく狼も」


「狼は、番には不干渉の約束だったよね?」


「番であることを不知だったようで。私の不手際です」


「……そう。まぁしょうがないね。」



瑠衣は考え込むように手を組み、楓を見る。事実、番は果ての未来で言えば存続にすら影響する。番がいなければ、人間を搾取するのみ。在り続けることは、搾取だけでは成り立たない。



「九条さん。運命…真正の番であることは間違いないの?」


「私は…私には、三波綾以外には考えられません」



瑠衣の問に、楓は明確に答える。愛華やなつは、これほどはっきりと聞いたことはなく今回のことはそれほどに楓に影響を与えているのだと認識した。



「そう。なつ。記憶は?」


「保健室での接触に関しては施行していますが、今回に関してはまだなにも」


「じゃあ、そのままで。狼にはちゃんと報告して。これ以上問題にならないように」


「……このまま、というのは?」


「そのままだよ。処分も処罰もしない。記憶も弄らない。番である以上、九条楓と三波綾さんの関わりには最低限の介入とする」



あまりに予想外の判断に、三人は理解が追い付かなかった。楓は、もう今までの生活には戻れないと、綾には二度と会えないと思っていた。



「でも、私…人を襲おうとしたのに。和那たちがいなかったら今頃…!」


「九条楓。やったことの責任は取ってもらいます。けど、それは今じゃない。それに、真正の番だというのなら、逃げられはしないし逆に吞み込むことも許されない。三波綾さんとも番ともちゃんと向き合うこと」


「……はい、」



瑠衣からの指示を受け、今後の報告は逐一行うこと約束し話は終わった。三人が部屋を出ようとしたとき、瑠衣は一人を呼び止めた。



「愛華は残って」


心配そうに視線を向けるなつに、愛華は笑顔を送った。小さく音を立てて閉まるドアを見届けて、愛華は改めて瑠衣へと向き合う。



「……報告しなかったの、わざとだよね」



そう切り出した瑠衣の眼は、先ほどまで三人と話していたものとは別物だった。

狼に、番の存在を伝えなかったこと。楓の理性が外れ人間を襲いかけたこと、それが異常であったこと。そして、そもそも。番と、遭遇していたこと。

それはすべて、吸血鬼の管理に影響するものであり、真祖への報告が必須だった。峰山愛華の立ち位置であれば、そんなことは当然の行為だった。



「…真祖に話すほどの事じゃないと思った私の判断ミスです」


「……ここまでくるとなつの過保護も、異常だね」


「………」



その言葉に、愛華の目の色が変わる。空気は張りつめ、強い眼がぶつかりあう。

否定も肯定も、虚偽もない。意志と使命のぶつかり合い。ここに答えなどなかった。



「……」


「………」



先に視線を外したのは、瑠衣だった。一息ついてその瞳を閉じる。



「……九条さんと三波綾さんの件、ちゃんとサポートして。愛華の責任で番は成立させること」


「………」



処罰とも命令ともつかない指示を出し、瑠衣は話を終わらせる。愛華はそれに頭を下げて、背を向ける。



「愛華」


「なに、」


「…これから、なつにも番は現れる」


「…だから?」


「愛華は、受け入れられるの?」



愛華は、瑠衣に背を向けたまま。しかし、その眼はまっすぐ前を見つめていた。



「…なつのためになるなら、なんでも受け入れる。そうじゃないなら切り捨てる」



音を立ててドアが閉まる。瑠衣はため息をついて、椅子の背に体を預けた。





「………」


「愛華」


「あ、なつ。先行ってて良かったのに」


「心配で。大丈夫だった?」


「大丈夫。報告しなかったの怒られただけ」



愛華は思う。

知られたくない相手に、吸血行為が起きれば、記憶をいじる必要がある。怪我をすれば、少なからず治癒する必要性も出てくる。そうすれば、その能力が、必要とされる。楠本なつが存在する理由が作れるのなら、どんなものでも利用する。



・・—・・


体育祭が閉会を告げるのを、綾は松本の隣で眺めていた。



「大丈夫?」


「あんまり…何が何だか、分からなくて」


「そうだよね」



学生の声が飛び交うグラウンド。そこに、綾も和那も、楓もいるはずだった。綾は、なんの変哲もなく、なんの疑いもなく、笑い合ってると思っていた。



「和那…さんは、どうなったんですか?」


「……」


「九条先輩も…みんな、いない」


「…三波さん。たぶん、これから信じられないことがたくさん起きると思う。驚いたり困惑することの方が大きくなる」



綾は、そんな抽象的なことより具体的な説明が欲しかった。そんなものではなにも納得できなかった。しかし、松本が、大人の判断として言葉を選んでいることが伝わって、何も追及することができなかった。



「それでも」


「……」


「あの子たちに、嘘はないから。出来れば、逃げないで向き合って欲しい」



それは。今まで起きた出来事が、すべて真実で。なぎ倒された衝撃も、崩れた机たちの前に立つ人間離れした楓の姿も、怖すぎるほどの紅い眼も、現実で。それに、向かい合わなければいけないのだと突きつけられていた。


閉会式も終了し、夕日も沈んだころ、松本に送られて綾は帰宅した。家族とご飯を食べて自室に戻る。ベッドに倒れこみ、使いすぎた頭は意向を放棄する。



「なんか、疲れちゃった…」



率直な独り言を呟く。なつに連れていかれたあの後、涼葉を探したけれど見つからず。結局、涼葉がなつを連れて行ってしまった。綾は自分を守るようにしていた和那に何かあったのだとついて行こうとしたが、それに気づいたなつに外で待つよう言われ、それ以上動くことが出来なかった。

目の前で起きた現実も理解できないが、綾は自身の感情にも戸惑っていた。衝撃も紅い眼も、目の前に迫ったすべてに怖い、と思う。しかし、怖くて、近づきたくもないはずなのに、欲にまみれたあの紅い眼の先に、何があるのか知りたかった。それは、惹かれているようにも思うし、ただの好奇心なのかもしれないと思う。後者なら危険すぎる。しかし、綾は初めて楓と出会った時の感情にも、未だに惹かれていた。ベッドの上で体を動かして、枕を抱え込んだ。



「うあーー。なんなの」



思考と感情が、繋がらない。そんな綾のスマホが鳴り、綾は勢いよく起き上がると画面を確認した。そして、急いで通話へと切り替えた。



『もしもしー?』


「和那!大丈夫なの⁉」


『大丈夫だよー。ごめんね、あのままにしちゃって』



綾の心情を知ってか知らずか、和那の声はあまりにのんびりしていた。しかしそれが、綾を安心させ、無意識に強ばっていた肩からゆっくりと力が抜けた。



「怪我とか、ない?」


『ん?あるある。』


「え!?」


『あはは。大丈夫だよー。そのうち治るし。体は丈夫なんだから』


「ほんとに?来週学校来れる?」


『行ける行ける。わかんないけど』


「ちょっと、真面目に話して!」



和那が電話口で笑う。それが安心させるためとわかっていたけれど、綾は呑気な声に本当なのか冗談なのか分からなくて焦って声を上げてしまった。



『………んー、』


「………、」


『あたしさー』


「………」


『狼なんだよね。あ、涼葉もなんだけど』


「…………、」


『だから傷の治りは早いと思うんだけど、学校、週明けはどうかなー。頑張れば行けるけど、できればサボりたいし。ほら真面目に学校行ってたから少しぐらい休んでも平気だと思うんだよねぇ。…どう思う?………綾?おーい……』


「…え、は?……おおかみ??」


『そー。とは言えさぁ学校行けるかは約束できないっていうか』


「待って!待って!!学校なんてどーでもええわ!」


『綾が聞いてきたくせにー』


「そういう話じゃなくて!なに軽く爆弾落としてんの?てかそんなの言っていいの!?」


『ええのええの』


「ちょっと!」


『あはは。まあ驚くだろうけどさ、綾は知ることになるよ』


「え、……」


『だから、私のことはちゃんと私から言おうと思って。電話になっちゃったけど』



少しだけ和那の声のトーンが落とされる。綾はこの事実を受け入れなければならないのだと知り、言葉が詰まる。そこから話は途切れ、無言が続いた。



「……和那」


「…なに?」


「怪我、大事にしてよね」


『ありがと。学校行ったらまたよろしくー』


「うん」



静かに、通話が終了した。綾は『おおかみ』という単語が、飲み込めなかった。綾の知るおおかみは、動物で。人間の形なんてしていないのだ。満月を見て狼になってしまう『狼人間』は、テレビや本の中だけだと思っていたし。『狼』と表現したのは、狼人間とは別だと言いたかったのかとも感じていた。



「なにもう訳わかんないよ。私だけが知らないの?」



スマホを持ったまま、うつ伏せに寝転ぶ。そしてまた、スマホが鳴動した。



「今度はだれぇ?」



出る気もないまま、画面を確認する。示された名前に、さっきとは打って変わって身体緊張した。綾は思わず正座した。



「九条先輩……」



楓から連絡が来るのは初めてだった。音のなり続けるスマホを握ったまま、通話を繋ぐか悩む。意を決して画面をフリックした。



「………もしもし」


『……綾ちゃん?』


「うん、」


『よかった。電話出てくれて』


「………」


『昼間、ごめんね。怖がらせちゃった、よね』


「………」



何か言いたい、言おうと思うのに綾は声が出なかった。楓の声になぜか泣きそうになっていた。喋らない綾を分かっていたかのように、楓は言葉を続ける。



『あのさ、』


「……」


『明日、会いたいんだ』


「……明日?」


『あ、無理にじゃないんだけど、……会って話したいことがあって。でも、また後ででもいいよ』


「……明日は、ちょっと……」


『そう、だよね。急にごめん。』


「………ごめん、」


『綾ちゃんは悪くないよ』


「…………」


『………………』


「九条先輩、は、」


『……うん?』


「……、明日何してるんですか?」


『特になにも』


「じゃあ、時間あったら連絡してもいいですか?」


『!、うん!いいよ!待ってる!』




――じゃあ、また明日。そんな在り来りな言葉で、話が終わった。



「なんで、電話するなんて言っちゃったんだろ…」



スマホを握る手に力が入って、手に痛みが走る。体育祭で転んで擦りむいたそこは、松本に処置された。ペリ、とガーゼを固定していたテープを剥がす。あの時、一瞬だけ。楓の舌が触れていた。



「……っ!」



その瞬間が一気に蘇り、体に熱が篭った気がして綾は慌ててお風呂に向かった。熱を誤魔化すようにシャワーを浴びて、風呂上がりには冷えた水を飲んだ。大した事ない擦り傷に、またガーゼを貼り見えないようにした。逃げるようにベッドに入り、布団を巻き込んで目を閉じる。和那からの電話が後だったら、こうはならなかっただろうか。

綾の中で『狼』の話は、頭の片隅に追いやられ、眠りにつくその瞬間まで、舌を覗かせる楓の綺麗すぎる表情と、自分を射抜く紅い眼が、脳裏から離れなかった。




・・・


初めて会った時あなたに怖いくらい惹かれたのを、しばらく忘れていた。


自分の傷口に、血に、欲を顕にした時、戸惑ったのは、

心臓を叩く感情が恐怖だけじゃなく、その眼、存在に、欲に、興奮していたからだった。



・・・



「………」



いつの間に寝ていたのか、綾が気づいた時には朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。目が覚めたというのが正解だった。



「…九条、楓…」



目が覚めて一言目に出たのは、彼女の名前だった。そして思う。あの、紅くて綺麗な眼は自分以外にも向けられているんだろうかと。欲を隠しきれない、そんなこともよくあるのだろうか。



「…………」



しかし、楓と綾の間には、そう大した思い出はない。ヤキモチを妬くほどの、他の誰かに嫉妬するほどの関係性などないはずだった。あるのは、その存在に惹かれていたこと、恐怖と入り交じりながらその存在に魅了されたこと。そして楓に友情ではない好意を向けられていること。ただの、本能と感情の話でしかない。そこに、なんの思い入れもなかった。



「……それで、惹かれるとか運命じゃん」



そんなことを口に出しながら、ため息混じりに笑いをこぼす。そんなのは夢物語だ。きっとまだ、夢見心地だからそんなことを思うんだ。そう考えて、朝のルーチンをこなすべく、綾は布団から這い出た。



・・—・・


楓は『電話がくる』たったそれだけの事に、スマホを片時も離さずその日を過ごしていた。しかし、日が暮れても期待した着信はなかった。まだ、早いから電話来ないかな。が、もう来るかも。になり。それが通り過ぎて、電話はもう来ないかもしれないと変化した。

床に座り、ベッドに寄りかかりながらぬいぐるみを抱え、両手で持ったスマホを眺める。着信履歴も、メッセージも何度も確認したけれど、スマホは無情な現実を示す。



「……はぁ。時間あったらって、言ってたもんね」



自分しかいない部屋に、弱音が出る。綾に限って忘れたなんてことはないはずで、だとしたら時間がなかったと、思いたかった。ただただ。あの一件で、関わりを避けられているとは思いたくなかった。



