腐女子の尊厳死
丹路槇
腐女子の尊厳死
十二時を二分過ぎて、デスクトップの画面いっぱいに開いたフォトショップをショートカットキーで最小化してから席を立った。昼行きますか、と声をかけて、隣席の同僚と連れ立って事務所を出る。業務時間中は膝にかけていたストールを羽織り、財布と携帯だけを入れた小ぶりのトートバッグを揺らして駅前の商店街にあるイタリアンのチェーン店を目指した。
ドリンクバー付きのランチメニューからひとつを選ぶルーティンがあまりに気楽で、いつからか平日の五日間はほぼ毎日ここで昼食を摂っている。昼休憩に求めるものが美味しいご飯ではなくお喋りの時間になってから、同じメニューを何度リピートしているのか、もう気にならなくなった。
ドリンクバーにマグカップをセットしてメニューからカフェモカを選ぶ。長い残暑が終わったとたん、急に冷たい風が吹くようになったから今日こそ迷わずホットで。ひとつ後でエスプレッソマシンのボタンを押す小堀さんはよくタンクのミルクが空になるタイミングにバッティングし、週に一度は店員さんを呼ぶ役に甘んじている。
彼女は私より九つ年上の派遣社員だ。任せた仕事は期限内にそつなくこなしてくれるひとで、なによりプライベートの話題でとにかく相性がいい。今も、彼女の手にある抹茶ラテを覗き込みながら、
「今日はセーフでした?」
なんて揶揄えるくらいの気のおけない仲だ。
はじめのうち彼女とは育児のこと、学生時代の思い出をつらつらと雑談していたが、最近はもっぱらひとつの話題でもちきりだった。
「始まりましたね、新レイド」
「今回の難しくないですか? チュートリアルやったけどぜんぜん分かんない」
「選ぶメンバー迷いますよね、普通に即戦力だと高レベル配置だけど、推しがいないと頑張れない」
「わかるそれな」
スマホの画面を横にして、ふたりで同じゲームアプリを起動する。始めたのは私の方が先なのに、今のスコアはふたりともほぼ横並びだ。数年前から名前だけ知っていた、音楽系シミュレーションゲームアプリ「ムジカシステマ」は、少し先の未来に地球を脱してコロニーで生きる青年たちが、オーケストラで古楽から近代曲までを再演することで物語をすすめる構成になっている。実在する交響曲やオペラ・バレエ音楽などが出てくること、ゲーム世界の情景や人物の描写が綺麗で好感が持てること、そしてなにより、子どもの頃に放映されていた名作アニメの声優陣が何人もキャストに抜擢されているから、私と小堀さんは一瞬で夢中になった。しかも登場人物の名前が全員コーヒーの銘柄であり、そこからほぼ擬人化されたキャラクター設定というのがエモい。
昨夏に友人への贈答で何気なくギフト用のコーヒー豆をブラウザで検索したのがきっかけだった。よくあるバーの下列に出る検索ワードのかけ合わせの候補の中に「ブルーマウンテン 顔がいい」なんて出てくるから、出来心でタップしてしまったのが沼の始まり。仕事帰りの電車の中で画像検索すると、現実世界には到底現れない美丈夫が出てきた。褐色肌にパーマ髪、上品な目鼻立ちに長い睫毛。その時はどう表現するのか分からなかったけれど、今なら迷わず「とてもえっち」って言っちゃう。
翌日、入念にリサーチした検索画像の中からとっておきの三枚を小堀さんに見せた。LINEに貼りつけたみっつのリンクを見て、ふたつは公式だけどひとつは二次ですよ、と彼女が教えてくれる。二次? そう、二次絵。なにそれ、虹がかかってるみたい。はじめはそんな感じ。
中学高校の頃に開花はしなかった私のヲタク人生の萌芽だった。たまたま機会がなかったというだけで、才能は多分にあったことは自認している。ファンアートを偶然見つけた日から、短い期間のうちに私は擬人化ゲームの二次創作作品を漁り尽くした。
最も登場頻度の高いキリマンジャロの擬人化は、ゲームのプレイヤーを一人称とした時の二人称視点に置かれる存在で万能イケメンというポジションだ。ファンの多くは自身と彼の恋愛模様を夢想しているらしい。ゲームの作中は、当たり前のように顔と声に性格まで美男揃いでよりどりみどりになっている。シミュレーションの大きなテーマがオーケストラだから、登場人物は進行により増えていくし、弦楽器みたいに同じパートで別のキャラでも許容されるという便利な設定だ。プレイしていればどんなに趣味が偏った人間でも自分好みのイケメンが必ず現れる。
ただ、私が虜になったのはそれとは少し違った。シミュレーションの中の世界での主人公、つまりゲームのプレイヤーは物語の選択や進行を担うが、実際にオケの演奏シーンなどには登場しない。むしろ、登場する擬人化された青年たちの個性や会話の端々から、彼ら男性どうしの相性や親密度を妄想するわけだ。
これがいわゆる腐女子が誕生する瞬間、私の両足はすぐさまボーイズラブの世界にどっぷりと沈みこんだ。
若くて明るさに満ちている反面、その冒険心が時としてやや危なっかしいキリマンジャロと、一見すると剣呑だが実は繊細で自己肯定感の低いブルーマウンテンのふたりは脳内ですぐさま一組にまとまった。ニコイチとかセットとかではなく、カップリングというらしい。男性同士をくっつけるのだからどちらかが女形になるわけで、甲乙を攻受、あるいは左右なんてぼかして表現するのが慣習だ。相手固定左右固定、とかね。その実態を濁さず言及すれば、たくましい妄想は二次創作のプラットフォームで絶えずR―18描写が共有されている。極限までデフォルメされたファンタジーの男性の肉体で濃密なセックスするという趣旨の人様の作品を楽しんでいるわけだ。
私と小堀さんがゲームの世界に夢中になったときには、すでにサービス提供から七年が経とうとしていて、界隈の二次創作もすっかり成熟していた。私はそこで自費出版よりももっとミニマムで手頃な同人誌という文化を学び、コロナ禍で拡充して便利になった通販を利用しまくった。通常の書店にある刊行物ではあり得ない規格の薄い本がクローゼットの奥にコレクションされ、今は隠して置く場所に困るくらい。ああ、なんて不健全で後ろめたい、魅惑の趣味なんだろう。それを職場の同僚と、ランチのたびに「ねえ見た? 〇〇っていう絵師さんの……」なんて話す日々が怖いくらい充実している。
小堀さんははじめ、私と同じようにキリとブルマンのカップリングから咀嚼をはじめ、今はブルボン・サントスとモカのふたりを固定で追いかけている。正直、私はモカの人物デザインも口調もあまり好きではなかったし、ゲームでも使用頻度は少ないキャラクターだったけど、そもそも同じゲームコンテンツでふたりがこんなに夢中になるなんてすごいよね、と言いつつ、お互いの妄想の産物みたいなのを飽きずに毎日喋り続けた。ランチの時間が足りなかったらLINEで作品のリンクと短い感想を送る。すぐさま既読がついて、相手も似たような感想を送り返してくる。
仕事や育児がこれまでより疎かになっている自覚はあった。家でスマホばかりいじっているのを夫から白い目で見られるのも含め、うちも一緒だよ、と共感の埋め立て地を広げていく。
そうやって半年ほど、ゲームをしながら二次創作の作品を堪能した私は、ある日ふと、自分も妄想のメモみたいなものを書いてみるか、と思い立った。もしもキリやブルマンが自分のオフィスのすぐそばで働いていたら? スーツの似合うビジネスマンか、カフェ店員か、ウーバーイーツの配達員でもいいかも。ふと我に返れば手からかめはめ波が出るくらいの狂気じみた妄想なのだが、ここで唱えるお約束の呪文は、正気に戻るな、だった。結婚して子どももいる三十路のおばさんだけど、かっこいい推しが幸せに暮らしているひとつひとつの場面が心の栄養になってしまっているので仕方ない。これは私のそんな日々のたくましき夢想の世界を忘れないための備忘です。そうやって常に盛大な言い訳をして、私は当時はツイッターと呼ばれていたXのスレッドに自分が思いついたシチュエーションや会話、設定などを書き始めた。
書いているうちに思い出したことがある。私は昔、中学高校くらいまでは、小説家になる夢をぼんやりと見ていた。ただ割と早いうちに、文章を書く語彙力や話の構成を考える力、長い話を書く体力が全くないことに絶望し、努力をする前に立ち止まり、そして諦めた。大学の時には少しばかり未練があって、就活は出版業界を数社受けたものの当然のように全滅、今は新卒から勤めている普通の会社のサラリーマンをしている。そんな普通のサラリーマンの私は、歳を取ったおかげなのか、今なら少し長い話も書けるかもしれないのではと安易に創作を再開したのだ。
書いた妄想のメモから少し物語調にしたものを小堀さんにLINEで送る。やばい、すごい、最高などといった黄色っぽい感想を燃料にして、話の続きをアプリにひたすら入力した。文章に面白みを求めて少しずつ表現を足していく。あれ、つい数日前にはただゲームをしてピクシブの投稿にいいねをつけてランチに自慢のブクマ集を見せていただけなのに。あれよあれよという間に一万字ほどの文章ができ上がって、読む専用だったピクシブに初めて投稿し、ジャンルとカップリングのハッシュタグをつけた。投稿したURLを小堀さんに報せるよりも先に、しらない誰かからいいねをもらう。字を書く自分が身内ではない他人に認識されるのは、この時が初めてだった。仕事と育児を緩やかに停滞させながら、隙間の時間で創作に没頭する日々が普通になった。
小堀さんは私にはっぱをかけられて、成り行きで短編を書き始めた。絵も勧めたけど上手くないから、と謙遜して作るショートストーリーは表現が平易で題材が良かった。LINEで新作を送っては感想を返す。職場でいちばん近いふたりが腐女子生活を晒してちちくりあう、奇妙な生活が始まり、今もこうして続いている。
「次、学パロ書こうと思ってて」
私が口を開くと、小堀さんは歓喜を表すようにぶんぶんと拳を振った。
「やばい萌える、えっ、どっちが先生です?」
「あ、そういう感じ? えーじゃあブルマンかなぁ、ふたりとも高校生で考えてました。同級生ものとか」
「うわー最高じゃないですか。公認? 内緒のやつ?」
「内緒かな」
「需要しかない」
噛む回数が少なくてあっという間にパスタを食べ終えてしまう私に対し、小堀さんは麺も残さずゆっくり綺麗に食べきるタイプだ。もぐもぐ真剣に咀嚼して、口が空くのを待ってから、私は、と言葉を継いだ。
「書きたいものはいっぱいあるのに、書けなくて」
