鯨と心拍数
筑駒文藝部
鯨と心拍数
鯨と心拍数
汐見葵
壱
——— 鯨、駝鳥 ———
視界の隅を影がよぎる。それが何か知っていても、毎度鼓動を速めずにはいられない。いきなり出てくるほうが悪いのだ。絶叫系ではのほほんとしているくせして心理系に妙に弱い私は、子供の頃から暗闇を恐れ物音に怯えていた。お化け屋敷に至っては入る前から雰囲気に圧倒され、結局入ることができず一緒に行っていた人が出てくるまで近くにあった金魚の水槽を眺めていたなんてこともあった。
だが今のは別に幽霊でもなんでもなく、ただの犬である。常日頃癒しを求めるようになった現代社会の典型がここにある。というかそもそも癒しなんぞ自然状態で必要なものなのか? 猿が花を愛でるとか、豹が可愛らしい梟に引き込まれるとか聞いたこともない(実際はあるかもしれないが)。ところが人とかいう変な哺乳類について言えば、一日のうち食事に費やす時間は3時間もなく、それ以外は液晶パネルと睨めっこする日々である。実体のないものを追い求めいつしか疲弊した結果癒しが必要不可欠なものとなったのだろう。
この犬は一応私のものということになっている。(所有の問題も昨今は不可触に近くなってきた(私の妄想か?)。)鯨という名前の二歳のアフガン・ハウンドで、図体が馬鹿でかいうえ、毎日の食事の量も半端ではない。自分の体躯が規格外れであることを認識できていないらしく、その重量に飛びかかられてよろめくことも頻繁だ。自由奔放が過ぎるため初心者向きではないらしいが、それに合わせて生活することも面白かろうと家に迎えた。
鯨と呼んでいるのは、丁度名前を考えていた時期に遊びに来た友達(何故か猊下と呼ばれていた)に鯨並みに大きいとのコメントを頂戴したからである。犬の名前としては少々不適かもしれないが、語感も良いことであるし鯨に落ち着いたのが思い出される。(名前といえば、名前を考える際に最初に連想したのが羊頭狗肉という四字熟語だったのは私が変だからなのだろうか。全くもって突拍子もないし倫理的にも結構アウトなラインである。)
色々手間がかかるとはいえ気に入っているのには変わりない。元来自分が寂しがりな性質のせいか、ずっと傍にいて安心させてくれる存在が非常にありがたく感じられる。いつだったか、外に出るのが急に怖くなったときがあった。自らが如何に無防備かを明確に意識してしまい、不安が絶えなくなってしまったのだ。それから二日後、家の中に籠りながら食料をどうしようかと悶々としていたところを、ついに我慢しきれなくなった鯨が暴れまわった末半ば引きずるように外に連れ出すものだから、空き巣さえ引いてしまうであろうレベルの荒れ具合となった。ともあれそのお陰で餓死せずに済むようになったわけだし、家が荒れたとて困るのは私と鯨だけであるから結果オーライといったところである。
ただ、私が強制連行から疲れ果てて帰還を果たした際に鯨が申し訳なさのかけらすら見せず、わずかに見えていた濃紺のカーペットに堂々と寝そべり始めたのには流石に辟易した。助かったのは事実だがもう少し邪魔にならない場所に居てもよさそうなものではないか。まあ最初からそういうことを覚悟はしていたのだが、実際に居座られるとなるとそれなりに気分は悪くなる。ので、私も真似をして鯨の上にかぶさってみたところ大型犬とはいえ成人男性の重さには耐えられなかったようで、一人と一匹がもがき回った結果、猫の額程度に存在していた綺麗な床が消滅することと相成った。(原状復帰に丸一日費やした記憶が鮮明に蘇ってくる。ハァ。)
双方に一癖も二癖もあるそんな生活が劇的に変化したのがつい先日のことである。
その日、私はいつもと同じように自宅のPCとガンを飛ばしあい画面に全神経を注いでいた。ゲームなんかではない。やれば楽しいのだろうが無駄に時間を浪費するのが目に見えている。プロゲーマーを目指すのであれば分からなくもないが、この先何をしたいか、どうやって食べていくかを考えずにそれだけに集中するのはいかがなものかと思う。仕事は適当にして趣味に生きていくというのも選択肢ではあるが、仕事も趣味も熱心に頑張ろうという気概があってもよさそうなものだ。まあこんな薄暗い極東の島国においては仕事という名の監獄が魅力的に映らないのも至極真っ当な帰着点である。それは認めよう。
認めるとしても、だ。
裏切りと不信とがのたうち不平等が回転するこの世界、毎日誰かが苦しみ何かが失われ、人類皆平等と標榜しておきながら格差が絶対悪であるこの坩堝、飽き足らずいつまでも争いを繰り返す山々が立ち並ぶこの海原を、人生を賭して変えようという意志は、生まれてこないのだろうか? 人々はこんなにも無関心であったのだろうか? 心血注いで現状を打破しようとする者たちもいる。だが、スイミーの物語は黒い小魚の話ではない。数多の赤い小魚と、一匹の黒い小魚の物語だ。各自が持ち場を守り魚の形を保っていたように、この世界でもそれぞれが個々の役割に合わせて生きることで集団という概念が保たれる。少しばかり泳ぐ速さを変えたり他の魚と場所を替わったりすることは許されるが、あまりにも離れたりどこかに集まりすぎたり離れたりすることは形態の存続において許されるものではない。少し泳ぐのが速いからと言って一部が抜けだしたらどうなるだろうか。それまで懸命に追いついていたものを見捨ててまで、速く泳ぐ意味があるのか。また常に前方を陣取っていたら後方の魚は目が見えない状態で泳ぐことになる。だからこそ恒常的に意思決定を透明にしておくべきだし、定期的に方針を確認するべきなのである。まあそんなことができても信頼関係がなければ全て崩壊するのがおちなのだが。(だからこそ社会契約説も生まれたのだろう。ルソー頭いい。)