「吸血鬼、なんて。信じてもらえるのかな、」



楓は、吸血鬼だと明かさずに済むのなら、もっと時間をかけて、ゆっくり関係を築いていきたいと思っていた。自分が何者かなんて関係ない、そんな絆が持てたらいい。しかし、そんな時間はない。日に日に、綾を求める衝動は強くなっていることは自覚していた。自分が信じていた理性や自制は何の役にも立たない。その現実は、体育祭の日に痛感した。



――♪


「っうわ!」


手に持っていたスマホが着信を知らせる。半ば諦めていたそれが鳴り響き、楓の体は跳ね、スマホは床に落ちてしまった。慌てて拾い上げ、画面に表示された名前を見る。たった、それだけで楓の体は沸騰したように感じた。



「………もしもし、」


『あっ、九条先輩…?』


「うん、」


『ごめんなさい、遅くに。……電話、平気ですか?』


「…だいじょうぶだよ、」



綾の甘い声が、鼓膜を刺激して、脳が揺さぶられるようだった。



『電話遅くなってごめんなさい』


「ううん。電話くれてありがと。」



声を聴いて、後悔する。電話が来るまで、それ自体がないかもしれないと悲観していたのに、現実叶ったら欲が止まらない。こんな、電話越しじゃなく。直接会って話がしたいと。熱を感じて、笑って細める目を、恥ずかしそうに顔を背ける仕草を、赤くなる白い肌を、すぐそばで、見て、触れたい――



「…綾ちゃん」


『はい?』



「……好きだよ、」



『えっ?』


「綾ちゃんのこと、好きなんだ」


『っぁ………ぇと、』



電話口で明らかに困惑する声がして、楓は少し笑う。体育祭の日、あんなにも暴れていた欲情は、驚くくらい静かだった。どこか、回線が途切れてしまったかのようだった。



「ごめんね。もっと、綾ちゃんとの時間ゆっくりしたかったんだけど、あんまり余裕なくてさ」


『……、』



楓の体が、徐々に落ち、ベッドに預けるのは背中ではなく頭になる。楓の視界には、投げ出した足の上にさっきまで抱えていたぬいぐるみが映る。綾は、電話口の違和感に気づいた。



『…九条先輩?』


「綾ちゃんの声、好き」


『…』


「可愛い目も、好き。…白い肌も。…笑った顔とかさ、和那に方言真似されて、怒るとこも。実は、知ってるんだよ…」


『……あの、先輩…?』



「…長く、生きてきて、こんなの初めてなんだ」



そうして、スマホが床に落ち、綾に荒い音が響く。楓はスマホを拾うことすら叶わず。体は完全に床に倒れた。視界に転がったスマホは耳から離れているのに、愛しい声が届いた。

長い長い存在のオワリが、たとえ機械越しにでも愛しいその人を感じられるのなら、それは、幸せだと感じ、楓は声に集中できるように目を閉じた。



・・・


君に出会って、他の人の血なんて飲もうとすら思えなかった。君を求めるばかりで、枯渇の時期なんて忘れていた。

触れたら、君を壊してしまいそうで。触れなきゃ自分が壊れてしまうことは頭になかった。


でももう、君が得られないのなら、なにもいらない。


・・・



「先輩!九条先輩!?」



綾はスマホから楓に必死に呼びかけるが、反応はなく静かな雑音だけが聞こえた。



「えっ、何?どうしたの⁉」



しかしそれは、通話の問題ではなく、確実に楓に何かがあったということを示していた。一層不安が大きくなり、綾は血の気が引いて、体が震え始める。返ってこないスマホに縋って、何度も声を上げた。



『……、』


「………っ!」



気のせいかもしれなかった。それでも綾には、微かに、声が届いた。

綾は最後に大きく一言だけ送って、通話を切る。震える指にスマホは正確に反応して、綾の求める連絡先にたどり着くのに時間がかかり、不安は苛立ちになっていく。



「っ、なんなん!ちゃんとしてよっ」



誰でもない自分に叱責する。早くしなければならないのに、不安で指先が震えて言うことを聞かなかった。何度もやり直して、何とかその人へたどり着く。数回のコールの後、声がした。



『はーい、』


「か、かずな!」


『んん?どしたー?』


「せんぱい!九条先輩が!なんかあったみたいでっでも、私先輩のこと家も分かんなくて!」



早く早くと求めるばかりに、早口で内容も薄くなってしまう。それでも、連絡を受けた和那はそれに引っ張られることなく対応を返した。



『落ち着いて。綾。大丈夫だから』


「で、でも電話してたのに途中から返事返ってこなくなって……!」


『うん。わかった。ちょっと待って』


「………!」



電話口の声が遠のき、和那が誰かと会話しているのが聞こえた。



『三波さん?』


「えっ⁉」



急に聞きなれない声がして、混乱する。けれど、聞き覚えがあるような気もした。



『ああ、ごめん。楠本なつです。分かるかな、』


「くすもと、?」


『うん。九条さん、私が行くよ。家分かるから』


「っ!待って!私も連れてって!」


『でも、』


「お願い!こんなの待っていられない!」


『……わかった。私達もその方がいいし。ただ、何かあったら言うこと聞いて欲しい。それだけ約束して』


「うん!約束する!」



迎えに行くから、となつに近くのコンビニを指定される。綾はスマホと上着、玄関で家の鍵を握りしめた。



「綾、どこ行くの」



夜遅くに慌ただしく家を出ようとする娘に、親が呼び止める。綾は悪いことをしているつもりは無い。けれどこんな時間に外へ出ることも滅多になかった。



「っ、友達んち!急用らしくて!行ってくる!」


「こんな時間に――」



制止がかかる前に玄関を出た。なつがどのくらいで待ち合わせに来るかも分からなかったけれど、必死で走った。頭の中は、九条楓のことで埋まっていた。



「!三波さん」


「っ、は、はぁっ、」


「大丈夫?」



綾が待ち合わせのコンビニに着いた時、すでになつの姿があった。全力で走ったせいで、息が切れて気管が痛む。それでも、止まることなんて考えられなかった。



「っ、だい、じょぶです!早く、くじょ、先輩のとこっ!」


「うん。先に愛華に行ってもらってるから、大丈夫。慌てないで」


「っ、は、はぁ、……そ、なん、」



人が先に向かっていることに少しの安堵が生まれる。しかし不安も焦燥感も消えなかった。呼吸を深めにするけれど、心臓が落ち着くことはなかった。


なつの後について、楓のアパートに着き、部屋に入る。なつの背中の先では、愛華が床に座っていた。愛華は、なつの声に反応して振り返る。



「愛華、」


「ああ、なつ。あと、三波さん、」


「っ、」



楓はベッドに横たわっていて、その横で見守るように愛華が座っていた。綾の目から見ても、楓の顔は蒼白で、息をしているのか不安になるくらい生気が感じられなかった。不安が恐怖になる。



「九条先輩、大丈夫なんですか?」


「………」


「…愛華」


「……うん。限界、だね…」



愛華が深めにため息をつきながら零した言葉に、綾の心臓が締め付けられる。表情を曇らせた二人が綾へと視線を移す。その視線に、息が詰まった。



「なん、…なん、ですか」


「助けたい?」


「え?」


「……九条のこと、好き?」


「なっ、今そんな話してる場合ですか!」



急な言葉に驚いて、慌てて話題を否定する。綾には、今は楓が無事なのかが最優先で、そんな色恋話をする気はなかった。



「愛華っ」


「え、ごめん」


「ごめん、三波さん。愛華も悪気はなくて、」


「っ」


「……えっと、九条さん…私たちにも、まだ言えないことがあるの。だから、詳しくは言えないけど、三波さんが九条さんのことをどう思っているかはすごく重要なんだ」


「そんなの、」


「同情とか、そういうのはいらないから」


「………」


「三波さんの、今後にも関係する。だから、」



実際、そんな恋愛感情を抱くほど、関わっていない。好きとか嫌いとか、そんなに思えるほど彼女のことを知らないのだ。



「好きとか、知らない」


「………」



奥で横たわる楓を、綾は見つめた。愛華となつは、その視線に気づき静かに言葉を待った。



「…だって、九条先輩のこと、何も知らない。会ったばっかりだし。教室で起きたことは、訳分からんし」



愛華は、人間の当然の反応だと思った。真正の番だとしても、その思考までは操作できるものではない。



「………でも、」


「…?」



綾のその言葉に、二人の意識が向く。綾は、もっと彼女と話がしたいと思った。



「ここでお別れなんて嫌……」



何故か、泣きそうになり声が細くなる。楓との別れを考えただけで、綾の心は悲鳴をあげようとしていた。

愛華となつの問いに対して、自分の答えは勝手だと思った。はたから見れば罪悪感や偽善に思われるだろう。顔の見知った相手が生死を彷徨っていて、自分次第でその未来が変わるとしたら、どこまで強くいられるか分からない。しかし、『好きだ』とはっきりしない心を偽って向き合えるとは思えなかった。そんな綾の想いを、ふたりは強い目とともに受け取った。



「愛華、大丈夫だよ。きっと」


「……まぁ、だとは思うけどさ」



愛華は何を思ってるのかはっきり表さないまま、物言いたげな雰囲気を纏いつつ、綾に向く。視線は重なるけれど、あまりいい表情ではなくて綾は悪いことをしている気分になった。



「…三波さん。九条は枯渇してる」


「こかつ…?」



愛華の言葉は端的で、本人の雰囲気とは別で必要な情報を、伝えた。



「そう。ちょっと特殊な身体でね。人の血が必要なんだ。でも今はそれが不足してる。それを枯渇って呼んでるんだ」


「………」



綾は、手のひらの傷を触れられた記憶を思い出す。あの時も、血が必要だったのだろうかと過り、そして今とは似ても似つかない獣のような姿と、紅い眼が綾の体を擽った。



「私の、血?」


「…そう」



愛華が伝えてくる言葉たちに、綾の頭の中でパズルが組み立てられる。教室での出来事、紅い眼、狼、そして生きるための血を飲む。どこかで、聞いたような、物語の中のような、感覚。

有り得ない、気持ち悪い、怖い。そういう思いを抱えてもおかしくない。だから、楓をどう思っているのか問われたのだ。


ほぼ完成した脳内のパズル。綾に、戸惑いはあっても嫌悪はなかった。



「………分かった」



その感情、行動は人に言わせれば『好き』以外の何物でもないのかもしれない。でも、綾はそんなことどうでもよかった。



「どうしたらいい?何かで切ればいい?」



迷いのない綾の行動に、愛華は少し驚いたが、意志の強さを感じ取った。



「なつ」


「うん。」



ごめんね、そう言って、なつは綾の手を握る。綾の指先に小さな痛みが走り、じんわりと熱くなる。赤い雫がじわじわと滲み出た。それは、手を下にすれば滴るほどだった。なつは、綾を楓の元に誘導し、口元へと指先が持っていく。



「……っ、」



近づくと余計に伝わる生気のなさに、綾の背筋が冷たくなる。生きていると思っていいのかすら分からなくなった。しかし、その間にも滴った雫は指を離れ、楓の口腔に流れ喉元が動かされた。綾の不安げな視線に、なつの安心させるように声をかける。



「大丈夫?…あと少しでいいからね」



少しだけ微笑んで、優しい声がかけられる。なつにそっと手を握られて、綾の指先は楓の唇に触れた。



「っ!」


「……、…ん」



その瞬間、楓から声が漏れる。自分の顔に熱が籠るのを感じながら、その反応に不安と焦りで硬くなっていた気持ちがゆっくりと解れていく。

徐々に顔色が戻り、綾は指が離れる。それと同時、なつは血を拭きその手を両手で包んだ。



「……楠本さん?」


「…うん、いいよ。手洗ってきて」



言われて洗面所に向かう。手を洗って、傷を見ようとして、それが綺麗に無くなっていることに気づいた。



「え、なん、で、?」



よく分からない出来事。常識や普通という言葉では説明できない現実。それは確実に、目の前の日常を侵していく。



「おかえり。」


「楠本さん、これ……」


「私も、ちょっと特殊なんだ。それはお詫び。気持ち悪かったかな、ごめん」


「…そんなことは、ないですけど…」


「……、三波さん。九条、明日には目覚ますよ、たぶん。三波さんはどうする?」


「えっ?」



なつの能力に戸惑い返事が返せない綾に、愛華が声をかける。なつは気づいていなかったが、立て続けに起こる綾には、自分自身に影響を及ぼされたのはこれが初めてだったのだ。さすがに愛華も同情した。



「学校は明後日からだし、ここで起きるの待ってもいい。別に学校まで待ってもいいと思う。目が覚めた時三波さんがいれば嬉しいだろうけど、今のことは九条が知らないまま進んでるから、明後日まで時間があってもいいとは思う」


「…………」



視線を移せば楓の顔色は戻っていた。その目が開いた時、出来ればそこに居たいと綾は素直に思う。



「ここで待っていい、ですか」


「うん。じゃあ…」



頼んだよ、そう会話が終わるタイミングでそれを阻止するように綾のスマホが鳴動した。綾は確認すると、「ごめんなさい、ちょっと」と部屋の隅で電話を受けた。その様子に、愛華となつもこの先の展開に予想付いた。



