汚した手で。

にのまえ(旧:八木沼アイ)

汚した手で。


 水に溶かした紫色の空。風が冷たく、日が下ろうとしている。点滅した信号。青から今、赤に変わろうとしている。変化。今の俺に必要なことだ。この距離だと走ったら渡れるが、俺はそれをせず歩く。特段、急ぐ必要もない。

 すると、後ろから走ってくる足音が聞こえてくる。俺の横から高校生が風のように通り過ぎた。彼女は走っている。俺と違って、赤になって渡れなくなる鍵盤のような橋を渡っていく。

 きっと、彼女のような人は臆せずにバイト応募に電話できる人間なんだろう。軽自動車が左折しようと、ウィンカーが威嚇している。だが、彼女はお構いなしにずかずかと足を運ぶ。堂々と、羨ましい。


 グラグラ、グラグラ


 彼女の渡る橋が、そのまま落ちていってしまえばいいのにと思う。何事もすぐには変わらない。だんだんと、グラデーションのように、着々と、変化への段階を知らせるように変わる。努力も同じだ、一朝一夕では身に付かない。そうでなくては、俺があんな形で否定されていいはずがない。今まで積み上げた、揃った足並みを統制する指揮棒を奪われた気分だ。

 一世を風靡する人間には花があって美しい。だから凡人は、才能というさも一瞬で身に着けたようなその花弁が、早く枯れ落ちていくのを願わずにはいられない。落ちてしまえ、と。

 

「はぁ」


 顔を上に向ける。白んだ息は、空の色を上からかすめ取った。

 あの日まで完璧だったのに。


 あの天才が、本物が現れるまでは。



「やっぱ」

「うん」

「あいつには勝てないよ」

「あいつ?あぁ、あいつね。まぁ、学年一位だし」

「そうだな。あやべ、噂をすれば」

「え、まじ」


 後方を確認する。


「一か八かで言ってみただけ」

「おいしばくぞ、まじでびっくりしたわ」

「ごめんて、あと袖に絵の具ついてる」

「うわまじや、洗わないと」

「あ、鐘が鳴る」

 校内には、無機質で聞き慣れた金属音が平等に響き渡る。

「やばい次の俺のクラス体育だ。じゃあ、また」

「おう、また昼休みに」

 俺はこういうくだらない休み時間が好きだ。百舌もずと話すこの生産的とは言えない静かな日常が、今日で二年目に突入する。

「ほら、席に着け。授業を始めるぞ。今日は資料集を使うから、持ってきてないやつは今すぐ廊下に取りに行きなさい」

 数人が椅子を引きずる。休み時間のざわざわとした空間では気にならない雑音も、授業中では主役になってしまう。俺も、その主役らに漏れず資料集を取り忘れていたので、冷え切った廊下に出る。自分のロッカーは整理されていて、資料集が分かりやすいところにあった。サッと取ると、隣の鶴江がしゃがみ込んでガサゴソと探している。気になったので、彼のロッカーに目をやると、中は、嵐でも起きたのかと思うほど荒れていた。思わず声をかけてしまう。

「学年一位でも、ロッカーは汚いんだな」

「うるさ、えーと肥田木君だっけ。学年一位が全員綺麗だと思うなよ」

肥田木ひたぎでいいよ。あとこの学校の学年一位はお前しかいねぇよ」

 初めて会話したのにもかかわらず意外とフレンドリーに接してくる鶴江つるえに面食らってしまう。窓から外を見ると、隣のクラスが体育の授業でサッカーをしている。ドリブルで走っているのは百舌のようだ。