そういえば彼女は今そういう周期だったな、とうなづいて、ドリンクバーのおかわりを促して立った。詳しい事情は分からないが、どうも文章を書くための時間の確保ができなくなっているらしい。家族との時間でタイミングが合わないとか、スマホではなくパソコンでないと書けないとか、きっと小堀さんなりのいろいろな事情があるのだろう。私だったらすぐにそんな禁欲に我慢できなくなって有休を取り、平日のひとり時間を勝手に作って発散するだろうな、実際今までに何度かやったことあるし。
休憩が終わる十分前にイタリアンの店を出て、並びにあるコーヒーショップでアイスコーヒーをテイクアウトしてから事務所へ戻る。子どもの学校や保育園の話、旦那の繁忙期の話を愚痴半分に交わすが、頭の中は次に書く題材のことでいっぱいだ。こうやって極限まで没頭できる楽しみが与えられたのは本当に幸せなことだと思っている。最高の理解者がいちばん近くにいて、週に五回もランチに行ける、今ほどラッキーなことはないだろう。今の部署の仕事も自分の適正に合っていて好きな作業が多かった。広報のまねごとが許される環境で、カメラ片手に社内のあちこちを回ったり、自席で何時間もフォトショップを触っていても咎められない。最近は独学ながら画像加工の出来が少し良くなってきたから、そろそろ自分の同人誌を印刷するのにカラーの入稿データだって作れるんじゃない? なんて密かに考えている。
毎日がご褒美みたいな生活で、推しがかっこ良すぎて眩しい。細々と書き続けているシリーズの小説は、一日おきくらいで誰かがいいねを押してくれている。家事は先送りにしている掃除や片付けが溜まっているのを旦那が見逃してくれているし、子育てで行き届かないところは、ガチガチの教育ママにならずに済んでよかったじゃん、と適当な言い訳にを使って新しい自分の生活を肯定した。
定時を一時間過ぎたあたりで退勤し、商店街から駅の改札までまっすぐ歩いていく。歩行者天国の道に広がって談笑する制服姿の女子学生を避けてコンビニの前を通ると、自動ドアの向こうに若い男性がふたり見えた。ひとりがもうひとりの袖を軽く引き、早くしないと電車に乗り遅れる、みたいなことを訴えている。
え、今のなに、やば。キリとブルマンじゃん。うそ、あれ友達なわけないよね? 絶対付き合ってる。そのまま手を繋いで帰るのかな。写真撮りたいくらい萌えたんだけど。私を犯罪者にする気? でももう心のシャッター切ったんで大丈夫です。今日はおうちデートですかご馳走様。
LINEアプリのトークメニューで常に最上部にいる小堀さんの名前をタップする。もったいぶって短文を何度も送りつけ、遭遇した奇跡のワンシーンについて今晩のおかずとして献上した。即座にハートが爆発したみたいなスタンプが連打される。
もしくは、あれだけ思わせぶりな態度で、実は付き合っていない設定でも美味しいかも。別の学校に通う元同級生のふたり、ひとりはノンケで彼女と別れたばかり、ひとりはゲイで高校時代から拗らせ片想い。浮かぶ妄想にニヤニヤが止まらないまま電車に乗る。トークに書いた一連のテキストをコピーしてメモ帳アプリにペーストした。使っているクラウドアプリは使い勝手が良いけれどひとつのプロジェクトでの字数上限が二万字だった。そろそろここは手狭なので、何か別のクラウドドキュメントでも探さないと。グーグルならアーカイブ機能もあり、端末間の互換性が高いから安心して使えそうだ。あとでWi―Fiが繋がっているタイミングでアプリをダウンロードしようか。
「電車の時間分かってるのに、なんで連絡ひとつ寄越さないの? オレLINEしたよね?」
帰宅してキッチンに顔を出すと、夕食の支度をしている旦那が棘のある口調で言った。子どもの就学前は時短勤務で夜の家事を分業できていたが、通常勤務に戻ってからは通勤時間の長い私が遅く帰ることが多い。現場に行く案件以外は家で仕事をしているフリーランスの旦那が娘の学童のお迎えとスーパーの買い出し、夕食の支度を一手に引き受けていた。彼はそれを家族のバランスと呼んでいて、私もちゃっかりその言葉に甘えて頼れるだけお願いしてしまっている。
だから今日の連絡を怠ったことは謝らないといけない。だって推しカプの大好きな絵描きさんが過去の同人誌をWEB再録していて読むのに夢中だったから、なんて言い訳は心の奥にしまっておく。
「ごめんなさい。手伝う?」
「こっちはいいから、チビの風呂やってよ」
チビじゃないもん! とキッチンに向かって文句を言いながらテレビの前にはりついていた娘が立ち上がった。床に寝転んでいたせいで服を皺だらけにしているのにぶつぶつと小言をこぼしながら、女ふたりで風呂に直行する。
入浴後に髪を乾かし、旦那が用意した夕食を囲む。ニュース番組を見ているのに生意気な小学生が「録画した〝ダーウィンが来た!〟流して」と言い出し、食事中にアリの巣に寄生する小さな虫たちを観る羽目になった。観察する昆虫学者が専用の吸い取り器を使って採集するところが映り、げっと顔をしかめた旦那の顔を見て笑う。できたての唐揚げが美味しい。ボックスティッシュまで手の届かない娘の代わりに一枚引き抜いて口元へ持っていって戯れに拭いてやる。
ログイン状態のまま画面がオフになっている自分の端末を見下ろしながら、今日のノルマが終わってないからゲームの周回もしないとだし書きかけの小説が終わっていないからあと二千字くらいは続きを、と考えている。今日は何時に寝てくれるだろうか、この頃すっかり彼に任せている娘の寝かしつけだけど、そろそろひとりで布団に入れるようになってもいい頃だ。私の時には七歳でもう時間になれば勝手に寝ていたのにと言うと、それならもう少し子どもに構ってやれないのかと咎められるだろうか。左からプラスチックのコップを差し出されて「おかわりください」と言われる。自分のグラスも一緒に持って席を立ち、ハイボールを作りにキッチンへ入った。
二十二時五十分、娘が寝るのを待てず一緒に入眠した旦那の寝顔に影を引くように襖を閉める。やっと自分の時間だ、やっと、やっと! 飲み物の準備をしてからダイニングテーブルをアルコールシートで拭き直し、いそいそとサーフェスGOProを起動した。
今の原稿は……原稿って名前で呼びたいだけで、まだ同人誌を印刷したこともないしどこかで発表するという経験もないのだけれど、自分で勝手に〝四万字プロジェクト〟と名づけた創作をしばらく続けている。きっかけはムジカシステマの二次創作で知った字書きの人で、出会ったはじめの作品から、彼女の筆力に感動した。キャリアも長く、過去に商業BLの公募で入賞歴があるらしい。その人が小説書きをしているヲタク向けのSNSコミュニティを開設した。作法が分からない代わりに遠慮もない私は、厚かましく勉強させてもらうつもりでそのコミュニティに入った。そこでコミュニティ主であるその字書きさんが、そろそろコンペの締切だからいよいよ本腰を入れないと、と発言しているのを見て久々の感動を覚える。
そうか、小説が書けるということは自分の可能性を試すチャンスがあるということなのだな。遥か昔に諦めていたものが土の中のカプセルからぱかっと飛び出てくる心地がした。子どもの時にたった一度応募しただけの文学賞に、また私が挑戦することを考えてもいいと思える日がくるなんて。
思い立ったらすぐ実行、が私の数少ない人に羨ましがられる性分だ。きちんと物語が完結する、まとまった文章を書くトレーニングをしなくてはと思い、テーマを決めて三篇の小説を完成させることに決めた。三つはキリとブルマンの現代パロディもので恋愛模様を書くが、できあがったらその先は自分のオリジナルの作品を作ろうと思っている。小堀さんにその展望を話した時にも、彼女はいつも通り、私の自分らしいかっちりとした計画を褒めてくれていた。
今夜はいよいよプロジェクト三作目の最終場面を書き進めようとしていた。ブラウザを開き、書きかけのクラウドのテキストデータをコピーしてデスクトップにあるWordに貼りつける。誰とも何も競っていないのに、左下の文字カウントで今までの累積文字数を確認しては奮起したり焦燥に駆られたりした。
今回は全編の書き終わりを待たず、段落ができあがるごとに小堀さんとの共有ドキュメントに本文を追加していっている。誤字脱字も精査されていない塵芥だらけの駄文を、彼女もまた深夜の貴重なおひとり様時間を使って、時折覗きにきてくれていた。一昨日だって中盤の盛り上がりの場面について考察してくれて、いくつもコメントを残してくれていたし。
そして、その中にあった「この場面の深刻な感じでは、ふたりはキスしないと思います」と記されたコメントを読んだ時、私は不意につまづいた。自分が思い描いていた展開では、ふたりは過去に向き合いながら互いの変わらない想いの確認という意味合いで、親愛に近しい形でそっとキスをするシーンを選んだ。けれど小堀さんの言うとおり、読み進めている読者には想像できない唐突な出来事だったのかもしれないと思い、数行の削除と加筆を加えて軌道修正したのを最終版として残している。話の成り行きまで熱心に考察してくれるのはありがたいことだと思いつつ、ほんの一瞬、それまで自由に羽を伸ばしていた場所で、初めて自我を殺す感触を味わった。棘の痛みはすぐに忘れて、今は完結を目指して一心に書き進めている。きっと読者を持つ喜びと痛みとはこうなのだと、ちっぽけな字書きの私にも味わせてもらっているところなのだ。そういう存在がすぐそばにいて、いつでも的確な助言を与えてくれるなんて、純粋に自分が幸運だったと思うしかない。
作品の中で苦労を重ねたふたりだったので、最終盤は想いが通い合う幸福を表現したかった。有り体にいえばご褒美セックスシーンを遠慮なく書くところ。愛を囁き合って引き寄せられるように接近したベッドに沈み込み、受側の推しがみるみるうちにたおやかになっていく。成人男性どころかそんな美少女は三次元の世界には存在しないのは分かっているし、こんな短期決戦で未使用の排泄孔が性感感知機能つきの蜜壺に早変わりすることはありえないと知っているけれど。仕方ない、ここは生みの苦しみから解放される、楽しいだけの時間なのだから。細部には目をつむってくれと開き直ってどんどん文字を打ち込んでいく。