「九条さん、一人には出来ないよね」


「そうだね、三波さんがいてくれれば色々都合よかったんだけど」


「そうなの?」


「…ここまで来たら、番になった方が良くない?そのためには離れてたら進まないじゃん」


「……そっか。まぁ、確かに…」



イマイチぴんと来ていないなつの心理は『私には分からないけど』という劣等感で、それに気づいた愛佳は罪悪感に埋められる。

瑠衣の言っていた、なつの番が現れるのなら早くして欲しいとすら思う。なつには、笑顔でいてほしい。けれど、それがなつを苦しめるなら。もしくは、叶わないのなら――



「ごめんなさい、帰らなくちゃいけなくなって」



綾が電話を終え、申し訳なさそうに部屋の隅から帰って来た。それに愛華は思考を中断させる。



「親御さん?」


「うん。友達の家泊まるって言ったんだけど、急で許してくれなくて…」


「心配してくれてるんだね」


「そう、だけど…」


「三波さんのおかげで、九条さんは大丈夫だよ。私達も一応どっちかは残るからさ、心配しないで」


「……すみません、」



綾が苦しそうにしているのを見て、なつは綾に笑顔を向けながら背を撫でた。慰められるようにしながら、綾は楓の家を出る。愛華を残し、なつが送ることになった。待ち合わせたコンビニにまでと綾は提案したけれど、なつは家まで送ると譲らず。結局コンビニを通り過ぎ、綾が一人で走り抜けた道を二人で歩いた。大した会話もないまま自宅へとたどり着いてしまった。



「あの、ありがとうございました」


「…ううん、気にしないで。九条さんにも愛華がついてるから大丈夫。あ。」


「え?」



なつがスマホを取り出し『連絡先交換しよ』と言い、綾はそれに応えた。互いのスマホに連絡先が一件増えるのを確認してスマホが閉じられる。



「なんかあったら、連絡して。」


「あ、うん」


「………ほら、あの、九条さんとかさ。今日は偶然和と居たから良かったけどさ、心配でしょ」


「、うん。ありがとう」



和那に連絡したとき、関係性に不安はあった。事実、和那は来ず、怪我のせいもあるとは思うけれど、楓が『特殊』と言われるのと和那の『狼』であることが関係していることは体育祭の件も含めて検討がついていた。



「…じゃあ、気をつけて」


「うん、」



なつから送られた『気をつけて』という何気ない一言が、和那に告げられた『気をつけて』に重なってどこか不安になった。綾には、今までになく分からないことが多く先が予想できないことに恐怖と不安が巻き起こる。何となく、当たり前だった日常がちょっとずつ変化して。ありもしない出来事に怖くなる。



『気をつけて』


九条楓という存在は、自分に危害を及ぼすのだろうか。


さっきまでの楓を目の前にして迷いのなかった綾が嘘のように、世界は迷いと疑心、不安と恐怖に覆われた。



・・・



真っ暗な世界は、怖くなんてなかった。ただ。どろどろに溶けていくような、体が無くなっていくような感覚は極めて不快だった。吸血鬼は灰になる。それは、ただの伝承だと思い知る。もし、灰になったら、どこかで聞いた歌のように君の元に行きたい。

でも私は欲張りだから、君の周りにほんの僅かでいいから漂って、時々イタズラに、思い出してと呼びかけて。君の頭の片隅にいられたなら、幸せだと思うんだ。


でも、そんなものにはなれないと分かる。体はどろどろに溶けて、無くなっていく。存在は灰という塵すら残さずに消え去る。


・・・



「――…、」



楓の口元が動き、胸郭の動きとともに空気が動く。小さかったそれは、数回繰り返したのちに、ひときわ大きく動き、ゆっくりと薄く目が開いた。



「あ、起きた」


「…あいか、?」



傍で見ていた愛華の声に反応し、視線が動く。目の前の存在を認識し、呼称できたことに愛華は安心した。少しぼやけた表情のあと、何かを思い出すように表情が生気を含む。



「私、どうしたの?」



そんな疑問に、愛華は嫌な顔を隠さなかった。



「枯渇したんだよ、阿呆」


「枯渇…」



呆れたようにぶつける愛華を気にも留めず、楓はただその事実を受け止める。枯渇は、人間でいう空腹と同じだ。気づかないことが異常なのは説明しなくても分かることだった。



「体は?」


「え?そういえば、そんなに辛くない…」



万全ではない。しかし、記憶の最後にある、あの吞まれるような、体が動かせない感覚はなかった。そして、楓はもうひとつの体の変化に気づく。それは綾への衝動だった。飢えた獣のような、綾を喰らいたい欲が影を潜めていた。



「…どういうこと?なに、これ」


「…」



楓に嫌な予感が走る。体は気持ち悪いほどに変化した。枯渇は改善されたのに、血の気が引く。そんな楓を愛華は静かに見つめた。



「愛華。私、もしかして…」


「考えているようなことはないよ。九条は三波を傷つけたりしてない。枯渇したその体で襲わなかったのは、九条の自制の強さだと思う。ただ」


「…」


「その体に血をくれたのは、三波綾だよ。たった数滴だけどね」



愛華は続けて経緯を説明したが、楓は頭が真っ白になり無意識に呼吸を止めていた。耳に入る言葉を処理するために脳を動かさなければならなくて、脳を動かすには、酸素が必要なのに。呼吸は止まって、唾が溜まる。その不快感がやっと唾を飲み込ませて、呼吸していないことを気づいた。



「…吸血鬼とは言ってない。ただここまで来たら勘づいてはいるとは思う」


「……そ、か」



なぜ。止めてくれなかったのか。こんな形で彼女の血を得たくなかった。その辺の人間の血でも与えてくれたなら、枯渇くらいは脱せたのに。そんな思いが楓の脳内を巡る。しかしその先で、十分に血を得た自分は三波綾を貪りに動いたかもしれないとも思った。結局、踏み切れずコントロールできずに動けなくなり、それを三波綾に知られるような末路をたどった自分が選んだ現実なのだと受け入れるほかなかった。



「…九条が言った通り、番は運命だよ。離れられやしないんだ」



楓は反射的に愛華を見る。心臓が大きく跳ね、体が熱くなるような感覚だった。自ら望んだものでは無い。好みの話ではない。しかし、どんな遠回りをしても、行きつく先は変わらない。



「…分かるよ。今、自分の体が、その数滴でこんなにも満たされてる。どれだけの人間の血でもこんなに満たされたことなんてない。だからこそ、これから先、あの子の血以外で満たされることはないんだ」


「……、」



それは、三波綾を番としなければ、人間を襲い続ける、ただそれだけの吸血鬼に成り下がるということだ。いつまでも満足しない。飢えに侵され続ける。そのうちに、気は狂い、正気を失い、九条楓は処分される。そのころには、三波綾の命を奪うだろう。



「ね。綾ちゃん、何か言ってた?」


「いや、ただすごい心配してたよ。存外、両想いなんじゃないの?」


「……それだったら嬉しいけど、多分違うよ」


「…」



『番』だから、惹かれ合う。楓自身、綾への想いは好意だと思った。きっと、恋愛感情でもある。けれど、それは番に対しての本能的な部分があるのは否定できないとも思っていた。綾の楓に対する想いも、それを鑑みれば『好意』とも『両想い』とも判断できるものではない。



「いつもの『大丈夫だよー』じゃないんだ?」


「あはは、そんないつも言ってる?」


「言ってるよ」



少しだけ明るく振舞った楓に、愛華が真面目な顔をして真っ直ぐな視線を送る。そして普段は見ない優しい顔をした。



「私は、それに救われたりしてる」


「………、」



しかしそんな表情は一瞬で、『イラつくこともあるけどね』と、イタズラする子供のように笑った。

楓は、愛華と笑いながら思う。この、たった数滴を呑み込んだこの体を、失うことなんてもう二度と出来ず、その数滴に縋り、この先何百、何千年と生きていくのだと。そして、それだけを胸に抱き、自分が分からなくなったころ、この目の前の人に処分されたい、と。



・・・


細くて長い、九条先輩の指。腰から服の中に入ってきて、背中をゆるゆると撫でられた。くっ、と息が詰まる。ぎゅうっと力を入れた先には九条先輩の服があって、目の前の胸元に顔を埋める。



「かわいい、綾ちゃん」



綺麗でかっこいい見た目と少しイメージが違う、ふわふわした可愛い声。私の時だけ、優しい声。長い腕が包んでくれて、熱が伝わってくる。



「舌、出して…?」



躊躇うはずのその要求に、何故かすんなりと口を開けて、小さく舌を出す。それに、九条先輩は満足気に笑ってくれて、背筋が痺れるほどの感覚が舌を襲う。ぬらぬらと絡んで、誘導されるように九条先輩の口の中へ入る、


そして。硬く尖った歯に、触れた。

ビクついて目を見開くけど、長い腕も、絡む舌も緩めてくれなくて。代わりに、紅い眼が射抜いてくる。はぁ、と互いの狭い隙間に熱い息が吐かれて、頬を、撫でられる。



――――「血を、ちょうだい……?」







「っ!!」



目が覚めると同時、綾は布団ごと床に落ちていた。いつもと違う目覚めに戸惑って脳が動かず、呆然と天井を見つめる。



「…………、………、」



指先ひとつ動かさず、現実の世界を受け入れようと静止した。現実を受け入れるということは、夢を見たと受け入れなければならなくて、それに対しての処理が追いつかなかった。



「……、起きなきゃ」



声を発して、耳で聞く。指先をちょっとずつ動かして、その身を感じ取る。ゆっくりと深く呼吸をして、身体に意識を持っていく。そんな過程を得て、綾はやっと布団からのそのそと起き出した。

どうしてこんな夢を。夢は記憶の整理だと言われていることを思い出す。そうして、考えてみれば綾は楓に告白をされていた。もう一週間が経つ。けれど、綾にとって、楓が吸血鬼だと疑うよりも、その好意に対しての整理が必要だった。



「九条先輩……」



綾は、自分の声を聞いて驚く。友人を呼ぶいつもの声と違う。あまりに愛おしそうだった。


「綾!いつまでシャワー浴びてるの。遅刻するよ」


家族からそんな声が届くまで、綾はお風呂場を占領していた。





「綾、おはよー」


「…和那、」


「え。何、せっかく学校来たのにその反応」



なんとか遅刻せず登校し、席に着く。そんな綾に和那は元気よく声をかけた。体育祭から約一週間。回復してからふたりが顔を合わせたのは今が初めてだった。しかし綾の反応は乏しく和那は拍子抜けする。



「ごめん。からだ、大丈夫?」


「大丈夫。大丈夫!」


「…私の事守って、怪我したんでしょ?ごめん」



綾はあまりに元気な和那に忘れてしまっていたが体育祭を思い出し、気が沈む。それを見た和那は言葉を選ぶように視線を泳がせた。



「……狼ってさ、人間を守る役割だったりするんだよ」


「そう、なんだ」


「そ。だから、綾が責任を感じる必要は無いの。それにあの怪我はどっちかって言うと……、」



体を貫かれたときのことを思い出す。あの時、和那が守ろうとしたのは綾ではなかった。



「和那?」


「あ、ううん!とにかく、気にせんでー」


「………。」



急に割り込ませてきた半端な方言に、綾は口を閉ざす。それは、以前と変わらない友人との光景だった。

ホームルームを挟み、和那は気づいたように綾に疑問を投げつける。



「そういえば、九条さんは?」


「……あの日から来てないみたい。ずっと休んでる」



綾はこの一週間、楓に何度か連絡はしていたが電話は繋がらず、返事もなかった。もちろん姿も見ていない。



「……ふぅん」


「なつさんにも連絡しようか迷ってるんだけど」


「ああ、なつと連絡先交換したの?」


「うん。優しいよね」


「………そうね」


「なに、その間」


「いや、私にはあんま優しくないからさ…」


「………、」



綾は、和那となつの関わりを一度しか見たことがない。確かにその時の記憶では、自分に接するほどの優しさはなかったと思う。しかし、それがなつの素だとするなら少し羨ましくもあった。

素で接せれる相手。そんな存在は探そうとして見つかるものでは無い。綾は転校してきてから日が浅く、まだ和那以外との関係は乏しかった。そして和那と親しくできているのも、和那の人柄が大きく影響していることは理解していた。


昼休み。綾は、なつを探してその場を邪魔してしまうのが悪い気がして、教えてもらった連絡先へスマホを操作した。



『……はい』


「あ、なつさん?三波です」


『うん。どうしたの?何かあった?』


「ううん、大したことじゃないんですけど…九条先輩、どうしてるかなと思って」


『連絡来てないの?』


「連絡してるんですけど、返事来てなくて」


『……そうなんだ。私からも話してみるよ。』


「……うん、」


『………大丈夫だよ』


「え?」


『三波さんのおかげで、ちゃんと目覚ましたし、少し元気ないけど大丈夫そうだったから』


「………うん、ありがとう」



通話を切る。なつの落ち着いた声と楓の状況に、綾は少しだけ安心した。しかし、不安は消えなかった。なぜ、会えないのか。自分のせいなのかもしれない。九条楓のその特殊な体質が、自分に知られたから。