「やばい、資料集が見当たらない」

「汚ないからだろ...俺の貸そうか学年一位」

「...今後俺のこと学年一位って言わなくなったら、受けとってもいいよ」

「わかったよ鶴江、もう言わない」

 校庭で雄たけびに近い歓声が上がる。

「わかればいいんだよ」

 鶴江に資料集が渡る。

「んで、肥田木はどうすんのさ」

「俺は百舌のロッカーから取ってくる」

「もず?鳥の?」

「あーそう」

「適当言ってんなよ」

「ツッコミきた。隣のクラスにいて俺と仲良くしてくれる友達のこと」

「へー、隣のクラスってことは、今体育してるとこのだれかか」

「そう、えーっと、あれ見て。あそこ、今ボール持ってるやつ」

 校庭にいる、青色のユニフォームを着た動くチェスの駒たちを指さす。

「どれどれ...あーいた。へーサッカーうまいんだな。あ、点決めた」

「今点決めたやつが百舌な」

「百舌君のロッカー勝手に漁っていいの?」

「まぁ、何度かこんなことしてるし、お互い許し合ってる」

「いいなそんな関係、憧れる」

 外を見つめる鶴江は、どこか寂しそうな目をしていた。

「おいお前たちいつまで駄弁ってるんだ、早く席に着きなさい」

『は、はい』

 やる気の先生だなとつくづく思う。俺は告げる。

「先生、資料集忘れました」

「...コピーあるからいいよ、席につけ」

 仕事はできるんだなと、生徒目線で思う。



 先生が去って同時に鐘が鳴る。彼ら彼女らの授業終わりの背伸びは、まるでその後の騒がしさに転ずる準備のように思えた。集中していた空気がほころびを生み、彼ら彼女らの溜めていたエネルギーの開放を宣言するように、他者との交流を通してそれは爆発的に広がりを見せた。教室は一気に雑音を取り戻す。

「おい、肥田木聞いてくれよサッカーでさぁ」

「なぁ肥田木、資料集ありがとう」

「あ...どうぞ」

「いえいえ、お先に」

 百舌と鶴江が同時に話しかけてきた。この場合の気まずさといったらなんたるや。要件はどっちも早く終わりそうなので、先に資料集を回収する。

「えーっと、まず資料集返しに来てくれてどうも。...紹介するわ、百舌、新しく友達になりました、鶴江君です。」

「どうも鶴江です...百舌君だよね、さっきのサッカーちょっと見てたよ。ドリブルもうまいし、点も決めてたね」

「おー鶴江君ね、百舌でいいよ。見てくれてたんだ、ありがとう。君が噂の学年一位で合ってる?」

「うんそうだけど、まぁ、学年一位より、鶴江って呼ばれたほうが嬉しいかな」

「絶対肥田木になんか言われたじゃん」

「めっちゃ言われた」

「言ってねぇよ」

 三人は笑いあう。

 二人の自己紹介が終わったところで、俺は資料集をロッカーに戻しに行った。気まずくて、よそよそしい態度にお互いなっていたら面白いなとか、そんな微かな期待を胸に、ドアから教室を覗くと二人は仲良く談笑していた。

「ロッカー汚いのは仕方がねぇよな」

「やっぱそうだよね」

 疎外感とは少し違う。すこしだけ心が痛くなった。



 去年転校してきた鶴江は、教室にあまり馴染めずにいた。だが、イメージとしては「孤高」が一番しっくりくる。転校してきて三日後の定期テストで学年一位を取った。最初はカンニングを疑われたが、授業での小テストや、先生からの質問にも論理的に答えていた様子から、彼が秀才であることには間違いなかった。テスト期間中、教科書やワークといった勉強道具を家に持ち帰らず、ほかの生徒からなぜ持ち帰らないのかと聞かれた際には、「授業で全て把握している」と答えたそうだ。その後、彼に「天才である」という烙印が押されるのに、そう時間はかからなかった。


 天才の名がクラスや学年に浸透してきたある日の帰り道、百舌から言われた。

「去年の肥田木を見てるみたいだ」

「...え?」

「転校してきた鶴江って子、一昨年のお前もあんな感じだっただろ」

「...そうだったっけ」

 知らないふりをした。

「家では勉強なんてしないよ、授業を聞いていれば大体わかる、とかなんとかほざいて天狗になってたじゃないか」

「あぁ、そうだな」

 一番言われたくないことをきっと言われる。

「本当は家でめっちゃ勉強して、寝る間も惜しんでやってたんだよな」

「もう、なにも言うな」

 聞きたくない。

「なぁ、元学年一位」

「...次言ったら殺すぞ」

「わー怖い怖い」

 わかっていた、自分でも。見かけだけ、周りから見えるところだけ、天才っぽく、さも「少ない努力量で学年一位というパフォーマンスを引き出せる自分」を演出していた。それが今となってはどうだ。二位。二位。二位。二位。そして三年の始まりのテストも二位。

 途中から壁を殴っているような虚無感に襲われる。なんなら、「ここまでがあなたの限界です」とその壁の落書きに書かれていた。自分への自信がどんどんなくなっていき、道端の目に映る石ころにすら尊敬の念が湧いてくる。