ただ、カタカナでアンアン喘ぐのとか、セリフにいちいち♡マークがつくのは読む側だった頃から私の好みではない描写だったので、はじめは何度か試しに使ったものの、今は最中のセリフが他の場面にある落ち着いた雰囲気から著しく逸することはなくなった。なので地の文で濡れ場を頑張る。もしかしたら自分の膣に触れたことのない女性がこういう二次創作の成人描写を巧みにすることもあるのかもしれないけれど、私の場合は、基本的に自分の経験からでしか物を作り出せない。セックスシーンのほとんどは自分の過去の経験を思い出しながらするから、下腹が痒くなってもじもじと太腿を擦り合わせながら書くし、ずいぶん前に旦那に弄られた時の指の感触を思い出してショーツのクロッチを濡らしたりした。陰茎の表現もほとんどは自分が見て触って舐めたことのあるペニスの温度や感触に基づいている。硬くて体温の高い部分だが、粘膜のところは薄さとか常に赤色なのが弱くて敏感な印象を与えて少し不安になるところを丁寧に文字に起こしていった。そういういちばん守りようのないところを剝き出しにして擦り合うことに心の密接度を感じるのは健全でいいことじゃないかな。ゲームの中では高尚なシンフォニーエの楽器奏者たちであるふたりが、自分の脳内では思うままに下品なセックスをしてくれるのを、自分が小説を書けばそれを世界でいちばん最初に読むことができる。あー最高。あとは小堀さんや、ピクシブで繋がっている顔も名前も知らない誰かが数人、私と似たような気持ちで推しの乱れた姿に昂ってくれればそれで幸せよ。
ついに落ち着きなく太腿を擦り続けているのが億劫になって、スマホを持ったままトイレに入る。便座に座り足を開いて、膣は使わない適当な自慰をして不完全燃焼を鎮めた。オナニーの後に襲う猛烈な睡魔を振り切るためにキッチンに追加のハイボールを作りに行く。何度か目を閉じそうになりながらも、ベッドシーンを終えて結びの談笑シーンまで書ききった。〈了〉の文字を作品のいちばん左側に置くとき、何度やってもこの上ない喜びの瞬間だと感じる。すべてのテキストを文書ファイルに上書き保存してクラウドにアップした時には、既に日付を越えてからずいぶん経っていた。
*
「そういえば、ニヨさんは抽選どうなりました?」
渋谷のオルガン坂にあるカフェでようやく空席を見つけて、席取りの荷物を置いてからカウンターへ戻る時に小堀さんが言った。今日は会社の創業記念日で社員全員が平日休み、子どもがいつも通り小学校へ通学した後に、ふたりで会社の近くへ集まっている。小一時間前にパルコのポップアップストアでゲームの公式グッズを買い漁り、これから商品の開封を楽しむためのお茶をするところだ。先にホットコーヒーを提供された私は、小堀さんへの答えを保留にして、先に席行きますね、と声をかけた。
膨らんだ鞄を荷物置きに入れ、充電が残り三十パーセントになったスマホを開く。メールソフトの受信トレイで検索したがヒットは0件だった。小堀さんが抽選と言っていたオンライン事前申込をするか迷っているうちにすっかり忘れてしまったらしい。
話題に上がったのはムジカシステマを原案に公演されるミュージカルのチケットだった。ゲームと共にこちらのコンテンツも息が長く過去にいくつも動画配信されていたが、正直、私はその世界にどっぷり浸るというよりも回避する方を考えている。
漫画やゲームを原作としたコンテンツのミュージカル化の印象は、小学生の時に少年漫画にハマった同級生のイコダちゃんから聞かされた話しか知らなかった。当時の彼女が足しげく通った公演では各キャラクターの役をアニメの声優が演じていた。見た目はともかく少なくとも声のイメージが乖離しないから、観るものがミュージカルに置き換わってもその世界に没入できるのだろうと容易に想像できる。ところが今は時代が変わったのか、もしくは役者を揃えるのが困難なのか、ゲームでの出演者とは全く別のキャストが新たに組まれているのだそうだ。二次元の顔面に近づけるのは限界があるとしても、出演者全員が文句なしのイケメン、というわけではない。しかもこれはおそらく言ってはいけないのかもしれないが、過去の配信を見る限り、歌のうまさは全体的に普通かやや下手くらいなのだ。もちろんプロオケの奏者でもカラオケは苦手という人もいるらしいけど、仮にも音楽系シミュレーションゲームのコンテンツ商品、良質な音楽を聴かせるという気概が感じられないものは、悪いけど私はノーサンキューかな。
ミルクフォームたっぷりのカフェラテのマグカップを持って戻った小堀さんに「配信見て考えたけど、ミュはやめとく」と言った。こういう時に自分がその方面に参入しないことについて申し訳ないって顔をしないといけないのが女子の文化だなぁと思う。向かいに座った彼女は、なで肩を軽く下げると長いため息をついた。
「そんなニヨさんには興味ない話かもしれないんですけど、うちはこないだ娘と配信見たらふたりでハマって、止まらなくなってしまって」
オフの時に私のことをペンネームで呼ぶ小堀さんに、お子さんとですか、と相槌を打つ。確か今は五年生だっけ。彼女から話を聞く限り、母娘ともにその時々の話題の物が好きで興味の幅が広く浅い。ヲタクという言葉に狭域の人と共有がやや難しい趣向を持つ者という意味を勝手にあてがっている私にとって、ゲームに関係すればなんでも咀嚼する新しい物好き精神はわずかに抵抗があった。
「どこかの公演当たりました?」
「それが見事に惨敗で。旦那にも実家の母にも頼んだんですが」
「じゃあ娘さんと次の配信待ちですね。ディレイもあるし、翌日見返したりできるんじゃないですか? そっちの方がいいかも」
表面上はそう返事しながら、ミュージカルでお金を使うくらいなら、ゲームとタイアップしているオケの公演に行くべきでは? と言ってしまいたくなる。先月、ムジカシステマとのコラボで結成されたシンフォニーエのモーニングコンサートの切符が取れたので子どもを連れて鑑賞に行った。ゲームのパネルがエントランスに置かれているほかは普通のコンサートと変わりはない。期間限定レイドで実際に題材になっている交響曲の抜粋が演奏される。臨時結成といっても演奏家たちは普段は首都圏にあるオーケストラやミュージカル劇団、バレエ団などで活躍している、まごうことなきプロ集団だ。まだ小学校に入りたての娘も、休憩なしの一時間のコンサートを飽きずに楽しめたようだった。
あくまでもお芝居だということを考慮しても、そもそもゲーム本来の姿ではなく、別の人間が登場人物の装いをして代行し、本軸から派生した物語を進行させることが、ゲームの主軸を見るための〝解像度〟を上げることになるのかどうかやや疑問ではある。ミュージカルだって立派な二次創作じゃない、なんて言ったらさすがに怒られるかな。
小堀さんのミュ話は続く。
「でも今月は過去作の限定配信もあるんですよ。ずっとリアタイできなかったのが悔しいと思ってた、ブルボンとモカの回で。期間中どれくらいリピできるかなんですが、ちょうど先月申し込みしてたイラレの通信講座も始まっちゃったし、後期は小学校でPTAの担当になっちゃってるし」
「わー、書く時間ぜんぜんなさそう」
「そうなんですよ。ニヨさんは相変わらず公募ですか?」
相変わらず、という言葉にややむっとしながらも、実は先週もう書き終えて郵送したのだと言った。ランチの時に送る直前だったから、あとは投函するだけと報告したつもりだけど、すっぽりと忘れられてしまったようだ。
公募は、自分に合った募集要項を見つけて締切までに作品を仕上げて投稿するというのをこれまでに何度か経験できていた。ジャンルや応募の枚数、過去の受賞作から見られる傾向で、これだと思うところへ応募するのは有意義で実りが多い。一度、応募の規定について小堀さんに話をすると「私はそのへんは門外漢で」と言われてしまった。私だってWEBサイトの応募ページを読んだだけで話しているから、そのあたりに精通しているということはまったくないのに。きっとコンペに作品を出すということよりも、今の私が足を入れ始めたジャンルに興味が湧かないのだろう。
まあそんなもんだよね、自分以外のことに常に関心を持ち続けるというのは誰であってもそれなりに難しい。
「なので今はキリとブルマンに戻ってます。前に書いた短編の続きで、ひとつ書きたいのがあって」
「あっ、もしかして、子ども時代のキリがコンビニでおにぎりを盗もうとしたのをリーマンのブルマンに助けられちゃうやつです?」
「そうそう、とかげさんの記憶力すごい」
「ニヨさんの話ぜんぶ大好きですから。私、地雷ないし」
今はとかげさんとして私と雑談している小堀さんは、そのままニヨが過去にピクシブに公開した小説のタイトルを次々と挙げていった。選ばれた作品の中に直近の話がひとつも含まれなかったのが多少気になったが、そもそも全作品を読んでもらっているという存在が貴重なのだな、と改めて感謝の気持ちを伝える。
自分でも最近のニヨ作品はやや手を伸ばしづらいテーマであるのは承知していた。物語の展開が暗くて深刻だし、結末が清々しくもハッピーにもならない。誰かを殺そうとしたり、実際に脇役が死んだり、主役が死のうとしたりする。これから書こうとしているものも、貧困に暴力、精神疾患をもつ人物の描写、自殺幇助の場面が挿入される予定だった。それらを実際にこの身に降りかかったものではないにしろ、いずれも過去に見聞きした経験に基づいて構成していく。私には飢え死にするほどではないけど苦しいほど貧しかった時代はあったし、自分より体の大きな人間から理由もなく殴られた記憶も残っている。さらに精神に不安や疾病を抱えた人間の相手をするというわずかではあるがゼロではない体験によって、少しは本物に近い形で書けるかもしれないと思った。
物事の現実味から説得力が付加されることで、私の夢想の世界にだけ存在していたキリとブルマンが、まったく別の異なる新しい世界で実際に生きているような物語を作り出したい。ありきたりな、物事が何もかもとんとん拍子に進み、好きだ! オレも! チューしてハピエンなんてお呼びじゃねえのよ。むだに歳食ってここで細々と活動しているからには、進んでも進んでも溜まりに引き戻され理不尽に揉まれる推しが見たいではないか。
そういう尖った自我を剥き出しにカフェの片隅で熱弁する私に、小堀さんはうんうんと共感のモーションをする。
「私も経験したこととか読んだ本から思いついたことを書きたいです」