「……好きって言ったじゃん、あほ」



綾の、拗ねた声が木霊して、雑音に消える。スマホをどんなに操作しても、楓からの連絡はなかった。画面を閉じれば、真っ暗な液晶に悲しげな自分の顔が写っていた。目を逸らしたくて顔を上げると、視界は一面の青空になる。綾はなつに連絡するために、屋上にいた。綾の心情とはかけ離れた空だった。

綾は、燻ぶった気持ちをどうしていいのか分からなかった。楓は姿を見せず、手を伸ばすべきかすら悩んで。誰よりも関りの短い自分が、その言葉に苦しんで。血を渡す。そんなこと、誰にするわけがないのに、それを伝えるすべがない。出口のない想いは積み重なり、いつか息が詰まるのだと思った。                                                



楓は、床に座ってスマホを見つめていた。一日数回に及んでいた綾からの連絡通知は、頻度は減りつつも途絶えることはなく、溜まった通知は二桁にまで上っていた。楓の頭には、ぼやけた意識の中で何かに縋るように想いを口にしたことが根を張っていた。回線を通した言葉に熱量が篭っていないことを願うけれど、それはただの現実逃避であり、そんなことは許されないのだと思う。三波綾という存在に、番というソレに。離れられるわけがない。

なのに、彼女へ堂々と思いを告げ、向き合い、共に生きて欲しいと願う、覚悟ができない。



「……そんなんじゃないか」



楓は自分の声があまりに力のなく響いて情けなくなる。綾と、吸血鬼を口実にして逃げ、結局、向き合うことが出来ていないのは誰に対してでもなく自分自身だった。楓は、そんな現実からまた逃げるように、スマホを床に放った。



「なんなの、吸血鬼ってヘタレばっかなの?」


「…………、なに、してんの」



楓の頭に神出鬼没の言葉が浮かぶ。投げたスマホを拾い上げたのは、家にあげた記憶のない愛華だった。



「うわ。三波さんからの連絡全無視?サイテー」


「ちょっと、勝手に見ないでよ」



楓は立ち上がって、愛華の手からスマホを取り返す。 画面を確認したが、綾からのメッセージは開かれていなかった。安心と落胆を感じながら、楓は再び画面を閉じてスマホをポケットにしまった。



「そもそもなんでここにいるの?どうやって入ってきたの?」


「甲斐甲斐しく連絡をしてる女の子に、なーんの返事もしない輩がいるって聞いたから喝入れてやろうと思って。あ、鍵はこの間九条が枯渇した時に借りたやつ」



返すよ、と愛華は鍵を放り、楓は慌てて手を出して受け取った。鍵に気を取られているうちに、愛華は楓の横を過ぎ部屋奥のベッドに腰掛けた。



「スペアキー、無いことくらい気づきなよ」


「そんな借りたって言ったって、勝手に取っていったやつなんてわかんないよ」


「警戒心が足りないね。長く生きてるヤツらってそうなの? 下手に死ぬこともないし、守るやつがいないんじゃそうもなるか」


「………なにが言いたいの、」


「何かが言いたいのは分かるんだ?イラついてんね。そこらの血でも奪ってきなよ、吸血鬼」


「………っ、」



ベッドに無断で座り、足を組む。だるそうに姿勢を崩した愛華は、楓から目を外すことはなかった。挑発的な態度と言動に、楓は感情が揺さぶられて言葉が出なくなる。そんな楓に、愛華はため息をつく。



「…いつまでそうやってるつもりなの」


「……」


「お前らの半永久的な命と違って、人間の一生は短いし危ういんだ。いつ死ぬかなんて分からない」



今、こうしている間にも時計の針は進み、終わりへ向かっている。その終わりは、必ずしも数十年後の未来とは限らない。



「こうやって悩んでる間に死ぬかもしれない。そんな自分可愛さに浸ってる時間なんてないんだよ」



思考を表面化させるように、当てつけるように。苛立たせるように愛華の言葉が追い打ちを掛けてくる。

楓が運命だと称する真正の番は、唯一人だ。吸血鬼の一生においてですら、出会えないこともある。その人に出会えたことは、あまりに幸運だ。そして、そうなったら最後。その運命に抗うことも、欲に逆らうことも、逃げることだって叶いはしない。



「何悩んでるんだって、聞くつもりは無いよ。真正の番は希少だ。九条は三波綾を逃すことなんて許されない」


「……分かってる」



楓はそんなことは分かっているのにと歯を食いしばった。仮に、三波綾を逃す、もしくは何らかの形で別れることになったとして、自分は地の果てまで追いかけるだろう。もしその命が途絶えたとしたら、僅かに流れる彼女の血が枯れ果てるのを待って命を投げるだろう。

それくらい、惹かれて惹き付けられて。求めて、仕方がない。



「……、」



しかし、楓はそこまで何度も行きついては、『でも』と振り返る。追い求めるその欲求と、自分の隣に置き、一生を共にするその覚悟は別だと思ってしまう。



「愛華が、言いたいことは分かってるつもりだよ。いつまでもこうしてなんていられない、」



三波綾は、人としての時間軸にいる。今は高校生だけど、これから卒業して社会に出て、成人して…あっという間に、その命を終えてしまう。

自分が選べる答えは一つしかない。そんなこと分かっているのに、それを自分の答えだと決める、そんな覚悟がない。

楓の言葉を最後に、会話が途切れて沈黙が部屋を占める。それがたった数秒だったか、数十分だったか過ぎたころ、来客を知らせる電子音が響いた。




「!」



動かない楓をすり抜けて、愛華が玄関に向かう。



「っ、あいかっ!?」


「はいはーい、どちらさ、ま。」



お互いが、三波綾の来訪だと予想した。しかしそれに対しての想いは反対だった。楓は愛華を止めようと手を伸ばしたが、玄関が容赦なく開かれる。



「……愛華、来てたの?」


「……、」


「………なつぅ…、」


「え?ごめん。なに?」



愛華の項垂れと、楓の安心するような顔。目の前のあまりに差のある反応に、来訪したなつは意味が分からなかった。



「……えっと、お茶でも入れる?」



その言葉は自分が言うべきではないと承知していたけれど、部屋に入ることを許された後もあまりに固まった空気になつは思わず口にした。難しい顔をして黙り込んでいた愛華が、立ち上がろうとしたなつの腕を掴む。



「そんなことしなくていーの!お客でしょ!」


「…愛華に言われることでもないと思うんだけど、」


「……ごめん、今淹れるよ」


「あ、ごめん、九条さん」



元気なさげに楓が席を立って、キッチンに向かう。飲み物を要求した形になり申し訳ないとは思ったけれど、なつが訪問してから膠着状態が続くこの空気を打破するため、その後ろ姿を見送って、なつは小さく会話を始めた。



「なに、この状況」


「何その目。何もしてないよ」


「何もしてないのに九条さんがあんなになるわけないじゃん」


「私が来た時からあぁだったって!」


「………ふぅん」


「うわ。信じてない」


「愛華って時々、心の中読むみたいに考えてること言い当ててくるから。切羽詰まってる時ってそういうのキツいよ」


「……そうなの?」



少し気まずそうな顔をする愛華を見て、何となく自分の来る前の展開が予想づく。きっと、楓が必死に考えていることを感情論なしにして攻めたのだろうとなつは理解した。愛華は逸らした目をそのままに少しだけため息をつく。



「…なつこそ、何しにきたの」


「九条さんが心配で来ただけだよ、三波さんが心配してたから」


「そう。その三波さんは?」


「?来てない、来ないよ。私が話してみるって言ったから」


「ふーん…」


「なに、どうしたの?」



さっきと引き続き残念がる様子の愛華に、なつは疑問が浮かぶ。しかしその答えを得る前に楓が三人分のお茶を持って戻った。



「ありがとう」


「ううん、ごめんね」



楓は順にマグカップを下ろして、最後に自分の物を目の前に置く。そうして、さっきと同じ位置に腰を下ろした。一度仕切り直されたせいか、先程よりは確実に会話がスムーズに切り出される。



「それで、愛華はなんで来てたの?」


「甲斐甲斐しく連絡を待つ女の子を放ってるやつに喝入れてやろうと思って来た」


「あぁ、三波さんね」


「……なつもそれで来たの?」


「うん。三波さん心配してたよ。だから、何かあったのかと思って」


「……そっか、ごめん」


「…なんかあった?」


「……、」


「え?何かあったの?」



なつの問いかけに言い淀む楓を見て、愛華が驚いたような反応をする。さっき聞く気ないって言ったのに…と楓は内心思う。しかしハッキリしなかったのは自分だしな、と思いとどまった。そうして、このめんどくさい思考に行き着いた理由を思い出す。



「……好き、って」


「「好き?」」


「好きって、言っちゃったんだ……最後の電話で」


「……………う、ん。それで?」



長い沈黙の後、なつが必死に声を絞り出した。



「だから、その返事をもらうのも、これから先、一緒に生きていくことを願うのも……覚悟ができないっていうか…」



楓にとって真面目な話だった。しかし、空気は冷めていく。なつは、真正の番は特に、覚悟や気持ちはその欲に勝ることなく、その本能が先立つものだと認識していた。そしてそれは間違いなどなく、その差に、感情を顕にしたのは愛華の方だった。



「…ちょっと待て。お前、そんなことでこんなことしてんの、」


「愛華、落ち着いて」


「……。」



怒りまで含むような愛華の口調に楓は口を噤む。楓自身、『そんなこと』だと言われることは感じていた。しかし、自分にとって、告白の後綾に会うことは、『一生の別れ』か、『一生を共にする』かのどちらかでしかなかったのだ。楓の返答を待たずに、愛華は頭を抱えてスマホをいじり始める。なつはそれを横目に見て、すぐ楓へと視線を戻した。



「体育祭の時、九条さんが私に言ってくれたこと覚えてる?」


「………体育祭?」


「そう」


「…………、」


「私は、三波さんのことどう思うって聞いたの」



楓はその言葉に、木陰でしたなつとのやり取りを思い出す。あの時楓は、綾のことを純粋に愛おしく思っていた。



「その時にさ、」



楓が記憶を巡らせている途中でなつが言葉をつづけ、楓はその言葉に集中した。



「難しいこと考えられないくらい好きな人に私も出会えるって言ってくれたじゃん」


「…うん、」


「嬉しかったんだ。そう言ってもらえたこと。……まだ分からないけどさ、私もそういう人に会えたら…いいなって」



なつの言葉は、どこかで希望でしかなく、その希望すら肯定しきれていなかった。なつの過去を楓はよく知らない。だからこそ、なつの相手を否定しない関わり方や、自己否定が抜けきらない思考は際立って見えていた。なつが少なからず希望にしようとしているその言葉を、今更自分の自信のなさで崩し去ることはあまりに、最低だと思った。



「だから、九条さんも三波さんと一緒にいて欲しい。難しいことなんて考えなくていいんだよ、全部吹っ飛ばして、三波さんの隣にいてほしい。それくらい好きなんでしょ?」



なつに伝えたあの時の言葉を、楓は自分の糧にしたいと思う。今、なつの瞳は、建前も、嘘偽りもなく、楓を信じている。



「……うん、」



そして、最期だと本能が理解しながら綾に伝えたその言葉は、楓にとって心からの願いだった。どんなに自信がなかったとしても、そのすべては責任がある。なつに言った言葉も、綾へ送った想いにも、楓はそれらから手を放して良いものではない。

楓の目が、前を向く。三波綾に会う。そんな思いが芽を咲かせた。



「じゃあ。明日の放課後ね」



沈んでいた思考が少しだけ上向きになった、その瞬間。主語も脈絡もない言葉が飛び、なつと楓は、ほぼ同時に声の元である愛華へと視線を向けた。



「三波さんに連絡しといたから。返事来た」


「愛華、三波さんの連絡先知ってたの?」


「知らないよ」


「じゃあ、どうやって…」



なつの疑問に、愛華は口角を上げる。



「九条は知ってるもんね?三波さんの連絡先」



愛華は、手に持っていたスマホを見せつけるように、指先でつまんで眼前で揺らす。それに大きく反応したのは楓だった。



「っ、私の!」



現実を否定するように、さっきスマホを入れたポケットを探る。間違えようのない空虚感だけが手に触れた。



「無いことくらい気づきなよ。警戒心ないなぁ」


「っ!!」



楓は、慌てて愛華の手からスマホを取り返す。画面を見れば、今度こそしっかりと綾からのメッセージは開かれ、楓に成りすました愛華が返信をしていた。そして、そのメッセージには綾からの返信が来てしまっている。その現実に直面する楓を不憫に思いつつ、なつは愛華へと目を向けた。



「……愛華」


「いいじゃん。なつの言葉で九条も決心ついたっぽかったし。ならもう、会うだけ」


「……、あしたの、ほうかご……」


「九条さん、しっかりして」


「…………、」



楓は、震える指で画面が動く。画面が示す内容に、喉が詰まる。胸が、苦しくなった。今に至るまでのいくつものメッセージ。そして、愛華の送ったメッセージに、間を置かずに来た返信。たった数行の、影もない文字達。綾を追い求める本能が、追いつけないほどの感情を溢れださせる。泣きそうで、笑いだしそうで、でも、苦しくて息ができない。