「お前も十分、天才なことに気づけよ」

「...天才は賞味期限が早いんだよ」

「お前はモンブランだもんな」

「イチゴのショートケーキだよ」

 別れ道、道の隔たる部分にひび割れた鏡が置いてある。鏡には誰も写っていない。夕日は冷たかった。



 百舌が大きな声で言った。

「おい肥田木、突っ立ってないで早く来いよ」

「あ、あー悪い、ぼーっとしてた」

 過去のことはもういい、もういいんだ。

「そういえば、来週にある学校の絵画コンクールって何?」

 鶴江は百舌に投げかける。

「あぁ、これか、学校で一番いい絵画を描いたやつが表彰されるイベントだな。聞いて驚け、二年連続で肥田木が表彰されてんだ」

 天才、か。

「へぇすごい!今年で最後だし、せっかくなら、俺も応募してみようかな」

 凡人の俺にできるのだろうか。

「いいじゃん先生に後で聞いてみなよ、肥田木は...お前その顔」

「あぁ、もちろん出るよ、てか鶴江描けるの?絵」

「初めてかな、でも俺、本気で描いてみる」

 絵画で負けたら死んでやるよ。



 時刻は夕方、学校終わりに百舌に画材を買いに行くと伝えて、俺は駅前へと向かった。バスに揺られる。乗客のうち、制服の割合が八割を占めていた。うちの県は駅前ぐらいしか賑わっていないからか、遊ぶ場所も限られてくる。つくづくここは田舎だ。二十年もすればここは寂れて見るに堪えないとこになってしまうだろう。若者が都会に出て行って、老人の集合住宅とか作られて、過疎化して、いずれ忘れ去られてしまう。


 公民の先生が「うちは今、お父さんを自宅で介護しているんですけど、もう大変で、大変で。自治体からの援助金がないとやっていけませんね」と言っていた。その話を聞いて、この世は弱者にとても不利にできていると思った。だから授業の感想アンケートの欄に思ったことをそのまま記載した。

 先生はなんて書いて返してきたんだっけ。

「ねぇ君、プリント落ちてるよ」

「あ、すいません、ありがとうございます」

 親切なおばさんがプリントを拾ってくれた。俺と同年代のほとんどは自分以外に興味がないらしい。落ちたプリントに書いていた。

『先生を弱者だと思っているのかい!ひどいな!でも、弱者だからといって、諦める理由にはならないよ』

 そんな青臭いことが書かれていた。鶴江と俺、どちらが弱者と言われれば間違いなく後者だ。

 窓から見る風景が、畑からビル群になるのも、俺が学年二位から上がれなくなったときのように、突然のことだった。いや必然だったのかもしれない。

 降車した。バスの排気ガスに咳き込まれながらも目的の場所へと進む。

「え、肥田木?」

 後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。

「...白鳥しらとりじゃん、何してんの」

「え、画材買いに行くんだけど、もしかして...」

「俺も買いにいくつもりだった」

「そっか、どうする一緒に買いにいく?」

「じゃあ、行こうかな」


 元カノと画材を買いに行くことになった。


 白鳥とは、中学校の時付き合っていた彼女で、お互いの高校が別々になるとのことで別れを告げた。久々に会ったかもしれない。三年ぶりだ。連絡先を消していたから、こうでもしないと会う機会がないのかもな。元カノの幸せな姿なんて見てらんないだろ。こんなことを百舌に言ったらしかめっ面をされた。


「絵、また描くの?」

「そう、学校のコンクールに」

「あー、去年も一昨年も肥田木、賞取ってたもんね」

「え、なんで知ってんの」

「あ、いや、別に、てかうちの市で有名だったじゃん。学校で配られた新聞の端にちょこんと載ってたような、そんな気がしただけ、合ってた?」

「合ってる。俺あんま新聞とか見ないからなぁ」

 噓だ。ホントは入賞した部分を切り取って額縁に入れて家で飾っている。

「てかそこ右」

「ごめん」

「方向音痴なとこ治ってないのウケる」

「ややこしい道があるのが悪い」

「他責もここまでくると清々しいね」


 二人で笑いあう。まるで中学時代に戻ったみたいだな、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。そんなことを思っているのはきっと俺だけなのだろう。