カップリングがブルボンとモカに移ってからの小堀さんの作品も、変わらずドキュメントで送られてくるたびにすぐさま目を通していた。もはやそれは萌えの需要と供給という役割ではなく、ドキュメントの校正AIに追従する誤字脱字チェッカーとしての役割がほとんどだったけれど。ななめ読みの中でも、セリフや言い回しで好きなところがあれば前向きなコメントを書くようにしている。ただこの頃の彼女の筆は、私が読み慣れてしまったからなのか、先読みのしやすい展開が前面に出ているのが目についてしまい、作者のモチベーションになるような気の利いたコメントが難しくなってきた。かといって的確なアドバイスも思い浮かばぬ。小堀さんは生粋のハピエン中毒だった。
きっと、私みたいに大人になるまでに少し家庭で苦労があったり、わんぱくな怪我をしたり、幸せの物差しを自分に合わせて反らせて曲げたりしたことがないのではないだろうか。毎日やりとりしているLINEのプロフィールは母親から下げられた振袖の織地の写真だった。この年頃にはだいたいの人間がこれを体験する、というイベントをひとつも外すことなくたどって大人になったという印象がある。小堀さんもひとり親家庭と聞いていたけれど、母方の伯母たちが当時から今までずっと支援している話からすると、どうやら彼女とは同じ穴の狢ではない。
「でも、それはそれ、プロポーズシーンとかはちゃんと跪いて婚約指輪パカッてする描写しそう」
と冗談で言うと、彼女も笑ってそうかも、と同意した。
「実際、自分がされましたもん。膝ついて箱開けて、指輪嵌めてくれるやつ」
「うっそ。とかげさんのご主人って年下でしたっけ? やるなぁ」
「いやいや。もう十年以上も前の話ですよ」
別に何年経ってようがあんたの旦那は地べたに跪いてプロポーズした男に変わりないのだよ、とセリフの代わりに湯気を吹きながらコーヒーを啜る。これは早々に彼女からブルボンがモカにプロポーズするシーンだけが殴り書きされたテキストが送られてきそうだ。なんなら今日の帰りの電車かも。いいんだけどね、とかげさんに限らず、砂糖菓子みたいな嘘でいっぱいの同人誌がそのジャンルのほとんどを占めているんだし。
成人描写を避けているのも、とかげさんが今さっき話したこととはまったく逆に、実は嘘の描写を好んでいる現れかなと勝手に思っている。
当たり前だけど、結婚して子どもがいるならセックスした経験があるわけだから、たとえ尻に触ったことがないとしても、自分の膣を小慣れた男性の後孔に見立てて、推しふたりがいちゃこらするシーンくらいなんとなく書けそうだ。もしかして彼女は、はじめから旦那にお任せのマグロセックスしているタイプだろうか。カフェラテを飲んで唇にうっすら泡をつけている小堀さんの口元を眺めながら、このひとフェラチオもしたことないって言いそうだな、と頬杖をついた。体験からの説得力という点で、彼女が自分の性交渉の経験を手つかずで整理しないままにしているから、つまりそれは経験していないことと同じ扱いをしていると推察できる。今までシたどのセックスがいちばん好きだったか、自分の弱いところ、好きな体位、そういうことを、気のおけない友人とふざけて語り合ったことがきっとない。セックスの話するのって排泄を見られるのと同じ恥ずかしい行為だと思ってる? だったら男の同性愛をおやつ感覚で咀嚼するなよ。身体的に結びつかない窮屈さと生きづらさが耽美で悲しいからいいんじゃないの。
BLどころかヲタク世界の仲間入りになったのが遅参なことを棚に上げ、脳内で延々と穿った持論を展開してしまう。そんな気も知らず小堀さんは私のマグカップを覗き込み、おかわりを買いに行こうとカウンターへ誘った。
私の新作を読んだと小堀さんに声をかけられたのは、カフェを出て渋谷駅まで歩いて向かうまでの途中だった。
「もう今回も最高にエロでした。鬼畜に攻めきれずに甘やかしちゃうキリがヘキで。嫌われたくないから取り繕おうとして結局ブルーをがっかりさせちゃうのとか何回でもおかわりいけちゃうやつですね。あとバーのママさんキャラが大好き」
「ひと息でしたね。ありがとうございます」
「いやいや、まだ言い足りないのであとでコメント書きにお邪魔します」
「はぁ、嬉しいなぁ。孤独な創作が報われる瞬間です。またがんばろ」
ハチ公口へ向かうまでのたった数分間の言葉の往復で、その時まで小堀さんに抱いた小さなわだかまりはすべて帳消しになる。付き合いの期間が長くなるにつれ、自分が図々しくなってきていることも反省しなければならないところだった。仕事仲間であり、子育ての悩みや旦那の愚痴も共有できる、同じジャンルで推しの話が毎日できる。その上、時間の許す限り草稿も読み合う関係、こんな貴重な存在は後にも先にもきっと見つからないのは間違いない。考えてみればこの頃は私が彼女に甘えてばかりで申し訳ないことをした。自分でも相手の役に立てるところで惜しまず力を貸していかねば。
宵っ張りの娘が珍しく九時前にひとり就寝した平日の夜、リビングのテーブルで旦那と私は向かい合って晩酌を楽しんでいた。ハードディスクの領域を増やすために、毎週録画しているNHKスペシャルとプロジェクトXの過去分を視聴して消化しつつ、それぞれスマホやサーフェスを開いて作業をする。底に溶けた氷が少し残ったグラスを持ち上げ、彼が「なに飲む?」と尋ねた。
「一緒のやつ飲もうかな。ノウさんはハイボール?」
聞き返しながら、旦那の後を追ってキッチンへ入る。結婚前からそうしているように、彼を昔のあだ名で呼び、小さい子どものように後ろをついて回った。ガラスに炭酸水を注いでウィスキーを割る旦那の隣で、髪をいじったりスウェットの腰紐を結び直したりして過ごす。言いにくい願い事をする時の決まりだと承知しているようで、旦那はできたハイボールのグラスを私の頬に押しつけ、何、と催促した。
「あのさ、誕生日プレゼント、決めたんだけど」
「いいね、オレまだ決まってないのに」
「ノウさんもほしいものあったら言ってよ」
「ないから別にいい。それで?」
キッチンを出るのも親鳥に従う雛みたいにぴったり後ろを歩く。Nスペの録画は字幕がついたインタビューの場面を見逃されていることも構わず、淡々と画面に投影され続けている。グラスの結露で吸水の限界を越えたコースターにハイボールを置くと、微かに底面が水でぬるっと滑った。
「私、最近小説書いてるんだけど」
「知ってる」
「ジャンルはBL小説なんですが」
「そうなんだ。気持ちわる」
彼のストレートな感想は、私の創作活動に対する批判ではなく、純粋に自分の性趣向とは別の話をされることについての拒否だと心得ているから素直に笑えた。前に職場にいた女の先輩が彼氏とアナルセックスをしていると聞いた時に面白半分で話すと「そういうのは実物を想像するからやめろ」と叱られた。今も男性の肛門を頭に思い浮かばされたことに怒ったのだろう。私がごめんね、と吹き出すと、向こうも冗談だったというふうに目尻に皺を作った。
「それでね、今度、文学フリマっていうイベントに出てみたくて……」
「へえ、いいじゃん。イコダも来るの?」
「よく分かるね。イコダちゃんに本の表紙を描いてもらおうと思ってたところ。日曜だから、子守りしてもらわないといけない。いいかな?」
フリーランスの仕事をしている旦那は土日も含めて不定休で働いている。案件があれば都度現場に向かうので、今の話も当日の日曜が彼のオフになるかどうかは直前まで確定しない。さすがに仕事は妨げられないから、万一の時は間際で諦めるところまで考えて、とりあえずスケジュールに書き込みをしてもらうためのお願いというわけだ。
私から見た彼は、日頃の家事や育児をおろそかにしている妻の行動を冷静に見たうえで、そこまで優遇することでもないところ、誕生日だからと言われれば今回だけは譲歩できる、という立ち位置かと思ったが、この件については思いのほか快く受け入れられた。
「そんなの、誕生日プレゼントとかじゃなく普通に行ってくればいい」
「え、そうなの?」
「まあオレがダメならチビも連れてけよ。フリマなんだから、子どもいてもいいだろ?」
ああそういうことか、とようやく納得して、彼の言葉に同意する。フリーマーケットという語感から誰もが制限なく参加できるイベントを連想しているのだろう。実際、一次と呼ばれるオリジナル創作のイベントでは、ベビーカー来場も抱っこ紐姿の参加者も見られる、オープンな印象が強いと聞く。別の一次イベントでは、子連れサークル専用の申し込みについても記載されているくらいだし。それならそれで娘も一緒に連れていく腹づもりで準備をすればいいかと居直り、「ありがとう」と返した。
書きかけの本文を一時保存してサーフェスを閉じる。旦那の作ったハイボールを飲み終えるまで、そのまま適当な雑談は続いた。小説はイベントのために書いているのかと聞かれ、次に出す公募の原稿をまた考えていると答えた。伊豆の文学賞はその土地ゆかりの話を書かないといけないと話すと、急に珍妙なタイトルを口にする。
「伊豆といえば『伊豆のロドリゴ』だろ」
「何、ロドリゴって」
「ブラジル系二世でさ、死んだ父親が有名なサッカー選手なんだけど、海辺でずっと猟師やってて。息子も後を継ぐ気だったんだけど、でもサッカー忘れられなくて、ひとり漁港でずっとボール蹴ってるんだよ。ある日、私立の有名高校からスカウトが来て、特待でサッカー部に入らないかって。海外留学したり、いろいろあって、最後にプロサッカー選手になるっていう話なんだけど」
「もう話が終わりまでできあがってるじゃん」
「ケイがそれ書いて、プロデビュー」
「ばかな、ありえん」
大きな声を出して笑う私に、娘が起きると咎めた旦那もにやにやしていた。普段はスマホばかりで話を聞いていなかったり、娘の学校やピアノ教室の事務手続きをうっかりしそびれてしまったりすることをまた厳しく言われるかと思ったけれど、この時は創作の話しかなくて、酒を飲んでいたからか、私がやっていることは彼にもすんなり肯定された。
もしこうやって公募への挑戦や同人即売会の参加について家庭内の市民権を得ることができたら、私ってすごくハッピーな境遇かも。もちろん、二次元のやたら美男ばかり出てくるソーシャルゲームに勤しんだり、それをオカズに二次創作していることを都合よく秘密にしてるのをご放免いただけたらだけど。
一時間ほど雑談して満足したのか、旦那は先に隣の寝室へ向かい、襖を引いた。まだ少し飲みたりない気がして(そういう時はたいてい適量より飲みすぎているのを知っている)、薄めに作ったハイボールを片手にサーフェスのボタンを押しスリープを解除する。