「綾ちゃん……っ、」



君が、欲しくてたまらない。



・・・


鼓膜に響いたその振動は、脳を直接揺さぶってくるようだった。


ドクン、と心臓が跳ね上がり、息は、無意識に止まる

本能が君を食い破らないように、無駄な行為を捨て、すべてを理性に注ぐのに、飛び込んできた君の存在は、そんなものなんの意味も無いかのように、すべてを消し去ってしまう。


・・・



一日を言うのはあっという間だった。時計の針を追っているうちに、本当にただそれだけで翌日の放課後を迎えた。楓は手元からメッセージを知らせる音がして、スマホを開く。それは予想通り綾からだった。場所を確認する内容を見て、そういえば『放課後に学校で』という約束しか交わされていなかったと気づく。しかし、楓はそこまで細かい約束がされていなくて良かったとも思った。近づくだけ、彼女の匂いは強くなって、その場所に行けなくなってたかもしれない。

それでも。普段、学校で過ごしている彼女の痕跡は多く残っている。移動教室の先に匂いがあれば、今日はその授業だったのかな、と思いを馳せた。



「九条さん?」



自分の名前が呼ばれて反射的に声の方に目を向ける。人の気配はなかったのに、と焦ったけれどその姿に安心したのは、その人だったからだ。



「弓希…」


「ふふ。こんな時間に来ても授業はないよ?」


「……単位足らなくなるかな」


「狼谷先生が心配してたからそうかもしれないね」



ふふ、と笑を零して松本は九条を見つめる。学校という場に学生と保健医。状況にはあっているけれど、そんな会話はなんの意味もないことは分かっていて。松本にとってもその会話はただの『流し』程度だと分かる。何しに来たのかなんてお見通しの様だった。



「……狼谷先生だけじゃないよ」


「え?」


「なつも、愛華も、香柄さんも上矢さんも心配してる」



何を、なんて聞く内容でもない。でもだからこそ、自分の自己評価は他者とあっているか不安になってしまう。普段気づかないズレは、こういう時に露になってしまうものだ。



「みんな、待ってるから。もちろん、私も」



楓はその言葉を素直に受け取れなかった。なつや愛華はそうかもしれないけれど、和那や量は、狼で…体育祭の時には楓は二人を傷つけてしまった。そんな相手を待つなんてことあるのだろうか。

でも、きっと。松本が言いたいのはそんな事じゃなく。戻っておいでって言ってくれているのだと分かっていた。



「うん」


「じゃ、私は見回りして帰るから。気を付けてね」


「…ありがとう」



松本の姿を見送って、楓は息をつく。まだ、綾へのメッセージを返していない。場所の指定はまだだ。その返事をすれば、綾に会い話をすることになる。



「………、」



ここまできて。そう思うのにまだ、もう少し、と引き延ばそうと返事を送らない。綾の痕跡が、心臓を叩く。動悸は治まることを知らず、呼吸が浅い。時折深呼吸をしたり仕切り直すように息をつくけれど意味なんてなかった。

落ち着かない。そんな状態で会うのが怖い。そんな思いが楓を呑み込んでいく。

誤魔化しを重ね当てもなく歩いていたはずが、気づけば綾の教室にたどり着いていて何気なしにそのドアを開ける。ガラガラ、という音がやけに大きく聞こえて誰もいない教室の静けさを際立たせた。綾の香りの強い辺りを見つめる。ここがきっと彼女の席だと見つめた。夕日に照らされる教室は、どこかでみたホラー映画みたいだった。

数少ない綾と過ごした学校生活。松本に処置された、あの時の傷はもうない。なのに、あの時の衝動は今まさに楓を襲っていた。

楓は唾をのむ。こんな状態で、綾に会って、果たしてろくに会話をすることが出来るのだろうか。本能に押しつぶされて、その血を吸い尽くすことはないだろうか。君の命を奪うことにならないか。あまりの香りに頭がクラついて、楓は教室を出ようとした。瞬間。



「九条先輩…?」


「!!!」



鼓膜に響いたその振動は、直接脳を揺さぶり、思考はすべて吹き飛んだ。

ドクン、と心臓が跳ね、本能が渇望する。

喉が詰まるように呼吸が止まり、すべてはその対象に注がれる。


――見開いた目は、君を映せば止まれないと知っていた。体の命令に背こうとする理性が、君を捉えようとする本能とせめぎ合う。

教室の中を、目が泳ぎ、無駄に机や椅子、黒板、天井、掲示板を辿る。ドアを映し、そして、制服に身を包んだ女子生徒を映す。


最後まで、君を逃がそうとして

最期まで、君を捉えようとする。


そんな私を知らずに、君は動き出して。

飛び込んできた君の存在は、理性すべてを消し去ってしまう――



「――っ!!」



楓は一切動いていない。けれど、楓の胸には綾が飛び込んでいた。



「あ、やちゃ…!」



綾の大胆すぎる行動に、楓の体が硬直し、声すら言葉にならなかった。



「良かった……生きてた…、立ってる」


「!」



楓の綾との最後の記憶は、機会を通した通話だった。しかし、綾にとっては枯渇したその身を目の当たりにして、意味も分からないままにその血を差し出したのが最後だった。そんな少し考えれば気づくことを、今この瞬間まで楓は気が付かなかった。彼女にとって、死を目の前にしたこの身は、きっと恐怖でしかなかった。



「あほ!なんで連絡くれないの…!」


「……っ、」



綾は楓の体を抱きしめ、逃さない。震える肩とは裏腹に、その力は緩まなかった。それは、残酷に。楓の唸る本能を、呼び覚まし自我を失わせていく。楓の関節が、軋む音を立てた。襲おうとする体を、楓は必死に抑えつけていた。



「あや…ちゃん、」


「……っなに?」


「……、言わなきゃいけない、ことがあって」


「……、」



楓は、自分が吸血鬼だということ、そしてその番であり逃れられない運命だということ、それでも、綾が望まないのなら、僅かな血で生きていこうと、思っていること。それを、自分の口から伝えたかった。



「私は…人間じゃない。吸血鬼なんて、信じられないかもしれないけど。でも…」


「…嫌」



綾から零れた言葉に、楓の世界は一瞬にして色が変わった。楓は楓自身が信じてやまなかった自負できるほどの『理性』を塵のように吹き飛ばされ、ない事が必然だと押し付けられる。

煙を掴むような感覚は、悲しいとか虚しいとかそんな感情を追いつかせないままに、思考も思念も、体に司令を出す信号までも、すべて本能に染め上げられた。

そうして突き付けられ、理解する。番の僅かな血で、生きていくなんてことは不可能で、到底、届くはずのない理想だ。



「!?」


「嫌だなんて、言わせない」


「くじょ…!」



抱き付いていた綾の体を力任せに引き剥がす。綾は痛みに顔を歪ませたが、楓の意識にそんなものは感じ取られなかった。そして、紅く染まった瞳に、綾が映る。



「――‼」



――響いたのは、君の愛の言葉でも、私を呼ぶ、甘い声でもない。

酷く、気持ち悪い。自分が「何」なのか思い知る。

君の細胞が悲鳴をあげ、その命の根源が、私に流れ込む。


ただ ただ。

本能だけに支配され、埋め尽くされた世界が広がる――



…ぐじゅ


教室に、表現し難い生々しい音が響く。それは、吸血鬼が、愛しいその人を喰らう音だった。

今まで何度も飲み下してきた血は全く別物のように、今までに味わったことの無い快感が楓を襲う。鼻息を荒くして、奪い尽くす。本能と欲求が重なり合い、力の加減も出来ずに相手の体を捕まえていた。徐々に脱力する体がその力から逃れられるわけがないのに、吸血鬼はそれを失う恐怖感に煽られて、一切力を緩めることなく抑えつけ続けた。

生々しい音に紛れて、細く、浅く途切れる呼吸が楓の耳に入る。それは、欲に満たされ、理性が戻ってきた証拠だった。そしてそれこそが、どれだけその血を貪ったのかを表していた。



「…、……」


「……っ、」



本能に支配されて行動が抑制できなかったなんてただの言い訳だった。失うことを恐れ、彼女を襲うことを是とした吸血鬼の自我は、ハッキリと自身を肯定した。だから、襲った。故に、今、楓の目の前で、綾は命の灯が消えようとしている。



「……、…ぁ……ぅ、」


「………、」



楓から、熱の篭った息が漏れでる。心臓が歓喜の声を上げていた。高揚した気分は、まだそれを求め、飲み込もうとする。楓の口元は紅く汚れ、獲物を喰らうただの化け物だった。目の前には、楓とは真逆に、呼吸が小さく、青白く生気を失った綾が血に染まっていた。楓の脳内で、間違っていると警鐘が鳴った。

彼女の命が奪われる。他でもない自分の手によって。それを理解した楓は、必死に理性を呼び起こし、綾の体を逃がそうとした。しかし引き離そうとしたそれは、何かに拒まれる。

歯が鳴ったのは自分の中からだった。楓は自分の嫌悪に襲われる。ここまでしておいて、ここまで理解して、彼女を逃がせないのか。細い糸でかろうじて繋がる理性が、本能と戦う。けれど。理性は、本能と対等ですらなかった。酷く血を貪った体は楓の意識を声明にしていた。だから、まだ、逃すことが出来るはずだった。



「っ、!!」



楓の考えとは逆に、体は離れない。楓が視線を動かす。その先で真実に気づき、心臓が跳ね上がり意思の回線が破壊される。



「…っ、」



楓の拘束する腕と交差するように綾の腕が回り、楓の服を握りしめていた。離れるのを拒んだのは楓ではなく、綾本人だったのだ。



「、っ離して」


「………、…」


「綾ちゃん、!」



細い呼吸が、届く距離。近すぎる距離は、いつ理性が消えるのかも分からず、張り詰めた糸は思考を繋ぐにはあまりに頼りない。離そうとする楓にしがみついてくる手は弱々しいのに緩まなかった。綾の力に負けるはずはないのに、楓はその手を引き離すことが出来なかった。しかし楓の脳裏に喰い殺した後の映像が浮かび、楓は拒否するように力を籠める。その力に、綾の手が剥がれる。その光景に矛盾にも楓は喪失感に襲われる。

哀しみに目を閉じていた、その瞬間、



「……ぃやっ!」


「!」



甘く、けれど泣きそうな声と悲痛に歪んだ顔迫る。楓はそれに再び絶望する。拒まれる、怖がられる。もう二度と、彼女に触れることはできない。してはいけないのだと。



「!?」


「――」



しかし、その瞬間楓の視界は綾に埋められる。楓の頬に冷たさが伝わり、それは冷えた綾の手と指先だと分かる。そして、血の香りのまま、唇は冷えたそれに重なっていた。



「………あやちゃ…」


「ぃやだよ、九条先輩…」



ゆっくりと離れた綾の唇は、楓に付いた紅が移っていた。青白い肌に、真紅が映える。涙で潤んだ瞳は、輝いて見えた。



「離れないで…、もう嫌だ、九条せんぱい…」


「…っ!!」



頬に触れる程度だった綾の指先に力が入り、楓を逃がさないように捕まえた。綾は、かすれる声を必死に繋いでいく。



「血を、あげるなんて…そんなの、誰にでもしない、」


「………、」



綾のまっすぐな目が、楓を見つめる。



「あの時、九条先輩が…死んじゃうって…もう会えないって、恐くて…」



血に汚れた状況には、あまりにそぐわない想いを乗せた言葉たち。



「…それが、悲しくてっ、」


「………っ」



楓の喉が詰まり、鼻の奥が痛む。なぜ泣きそうなのか、分からなかった。



「私に出来ること、なら、何でもいいからしたかった…!」



綺麗なその想いは、理性を呼び覚まし、幾度となく消し去る。



「ねぇ、楓」


「………、」



楓は思う。彼女を傍に置くべきじゃないと。いくら番だって、こんな、自制も効かない状態で自分でも限りを知らない欲をぶつけて、君を傷つけていつか殺すと、思っていた。だから、好きなら逃がさなきゃいけないと。けれど、そんな楓の想いとはかけ離れた行動が続いた。追い続ける欲も、奪い尽くそうとする欲も、番への独占欲も、溢れて追いつけなかった。真逆の願望が、ぶつかり合って、張り裂けそうなくらい相反してどうすべきか、どうしたいのか分からなくなるほどだった。

しかし、そんな思いも現実も綾は知らない。そんな彼女の手を取っていいわけがない。



「……好きって、言ったんじゃん…」


「……、」


「私も好き…。楓」



たった一言。その柔らかい、甘い声。優しい表情。頬に触れる、指先さえ。

言い尽くせないほどに、綾の存在ひとつが、楓を必死に取り繕う理性を、消し去ってしまう。

『その手を取る』。楓にはその選択肢しかなく、楓はそれに手を伸ばしたかった。


「……また、いなくなったら…許さないから…、」


「……綾ちゃん、?」



けれど、手を伸ばそうとしたその瞬間。弱々しくなる声とともに、頬に触れていた指先が落ちていく。力なく落ちた先は、冷たい床の上だった。

楓は落ちた手から視線をあげる。綾の瞼は閉じられていて、あの優しい瞳と重なることはなかった。



「ッ綾!!?」



一度は枯渇したその身が欲に飲まれて下した血は、どれほどだっただろう。酷く貪られたその身は、どれだけの血を失ったのだろう。意識を失う、その生理的反応を要するほどの苦痛はどれほどだったのだろう。