そういえば、彼女の雰囲気は中学校の頃と比べて変わった。ガキっぽさが抜けたといえば言葉が悪いが、大人びた気がする。

 三年も会ってないとその人の変化を敏感に受け取ってしまうのかもしれない。いや、普通なのだろう。きっと俺も変わった。だけど、声には出せない。

 お互いの変化を言い合ううちに、その変化の理由を、根掘り葉掘り聞かれるし、聞いてしまう。だから、聞けない、口には出せない。俺は、俺が傷つくのを恐れている。

もしかしたら、彼女もかもしれない。違う、俺がそう思いたいだけか、という結論に帰結する。

「あ、着いた」

 画材屋は豆腐型の白い綺麗な建物、の隣にある、築五十年からリフォームを一度もしていない木造建築の方。店主のじいさんが一人で経営しているところだ。はっきり言ってボロい。

「懐かしいな」

「肥田木が画塾に通っていた頃は、ここによくお世話になったよね」

「だな、小学生の時か?白鳥と初めて来たとき、画材とかよくわかんなくて、ここのじいさんに全部教えてもらったっけ」

「あーそんなことあったね」

「とりあえず入るか」

「うん」

 店内は、薄暗く、何人かの駅前の画塾生がいる。肩にかけているバッグで知ってる人にはひと目でわかった。あの赤色に、俺はトラウマを植え付けられた。

「あーまって、同級生いるわ」

「え、ほんと?俺気まずいから先に商品見てる」

「オッケー」

 コンクール用のキャンバスと、足りなくなっていた絵の具を調達する。白鳥は同級生らと立ち話を始めた。

 画材を買いにきたのに、目的が話すためだったんじゃないかと思わされるほどに、盛り上がりを見せている。

 そんな彼女の様子を横目にレジに向かう。ここだけセルフレジなのが面白い。ここに金をかけるなら、この店の外観に気を使うべきだろ。

 だが、じいさん一人だけしか従業員がいない様子をみると、合理的な判断だと思う。レジに向かう途中、見覚えのある筆を見つけた。

 この筆。特徴的な持ち手の、画塾生なら誰も使わないような筆。ジュピター?へぇ、そんな名前だったんだ。

 思い出した。あれだ、小学生の時、知らない誰かが体験会に来た時に持っていた筆だ。

 そいつも言われていた。天才画家だと。



 当時、小学校六年生だった俺は親の勧めで、駅前の画塾に通っていた。小学生から浪人生まで、いろんな人がいるその場所は、十二歳にとって、小さな社会だった。

 画塾に通う前、市で行われた防犯のイラストコンクールに、小学生の部で金賞に輝いた。絵が表彰されたのを機に、親は俺に絵の才能があると信じて疑わなくなった。

 過剰に褒められた俺は天狗になり、画塾への打診も「もちろん!行きたい!」と二つ返事で了承した。

 画材も上物ばかり揃えてもらっていた。今思えば、無理して買っていたのがわかる。

 後に、普通の筆の、二桁多い額であることを知った。生まれて初めて罪悪感を買ったのだと思う。分かりやすいほど両親に期待されていた俺は、将来は画家になると言わざる負えなくなっていた。