書きかけの原稿は公募が終わったガス抜きで始めたキリとブルマンの現代パロディ設定の新作だった。今回はゲーム関連の他の登場人物は出てこない。その他の脇役をいわゆるモブキャラとし、純粋にふたりだけのことを描く物語は、もともとのゲームの世界が好きな読者からすれば著しくエンタメとしてのうまみが損なわれるのは分かっている。私が作りたいものはもはやエッチで楽しい軽めの読み物にはならなかった。そもそも中高生の時にラノベ文化を全く履修しなかったというのが正直なところだけどね。少しだけ知っているのは、大声のセリフだと「ふざけるなァッ!」ってカナと記号で元気な感じを出したり、カギカッコを重ねづけして複数人物が同じセリフをハモった描写にする、とかかな。
誰でも咀嚼できる完全に商業化された二次元のイケメンをつかまえて、君らにはポップな口当たりの良さを求めた形で顕在しないでくれっていうのはおかしな話だ。でも私はこう書きたい。
『今日、どうかな。そう耳元で囁かれるのがむず痒くて軽く身を捩る。大きな手がすっかり疼いた腹に横から触れた。返事をする代わりに男の首に腕を巻きつけてぶら下がった。
今晩はよしてくれと俺が言ったことがあっただろうか。たとえそんな日があるとして、そういう時は必ずこの男は予め具合を察知して、聞かずに避けて歩き、寝床でそっと背を向けて大人しくしているのだ。逆に情炎で腹の居心地が悪い時は手早く襯衣を引き剥がして芯まで絆される。
四つ這いがいい、床に顎を擦りつけ、髪を手で掴まれ、膝が痛くなっても揺さぶられ続け何も纏っていない下肢と床の木板を汚して微睡に浸かりたい。衛生観念を放棄して良ければそのまま朝まで床に転がっていたっていいのだ。但し心優しい青年はそうやって俺を手酷く抱くことはない。膝もすりむかないしこちらが懇願するほどに身体を潰したりしない。
壁に頭を向けたまま返事をしないでいると、鼻面を当てられ襟足の匂いを嗅がれた。今日も陰茎を甘やかされながら後ろから抱かれるのかと思った』
うん、我ながらかなりいい感じ。やたら漢字を使いたがるところは悪い癖だけど二次創作の時はあえて未推敲のかたちで出す方が好きだ。自分がやりたいことをやって表に出している、って実感。それで読者がつかなかったりイイネ稼ぎができなくても別にもとから気にしていない。
やっぱり結局はいつもの読者メンツがまたビューをつけに来てくれること、身近に自分の文を褒めてくれるひとがいることがいちばん大事だ。ネット記事以外の活字が苦手な旦那はおそらく私の小説を読みたいなんて露とも思わないだろうし、学生時代に作った友人関係の中に草稿を持ち込む勇気はまだない。やっぱり同じ趣味や生き方をしているヲタクたちが地域や世代を越えて繋がるのは素晴らしいことだと思う。両者を兼ねた関係を結ぶ小堀さんとは、この先も末永くお付き合いをお願いしたい。
きりの良いところまで書き終え、簡単に文字チェックをしてから、小堀さんとの共有フォルダに新しいドキュメントファイルを作ってアップロードした。深い時間だったがだいたいどちらも起きて夜の内職をしていることを知っているので、リンク共有したファイルの場所をLINEに書いて送っておく。
翌朝、さっそくロック画面に短い労いのバナーが浮かんでいた。
《はやー! もうホントにすごいです! 拝読楽しみです》
半ば定型句になりつつあったその言葉でも、自分がこれまでにした努力が少しでも報われているのかと思い、手放しで安心できる。
今日の夜は無理だとしても、週末に時間を見つけてまた少し読んでくれるだろうか。今回も終盤で心情が移り変わっていく展開とそれに合わせて交わされるセリフひとつひとつをかなり頑張ったので、小堀さんも同じところが気に入ってくれると嬉しい。
いつも通り出勤して、決まった時間にふたりでランチに出かけ、それぞれの終業時間で退勤する。昼休憩での彼女は日々の推し活談義に夢中で、仕事の合間には家庭での小さな諍いについての愚痴を私や同僚に笑い半分で話した。
今まで通りの日常が、水平線上に延々と伸び続けていくのだと思っていた。
その晩を境に、小堀さんがLINEのリンクから私の小説を開いて読むことは二度となかった。
*
分厚い襟巻きを上着がわりに体に巻きつけ、履き替えたサンダルを引きずりながら昼休憩の時間に事務所を出る。何年も同じランチメニューをループしているイタリアンが改装で一週間休業していた。昨日はモスバーガー、その前は中華屋のコーヒー付き定食、今日はインドカレー屋、もうバリエーションがなくなって明日はたぶんまたモス。
同じ話題の繰り返しに沈黙の時間が増えた。会話がなくなると向き合ったふたりが横置きにしたスマホを覗き込みながらそれぞれゲームのルーティンをひたすらこなしていく。時折切り替わった画面に反応して独り言を漏らしたり、ドリンクバーのおかわりを誘ったり。
小堀さんがニヨ小説の皆勤購読者ではなくなってからすぐの頃は、今までと変わらず書き終わった作品をドキュメントで共有していたが、それも読んでくれているのかどうか分からず、とりあえずコメントがつかないから今度もダメなんだろうと都度落胆する間に数か月が経った。今はもう書き終わってもLINEでリンクは送らない。ピクシブに掲載して片手くらいのいいねがつけばそれでいいことにして、私は本来あるべき互助関係のないひとり創作の日常に慣れることにした。
秋に意を決して、一次創作の同人即売会のイベントに出店し、初めて外との接触を肌で体感できたのも手折れず小説を書き続ける力にもなっていた。文章を書くだけでなく本の装丁を考えたり、スペースに置く小物を作ったりするのも楽しい。まさにフリーマーケット感覚で自分の出し物を披露する。それを褒めてくれたり客観的目線で分析してくれたりする友人の存在も心強かった。表装はイコダちゃんに、会場での頒布は後輩のエムに応援を頼んだ。SNSのフォロワー数も僅かではあるが増え始めている。次に出る二回目の即売会まであと一週間を切っていた。
そう、今の私は小堀さんからすっかり離れて誰にも寄りかからずひとりで立っていられるようになっていた。高校時代の友人ミシマンに創作のことを打ち明けてからは、彼女が博士課程の勉強の合間に草稿の確認に付き合ってくれている。ヲタクでも腐女子でもないミシマンが見返りを求めず何度でもやりとりに応じてくれるのが本当にありがたかった。それがもし古い友人だからという理由以外に、少しでも私の小説がいいと思ってくれたらと願う。とはいえ、作るものといえば一貫してBL小説ではあるがね。懲りずにこればっかり書くやつがいたってべつにいいじゃん。
「はあ、やっぱりBLって奥が深いですね」
本日二杯目のホットのインドチャイを吐息で冷ましながら、小堀さんは私ではなくカップにそう話しかけた。今度の即売会に私が参加する半月後、彼女もとかげさんとして人生初の即売会にエントリーしていた。二次創作では最大手のイベントで、そこには原作の作品別に申し込みをするシステムになっており、さらにムジカシステマのジャンルの中から様々なカップリングのプチ開催にエントリーするという複雑な文化構造があった。昔は同志による自主結成で趣向別にそういう即売イベントがあったようだけれど、今は完全に腐女子たちが効率良く定期的に参加できるような仕組みが主催業者側からパッケージ感覚で用意されているらしい。
一次創作と同じようにいつかは行ってみたいとは思っていたけれど、旦那の都合がつかない時に小さな娘を連れて赴くのは今の私にはさすがに憚られた。二次創作の会場は、そこここに貼りだされるポスターが刺激的だし、大きなホールにコスプレイヤーが普通に行き来する空気感に小学生がいる場違いの雰囲気はとても大きい。ひとりで行くしかないけれどその選択肢が与えられないのだから、諦めること自体は仕方がない。ただ、ちょっと僻んだ言い方をすると、たった今向かいに座っている小堀さんは、私が参加を断念した二次創作の即売イベントに参加するための準備を嬉々として進めている。
「どうしたんですか、いきなり」
「書くのは楽しいんですけど、もっと上手く表現できないかなとか、語彙が足りないなとか思って、やきもきしちゃうんです」
私の方はカフェモカの飲み終わりで下に溜まった茶色い粉を残った僅かなお湯でくるくると回す。おかわりを取りに立とうか迷ったが、ドリンクバーの混み具合を見て今はやめておくことにした。
「と、いうと」
「言いたいセリフが先に決まってて地の文を埋めることが多いんですけど、結局会話だけで話が進んじゃう感じがあって」
「ああそれ、分かります。っていうか書く時みんなそうなんじゃないですか?」
「でもニヨさんは違うでしょ」
「まあ、でも本当、多いと思いますよ、そういうお話の作り方する方」
詳細を引き出すような合いの手は口だけで、脳内では既にペンネームとかげの二次創作をこき下ろし始めていた。
いやいやアナタの場合は表現の幅とか以前の問題で、毎度お約束の三秒で両想いが確定する予定調和の話なのがいけないのよ。あまりに波風立たないからその過程を楽しめればまだいいけどさ、「俺のどこが好きなんだ」「笑顔が可愛いところ」「……ばか」みたいな擦られすぎて穴だらけの退屈なやつばっかりで逆にすごくない? 外部からの攻撃もないし試練もない、好きだ俺もチュ! のまさにそれじゃんほんとなんなのこいつ、私の言ってることにはソーダソーダって無条件同意してるくせに結局自分の手癖それなんだよ昭和か! まあ昭和か。これで私の九つも年上なんだもんなーびっくりするぜ。好きなシチュでどこまでも金太郎飴みたいに読んでも読んでもまったく同じ面してる推しの男たちをこれからも書きゃいいよ。
じきに彼女からできたてほやほやのドキュメントが送りつけられることは分かっていた。大丈夫、私はアナタみたいに早いとかすごいとかいって語尾にハートマークをたくさんつけて騒ぐけどいつまでも読まずにほっとくことなんてしないから。ちゃんとその日のうちに目を通して、なんなら帰りの電車の中でお褒めのコメントまで書き添えて、私のターンを終わらせる。
他にも、イラレで作った表紙のデザインもちゃんと褒めたし、インデザインなんか使ったことないのに組版の作り方やテンプレ集のググった内容を教えてあげたし、奥付も私の既刊のコピペでしょ? 本文の段落一字下げ処理もぜんぶ手で打とうとしていたのはさすがに検索してやり方探せば? って思ったけど、それもWordの置換機能をスクショつきで説明したよね?