楓は綾を失いたくない。しかし、吸血鬼の元来は人間の搾取に成り立っていた。



・・—・・


「九条さん」


「……弓希、」



楓が何度呼びかけても、綾は目を覚ますことはなく、魂が抜けたように温もりが乏しくなり青白くなったその身を震える手で抱きしめた。それでも、小さい呼吸の音がして、楓は綾を抱え、たったひとつの望みをかけて松本の元へ縋りついた。



「大丈夫?」


「……私より、綾ちゃんは?」


「……、」



松本のベッドに横たわる綾を見る。聞かなくても分かっていた。楓の身は気持ち悪い程に満たされている。それは、それだけ綾の命が削られたということだった。どれだけの血を飲めば、人間の致命傷に至るのか既知のはずだった。



「……っ!」



楓は、くしゃりと髪を握りしめる。 体を小さくしながら、後悔に打ちひしがれるその姿に松本は切なげに見つめた。



「弓希、九条さん」



落ち着いた声がして、楓は顔を上げる。そこには、松本に呼ばれて来たなつがいた。綾の治癒が終了したようだった。



「なつ、傷はどう?」


「傷自体はもう大丈夫だよ。治せた」


「ありがとう」


「……でも、私はそれしか出来ない」



なつの能力は治癒であり、傷は治せても失われた血は戻らない。綾の状態が改善したとは言えなかった。一般の病院に連れていくことは出来ない。現状を実方に報告したが、指示されたのは、番の契約を結ぶことだった。



「……九条さん。三波さんと契りを結びなさい」


「……」



無情ともとれるその指示は、何よりも現実的だと全員が分かっていた。番の契りを行えば、綾の体は人間ではなくなる。けれど目の前に迫った死は、避けられる。答えが一つしかないその場に、声を上げたのはなつだった。



「弓希。そんな急に」


「正直、三波さんの状態は、命の危険がないとは言えない。むしろ、危ない」


「………」


「こんなことは言いたくないけれど、『真正の番』を失うことは避けたいの。例え助かったとしてその先で契りを交わすのは運命だよ。なら時期なんて、」


「待ってよ。それはふたりが決めることでしょ? こんな、三波さんの意思も聞けないのに…」


「分かってる。でも命が危ないのに、死を避けないでその先のことなんて考えている場合じゃないよ」


「でも!」


「ふたりとも、落ち着いて」



なつと松本が交わすやり取りに、当事者が制止をかける。意外と、本人よりも第三者の方が感情で動いてしまうのかもしれない。



「……九条さん」


「ごめん。私がした事なのに…ふたりを巻き込んで、」


「……」



契りを交わすこと、番として共に生きること。それは、人間から外れることになる。

楓は、人ならざるものに巻き込むことも、吸血鬼の世界に引き込むことも、その度に、皮膚を破き血を喰らい傷つけることも、傷つけ続けることも、その責任を背負い生きるほど、自分は立派な存在なのか自信がない。綾にその重荷を背負わせて強いるほどの、存在価値があるのか覚悟がなかった。そうして、今この時さえ、命を危ぶませている。


ここまで来て、そんなことは言えない。言っている場合じゃない。そんなことで、傷つけるなんてあり得なかった。



「…弓希、」


「…なに?」


「……三波綾と、契りを結ぶよ」


「………!!」



楓の意思は強く、言葉に現れる。なつはその言葉に息を詰まらせた。松本はそれに気づいたけれど、行動を止めることなくその準備に取り掛かった。



「待ってよ、」



切羽詰まったような声が、楓に届く。目を向ければ、なつの切なそうな眼とぶつかった。



「三波さんの意思はどうなるの、」



なつは震えながら、けれど楓にぶつけるのを迷う様子はなかった。



「そんな真正の番だからって本人に何も言わずに人間じゃなくするなんて…!三波さんは吸血鬼に使われる物じゃないんだよ?」


「……なつ、」


「そんな、勝手に生き方を決めるなんて」



なつが必死に感情を押さえつけようとしているのが分かる。その背景がなんなのか、それがなつの過去に繋がっているのは言われなくても感じ取ることができた。



「命が、危ないのは分かってる。それがなくなったら人だとか人じゃないのかなんて関係なくなるのも分かってるよ。でも、……そうやって、こっちの都合で契りを結ぶなんて…別のものに変えるなんて、そんなの勝手すぎる…」



ここに愛華がいたなら、なつの想いを掬いとり影で悲しく泣くなつの涙を止めることが出来たかもしれない。楓もなつの言っていることはわかる。そしてそれをずっと悩んでいた。



「………ごめん」



けれど、楓の意思は変わらなかった。



「それでも、綾ちゃんには番になってもらう」


「…っ、」


「…離れたら許さないって言われたの」



綾が意識を手放すその瞬間に、願った言葉。その言葉の重さを、楓は知っている。何にも囚われない、願いと熱を感じた。そして失う怖さを知った。



「自分が死にそうなくらい体が辛いのに、私から手を離さなかった」



三波綾の意思は、そこにあると楓は確信した。綾の命が繋がっていると知ったとき、楓の遅すぎる心は決まった。

綾の命を、背負う。もし長い命に絶望して、死を望んだら。人間でないことに絶望してその存在を消したいと望んだなら。それが綾にとって最大の苦痛になるなら、楓はその結末さえ理解した。

吸血鬼となって、得る苦痛も悲痛も、全て。自分が背負う。



「……どう思っていても、一度でもそういう扱いをされたら…苦しむことだってあるよ」


「…うん」


「九条さんも、三波さんもそれを背負ってかなきゃいけなくなる」


「分かってる」



変わった未来に、必ずしも幸せがあるとは思わない。嫌われるかもしれない、離れる以上の絶望を与えるかもしれない。なつの言う通り、この選択が一生の後悔や溝を生むかもしれない。



「でも、それでもいい」



出会ったときから分かっていたことだった。このままじゃ居られないと。このまま、友達のまま、まして好意を寄せ合う恋人のようになんていられない。

責任を背負えないとか、覚悟が出来ないとか、自分の弱さで、迷うのも苦しませるのも、もう捨てるしかない。自分が変わるしか、この先に彼女と笑い合える未来はないのだ。それをやっと理解し、綾の言葉に決意した。



「覚悟してる」


「……!」


「綾ちゃんを失いたくない。それは私のわがままだし勝手かもしれない、だけど」



楓の真っ直ぐな眼が、なつへ向けられる。迷いのないその瞳は、意志の強さを現していた。



「だからこそ、綾ちゃんのすべては私が背負うよ」




楓の血液が、綾の身に混ざり込み、細胞が音を立てて形を変える。

綾の目が再び開いた時、楓と同じ真紅に染る瞳が、楓を映した。



・・—・・



あまりに突然に、楓のメッセージは綾の元へ届いた。無視され続けたメッセージへの一言もなく、ただ、明日の放課後、学校で会ってほしいって内容だけ。綾は、この違和感にメッセージが楓からのものではないと気づいたけれど、だからといって楓に会えるかもしれない機会を投げる理由にはならなかった。すぐに了承のメッセージを送った。



「……、」



会えればそれでいい。綾はそう思っていた。楓と綾の最後は、少し顔色の戻った、それでもまだ弱々しく眠るその姿だった。それがせめて、目を開いて声が聞けたならここまで苦しくなかっただろう。



翌日。

綾は普段通りに自宅を出て、通学路を歩く。それでもひとつひとつの行動がいつもより早くなってしまって、普段より早く学校に着いた。そのことに、いかに九条楓という存在に自分が浮かれているのか感じられて、口をとがらせる。

『恋』の一文字が浮かぶ。しかし今まで思考してきたことを思うと、未だ答えの出ないループにまた入ってしまうことが容易に想像出来て、途中で考えるのを止めた。



「三波さん」


「あっ、なつさん!」


「九条さんから連絡きた?」



なつと綾は、すこしずつ打ち解け、苗字呼びが落ち着かないからとなつから名前での呼称をお願いされた。綾はたかが呼称ではあったけれどなつに心許された気がして笑顔で了承した。しかしなつからの呼称は相変わらず苗字で複雑に思った。綾も同じようにお願いしたが、うまく逃げられてしまった。そんな微妙な関係性は、楓が絡むとあまり関係なくなっていた。『恋』に沈み込みそうだった思考の中断を助けてくれたのはなつだった。例え会話内容が思考と重なったとしても、誰かと話していれば深く悩み込むことは避けられる。綾は、内心なつに感謝しつつその問いに答えを返した。



「うん。今日の放課後、会えるかも」


「かも?」


「たぶん、メッセージくれたのは九条先輩じゃないから」


「……」



きっと、なつは何かを知っているだろうとは思ったが、それを問うのはここまで自分のために動いてくれたなつにとってあまり好ましいことではないのだろうと、気を巡らせた。



「…九条さんに、会いたい?」


「え?」


「なんかちゃんと、三波さんがどう思ってるのか聞いたことなかったから」


「……んー、」



綾が楓に会いたいのは間違いなく即答できる。しかしなつが聞きたいのはそれだけではないように思えて考えを馳せた。綾にはどこか、『九条楓』という存在に会えさえすればそこからなにか見つけられると思っていた。それも相まって、ループし続ける思考は答えを出さずに止まってしまっている。答えの出ない思考から離れられると思ったけれど、結局逃れることは出来ず、元より、その救いの手だと思った相手が答えを促してくるなんて、と勝手な思いが頭の中を駆け巡った。



「…九条先輩には、会いたい」


「……」


「ただ、それがどういう意味になるのか、自分でもまだはっきりしてない」



それでも、答えを待つなつの落ち着いた雰囲気に、ごちゃごちゃだった思考がゆっくりとぽろぽろ言葉に落ちてきて、絡まっていた思考がちゃんと一個一個バラけていく気がした。



「好き、なんだとは思う」



好き、だったのか。と綾は他人事のように思った。



「でも、先輩にいっぱい惹かれてる分、怖い、とも思ってる」


「…怖い?」


「うーん、不安なのかなぁ。九条先輩…も、私とは違う…特殊っていうの?その人に惹かれるのは、どういう意味になるのかなって」


「…うん」



怖い。不安。分からない。そんなあやふやでマイナスな言葉たちを、なつは何も言わずに受け止めていく。

綾はこんな思考ではだめだと不安に思っていたが、なつの姿勢にストン、と浮ついた思考が中に落ちていった。



「……九条先輩に会って話がしたい、もっとちゃんと」


「うん、」


「ふふ。なんでなつさんがそんな切なそうな顔するの?」


「…ごめん」



なつは目の前で悲しげに表情を曇らせていて、綾はその優しすぎる姿に、笑みがこぼれてしまった。



「ありがとう。いっぱい、気遣ってくれて」


「…そんなんじゃないよ、」


「ね、なつさん」


「なに?」


「私、ここに来て良かった。引っ越しの時はどうなるかと思ったし、今だって戸惑うことばっかりだけど、なつさんにも、和那にも、…九条先輩にも会えてよかった」


「…ありがとう」



綾の言葉に、なつは切ない表情を崩さなかった。綾の楓に対する思いは既に決まった。しかし、それを伝えるのは楓以外にいない。なつと別れ、今日の授業が始まった。




――一日の授業は、綾の感じるいつもより、あっという間に終わりを告げ放課後が訪れた。


楓からの新しい連絡が入ることはなく、綾はとりあえず昇降口で楓の姿を探した。学校に来ているような話もなかったため、放課後に合わせて来るのかもしれないと考えていた。しかし、しばらくしても楓の姿はなく不安になってメッセージを送る。入れ違いになってしまったかもしれないと、綾は学校の中へと足を戻した。



「あら?三波さん」


「松本先生」


「どうしたの?」


「えっと…あの、忘れもの…っていうか失くしもの?探してて」



少し口淀む綾に松本は『そう』とだけ返事を返した。



「気をつけてね。あまり遅くならないように、」


「――…」



『気をつけて』

楓と関わる度に向けられる言葉に、綾は息を詰まらせる。

体育祭の楓の姿。和那と楓のやり取り。それらの衝撃は、綾にとって恐怖であることは否定できない。



「先生、」



既に背を向けていた松本を、綾は呼び止める。松本は静かに振り返った。



「なに?」


「あの人たちに『嘘』はないんですよね?」


「……」


「先生にも」


「ないよ。あなた達とは少し、在り方が違うだけ。嘘なんてない」



綾の問いに松本の口調が少し強くなる。それは真正面から向き合っている故だった。綾の面している出来事のすべてが、事実。綾は期待していた言葉が聞けたはずなのに、少し体が重くなる気がした。



「けれど」


「!」


「その『少し』がとても大きかったりする。それは事実だし逃げられないことだと思う。三波さんにとって、嘘であってほしいと願うかもしれない」



でもそれが、その人を否定し虐げる理由になんてなり得ない。そう、綾の頭には浮かぶ。あまり肯定的でない言葉を並べる松本は、綾の前で堂々としていた。まっすぐなその眼に、綾は無意識に歯を食いしばった。



