裏ひなまつり
おひとりキャラバン隊
裏ひなまつり
2025年、3月3日、月曜日。
時計は午前5時11分を指していた。
今日は私の誕生日で、32歳になる。
なのに朝から頭が重く、悪寒もするし吐き気もする。
(ダメだ……、今日は最悪の組み合わせの日だ。仕事は休ませてもらおう)
最悪の組み合わせ――、そう、私にとって「3月3日、月曜日」というのは、心の奥底に今もある、汚泥の様な記憶が呼び覚まされる呪いの呪文だ。
しかも時刻が「5時11分」というのも、呪いの記憶がより重く私の全身を絡め取り、憎悪と恐怖で動けなくなる。
(大丈夫、もう、終わった事なんだから……)
そう心の中で、何度も自分に言い聞かせようとするが、私の呪いを解くには至らない。
「PTSDですね」
2008年の3月3日も月曜日だった。当時中学3年生だった私に、突然それは訪れた。
いや、ずっと前から私はその呪いに
朝目覚めた途端、自分でも何故か分からないまま突然パニックに陥ったのだ。
症状は今日の私と同じ。
頭が痺れて重くなり、悪寒がして吐き気がする。手先は冷たくなってうまく動かせなくなり、他人と会う事が恐ろしくて仕方が無い。
当時は母親が暴れる私を羽交い絞めにして、救急車を呼んで病院に搬送した。
そして、病院のベッドに縛り付けられる様に固定されて泣き叫ぶ私に下された診断が、PTSDだったのだ。
その医師の言葉を聞いて、母は両手を口元に当てて息を飲んでいた。
PTSDという言葉の意味が解らなかった私は、一体自分の身体に何が起きているのかが分からずに不安が増すだけだった。
しかし、「トラウマが蘇ったんだよ」と言って頭を抱えて泣き崩れる母の姿を見て、私も「ああ、そうか……」と理解できたのだった。
だからといって、PTSDを克服できたわけでは無かった。
3月3日が月曜日なのは、2008年だけではなかったからだ。
次に発作が起きたのは2014年だった。
高校は私立の女子高に通い、そのまま女子短大にエスカレーター式に進学して卒業できた私は、就職をする時に困難を極めた。
私の心の病。それは、私が男性に近づけないというものだった。
そして皮肉にも、就職活動では面接官に男性が居ない事など無く、そもそも女性だけで構成された会社など存在しなかったのだ。
そんな就職活動に苦戦していた2014年の3月3日、月曜日の朝にも、今日と同じ様な症状が発症したのだった。
あれから10年以上経ったのに、まだこの呪いは解けてはいなかった。
いや、この呪いの発端となった事件からは22年も経っているのに、私の心は呪いから解放される事など無く、今も恐怖に犯されているのだ。
――思い出したくない。そうは思うが、しかし思い出さざるを得ない。
それは2003年の3月3日、月曜日の事だった。
小学5年生だった私は、11歳になる誕生日を迎え、意気揚々と小学校に通学した。
通学は集団登校で、近所の児童と一緒に登校していた。
千葉県A市は子育てに力を入れている市なのだとかで、確かに子供が多い様に思えた。
私と一緒に登校する子も、6年生から1年生まで、全部で10人いた。
集団登校の班長は6年生の女の子で、「サト子ちゃん」と呼ばれていた。
サト子ちゃんは近所のおばさん達からも「しっかり者だ」と評判で、集団登校の時は、一年生の男の子の事にまでしっかりと気を配って、安全に登校出来る様に、いつも上手に振舞っていた。
集団登校では、10人中6人が男の子で、4人が女子だった。
班長がしっかり者のサト子ちゃんだったからか、男子もやんちゃな子は少なかった。
むしろ女子の方が頼りにされる存在みたいになっていて、6年生で班長のサト子ちゃんは勿論、5年生の私と、同じく5年生のユキちゃんも、みんなの世話をするようになっていた。