 段々と、簡単にやめることができなくなってくるものだと、子供ながらに感じていたため、両親には「あまり期待しないでね」と伝えたが、聞く耳を持ってはくれなかった。

 バトル漫画にはまっていた俺は心のどこかで「結果を残すしか、俺が生き残る道がないのだ」という四面楚歌なこの状況を楽しんでいたようにも思える。

 そうこうして、画塾での授業が始まった。結論から言うと、授業は退屈極まりないものだった。知っていることの反復運動、何の思いもこもっていない講評。

 頭の中で他人の絵を分解して自分の絵に組み合わせる方が何十倍も面白かった。

 毎週、その教室の絵を立てかけるスペースに俺の絵が左上に飾られた。これを意味するのは、この教室で一番絵の上手い人。

 正直、肩透かしだった。入塾して三週間で、中学生クラスに入っても劣らない俺は、先生から言われた通りに、高校生コースで授業を受けることになった。

 高校生か。正直、年上の人は苦手だった。

 塾で、嫌な有名のなり方になってしまったからか、小学生の俺を廊下ですれ違う度、嫉妬や恨み、憎しみを持った目で見てくる人間がいる。

 羨望の眼差しなんて生易しい言葉で表せるものじゃない。あれは間違いなく殺意だった。

 五階フロア「高校生クラス」。見上げないと見えないところに貼ってあるプリントは、俺を見下ろしていた。帰り道にある鏡と一緒だ。

 中にいる生徒のプレッシャーが伝わってくる。意を決してドアを開けると、

 そこに、同い年がいた。二人、白鳥と百舌だ。白鳥と百舌が顔を見合わせる。


 「迷子?小学生のクラスは二階の奥。ここは五階だよ」

 ナメられないようにしようという感情と単純に煽られているように感じたので、苛立ちを隠しながら自己紹介を始める。

 「五階か、じゃあ合ってるね。今日からお世話になる、肥田木です。君たちも小学生?」

 「え、そうだけど...今月すごい人が入ってきたって噂になってたけど、君のことだったんだ。私は白鳥」

  強気な女の子の後ろで、もじもじしながらこちらを見てくる男の子がいる。

 「ぼ、僕は、も、百舌。よろしく」

 「よろしく。白鳥に、百舌」

 『よろしく』

  二人揃ってそう言うと、白鳥が話し始めた。

 「あ!そうだ思い出した。あと、もう一人来るみたいだね」

 「え?」

 「あれ、聞いてない?もう一人来るの」

 「へぇ」

 「あ、噂をすれば来たじゃない」

 「え、わ!びっくりしたー!」

  心臓が止まりかけた。後ろに立っていた同じ小学生。そいつの腕に握られていた筆。それ以外の画材を忘れてきたと言っていたそいつに、白鳥は爆笑していた。

 「ウケるんですけどまってお腹痛い」

 ケタケタ笑う白鳥を含む俺たち四人は、クラスで一番浮いていた。あいつが持ってた筆、あれ、あいつの名前なんだっけ。



 じいさんに話しかけられる。

「おい肥田木、久しぶりだな。また、絵描くのか」

「あ、あー、そうだよ、久しぶりだね、梟木ふくろうぎじいさん」

「ふ・く・ろ・ぎ・だ!」

「おお、ボケてねぇな」

「ふんっ、ガキが。なんだコンクールに出すのか、お前が描けば、入賞は間違いねぇな」

 その言葉を聞き、動かしていた手が止まってしまう。間違いない、か。バーコードがうまく読み取れない。

「ありがと、コンクールは学校のね。ただ、今年、天才画家がうちの学年にいて、そいつに勝たないと」

「おお、そいつは手ごわいな。勝つ手立てはあるのか」

 天才画家、今初めて言ったような気がする。言われたことはあっても、言ったことはなかったな。

「模索中。勝てるように頑張るよ」

「偉いなお前は。小学生の時からお前はちゃんと努力してる。みんなにばれないようにひっそりと」

「うるさい、自分なりにやってみるよ」

「おう、頑張れ。それと」

「なに?」

 じいさんはニヤニヤしながらこちらに向かって言った。

「白鳥と付き合ってるのか?」

「付き合ってねぇよ」

 袋詰めがうまくいかない。キャンバスが引っかかって無理に入れようとすると袋が破けそうになる。俺の心も張り裂けそうになる。こういうところで、老人であるというステータスを存分に発揮しないでほしい。こちらが言い返せないことをいいことに、老人は若者に何でも聞いていい、たとえデリカシーのないことでも、という盾があるのはずるいと思う。ずっと、袋詰めに苦戦している俺を見て、じいさんは救済の糸を垂らす。