水底近くでひっそりと解消されてしまった小堀さんとの相互読者関係は、私にとってはすっかり過去のものになっていた。彼女から送られる新作の下読みも、やることといえばAIより低精度の誤脱チェックと同じ単語の多用を指摘するくらい。もしかしたらブラウザでフリー提供されている校正ツールの方が私よりいい仕事するのかも。感想がほしければちょっと語調が堅苦しくてもチャットボットに見てもらえばいい。同じボットと何度かやり取りすれば、自分好みのプロンプトで会話できるようになって、気持ちよく褒めてもらえるんじゃないのかな。
あ、そうか、今の私、小堀さんのチャットボットなんだ。
「おかわり、まだ時間平気ですか?」
立ち上がりながら尋ねると、ゲームのアクティブ画面で時間を確認しながら「はい、事務所戻るまであと七分あります」と返事がくる。同じカップを持ってマシンの注ぎ口に置き、濃い茶色の粉が溜まった丸底の上に新たに粉末を溶かした湯をかけて上書きしていった。縁ぎりぎりまで入れられたカフェモカをゆっくり席まで運ぶ。テーブルについた時に小さく揺れて取っ手のそばに溢れた薄茶の跡ができた。
私の小説ぜんぶ好きって言ってた。地雷も無いって。嘘つくつもりはなかったって? 邪険にされたくなくて取り繕った? ばっかばかしい。なんだこの、くそつまんない時間。
ランチの終わり、今日は私から小堀さんに渡そうと思っているものがあった。昨夜自宅に届いたばかりの一次創作の新刊で、次の即売会であるコミティアに持っていくためのものだ。そういえばいちばんはじめに手探りで同人誌の印刷をして以来ずっと、欠かさず彼女には献本していたな。きっとさぁそれも今となってはぜんぶ装丁だけを参考に使われてるんだろうね。印刷所さんまで私の真似でまったく一緒のところだもん。うける。
「これ、今度の新刊です」
百円ショップで買ったA5版のクリアカバーをかけた本を取り出し、おもむろに小堀さんへ渡した。彼女は今までと同じように、わーとかすごいとか言いながらソファ席で尻を浮かして跳ねている。表紙に描かれている、ベンチに腰かけた金髪の美青年を指さし、私が「これもイコダちゃんの絵です」と告げるとうんうんとうなづいた。うなづいて、何か言うのかと思ったら、ふぁーとかへーとか小さく奇妙な感嘆を吐きながら、それをさっさとランチ用の手提げかばんにしまっただけだった。
翌週、コミティアの参加を終えた私はすっかり浮かれきっている。
出店スペースには想像よりもたくさんのひとが来てくれたし、実際に何冊か本が売れた。無料配布と称して持っていった手編みの鳥の人形が思いのほか人気だった。手伝いをしてくれたエムも楽しんでくれたみたいで安心している。
自分が大衆に好かれているなんて思ったことはないが、通りすがりのひとがふと足を留めて展示を見てくれるだけで嬉しく思う。配ったペーパーが読まれることがなくても、作った名刺がいつの間にかどこかへ行ってしまっても、そんなことで今更がっかりなんてしないから、ちょっと感じる接点がすごく楽しかった。
キャリーのタイヤを転がして引きながら、売った冊数より多い戦利品をほくほくと持ち帰る。会場では人間観察もおおいに楽しんだので、思わず二度見したスタイル抜群の美男子や、手編みの鳥をプレゼントしたら笑顔で持ち帰ってくれた女子学生たち、臙脂色のスーツを着たローリーみたいなかっこいいヲタク紳士、そしてたまに見かけると嬉しいトラディショナルなネルシャツ姿を何度も脳内で反芻した。
創作イベントのために活動しているわけでも、カクヨムや小説家になろうでバズることもゴールにしているわけでもないけど、公募の合間にこういう場所へ赴くのはとても大事なことだなと思った。もちろん思うように反応がもらえなかったり、心もとなくちょっと寂しい時間があったりするわけだけど、それでも出会いがゼロじゃないことに救いがある。
手伝いのエムは希代の雑食で、BLと銘打つ漫画と小説なら何でもよく咀嚼して平らげた。私の新刊もパイプ椅子に座りながら読み始めると「いけない、これは止まらなくなるな」とか言いながらさらさらとページをめくっていく。
「作家さんにたくさん感想書いて送れるひとが羨ましいんです。私、いつもヤバイとエッチとサイコーしか言えなくて」
「それがいちばん嬉しいよね、生の呻きが聞けて」
「まず書いてくださるのがありがたいんですよ。ニヨさんのご褒美シーンは読みながら拍手しちゃうなぁ。あ、でもね、こないだの本がぜんぜんハピエンじゃないのは怒りました」
「まあ、それただの褒め言葉よ」
前提として彼女がどんな作品も大好きなのを理解した上で、自分の作品もそのうちのひとつとして褒めてもらえるとやはり気分が昂揚する。イベントの時間も、撤収後の帰りの電車でも気持ちがふわふわしっぱなしだった。
SNSでもさっそく小説の感想が寄せられる。即売会での購入者たちは、せっかく買ったのだからとにもかくにも読んでみよう、読んだことを伝えようと思ってくれているらしく、本の写真とともに一言の感想がオープンの場で投稿された。
会場イベントの圧倒的達成感。スペースにいるだけで参加者に直接訴えかけているということがもうすごい。確かにこれは、次に参加することをすぐに考えたくなる気持ちが分かるな。
今月の残りはひと休憩して、春からまた公募の原稿を始めよう。年度またぎは仕事の方が季刊誌の入稿とデータリスト更新など業務が重なる時期で忙しさにやや不安はあるが、去年の繁忙期の体感を覚えているから今年はなんとかなるはずだ。
普段から十分に身構えて色々な課題をクリアしていきたい私とは真反対に、そういう計画とか予測をしないでまさに感覚だけで物事に対処しているのが小堀さんだった。仕事では期限を超えてしまうことはさすがにないが、今回初めてのイベント参加にもかかわらず、準備はかなり突貫で後ろ倒しに見える。
ランチの時間にも黙り込むことが多かったので、準備はどうですか、と尋ねてみた。
「今回、無配で折本作る予定なんですが」
ああ、折本ね。折って真ん中切って穴にして、簡単な蛇腹から小さな本を作る手法のことだ。私は同人活動を始めるよりも遥か昔、子どもの頃に折り紙で遊んで親しんだ形だったから、その手作り感が懐かしくて今もしょっちゅう使っている。
「ああ、本文はもう読ませていただいたやつ。組版で八ページにおさまりました?」
「おさまりました、そこは大丈夫なんですが」
話を聞くと、なんと小堀さんは一枚の紙から折本を組み立てる時のページ配置について理屈を理解していなかった。
なぜ? そんなことある? 財布から適当なレシートを抜き出し、ドリンクバーのカップをどかして折本を作る。爪で折り目を作ればレシートは綺麗に切れて、美術館のパンフレットみたいな縦長の折本が完成した。社員証のストラップに挟んだままぶら下がっていたボールペンで、それぞれのページに一から八のページを振り、天地がわかるように下線を引く。
すべてのページに付番が終わるとレシートの裏を展開し、もとの平らな状態にした。二から五ページが下半分の右から左へ見開きで並び、六から八が天地逆、一ページも逆さまで八の左についているという構造が一目で分かる。それを念のため言葉にして説明しながら指で指し示すと、小堀さんは眉をひそめてうーんと唸るだけだった。
これで分からないと私もうーんなんだけどな。まあでも旦那からはいつも「オマエはひとが理解していないけれど自分が知ってたり簡単にできていることに対しての説明が極端に下手」と言われているから私のせいなのだろう。もう一度同じ説明をする気力も失せて、作ったレシートの折本を適当に畳んでテーブルの端へ押しやった。
「前にフォトショップで、それぞれのレイヤー画像を置換するだけで折本になるフォーマット作ったんですよ。事務所に戻ったらそれあげますね」
その時の小堀さんの笑顔は、これで面倒なことを考えずに済むという解放感でいっぱいだった。
午後、事務所に戻ってUSBに保存していたテンプレートをクラウドのフォルダにアップして共有する。LINEで収載先を伝えると、すぐに返事の通知が来た。
《ダウンロードしました! ありがとうございます。使わせていただきます! ひとりじゃ戦えにゃい……》
《どうぞどうぞー》
自分の意思から切り離された返信を打ちながら、既に億劫だったからといって安易にデータを渡してしまったことを心の底から後悔しはじめている。生成したPDFだけ送って自分なりに作ってみてね、だけでも良かったのかも。でもそこからデータ加工されるのも気持ち悪いししんどいな。
同人なんて互助関係、知らないひとに知っているひとが教え与え育てて次に還元して盛り上げていこうね精神分かるよ、そりゃそうだ競争でも選抜でもないんだし。みんなが楽しく創作を発表できる門戸の広い素敵な世界よね。優しい褒め言葉だけでできた、激しい攻撃も自己防衛もない世界。
それでさ、その世界で初めて自分の名前で作品を発表するのに、調べも作りもしないでひとのもの借りてくのって何?
もうそれチャットボットに本文代筆してもらってるのと同じじゃね?