他に2年生のマイちゃんも、1年生のけんじ君が安全に登校できる様に、手を引いているのをよく見たものだ。
2003年3月3日も、いつもと同じ様にサト子ちゃんが集団を率いて登校していたのだが、
「ねぇ
と突然サト子ちゃんに声をかけられて、私はすぐには質問の意味を理解できなかった。
「え、何? 裏のひなまつりって言った?」
「うん。先週、私のクラスの女子が今日の放課後にパーティやるからって数人に声をかけててね」
「ふうん、パーティかぁ、いいな~。サト子ちゃんも行くの?」
「ううん、私は声をかけられなかったから……、でもね、その子が5年生にも声をかけてたみたいで……、祥子ちゃんは声をかけられたりしなかった?」
そう訊かれた私は、先週の事を思い出してみたが、特に思い当たらなかった。
「多分そんな風に声を掛けられたりは無かったと思うけど……」
「そう、だったらいいの」
ほっと胸を撫でおろしているサト子ちゃんを見て、私は何故か気になってしまった。
「サト子ちゃん、それが『裏のひなまつり』って事なの?」
「うーん、私もよく解らないんだけど、その子が他の子に声を掛けているのが聞こえてね。なんか、可愛い子ばかりに声をかけてたから、祥子ちゃんにも声が掛かってないかって気になったんだけど」
間接的に自分の事を可愛い子だと言われている様で、私は少し舞い上がっていたのかも知れない。
「うんうん」
と興味深々で身を乗り出していた。
「何かね、『ひな祭りって、本当はすごく怖い話なんだよ』みたいな話をしてて、その時に『裏ひなまつり』って言葉が聞こえただけなんだけど、なんか危ない事じゃないかって気がして、心配になっちゃって……」
「ふうん……」
なぁんだ、そんな事か。 ――とその時の私は思ってしまった。
もっと「可愛い子」が集まって何をするのかを知れると思ったのだ。
事の真相も知らずに……
しかしその日の昼休み、サト子ちゃんが言う「クラスメイト」らしき6年生の女の子が、給食の食器を片付けて教室に戻る途中だった私に声をかけてきたのだった。
「ねえ、あなた5年生? すごく可愛いね」
「え? 何?」
小学生の男子はまだまだお子様だから、女子に向かって「可愛いね」なんて事は絶対に言わない。
もしこれが男子に言われたのだとすれば、逆に「何かある筈」と怪しんだかも知れない。
けれど、少し髪を茶色く染めてはいるものの、むしろ私なんかよりもずっとオシャレで可愛い女の子が、突然私に「可愛いね」なんて言うものだから、ドキドキしてしまって正常な判断ができなかったのかも知れない。
「今日の放課後、少し時間貸してくれない? あなたみたいな可愛い子じゃないと頼めない事があるのよ」
これがそうか。サト子ちゃんが言ってたアレ—―
「もしかして、『裏ひなまつり』のこと?」
と私は無意識に訊いていた。
一瞬目を見開いた様に見えたその女の子は、
「なぁんだ、聞いた事あるんだ?」
と、無理に笑顔を作ろうとしている様に見えた。
「うん。詳しい事は全然知らないんだけどね」
今思えば、この時に気付けた筈だった。
彼女の表情から、この話が危険な話なんだと気付くべきだったのだ。
しかも、私の受け答えも悪かった。これでは「興味があります」と言っている様なものだ。
現に、彼女はそんな私の隙を突いて来た。
「普通の子にはこんな事教えないんだけど。……あなたは本当に可愛いから、放課後に文具屋の裏の公園に来てくれたら、すっごく楽しいパーティに招待してあげる」
今思えば、彼女は小学生とは思えない、むしろ大人びた様な、それでいてイタズラっぽい表情をしていた。
「本当?」
ただでさえ可愛いと言われて舞い上がっていたこの時の私は、「普通じゃない、特別」な存在として扱われたことに、もう他のことが目に入らなくなっていたのだろう。