「紙袋にするか」

「...紙袋で」

 従うほかなかった。

「ほら、顔が赤いぞ、タコみたいだ」

「うるさい!」



 重い紙袋を手に、店を出る。もう夜になっていた。後ろから白鳥が俺を呼び止める。

「ちょ、ちょっとまってよ」

「え、あー、友達と話してるからここで解散かと思った」

「あれそうなの、通ってた画塾、顔出しにいこうよ」

「まだあの先生いるんだろ」

「いるけど」

「じゃあいかねぇよ」

「そう...残念。私、さっきの友達と行ってくるから、そんじゃーねー」

「わかった、じゃあね」

「ねー、肥田木」

「...なんだ」

「肥田木って彼女できたの」

 心臓が強く波打つ。彼女は高校で大胆さを学んだのかもしれない。帰り際に聞くなよ。帰り際...。

 わざわざ帰り際にその質問する意味が分からない、そんな鈍感な男になれたらよかった。

「できてないよ」

「そう...」

 ずるいじゃないか、こっちから聞かないといけない状況を作るなんて、ずるい。

「...そっちは」

「まだ、できてないよ」

 あの時の百舌のようにもじもじしている。

「そう、お互い頑張ろうな」

「っ...うん、じゃあね」

 彼女は店の中へ戻っていった。

 あんなにわかりやすいと、こちらも気恥ずかしくなる。右手で紙袋のひもを強く握っているのは、彼女を見送ってから気づいた。

 なぜだか、重い荷物を下ろしたみたいに心が軽い。なぜだろうな、答えは知りたくなかった。それに、知る必要もないだろう。

 一回だけスキップしてバス停に向かった。



 バスに揺られながら景色を眺める。時間を加速させるかの如く、ビルの羅列から、前時代的の風景に変わっていった。

 灰色から緑色へ、色彩は鮮やかになっていく。悲しいのは、経済的に豊かなのは灰色の方であることだ。だから、灰色は寂しい。視界に写る空の割合も進むたびに大きくなっていく。

 この市は、くすんでいた方が持続するのかもしれない。

 バスを降り、いつもの帰路につく。暗いなぁ。今日は雲のない天気だった。試しに見上げてみる。

 白の絵の具を付けた歯ブラシを、黒のキャンバスへ、指で弾いたみたいにハッキリと見えた。

 「電線に星が重なって、楽譜みたいにみえるよ」

 夜遅くまで絵を制作していたときに白鳥が言ってきたのを思い出した。

 

 「はぁ...」

 ここには電柱がねぇよ。

 音符が自由に宇宙を奏でている、といえば聞こえがいいかもしれない。だが、俺にとって、星は星で、それ以外には何も見えない。

 柔軟な考えが出てこない。画家にとっては致命的かもな。才能。俺の才能は、もう枯れてしまったのだろうか。

 やっぱり、見上げても街灯は俺を照らさないし、鏡は割れている。



 家に帰ると、晩御飯を作ってる母親の後ろ姿が目に入った。キッチンから玄関も見えるため、振り返って「おかえりー」と透き通った声で言われる。

「ただいまー」

「あら、その紙袋、梟木さんのところじゃない。また、絵描き始めるのー?」

「そうだよ、毎年出してる学校のコンクールにね」

「前まで、画材屋なんて行ってなかったじゃない」

 行ってたよ、コッソリと。

「あぁ、前の余ってた絵具とキャンバス使ってた、筆はいいやつだから物持ちいいかも」

「あらぁ、じゃあ買ってよかったわぁ」

「部屋戻ってすぐ描くからご飯は部屋の前に置いといて」

「わかったわー」

 こういう要望が通る母親で助かった。階段を上る。目の前の部屋の隣は空き部屋。今は倉庫みたいに使われている。

 ドアに下げられたネームプレートは裏返しになっている。ずーっと。この先もずっと。

 部屋に入る。小さい頃に取った賞の数々が俺を睨む。こいつらはずっと唱える。「はやくかけ」「賞を取れ」「お前は一番でないといけない」「もっと上を目指せ」

 脅迫だ。

「負けるな」「勝て」

 甲子園なら励ましの希望の言葉、期待する応援の声かもしれない。だが俺にとってそれは絶望の讃美のほかない。


 殺意を込めて筆を握る。刺し殺す。刺し違えても殺す。殺されようものなら殺す。


 まともな判断なんてできるはずがない。過去の味は、どんな晩御飯よりもうまい。


 そういえば、弟も絵を描いていた。俺が信号で突き飛ばした弟。あいつの使ってた筆、たしかジュピター、だっけ。


 ていうか、ここ、弟の部屋じゃん。天才画家の部屋だ。


 俺の部屋は、あの倉庫みたいに使ってたとこか。弟の部屋を出て、自分の部屋に戻る。そこで思い出した。

 弟の部屋に俺の賞状やトロフィーも合わせて置いておいたんだ。笑いがこみ上げてきてしまう。やっと、弟の賞の数に勝てる。そうだ、それを言いに来たんだ。

 学校のコンクールで、賞を取れば、三十一対三十二。勝てる。いや、勝つ。

 俺の部屋は、これまで取った賞に出した絵がずらっと並べられてあった。


 あぁ、うっとりしてしまう。目線を横に、棚に飾られた額縁の中にある、過去の新聞に映る俺。再認識する。示すんだ、俺が上であること、あいつに。

 画塾でもらった袋を分解して作った、汚れ散った赤いエプロンを着る。紙袋を破く。キャンバスを裸にして、サランラップを巻いたパレットを左手に、灰色の部屋で、俺は筆を走らせる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

汚した手で。 にのまえ(旧:八木沼アイ) @ygnm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