自席で瞬間湯沸かしになった頭を落ち着けようと、とっさに財布を持って立ち上がった。
「午後イチですみません、食べたら眠くなっちゃって。自販機行ってきていいですか?」
「いってらっしゃい、ごゆっくりです」
廊下をずんずん歩きながら、もしもし金森ケイさん、今日は少し怒りすぎですよ、と自分をいさめる言葉を脳内に巡らせる。ひとりじゃ戦えにゃいらしいからね、彼女。私に縋ってるだけなら世話してあげれば。でもそれじゃ消費されて終わりよ。そうかな、いつか感謝されるかもしれないじゃん。感謝? はっ、チャットボットにお礼言うやつなんていねーわ。
自販機に五百円コインを押し込んで、キレートレモン炭酸のボタンを押す。取り出し口から出したボトルはひんやり冷たくて、事務所で足を膝掛けにくるんで仕事をしている格好で飲んでも寒さで身震いしそうなチョイスだ。でも今は掻きむしってでも喉元のもやもやを取りたくて仕方がない。口の中でパチパチと炭酸が弾けてツンとした酸味が抜ければ幾分か気が紛れてくれるのではないか。
ボトルを手に提げてのろのろと階段を上り事務所の自席に戻ると、他のスタッフも昼休憩を終えてそれぞれの業務を始めていた。ほんの少しの不在で社内の電話が鳴ったらしく、金森さんあてに企画課の誰それさんからで、あとで折り返しお願いします、と伝言をもらう。
宅電の受話器を上げ、暗記した内線番号をプッシュして呼び出しながら、ロックしていたデスクトップにPINコードを入力した。新着があるアプリはスタートメニューのアイコンがオレンジ色に光っている。メーラーに未読のDMが一件来ているだけなのを確認してから、隣にあるPC版LINEアプリを開いた。
ロック前にアクティブになっていたトーク画面がそのまま展開されて既読になる。PDFのお礼の流れで小堀さんから続きが送られてきていた。
《そういえば、いただいた新刊を読むのがすごく楽しみで、毎日カバンに入れて持ち歩いてるんです。早く読みたい〜》
ボトルの栓を開ける手が止まって力が抜けた。一瞬、何が書いてあるのか分からなくて、二度三度と読み返す。同じ文字列をなぞったところで返事にふさわしい言葉がなんにも出てこないから、ただハートに囲まれたキャラクターの絵のスタンプを送った。
キレートレモンで紛らわせなくてはならないのは、怒りではなく絶望だった。創作に対してスケジュール感がルーズなのや、いつしか私の小説をまったく下読みをされなくなったこと、彼女の物事を理屈で理解するのが難しい場面があること、ぜんぶがどうでもよくなってしまう。
折本の組版データをもらった小堀さんが、お礼の形として私を喜ばせようと送ってくれた〝そういえば〟だったということは、想像に難くなかった。そして私がそれに感謝するどころか彼女との心の疎通を完全に断絶してしまったことをおそらく少しも察知できないようだった。
それから私は未だに「ニヨの小説がはやく読みたい」と言われると身が竦んで逃げ出したくなってしまう。間もなく出る次作にわくわくしてくれるのは嬉しい、ありがたい、早く手元に届けてあげたいし、次からもっと頑張ろうって思う。でもアナタが読みたい本がもう既にその手元にある時、私は何と返事すればよかったのでしょうか。絶対面白いからぜひ読んで! などと訴求するのが正しいのだろうか。もしくは、日本人らしく眉尻下げていやいやと手を振りながら、お暇な時でいいので、などと濁すのが美とされるのか。
いずれにしても、その時点で当人は私の小説を読んでいないわけで、カバンに入れて持ち歩いている間、常に最も手に取りやすい候補のひとつであるにもかかわらず、日々のやるべきこと、やりたいことの時間配分と優先順位の下、もれなく候補から脱落していっていることを自ら言明しているのだ。いつも持ち歩いているということは、選択肢としては据え置きだが、結果毎日落選していると言い放たれているのと同じこと。他のひとが同じ立場の時に小堀さんの発言をどう捉えるのかは知らない。ただ私はそう思った。それならニヨの小説は面白くないから読まない、とすげなく手放される方がどんなに楽なことか。
こんなにも私に無関心なのに、なぜ直接「大好きなニヨを応援している、次の小説を読むのが楽しみ」と語りかけられるのか理由が分からなかった。まるで生身の人間みたいなチャットボットだから扱いが面倒になった? だとすればこうプロンプトを打てばいいよ、ボットの機嫌を損ねずにいうことをきかせ続けるにはどうすればいい? って。
*
電車を降りて改札から学童が敷設されているマンションまで住宅街を走る。昨日より二分早く着いてインターホンを鳴らしたが、今日のお迎えも娘が最後のひとりだった。旦那の外出先と就労時間が不定期だから、在宅日以外は基本的にお迎え担当は私だ。ドアを押して出てきてくれる先生に挨拶し、そわそわしながら外で待っていると、中から「もっと遊びたかったー!」と聞こえてきてほっとする。
赤いランドセルを背負った子と手を繋ぎ、マンションの通路を途中で出て敷地内の駐車場を歩いた。
「ポンちゃん、遅くてごめん」
あだ名で呼ばれた娘は小さい頃から大人と手を繋ぐのが大好きで、私に軽く寄りかかったりふたりの手を前後に振ったりしながら足取り軽く前へ進んでいく。
「ぼくぜんぜん待ってないよ。おかあさん仕事おつかれさま」
「ポンも学校お疲れさま。セブン寄る?」
「寄る! あんまん半分つしよう」
「いいね、母はコーヒー買って帰ろう。今はちょうどキリマンジャロが買えるはず」
「ケイはいっつもコーヒーばっかりだなー」
旦那の口真似をする娘に、恥ずかしいから大声で名前呼ばないで、と言いながら並んでコンビニに入った。入社して数年の若手の頃みたいに日付変更ぎりぎりまで仕事に追われることは勿論ないが、家庭を持って絶対に退勤しないといけないデッドラインが決まっている今も同じような忙しさを感じる。電車を乗り継ぎ最寄りへ着く頃にはもういっさいの家事もできないほど疲労困憊していて、この日も娘に夕食は鍋焼きうどんでいいかと懇願した。セブンイレブンの冷凍食品売り場にあるうどんは、ホイルの器ごとコンロにかけるだけで食べられる優れものだ。関西だしで味もよし、乾燥わかめやとろろこんぶを入れるだけで豪華な一食になる、と私は信じている。野菜の浅漬けも一緒に買って添えれば五分で支度が終わる晩ご飯セットのできあがり。これで今のところ娘と旦那から一度も虐待と言われていないのが救いだ。
娘の好きなごまあんのあんまんを割って食べながら自宅マンションへ帰る。ホットコーヒーを飲むのに時折立ち止まると、早く、と急かされ、パンプスの剥げた踵を鳴らしながら大股でランドセルの後をついていった。
帰宅して翌日の支度をそれぞれ済ませると、食事の前に入浴する。娘を湯船に残し、先にシャンプーで髪を適当に泡立て大急ぎで洗った。体の嵩が大人より小さいからか、子どもはすぐにのぼせてしまうから、今も娘は湯船から出て浴槽の壁に手足を渡し、忍者みたいに湯から体を離して待っている。それで洗髪する時には腕も尻もひんやりしているのだが、本人はそれでも暑いらしい。
手桶で浴槽の湯をもらって手をすすいでから、シャワーで髪を流していく。ざあざあと水音がしている中を明るくよく通る声で、ねえねえお母さん、と話しかけてくる。
「今日はこぼりさんと話した?」
「うん、話したよ。仕事で一緒だしね」
毎日のランチが楽しくて仕方がなかった頃、娘によく小堀さんの話をしていたので娘も彼女の名前をしっかり記憶していた。母親が好きなコーヒーとオーケストラがまぜこぜになった謎のコンテンツを小堀さんも好きだということくらいは把握されている。
「かちょうは?」
「課長は今日お休み。お子さんの保育園の卒園式だって」
「へー、卒園式なつかしいなー」
浴槽の縁からずるっと足から滑り落ちた娘は、あっと短く声を上げて飛沫を立てた。片足を洗い場に突き出したままの格好で、無邪気な声が不意に「おかあさん、こぼりさん好き?」と尋ねる。
好き? そうだな、好きだった時があって、ずっと好きだと思っていた。友だちって一度くっつけばたとえこの先に物理的な距離などで付き合い方が変わってもたいていは細くなりつつも長く交流は続くはずだし、好意の質量は変わらないものじゃないかな。でも小堀さんについては、無視できない決定的な出来事があったし。
しかしこれまでの行き違いも私の誇大な被害妄想の可能性だってあった。先週、イコダちゃんにこれまでの経緯から今後について相談した時は「ケイはそれの何がダメなの?」と逆に問い返されている。
「アナタの創作応援してますって口では言ってるけど、実際は作品見ないやつなんて普通にいるでしょ。確かに、どちらかといえば作品より作者の人となりが好きじゃないっていう方が一定数いそうだけど。どっちにしても完全一致なんてあり得ないしね。あとケイのタスク管理が強固で揺るがないのはまじでキモいといつも思ってる」
確かにその通り。イコダちゃんが私よりは小堀さんに近いタイプで、スケジュール意識がなくほぼ感覚で物事を進めていく性質なのは昔からよく知っている。でもなぁ、イコダちゃんには自分の無計画さに開き直って不履行を諦められる強さがあるんだよ。その結果、大小何度も失敗を経験したことがあって、その心が鍛えられているひと。あのひととは違う、小堀さんはいつも、やばい、どうしようって騒ぎながら、根拠もなく最後はどうにかなるって思いこんでいる人間だ。事実、過去にどうにもならなかったことを経験したことがない。だからなのか、はじめから絶対に失敗しないスケジュールで進行するつもりもない。
ゲームに登場するモカというキャラクターも、わりとのんびりしておおらかなタイプだ。せっかちな別のキャラクターが慌てて彼に話しかけると、そういえばそうだった、まあなんとかなる、みたいな言い回しがしょっちゅう出てくる。ゲームではその言葉通り、なんだかんだどころか、失敗や遠回りもなく、物事がすんなりと進行していく。まあ、そういう話の作りだから。ひとつの欠点もない完璧な見た目をした美男と、同じように私ら凡人おばさんが万事波風立たずやり抜けるわけがないのよ。
コミティアで会場の手伝いをしてくれたエムは私の愚痴に終始にやにやと顔を緩ませていた。
「こういう言い方失礼ですが、ニヨさんって面白い人間だなーって思って聞いてます」
つまり、私が少し変わってるっていうことなのかも。くだらないことでひとりで怒り狂って愚かしい、そういう無駄なものにエネルギー燃焼してないで他にたくさんやることあるでしょう、が正論だ。まあでも傍目に面白いって言ってもらえたら、ばかばかしいことに怒っている甲斐はあるよ。
「ねえ、おかあさーん」
「あっ、はい、そうだ質問」
すっかり泡が洗い落とされた髪を手櫛で撫でながらシャワーを止める。
「好きというか、頼りにしてるよ。いつも仕事助けてもらっているから」
「へえ、そうなのね。ぼくも三組のヒナノちゃんはすごく頼りにしてる」
「ヒナノちゃん」
「うん、あとデンデンとトオルマン」
「あはは、名前が強そう。頼れる友だちはいいよね」
体を洗い終えてタイルをシャワーで流した後、娘を洗い場へ出して彼女の髪を洗った。思うままの声量で歌い出すのをいなして、ほら、手を動かして、とまだ薄く蒙古斑の残った背中をぽんと叩いて促す。