あからさまに嬉しそうにそう問い返した私に、彼女は「私たちだけの秘密だよ」と言って笑顔を見せたのだった。
――それから、待ち遠しい放課後がやって来ると、私は一目散に彼女と約束した公園に向かって走っていた。
今思えば、私は彼女の名前も知らないのだ。
平成15年の、まだ個人情報がそこまで大切に扱われていなかった時代だからなのか、それとも女子高生のお姉さん達が、ポケベルやPHSを使いこなして「大人っぽい遊び」をしているのがカッコ良くみえたからなのか、はたまた、別の何かなのか……
ともかく、その時の私は無防備が過ぎたのだ。
そして、それは公園で待っていた彼女も同じだったらしい。
彼女と私は、どこからともなく現れた5、6人の大人の男達に、別々の車に無理やり乗せられたのだが、
「なんで!? 何でこんな事するの!?」
と叫ぶ彼女に、
「うるせぇ! 黙ってろ!」
と怒鳴る男の声が、彼女が乗せられた黒いワンボックスカーの扉が閉まると同時に聞こえなくなったのが見えていたからだ。
私は声も出せずに羽交い絞めにされ、口元を男の大きな手が塞いでいた。
男の手には何かを染みこませた布みたいなものが巻かれていた様で、ほんのりと薬品の様な臭いがしたのを覚えている。
しかし、その薬品のせいなのか、その後私は意識を失ってしまったのだった。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
目が覚めると、そこは薄暗い部屋の中だった。
私の他に、もう一人同じ歳くらいの女の子が床に体育座りをして、自分の
――何が起きたの? 6年生のあの子はどこ?
私がキョロキョロと辺りを見回していると、私を凝視していた女の子が声をかけてきた。
「あんた、何でここに連れて来られたか聞いてる?」
「……え?」
連れて来られた……?
そうだ、文具屋の裏の公園で彼女に会って、「裏ひなまつり」の事を教えてもらおうと思ってたんだ。
そして、公園に向かうと、知らない大人の男達に両手両足を掴まれて、彼女とは別の車に乗せられて……
「もしかして……、私、誘拐されたの?」
「そうよ。あんたは今日ここに連れて来られたの」
「あんたはって……、あなたはいつからここに居るの?」
「私は……、たぶん、3週間くらい前だと思う」
「そんなに前から……、ここは、どこなの?」
「……知らない。けど、夕方になると知らないオジサンが来て、ご飯を食べさせてくれるよ」
「そうなんだ……」
「気持ち悪い事も、いっぱいされるけどね」
虚ろな表情でそう言う女の子の言葉に、私は身を固くした。
「え……、何を、されるんですか?」
「さあ、人によるけど、私は何度も裸にされて、体中を舐め回されたり……」
私の全身にゾワっと鳥肌が立つのが分かった。
そして両手で自分の肩を抱く様にして身体を縮めると、自分の身体がブルブルと震えている事に今更気付いたのだった。
「ウソでしょ……」
「さあ、でも、今日はどうなんだろうね。あんたはその為に連れて来られたみたいだし」
「あの……、その為って?」
「よく知らないけど、今日は『裏ひなまつり』ってパーティをするらしいよ」
「……それって、普通のパーティなんですか?」
「さあ、タバコ臭いオジサン達がいっぱい集まって、私たちが嫌がる事をするつもりじゃないかって、私は思ってるけどね」
「そんな……、ここから出て行けないんですか?」
「無理だよ」
「どうして? 手足を縛られてる訳でも無いし、ここだって、見た感じ、普通のマンションでしょ?」
「そうだけど、外に見張りが居て、逃げたのがバレたら殺されるんだよ」
「うそ……」
「私がここに来た時に、私より先にここに連れて来られたっていう中学生のお姉さんが居たんだけどね、先週ここから逃げようとして、捕まったみたいなんだ」
「……殺されたの?」
「そうらしいよ」
