鏡の中の声
鳴沢寧
鏡の中の声
静かな夜だった。街灯の光が窓の隙間から漏れ、畳の上に細長い影を落としていた。佐藤美咲は一人、アパートの小さな部屋に座り、古い手鏡を手に持っていた。鏡は祖母の形見で、縁に細かな彫刻が施されたアンティークなものだった。美咲はその鏡を眺めながら、祖母の最期の言葉を思い出していた。
「この鏡には気をつけなさい。見つめすぎると、戻れなくなるよ」
子供の頃はただの怖い話だと思っていた。でも今、27歳になった美咲は、その言葉が妙に重く胸に響くのを感じていた。仕事での失敗、恋人との別れ、友人の裏切り――最近の彼女の人生は暗闇に飲み込まれていくようだった。鏡に映る自分の顔は、疲れ果て、目が落ち窪み、まるで別人のようだった。
「みさき……」
小さな声が聞こえた。美咲はハッとして辺りを見回した。部屋には誰もいない。テレビも消えている。風の音か何かだろうか。彼女は首を振って、再び鏡に目を落とした。
「みさき……こっちだよ……」
今度ははっきり聞こえた。声は低く、かすれていて、どこか懐かしい響きがあった。美咲の心臓が早鐘を打つ。声は鏡の中から聞こえているように感じられた。恐る恐る鏡を覗き込むと、そこには自分の顔が映っていた。いつも通り、疲れた表情の自分。ただ、どこか違和感があった。目だ。鏡の中の自分の目が、じっと彼女を見つめ返しているように見えた。
「何?」美咲は思わず声に出してしまった。
「こっちへおいで……」
鏡の中の自分が口を動かした。美咲は息を呑み、鏡を床に落とした。ガラスが割れる音はせず、ただ鈍い音が畳に響いた。彼女の手が震えていた。幻覚だ。疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせ、鏡を拾い上げようとしたその時、鏡が勝手に動き出した。ゆっくりと、まるで誰かに押されているかのように、彼女の方へ滑ってきた。
「やめて!」美咲は叫び、立ち上がって後ずさった。鏡は止まり、再び静寂が部屋を包んだ。彼女は荒い息をつきながら、壁に背をつけて座り込んだ。これは現実じゃない。夢だ。きっとそうだ。
だが、次の瞬間、部屋の電気がチカチカと点滅し始めた。暗闇と光が交互に訪れ、そのたびに鏡が少しずつ近づいてくるように見えた。美咲は膝を抱え、目を閉じた。聞こえてくるのは自分の心臓の音だけだった。
「みさき……見ないで逃げられると思うの?」
声が耳元で囁いた。美咲は目を開け、鏡がすぐ目の前に浮かんでいるのを見た。宙に浮いているのだ。鏡の中の自分は笑っていた。口が不自然に大きく裂け、目は真っ黒に染まっていた。
「何!? 何なの!?」美咲は叫びながら立ち上がり、ドアへと走った。しかし、鍵が回らない。ドアノブを握る手が冷たく、まるで氷に触れているようだった。背後で鏡がカタカタと音を立てていた。
「逃げられないよ、みさき。ずっと見てたんだから」
美咲は振り返った。鏡が部屋の中央に浮かび、その表面が波打つように揺れている。そこから黒い手が伸びてきた。細く、骨ばった手。爪は鋭く、血のように赤く染まっていた。美咲は悲鳴を上げ、壁に背を押し付けた。
「お願い、やめて! 私は何もしてない!」
「何もしてない?」鏡の中の声が嘲笑った。「あの子を裏切ったよね。あの男を傷つけたよね。自分のことしか考えてなかったよね」
美咲の頭に記憶がフラッシュバックした。学生時代、親友だった彩花を妬み、彼女の恋人を奪ったこと。上司のミスを自分のせいにされても反論せず、ただ黙って恨みを募らせたこと。元恋人への冷たい言葉。彼女は確かに誰かを傷つけていた。だが、それがこんな形で返ってくるなんて。
黒い手が彼女の足首を掴んだ。冷たく、ぬめった感触に美咲は全身を震わせた。「許して! ごめんなさい!」彼女は泣き叫んだが、手は離れない。鏡の中からさらに手が伸び、彼女の腕、首へと絡みついてきた。
「みさき、私たちはお前の一部だよ。お前が隠してきた闇だ」
鏡の中の顔が歪み、彩花の顔に変わった。次に上司の顔。そして元恋人の顔。全てが彼女を睨みつけ、笑い、泣き叫んでいた。美咲の意識が遠のき、部屋が暗闇に沈んだ。
翌朝、アパートの大家が異臭に気づいて部屋を訪れた。ドアは開いており、中には誰もいなかった。ただ、古い手鏡が畳の上に置かれ、その表面に血のような赤い染みが広がっていた。大家が鏡を手に取ると、かすかに女の笑い声が聞こえた気がした。彼は慌てて鏡を落とし、部屋を飛び出した。
それ以来、その部屋には誰も住まなくなった。だが、近隣の住人は時折、夜中に女の泣き声や笑い声が聞こえると噂した。そして、誰もがその鏡を見たという。大家が捨てたはずの鏡が、なぜか部屋の隅に戻ってくるのだ。
美咲はどこへ行ったのか、誰も知らない。ただ、鏡を見つめるたびに、彼女の闇が誰かに忍び寄る。そして、見つめすぎた者は、二度と戻ってこなかった。
鏡の中の声 鳴沢寧 @yasuu_kusayan
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