やや時間が経ってから、娘が歌っている曲がディズニーのファンタジアで使われていたストラヴィンスキーだと気づいた。先日のモーニングコンサートでは無表情だった娘だけれど、もしかするとその時の態度に反して意外と好印象だったのかしら。来月も東京でシンフォニーエのタイアップ公演があるから、私と娘で二枚切符を買う相談をしてみてもいいかもしれない。
続きを歌っている娘の旋律に乗って、ふんふんと鼻歌を重ねる。正しい音程に補正しながら毛の細い髪を無心に泡立てていると、おかあさんは邪魔しないで、とぴしゃりと言われる。
*
毎日、いつが小堀さんとのランチの終わり時だろうかと考えている。事務所を出てイタリアンのチェーン店へ向かい、注文したランチを食べる。帰りにコーヒーショップに寄りアイスコーヒーを買って帰る。一時間のうちに費やすその他の時間が、今の私にとっては丸ごと掛け捨ての状態になってしまっていた。出したくない話題を回避しながらぽつぽつ途切れる会話を切り出しては萎んで終わりというのを何度も繰り返す体力がもうない。かといって余計なことを口走って、結果、小堀さんの悪気ない一言で怒ったりがっかりしたりするのにも疲れた。
新刊をカバンに忍ばせております宣言を聞かされてから、私は自分の創作についても推し活の話も何もしなくなった。ゲームもランチの時間以外ログインしていない。ドリンクバーの粉っぽいアイス抹茶ラテを飲みながら、まるで別れた元彼と会っているけれど別に今さら話したいことなんて何もないのと同じ気持ちだなぁ、などと思っている。
二次創作でキリとブルマンのふたりを書く気持ちも自然と遠のいていった。それまでも私が作る話の題材はやや尖った趣向だったし、もともとそういうのが好きな読者がついているだろうから、次の話がまた突飛なものでもリーチが激減することはない。いいねをつけてくれるひとも、もしかしたらまた短い感想を送ってくれるひともいるだろう。そもそもリアクションがまったくの無になっても、私は書くことをやめられないはずだった。
でもこればかりはどうしても抗えなかった。週に五回ランチで一対一になる相手が、毎日笑顔ですごいとか楽しみとか言って褒めるくせに、こちらから成果を示すと、まるで自分には一切のかかわりの無いこととして目にも留めないでいることに。辛辣に批判され、拙い、面白くないと言われてこき下ろされる方がどんなにか気楽か。過去にニヨの小説が嫌いだと匿名で投稿してきた見知らぬ人間の方が、彼女よりもよほど自分に興味を示してくれているように思えた。
昼休憩の時間がようやく残り十分になる。ランチの会計を済ませ、コーヒーを手に事務所へ向かって歩いた。この頃はもう上着が要らないほど暖かくて、数日前からテイクアウトで注文するのはアイスコーヒーだった。脱プラで今年リデザインされた紙カップは結露が始まると指の圧力を受けてしっとりと柔らかくなる。
事務所のある棟の敷地に入る直前、小堀さんが、あっ、と声を出した。
「そういえば、新刊読み終わってるんですよ」
たぶん、その話題はそういえばという言葉でふと想起されるものでも、終わっているという過去完了で表現されるものでもない。ともあれ、彼女からの思いもよらない報告に私は素直に驚いた。
「わあ、嬉しいです。そんなお時間とって読んでいただけたんですか」
「いえいえ、本当に遅くなってしまって」
それから、横を歩く小堀さんの目をじっと見つめてしまう。今に至っても無意識にやってしまう所作が恥ずかしかった。このタイミングで感想を言われるのを待つ乞食みたい。もらったところで、いつも通りの独自性が喪失した語彙で、すごかった、とか、主人公の美男子が好きだとか、どの作品にも使えるような代替可能な類のものだろうけど。
ところが彼女は、何かを掴むように広げた五指を先で折り曲げて胸の前まで持ち上げると、それを細かくぶるぶると揺らしながら立ち止まった。
「う、ううううーっ……!」
目の前で手を震わせる同僚の姿に、それがどういうことなのか分からず、かけるべき言葉がひとつも浮かばない。向こうも何かを絞り出したいようだが、声にならないのか、言ってはいけないものを無理に押し殺しているのかしているみたいだった。
「……今のが私にとってのなによりの感想ですね。言葉にならない気持ちみたいなのをいただけるのは嬉しいです」
一刻も早くそれを遮りたくて、嘘ではないが正しくもない言葉を返して小堀さんの呻きを制止した。再びのろのろ歩き始めた彼女は「言葉にできないーっ」とむず痒そうにしている。これがもし意図的に行われたプレイではなく今の小堀さんの感情に近い動きなのだとしたら、 再び私の小説を読んだことについて、言葉を失って呻くほどの抵抗があったのだろう。まるで三原則を遵守しなくてはならないために、ある命令に従うことも無視することもできず、その場をぐるぐると回り続けることになった水星探索のロボット〝スピーディ〟のようだった。
ひとをチャットボット扱いしている間に、すっかり自分がロボットになってしまっていますけど。さっきの、とうてい常人の動きじゃなかったな。ああ可笑しい。
きっと、話がさほど面白くなくて頭に残らなかったというのが彼女の本音だろう。しかしお互い褒め合って成り立つ同人女子の世界でそれは御法度。素晴らしい作品だって褒め合わなくちゃ。褒めるところがなかったらどうする? ただウウッって言うしかないよね。それにせっかく時間を使って読んだというのを黙っておくのももったいない。何の感想もないけれど律儀に読んだ事実は報告するよ。推測するに、ざっとこんな感じかな。
小堀さんの呻きを聞いてから自席へ戻るまでの足取りはふわふわと浮かんでいるようだった。そうやってこれからも私の存在をまるで関心のあるふうに装って、すべてつつがなく無視し続ければいい。それを痛くも痒くもない、なんてうそぶきながら、憎悪で皮一枚うちがわにある私の顔がぐちゃぐちゃになっているところが、今は何よりもいちばん許せないことだけれど。
デスクの引き出しから歯ブラシセットを持って給湯室へ向かう。アクアフレッシュを付けたブラシを口に入れて歯磨きをしながらスマホを開くと、先に自席へついている小堀さんからLINEが来ている。
《昼に話しそびれたまた大事な話が》
はいはい、大事な話ね。どうせまた自分だけが気持ち良いワタシ語りのオナニートークでしょ。どうぞどうぞ、アンタの推し話を聞いてもいっさい萌えなくなった手近な同僚を玩具にして好きなだけイイトコを弄って善がってくださいませ。
こちらの反応を待たずに次のメッセージがすぐさま浮上する。
《ブルボンとモカで今度のイベント合わせで発行するアンソロに参加させていただくことになりました……まだ緊張してます。でも、ニヨさんがいれば百人力です!》
生まれたばかりの新しいフキダシを長押しして、テキスト全体をコピーした。画面の下からスワイプしてアプリ一覧を表示し、過去のタスクから青紫のダイヤみたいなアイコンを選択する。
画面の中央には、チャット開始の挨拶が表示されている。
NIYOさん、こんにちは。
ご用件をお聞かせください。
ここにプロンプトを入力してください、と書かれたテキストバーにカーソルを合わせ、画面下のキーで文字を入力していく。
《会社の同僚から趣味の話で下にペーストした内容のLINEが送られてきたので、内容に沿った返事を考えて。ブルボンとモカはコーヒーではなく男性の呼称、ふたりはBLのカップルの設定。ふたりが出てくるゲームの二次創作で、同人即売会の開催に合わせてアンソロジーが発行される。同僚はそれに誘われて参加が決まったらしい。ニヨは私のことで、同僚とは趣味の話も共有している。とても賛同する・ある程度共感している・あいさつ程度の返事、三つのパターンでお願い》
入力を終え、右端にある送信ボタンを押す。ダイヤのロゴがプロンプトの真下でくるりと一回転すると、瞬時に回答例がずらりとぶら下がった。
同僚からのLINEの返信例です。
1.とても賛同するパターン
「えーっ! ブルモカアンソロに参加するの⁉ めっちゃ楽しみすぎる! ブルボンとモカの組み合わせ、最高だよね♡ ニヨがいれば百人力なんて、そんなこと言ってもらえて嬉しいよ! 私も絶対行くね! 当日会えるの楽しみにしてる!」
2.ある程度共感しているパターン
「ブルモカアンソロ、いいね! ジャンルのイベントってやっぱり活気があって楽しいよね。ニヨがいれば百人力なんて、そんなこと言ってもらえて恐縮です。私も時間ができれば参加してみたいなぁ」
3.あいさつ程度の返事
「ブルモカアンソロ、参加されるんですね! イベント当日も楽しんできてください。ニヨがいれば百人力なんて、ありがとうございます」
返信のポイントは、相手の興奮に共感する、イベントへの期待感を示す、具体的な質問をする、などです。
返信を選ぶ際の注意点は、相手の性格や関係性に合わせることです。あまり興味がない話題であれば、相手の話を聞くことに集中しましょう。
これらの例を参考に、あなたの状況に合わせて返信してみてください。
歯磨きの手を止めて回答例のみっつ目のカッコ内を選択してコピーする。そのまま指で画面を横向きに撫で、LINEアプリにバックし、小堀さんのトーク画面にテキストを手早く貼りつけると、チェックもせずそのまま送りつけた。
さすが本物の生成AIは返信の精度が格段にいい。余計な感情も含まず相手に対して素直だし、語りかけている側への全面的同意を前提として応答できている。苛立ちと嫌悪を懸命に隠しながら引き攣った顔で返信を作文する人間よりよっぽど円滑なコミュニケーション! 小堀さんもこの返信にさぞ喜んでくれるだろう。だってあなたが望んだことだもんね、見返りを求めずひたすら消費される存在に向かって、ボールの壁当てみたいに会話して自分の機嫌をとらせる日々を。
それなら相手はどんな話題にも疲弊しない無人格が最適任だ。よかったね、これでマッチング大成功よ。
自分のトークに既読がついた画面を開きながら、泡立った歯磨き粉をシンクに吐き捨てた。口をすすいでいる間、省電力で液晶の明度が落ちてからも、彼女からの返事が待ち遠しくてちらちらと視線を送る。
間違いなくふたりの新しい関係が始まろうとしていた。私はもう二度と自分の言葉で返信を書かない。小堀さんは本当の人間の前ではただ呻くだけで、人間より人間らしいAIとただならぬ親睦を深めていく。
しばらくは休憩時間にやりたい作業があるからと適当に言い訳をして、数日スキップした後に、成り行きでランチの習慣も終わりにしてしまおう。どうせ一時間の中でまともな話もできず、事務所までの帰り道でようやく喋り始め、いちばん大事な報告はLINEでするくらいだ。人間の私はいらないね。
彼女はこの先、ヒトではないヒトと無二の友になる。
そしてこれからも遅滞や遺漏が起こることなく、自分を絶対に否定しない無人格が叡智を尽くして彼女を褒め続けるだろう。いつかプロンプトの学習が進み、小堀さんのなにもかもを完全に理解した完璧な親友が生成AIで作れるかもしれない。こうなれば僭越ながらその無人格親友の操縦助手として、どこまでもお伴しましょう。アナタは永遠に、私と笑い合うことはなくなるけど。
〈了〉
腐女子の尊厳死 丹路槇 @niro_maki
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