「そうらしいって、どういう事? 見た訳じゃないの?」
「何もない日にここに食べ物を持ってくる男がいてね。その人に聞いたんだ」
「何て言ってたの?」
「昨日逃げようとした子、階段で捕えたんで、そのまま殺して内臓を外国に売り飛ばしたよって……。だから、絶対に逃げようなんて思うなよって言われたわ」
「そんな……、死にたくないよ」
「……だよね。私もだよ。……だから、逃げられないんだ」
「この部屋の中は動き回ってもいいの?」
「ええ、大丈夫だと思うよ」
私は立ち上がって部屋の中を歩き回った。
私が母と住んでいるマンションも同じ様な感じの部屋で、何となく間取りも似ていた。
囚われていた部屋は和室で、引き戸を開けると隣の洋室と繋がっていた。
洋室には大きな窓があり、その先にはベランダがあった。
カーテンを開けると、外の景色が見える。
ただ、ガラス引き戸を開けようとしたが、鍵の部分に見た事の無い装置が付いているのを見つけ、結局はガラス引き戸を開ける事はせずに、ガラス越しに見える景色だけを見る事にした。
見える景色がどこかは分からないが、かなり都会だ。
高層ビルも沢山見える。
今いる部屋がマンションの何階なのかは分からないが、景色を見ているだけで足が
5階や6階という高さではない。
少なくとも10階くらいの高さはありそうだった。
私がどれくらいの時間意識を失っていたのか分からないが、空がまだほんのり明るいところを見ると、あの公園で意識を失ってから、まだ2時間も経ってないんじゃないかと思えた。
部屋の中に時計は無かったが、おそらく今は夕方の6時くらい。
ここがどこかは分からないが、遠くに東京タワーの先端部分が見えているので、きっと東京だろう。
つまり私は、ほんの数時間前に誰かに誘拐されて、千葉のA市から東京まで連れてこられたんだ。
「裏ひなまつり……。一体何なのよ!」
少し元気が出てきたのか、または恐怖でおかしくなったのか、怒りの様な感情が湧いてくるのを感じていた。
私を誘ったあの6年生の子の甘言に惑わされた自分にも嫌気が差したし、そもそも、あの子も無理やり別の車に乗せられていた。
――そうだ、あの子はどこに居るの? あの子なら、『裏ひなまつり』について何か知ってるかも知れない。
私はさっきまで居た部屋に戻り、
「ねえ、私が誘拐された時、もう一人女の子がいた筈なんだけど、その子がどこに行ったか、知らない?」
「知る訳ないでしょ。別の車に乗せられたんなら、別のこんな場所に連れていかれたんじゃないの?」
「……そう、か……」
確かにそうだ。誘拐なんてどこにでもある話じゃないと思い込んでいたけど、少なくとも、私とこの子、更に先週までは中学生の女子もいたというし、私を誘った6年生の子も含めると、4人も誘拐されていた事になる。
中学生の子は殺されて内臓を外国に売られたと言っていた。
となると、ものすごく悪い組織みたいなのが実際にあって、私たちは売られる為にここに連れて来られたのかも知れない。
私がそんな事を考えていたその時、玄関の扉がガチャガチャと開けられ、3人の男が入ってきた。
3人とも目出し帽をかぶっていて顔は分からないが、2人は太っていて目出し帽の首元から白い毛髪が見えている事から、50~60歳くらいなのかも知れない。
1人は痩せていて、黒いシャツにグレーのネクタイをしている。
「お待たせしました。今日の『裏ひなまつり』の舞台はこちらとなります」
というその声は、随分と若い声の様にも思えた。
「ぐふふ、いいじゃないか、とても可愛いじゃないか」
「お気に召して頂きましたか。それでは、こちらをどうぞ」
そう言って、その男は胸ポケットから手錠を取り出した。
その男が実は正義のヒーローで、その手錠をこの太ったオジサンの手にかけて警察に突き出してくれるのでは?