「……逃げません」


「!」


「九条先輩に会って話する。逃げない。安心してください、先生」


「…ありがとう」



綾は笑顔を見せて歩き出す。その姿を見送り、松本は足を進める。綾は、楓と会ってどんな話をするだろうか。運命や番なんて縛りつけるものとは関係なく、ふたりが一緒にいられたらいい。ふたりが笑顔で並ぶ姿を想像して、松本は笑みが零れた。


しかし現実は、教室で会った楓と綾は、ろくな会話は出来なかった。綾にとって、聞きたいことは何一つ聞けなかった。ただ、吸血鬼と人間の、血に塗れた惨劇だけだった。

綾は皮膚を破かれ貪られ、酷い倦怠感にもう意識を手放してしまいたいと願い、それでも二度と楓から離れたくないとその手を握りしめた。



松本の元に届いた知らせは、予想していたそれが如何に楽観視していたものかを知らしめた。数時間前の理想を、『真正の番』の重みと『運命』に縋り願うしかなくなっていた。



・・・


あなたに会って、一瞬で『この人が好き』だと思った。

この感情に気づけなかったことが馬鹿みたいで。でも、どこかで気づいていたけれど知らないふりをしたかったんだろと、誰かが指を指して言ってくる。


だって。彼女はきっと、人ではなくて。愛おしいけれど、怖い存在。

自分を、自分の中の『普通』という枠のバリアの中に置いておきたくて、気付かないふりも知らないふりもしてきた。

バリアの中に居れば、きっと傷つくこともないし安牌でいられる。その見えないバリアとも殻とも、壁とも言えるそれを破る勇気があったなら、教室での一件で背を向けることは無かったし、貴女に血を渡したその後、目を覚ました時に隣に居たのは私だったはずで。

もっと言うなら、もっと積極的に声を掛けたりすることも出来たはずだった。


でも。

それをしなかったのは、他でもない自分自身なんだ。



・・・                                                                                                                                                                                                                                  



「―――…、」



引き上げられた意識の先で、知らない天井が綾の視界を埋める。


知らない匂い。知らない感触。やけに雑音が大きい。

綾は、無意識に体を起こしてすぐ、自分を見つめる存在に気づいた。



「……おはよ、綾ちゃん」


「…、?」



澄んだその声に、綾の喉が動く。喉が乾いて仕方がなかった。口の中はカラカラで、唾が通るだけで喉がなる。上手く飲み込めてないのかもしれなかった。綾の思考は、不快感に埋められる。



「……三波、綾」


「…?」


「あなたの名前。分かる?」


「………」



相手への言葉遣いに迷って、ただ頷く。『みなみあや』それが自身の名前だと、言われるがまま理解し数秒置いて、その意味を解した。綾の言葉が出ないのは、理解できないのではなく、ただただ、渇いて仕方が無いからだ。



「!!」


「苦しい、?」


「…っ、」



綾の眼前に楓が迫り、渇きが一段と強く襲う。



「…欲しい?」



綾の理解は追い付かない。浮かぶ疑問は一瞬で消える。目の前のその人の眼に、捕らえられて目が逸らせなくなる。深紅に本能が焚きつけられる。

身体の違和感が酷い。香り、熱、湧き上がるような欲。次々襲ってくる変化に追いつけない。



「……、………、」



言葉が出ない。否。

欲しいのは、状況への理解でも、正常に戻ることでもない。

まして言葉を交わすことでも、目の前のその人に触れることでもない。


その、血を。この身に。

得ることだけーー。




「綾ちゃん」


「!」


「忘れないで。自分のこと、思い出して」


「ーー……、」


「君は、誰?」



そんなこと、どうだって良かった。質問も、声すら煩わしく感情が逆なでされる感覚だった。ただ、…その血が、欲しい。



「綾ちゃん。どんなに変わっても、君は何も変わらないよ」



うるさい。と声が出そうになる。渇望だけが支配する。このどうしようもない渇きを満たすのは、目の前の血を飲み下すことだと分かっている。



「……綾ちゃん」


「ーー……」


「…どこかに、行かないで。忘れないで。『三波綾』を置いていかないで」


「……」



綾の視界に、悲し気にゆがむ楓の表情が映る。しかし、綾にとって今そんなことはどうでもよかった。



「……私は、三波綾のことが好きだよ」



その言葉に心臓が跳ね、渇きとは違う衝動に襲われる。

好きとか嫌いとか。今はそれどころじゃなくて。本能に突き動かされる欲望だけのはずなのに。



「ねぇ、綾ちゃん」



その声が。その言葉が。

渇きに襲われて失われる思考に、刺さる。



「…――」



『三波綾』が、呼ばれるのを、ずっと待っていた。

この人を、ずっと待っていた。

この人の紅い瞳に映るのを願い、『この人』と離れないことを、薄れる意識の中で望んだ。



「……、」



目の前のその人、を。ただその存在に、惹かれて、惹き付けられて。

好きなのに、怖くて。遠ざかりたいのに離れたくない。

『九条楓』という存在を、この身は欲している。



「……くじょう、せんぱい」



酷く掠れた声が、響いた。微かだったそれは、楓の耳に届き、楓は安堵する。綾が目覚めただけではない。すでに楓によって細胞が作り変えられた綾に、綾自身の意識が残っていた。消えていなかったことに、肩を下した。



「九条先輩…、」


「綾ちゃん、ごめんね」



思考の鍵を解錠されたように、少しずつ自分の世界が開けて状況への認識が始まる。綾はやっとまともに思考が回り、渇きに占領されていた意識に気づいた。



「…これ、…なに?」



認識が戻ったところで、渇きは変わらない。襲ってくる異常に、意識が乗っかっただけだった。



「……私の血を飲んで。綾ちゃん」


「っ、そん、な」


「今、綾ちゃんにはそれが必要なんだ」


「っ!」


「その渇きは、枯渇と似てる。その身から血を飲まなきゃまた『綾ちゃん』はいなくなっちゃう」


「なんで、!」


「……説明はする。責任も取る。なにも言い訳なんてしないから。だから、今は」



血を、飲んで。



楓から香るのは、綾自身の血の匂いだった。それに気づき、引っ張られるようにして記憶が思い出される。深く。強引に。命が吸われ奪われる感覚を思い出した。



「…っ!」


「綾ちゃん、」


「嫌!そんなの出来ない!」



酷く早く回転する思考は止められない。すべてがぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、何一つ答えもまとまりも得られない。感情と意識と思考が全てバラバラに活動している。



「私は人間だよ!九条先輩みたいに血なんて飲まない!」


「!」



人を傷つける行為も言葉も、したくないのに。否定することも、拒否することもしたくないのに。綾は混乱のまま、むき出しに言葉を投げる。



「近寄らないで…!!」



自制なんてない。渇きが襲ってくる。綾は、目の前の細い体を力いっぱい突き放す。その力に楓は、後ろによろめいて前髪に顔を隠した。



「……っ!」



喉が渇いて仕方がない。でも、傷つけたくない。近寄られたら、その皮膚を破る衝動だけが勝る。

綾は手に触れた、恐らく自分にかけられていたであろう布団を体に引き寄せて抱きしめる。その欲を閉じ込めるように、抑え込むように、顔まで埋めて何も見えないようにした。

そうしなければ、突き放した距離さえ腕を伸ばして引き寄せてしまいそうだった。


…離れたくないと願ったはずが、近寄ることが許されない。想いは変わらないはずなのに、触れられない。


――あなたが、理性を消し去ったんだ。




「いやだ」




張りつめた空気に響いた言葉は、あまりに幼稚だった。まるで、子供が泣いて縋るような声だった。

楓は自分が招いた結果と知れていた展開に、勝手決意をした。ずっと『自信がない』と背を丸めて、愛しい人と向かい合うことを逃げた。その人を追い詰めて、危ぶませて、やっと顔を上げたけれど、そんなものを綾が付いてこられるはずがない。楓の勝手な自己満足と責任感だ。綾はただ、巻き込まれたに過ぎない。なつの言葉通りの展開だった。



「……、」



けど、今までなら。自分のせいで命の危機にある綾を、助かるよう祈ることしかしなかっただろう。きっと、番として向き合う未来に覚悟なんて出来なかった。

なら、それよりは自分が覚悟を決めたことは一歩を踏み出せたことにならないだろうか。けれど、そんなことは都合のいい解釈にしかすぎない。ただの我儘でしかない。

楓は綾が欲しい。綾から離れなくない。失いたくないから、人外の道に引きずり込んだ。

何をどう言い繕った所で、全て楓の我儘だ。綾が楓をどう思っていたとしてもその事実は変わることなく、今現実、綾は傷ついている。


けれどそれを貫き通すしか、楓に道はない。逃げ道などなく、元より選ぶ気などなかった。



「……綾ちゃん、」


「来ないで!」


「離れたくないよ、」


「――」


「綾ちゃんと、一緒にいたいんだ」



楓は思う。綾を守ることすらできず、苦しませて、傷つけることしかしていない。真正の番かどうかなんて、君には関係のないことだったと。



「私のわがままで、苦しませてごめん。でも、綾ちゃんを失いたくなかった…」



でも、君と運命を違えるなんて考えられない。

どんな形でもいい。君は、生きて。私と、共にあって欲しい。



「私と生きて…。お願い…」



教室での、綾の言葉が木霊する。その言葉だけが、楓の覚悟を支えている。楓は叶うなら、もう一度その言葉を聞きたかった。



「……九条、先輩」


「……」



綾に呼ばれる名に、心が燻ぶる。綾の声で紡がれる名前にすら、嫉妬した。いつの間にか、楓は祈るように垂れていた頭を上げる。綾は、布団から顔を上げ少し苦しげな表情に、紅い瞳を映えさせている。その眼に、楓が映っていた。



「っ、楓…」


「…。」



楓の喉が鳴り、唾を飲み込んだと知る。あまりに唆る、綾の存在に。体は思考を置いて、生理反応を起こす。心臓が鼓動を大きくし、楓は苛立った。心臓の音に、綾の声が聞こえなくなるほどだったから。



「苦しいの、楓…、」


「っ、綾ちゃん…」


「喉が渇いて、苦しい…」



痛々しい声が、刺さる。どんなに思考を巡らせたって、この痛みは変わることはなく、楓が変わることも出来ない。それが現実だった。



「楓のこと、傷つけちゃう…!」


「!」


「離れたくない…!でも、近づいたら……怖くて…もう、!訳分かんなくて」


「……綾ちゃん、」


「どうしたらいいか、わかんないよ」



理解できない状況と苦痛の中で、綾は楓を責めることはなかった。その姿に、楓は自分がどれだけ勝手なのか思い知らされる。そして同時に、綾に搾取の道に立たせたことに苦しくなる。無情にも、楓の背負えるものには限界があり、 どれだけ後悔したとしても巻き込んだ側の楓が、巻き込まれた綾に差し出せる言葉は一つしかなかった。



「……私の血を、飲んで」



それでも、綾が救われることはない。せめて。少しでも。綾が今の苦しみから抜け出せるように、たった一つの選択を選べるようにすることが、楓にできることだった。



「っでも、」


「私が、そうして欲しい」



驚かせないように、怖がらせないように。楓は、ゆっくりと近づいて、手を伸ばす。

綾の前に膝を着いたせいで、ギシッとベッドのスプリングが鳴る。静かな空間にそれはやけに大きく響く。重なった視線は少しもブレることは無かった。

楓の指先が、綾の白い肌の頬に触れ、綾の肩が跳ねる。そこから、また時間をかけ、反対の頬にも楓の手が届く。手のひら全体で頬を包み込むように、添えられた。

白い肌に映える真紅の瞳は、涙に濡れていて、楓は体の奥から沸き立つ欲に震えた。



「…お願い、今だけでいい。そうしたら落ち着いて考えることも出来るから」


「……でもっ」


「綾ちゃんがそうするんじゃない。私がそうさせるの。だから、綾ちゃんが苦しむことなんて何も無いから」



この行為に、綾が傷つく必要なんてない。ただ、そうなってしまった自分に傷ついてしまうだろうと楓は思う。

これからのこと。それが、どうあったとしても。もう逃げられなくなる。私の血を飲んで、終わりじゃない。ここから、永い時間がやってくる。それに絶望するかもしれない。周りとの時間の違いに戸惑うこともあるだろう。でもそれは。それこそは。私が背負うことだ。

それを、君と。考えていきたい。



「一緒にいて…綾ちゃん…」


「楓…」



人を傷つけることが嫌いな綾に吸血行為を強いることは、あまりに酷だ。ただ、それだけに。楓は、綾を背負い守り続けると誓う。

今はまだ、綾の意識がある。けれどこれは一時的なもので、枯渇の症状に意識はまた吞まれてしまう。楓はもう二度と、綾を失いたくなかった。あの失う恐怖と絶望を、兆しすらみたくなかった。