そんな淡い期待を持ったような気がするが、覚えていない。
少なくとも、その手錠は私の両手に掛けられ、私は部屋の隅にある金属の手摺の様なところに繋がれたことは覚えている。
そして、もう一人の男を連れて隣の部屋に行き、そこでもあの子に手錠をかけたのか、カチャリと乾いた音がした後、どこかにつなぎ止められた様な金属音が聞こえていた。
(いや、何? ……怖い!)
その後の事は筆舌に尽くしがたく、今も私の中では曖昧な記憶として残っている。
ただ、全身を無遠慮に触れられ、男の汚い舌が私の全身を舐め回し、私の足の付け根までを無遠慮に嘗め回したその舌が、私の胸を這いあがって私の唇を舐めようとした時、あまりの気持ち悪さで耐え切れず嘔吐したのは覚えている。
男は私の髪を掴んで押し倒し、吐瀉物に顔を押しつけられて、手錠のかかった手首が
それが何時間続いたのかは分からない。
永遠にも思える様な地獄の果てに、いつの間にか気を失っていた私は、誰がそうしたのか、身体を綺麗に拭き取られ、シャワーでも浴びたのか、髪も身体もせっけんの香りがしていた。しかし、先日の男にされた恐ろしい行為が忘れられず、そのまま数日間を、恐怖と現実逃避を繰り返しながら過ごしていた。
しかし、そんな地獄はその日だけでは終わらなかった。
それから数か月もの間、私は自宅に帰る事も出来ず、テレビ等で外の情報に触れる事も出来ず、数日に一度、知らない男に嫌な事をされるだけの日常を過ごしたのだった。
いつの間にか、私より先にいたあの子の姿が見えなくなり、ある日、食事を持ってくる男の口から、
「ああ、あいつは一昨日ここから逃げようとしてな。捕まって殺されたよ。多分、内臓を外国に売られたんじゃないかな」
と聞いた。
(あの子が言ってた事、本当だったんだ……)
私はここが地獄だと分かってはいたが、やはり死ぬのは嫌だった。
しかし、蒸し暑い夏のある日、事態が急変した。
私を公園に誘った6年生のあの子が、私と同じ部屋に連れてこられたのだ。
彼女は私に「祥子ちゃん?」と話しかけた。
「あなたは……」
私はそう言って声を詰まらせたまま、それ以上何も言えなかった。
ここに来てから、他人との会話なんてほとんどしていない。
声を出す事もほとんど無かったから、うまく喉から声が出せなかったというのもあるだろう。
ただ、私がこんな目に遭った元凶とも言える者の姿に、私の中で激しい怒りが燃えていたもの事実だった。
「祥子ちゃん、ごめんね……、本当にごめんね」
私の姿を見るなり、ボロボロと涙を流してそう言う彼女の両手をよく見ると、その手首には、頻繁に手錠を掛けられた跡が生々しく残っており、所々血が滲んでいて痛々しかった。
「本当に、こんな事になるなんて知らなくて……」
彼女はずっと泣いていたが、本当に泣きたいのはこちらだ。
しかし、彼女が泣けば泣く程、私の心は冷めてきて、彼女に対する怒りまでもが冷めてくる様だった。
私はあえて彼女とは語ろうとせず、ただ一言、こう訊いた。
「これから、どうするの?」
私の問いに、彼女は意を決した様にこちらを見ると、
「祥子ちゃん。一緒にここから逃げよう」
と言い出した。
「無理だよ。捕まって殺されるよ」
と私は言ったが、彼女は首を横に振った。
「そんなの知ってる。けど、ここに連れて来られる途中、逃げる方法を見つけたの」
彼女の目は真剣で、以前に私を公園に誘った時の様なイタズラっぽい面影は無かった。
「本気……なの?」
「本気だよ」
私の声に、揺るぎない意思さえ感じるその返事に、私は
ここに来て、また他力本願なのかと自分でも嫌になるが、自分に勇気も力も無い事は、この数か月間で嫌という程思い知った。
今更強がりも何もない。
けれど、彼女もこれまでそうした屈辱を味わってきたハズなのに、こんなにも真剣な眼差しで「逃げよう」と言っているのだ。
ここで「逃げよう」というのは、「死ぬかも知れない」と同義なのだ。
たった12歳の少女が、「命を賭けてでも逃げよう」と、そう言っているのだ。
私は、断る事が出来なかった。
いや、自分の意思として「逃げよう」と思ったのだ。
「うん、逃げよう」
私がそう言った時の、彼女の表情は忘れない。
申し訳無さそうな、そして何かの呪縛から解き放たれたかの様な……
「じゃ、逃げる方法についてだけど……」
彼女が色々な説明をしてくれて、私はただ頷いて覚えるだけで精一杯だった。
詳しい事は思い出せないが、結果的に彼女は逃亡に成功し、近所の交番に行って警察官にこの場所を知らせる事が出来たのだ。
私や他の部屋に囚われていた子達も無事に救出された。
そして、驚いた事に、死んだ思っていた、他の子達も、別の部屋で捕まっていたらしく、私と同じく警察に救出される事になった。
私は今回の事がテレビのニュースになっているのを見たが、逮捕されたのは、いつも食事を持ってきていたあの若い男だけだった。
どうやら、私たちの様な未成年の女の子へのわいせつ行為をさせて大金を稼いでいたという事らしく、店の名前が『ミニエンジェル』だった事から、この一連の事件は『ミニエンジェル事件』と呼ばれる様になった。
しかし、私は覚えている。
あの汚らしい身体をこすり付けて来る、太った男の声や臭いを。
思い出すだけで吐き気を催すが、その姿をNHKの国会中継で見た時はもっと驚いた。
テレビの中ではスーツを着ていて最初は分からなかったが、その声は、私が何度も聞いた「あの声」と同一人物なのは間違いがない。
そして、あの体型もそうだ。
あの後、私のケアを担当してくれた女性警察官がこっそり教えてくれた事がある。
「今回、店の経営者を逮捕したので、今後はもう大丈夫だと思う。でもね、君に相手をさせた沢山の大人達は、残念ながら逮捕できなかったの」
「……どうしてですか?」
「それがね……、大物の政治家とか、世界的な実業家とかが沢山いて、警察の上層部にも圧力がかかってるみたいなのよね。ほんと、ひどい話だと思うけど……」
そう言って怒りを露わにした女性警察官だったが、つまりは私にとって、この事件は解決などしていないのと同じだという事だった。
……それからだ。
漠然とした不安が残っていたのが原因なのだろう。
私はPTSDを抱える事になり、「3月3日」「月曜日」という条件が重なった時に、この様に激しく発症してしまうのだ。
32歳になってもこの傷は癒えず、テレビを見ても、政治家はまともに政治など行っていないのが分かる。
2025年3月3日の月曜日。
私の誕生日であり、私にとっては「裏ひなまつり」があった日でもある。
この条件が揃う日が、私の人生であと5回、いや6回はあるだろうか……、その度にこの様な苦しみを味わう事になるのかと思うと嫌になる。
そして母も還暦を迎え、苦しかった母子生活に引き続き、今度は母の介護をする日も来るのだろう。
こんなトラウマを抱えた私は、恐らく一生男性と接触する事は無いのだろう。
そんな私が、こうして社会の隅で必死に生きている横で、まともな政治も行わず、与党議員が裏金で未成年女子のパパ活に関与したり……
「日本って、いつからこんな地獄になったんだろう……」
会社にメールで「体調不良の為、本日欠勤させて頂きます」と送りながら、ぼんやりと天井を見上げたのだった……
裏ひなまつり おひとりキャラバン隊 @gakushi1076
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