頬を包んでいた手に力が入り、綾の顔が上げられる。ゆっくりと顔を近づけ、吸い込まれるように唇が重なった。いつの間にか、綾は布団を手放し楓の腕に手を掛けていた。互いの体温がゆっくりと伝え合わさっていく。

あの時のように触れるだけのキスをして、唇が離れるのと同時にゆっくり目を開く。そこには、戸惑いを残しながら意志を秘めた瞳があった。



「…、」


「……ごめん、楓…」


「私が、綾ちゃんにそうさせるんだよ」



互いに身を引き寄せあって、距離が無くなる。首筋に綾の息が当たり、楓は気分が高揚するのを自覚する。吐いた息は、吸血をした後のように熱かった。けれど、首筋には硬い歯が当たるだけで痛みは訪れず、綾が小さく震えていることに気づいた。



「っ、はッ…ぅ」


「…大丈夫だよ」



肩口が濡れ、楓は高揚した自分を叱った。綾は涙を流していた。辛くて、苦しくて。わけも分からず。ただ、欲しいという欲求への渇望と恐怖、それとそれに勝り満たされる快感と高揚。綾を思うと同時、楓はその感覚を綾に味わい、満たされたことを思い出し、喉が詰まった。


――ブツっ


瞬間、皮膚が破かれる衝撃が鼓膜を揺らし満たされる。

深い深い奥底で、誰にも見つからない暗闇の中。口元を歪ませた、楓の知らない心が呟く。


これで、君を手に入れた――と。



鋭い痛みは、満たされる心に何の苦痛を与えることも無かった。ただただ。綾を手に入れた、その事実が痛みと音という形となって充足感だけが楓の身を襲う。吸血に伴い綾の手は楓の背中に回り、力強く抱きしめていた。粘着質な音と、飲み込む音が混在してしばらく後、綾の口元が離れると同時に腕も力を弱められる。しかし、楓から離れることはなく、それは楓をさらに喜ばせた。



「綾ちゃん、大丈夫?」


「……大丈夫」



顔が触れるか触れないかの距離になる。渇きが落ち着き綾の声からは焦燥感が消えた。代わりに、声に熱が篭る。楓はその妖艶さに再び震える。それを僅かばかりの理性と良心で押さえ込んだ。事実、状態が大きく変わった綾には、処理しなければならない問題が山のように積み上げられている。楓の欲を、これ以上満たしている場合ではなかった。



「…ごめんね」


「……謝らないでよ」


「…うん」



楓の出してしまった謝罪に、綾の言葉が刺さる。その言葉に、自分勝手にやったことなのに相手に許されようと謝って、自分で背負うといいながら少しでも逃げようとしている自分に気が付いた。謝るのは自己満足であり、許しを乞う行為だった。



「……」


「そんな、悲しい顔しないで…」


「っ、」


「まだ…全然訳わかんないし、実感したら嫌なこと言うかもしれないけど」



楓は、自分が話さなければならないのにと思う。混乱する、急な事態に置かれた綾を包み込むようにしたいかった。けれど、覚悟をした満たされた心とは別に、まだ、情けなく背を丸める自分がいる。



「でも、楓は私が離れないでって言ったの、叶えてくれたんでしょ…?死にそうだったのも、助けてくれた」


「……そんなんじゃない、私が…」



叶えたなんて、聞こえのいい表現だった。そう戒めなければ、綾の優しい空気に甘えてしまいそうだった。綾にとって間違いなく無慈悲に、勝手にされた結末のはずだ。運命や番など知ったことではないただの人間だった。にも関わらず、綾は楓との結末に否定をせず、受け入れようとすらしている。楓は、運命は、感情なんて置き去りの正論も常識も関係ない、酷く強制的なものなのかもしれないと思っていた。だから、どんな遠回りをしてもどんな道を選んでも、結果は同じで、それに折り重なるものにも耐えられると思っていた。そうして、目の前の綾を見てどれだけ間違いだったのかを知る。


「楓」



綾の甘く優しい声に、楓は泣きそうになった。泣いて縋ろうとする自分自身に気づき、口の中で頬の裏を噛んで押さえつけた。痛みに、一時的に思考は停止し、涙が引いた。



「楓を好きって言ったことに嘘はないよ。叶えてくれた『一緒にいる』のも守っていきたい」


「…っ、」



運命だとか、真正だとか、そんなもの関係ない。何も知らない綾は、こうすべきとか、こうじゃなきゃいけないとか、そんなものには囚われない。こうしていればとか、こうだったならなんて、絡んだものと蹴散らしていく。こうしたいという、希望と願いがそれこそが、本当に大切で、思いの根源だと気づかせる。

楓が、初めて綾を見つけた時。あまりの衝撃に、本能と理性のせめぎあいだった。でもそれより何より、三波綾が好きなんだと気づいた時もあった。


運命であり、真正の番であることに変わりはなく、その欲は確かに楓の奥底をくすぐる。しかし、綾のことが好きだから、こんなにも欲しくて堪らない。だから、遠回りしたとしても自身と同じにする結果にたどり着いた。



「綾ちゃん」


「なに?」



運命という言葉に頼り、誤魔化してはいけない。向き合うのは、『真正の番』でも『運命』でもなく、三波綾その人だ。



「綾ちゃんはもう、私の番になった。私が、そうした」


「……うん、」



そして、結果が同じだからって背負うものが同じなわけが無い。



「私が、あなたを、吸血鬼にした」



それでも、選んだのは自分だから背負うべきは変わらない。



「あなたを、人間じゃなくした」


「………」


「これから思うことも、どんな否定も受け止めるから」



その事実は、綾に向き合うために、向き合わなければならない。



「私と、ずっと一緒にいて欲しい」


「……それは、ただの責任感なの?」


「え?」



綾の言葉が、楓には予想外だった。イエスかノーだけだと思っていいたのだ。普段出したことのない声が漏れ、それに気づきつつも、楓は綾を見る。楓が必死に送った言葉は、綾は不満を露わにしていた。



「…綾ちゃん、?」


「楓が言ってくれたことは、とても大事なことだって分かってる。自分が凄く大変なことになってるとも思ってる」


「……、」


「でも『今』言ってほしいの。楓でいっぱいになって、ちゃんとしてる、今。ちゃんと言って?」


「……っ、」



触れ合うほどの至近距離。綾の手は、まだ楓の背中だった。襲えてしまう、この距離で。綾は、楓に爆弾を落とす。



「………っ、酷いね、綾ちゃん」


「ふふ。楓だって、死にそうになるくらい私の血飲んだんでしょ?おあいこ」


「……」



冷静に楓の痛いところを突く。自覚した爆弾ほど、辛いものもないと楓は思った。それでも、綾から向けられる笑顔が、これから先隣にあってくれることを想像して、楓は綾のその目をまっすぐに見つめ返す。



「私は、綾ちゃんのことが……」



何度目かの告白に、白い肌を赤く染めて。

自分で言わせたくせに、恥ずかしそうに顔を背ける。


背けた拍子に髪の隙間から覗いた赤い耳に、吸い込まれるようにキスが落とされる。体を奥底から押し上げられるような甘い声が漏れ、吸血欲とも、枯渇の衝動とも違う感覚に襲われて息を詰まらせた。愛情を示すかのように、長い腕が包み込み、耳にキスが落とされる。体が跳ね、思わず、掴んでいた服を強く握りしめた。それに反応するように、耳元で繰り返される熱い呼吸が、詰まった音が小さく響く。



「かえ、で…待ってっ」


「好き、綾ちゃん…」


「んっ、…!」


「すき…っ、!」



楓の籠った声に、熱を持った吐息に、綾の脳が絆されていくようだった。必死に力を込めるのに、体は震え力が入らなくなっていく。熱を上げ続ける空気に飲まれる、その、瞬間。



「――…、」



ふと、綾の目に入ったのは壁に掛かった時計。綾の記憶をいくら巡らせても、見つけられなかった。い綾な予感に視線を巡らせる。楓の自宅とは違う、視界の映る部屋。覆い被さってくる楓とは反対に、綾の頭は血の気が引くように現実に引き戻された。



「っ!!」


「っうわぁ!?」


「待って!ほんとに待って!!ここどこ!?」


「………、弓希の家……」


「っ!他人様の家で何考えてんの!あほ!!」


「えー、だってさぁ」


「だってじゃない!」



突き飛ばされて間抜けな格好の楓に、白い肌を真っ赤にした綾が声を荒らげる。楓の落ちた時に生じた物音に、リビングにいた二人が何事かと腰を上げる。綾の叫ぶ内容に、何が起きていたのか気づいて、また座り直した。



「……良かったね、弓希。三波さん気づいてくれて」


「……、そう、だね」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「綾ちゃん?」


「あ、楓。見て。桜ー」


「……ほんとだ。もうそんな時期なんだね」



自宅の窓から綾が外を眺めていて、楓は不思議に思い声をかける。綾に示された先には、自宅から少し先にある公園の桜の木がその身をピンク色に染めていて、その背の高さから、ふたりにまで春の知らせを送っていた。



「来週には新学期だね。瑠衣が入学してくるんでしょ?」


「うん」



綾が吸血鬼になり、楓の番となったあの日。愛華の取次で、綾は実方瑠衣と顔合わせを行った。真正の番という肩書きに、綾は終始顔を曇らせ、楓は罪悪感に襲われたながら必死に綾の隣で背を伸ばした。それでも、実方邸を出てから『雰囲気あるねえ』と体を伸ばしながら自分に顔を綻ばせるのを見て安心した。



「なんだか、みんなキャーキャー言いそう。吸血鬼ってやっぱり顔面強い」


「あはは。瑠衣は特に雰囲気漂ってるからね、ああいうのに若い子は弱いかもね」


「若い子って!楓も高校生だよ!」


「そうだった」



その日から、数か月が経ち次の春が来る。綾から吸血鬼になったことも、今後についても、責められることや迷いを打ち明けられることすら、未だなかった。綾にとって現実味がないのか、既に受容しきったのか。楓にはまだ、問いただしにそこに踏み入る勇気がなかった。笑顔を見れば安心する。それでも、確信がない以上心の中でどう思っているのか不安でしかない。けれど、そんなことにふらつくわけにはいかないと自分の背を叩く日々だった。



「でも、番候補って誰なんだろ」


「うーん。真祖が来ないことにはね……まだ分からないかな、」


「……、」


「なに?」



綾に無言で見つめられて、楓は首を傾げる。番候補を知りたいのだろうか。自分と同じ境遇になる相手を。そう思ってそこを切り口に話をしようとした時、綾のスマホが着信を知らせに音を響かせた。



「!」


「あ、なつだ」


「…何かあったのかな、」


「ちょっと出るね?」


「うん」



綾がなつのことを呼び捨てするようになっていることに気づいたとき、楓はどこかモヤついたが、今はそれに安心することもあった。自分ではない『誰か』は、綾にとって救いになることもあるだろう。




――綾ちゃんのすべては、私が背負う



胸が苦しくなり、綾の背中を見る楓の眉間に皺が寄る。無意識に住み着いた黒いモヤのような不安は、影のようにずっとどこかに潜んでいて、ちょっとした隙間から這い出てくる。


時々、振り払うことが出来ずに酷く不安になって自分の言葉に押しつぶされそうになる。綾を巻き込んだこれまでの選択は、どれだけの幸せを奪ってしまったんだろうか。



綾の命は、私が背負う。長い命に絶望して、死を望んだら。人間でないことに絶望してその存在を消したいと望んだなら。それが最大の苦痛になるなら、責任をもって、それを叶えよう。

吸血鬼となって、得る苦痛も悲痛も、全て私が背負おう。


そう誓ったことに、嘘はなかった。その覚悟は、心の内に。彼女の見えないところにちゃんとしまってある。無くさないように、薄れないように。


笑顔を見る度に、それを守ろうと。

涙を流すなら、自分を奮い立たせる為に。


ただ、それを疑う自分がいる。お前にできるのか、そんな価値などあるのか、と。そうして、影も何も分からない真っ暗い中に立たされる。

これから先、君との幸せが続くかなんて分からない。運命や、番は、ひとつの形でしかない。

その結び目が歪になるか千切れるか、綺麗なまま紡いでいられるのか。そんなのは、覚悟も思考も関係ない。この先のことなんて、誰にも分からない。

でも、穴だらけになりそうな心に、いつも綾が笑顔を咲かせてやってくる。楓の手を取って、名前を呼ぶ。ただそれだけで、空っぽになりかけた気持ちが、溢れんばかりに満たされ、誰かが楓の背を叩く。


君の代わりはいない。君と変わるものなんてない。

運命の相手は君で、私の番は君しかいない。


なら、すべきことも、見るべき先も決まっている。



「楓」


「!」


「どうしたの?体調悪い?」


「ううん。なんでもないよ」



――胸が締め付けられるほど、愛しい声。息が詰まるほどの、笑顔。理性を消し去る、その存在。



――『ねえ、ふたりとも』



綾の手によって、音を届ける範囲を広くしたスマホからなつの声が響く。それでも、綾は気を使って楓の近くに寄る。その瞬間漂う香りに、楓はいつだって喉が詰まる。



――『桜祭り行こう』



あなたが欲しいと願った本能に、これからも突き動かされる。


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あなたが理性を消し去る。 @kuon5711

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