個人が変わらなければ全体は変化しようがない。では個人が変化するためにはどうすればよいのか、何を変えればいいのか? それらを考えるためには個人において何が問題かを明確にする必要があるが、そんなもの人によって違うから何も言えない。ただ、現在言えることは、人を蹴落とさなければ生きていけない世界であること、おいそれと他人を信頼することもできないということである。他者の立場を理解するのが難しいことも多々あるし、与えられたものに満足せず更に貪欲に求めるのもまた事実だ。
ではどうすれば人々が内面に目を向け、変化の必要性を認識するようになるのか。
変化にはきっかけが必要である。ある日突然善の意識に目覚めることなどない。自分自身の変化の引き金は小さくても良いが、大量の人を変化させようと思えばそれに比例して巨大な引き金が必要になる。
———そんなことを、毎日考えていた。
矛盾———。
話が逸れ過ぎた。何の話から始まったかもう忘れている頃合いだろう。
自宅でパソコンに引っついていたところであった。エレベーターもあるにはあるが、アパートのエントランスから部屋に行くまで時間をかけたくないので2階にある小さめの1LDKを借りている。リビングと言ってもあるのは机と椅子とパソコンぐらいだ。テレビなど暇人の所有物である。椅子と机とは某スウェーデン生まれ家具店にて購入した蜂蜜色の書き物机で、小さい頃机の下の空間に足を収めるのに苦労した記憶から、天板が薄いものを選んだ。パソコンもこだわりはあるが説明が面倒なので省略。その他小物用の棚だとか、上半分しか埋まっていない本棚だとかこまごましたインテリア達が鎮座している。(本といえば、大量生産大量消費の典型だとずっと批判的に考えている。したがって、資格や勉強関係を除いて、本、特に小説は基本的に図書館で借りる主義を貫いてきた。著作者の生計のためには本を買うという行為が必要なのも理解できるが、生来のもったいない癖が原因だろうか、何か違和感が拭えない。)
寝室は主に鯨の部屋と化しており、できるだけ外に連れ出してやりたいと思ってはいるがふと見れば寝転んでいることも多い。とことん自分中心である。一人と一匹で暮らすにはいささか広すぎる空間だが、大は小を兼ねるというし少しぐらい贅沢しても罰は当たらないと信じたい。
もう嫌だ———と、かけっぱなしにしていたプレイリストの曲がスピーカーを通して訴える。何だっけこの曲。ああ、ユプシロン『シンデレラ』。ユプシロンには世話になった。
数年前、他人の助けとなること、幸せを増やすとか苦しみを減らすとかいう抽象的なことしか頭に無かったときのことである。今後何をしたいかを知人となんとなく話すうちにふと、これは自分が好きで考えていることなんだろうかと気づいてスキー板を止められない気分になった。ただの義務感ではないのかと。しかし一方で、自分の好きに生きたとしてそこに意義はないとも分かっていた。何かを変えなければいけないと焦っていた。そうして煩悶と溜息に過ごす毎日、このままではいつか追い詰められてしまうと心の奥では理解していながらも、痛むところさえ認識できないのに治せるだろうかと考えていた———言い訳していた、というべきか。
そんなときにユプシロンの曲をきっかけとして世界の認識が文字通り“ゼロに”巻き戻された感触を味わった。矛盾を否定も肯定もしない、本来の、良い意味で自分が中心である世界。自己中心的という意味ではなく、自分の中に確固たる軸を作るという意味での自分中心である。今になって分かったことだが、当時は他人だけが私の人生で、自分を道具としてしか見なしていなかったのだろう。自分自身を道具として扱うことは、時として回復不能なほどの自己否定と悲観を生み出す。(立ち止まって後ろを振り返るのも自己否定につながる私は敏感か?常に走っていなければいけない。だが進まないよりはましだろう)ゆえに以来、人生を他者のために生きるのではなく、人生で他者のために生きることが一つの指針であった。
イギリスのスーパーで2年前に買ったペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やしていた水道水を、これまたイギリスで手に入れた摺りガラス製のグラスに注ぐ。確か蚤の市か何かで買い叩いた記憶が微かにある。床に仰向けになり私をじっと観察しているらしい鯨を跨ぎ、少しきしませながら椅子に腰かけた瞬間、鯨の様子が一変した。
目をとろんとさせ四肢を折りたたんでいた姿勢だったのが、あっという間に床に伏せて唸り声をあげる。先ほどまでの無気力状態からは打って変わって、尾を後肢の間に挟み込み、全身の筋肉が張り詰めているのが感じられた。
やっと自分の耳にも足音が届いた。
———ドアが虚ろな音を響かせる。
鋭く二回。
また二回。
胸の振動と重なる。
二回。二回。二回。
——— 一回。
あとがき
小説なんて一回も書いたことがないので頭の中に浮かんだことをつらつらと書き連ねてみました。会話と地の文で進めるとなると、設定や説明などをかなり緻密にしないといけないことをなんとなく感じ取っていたので一人称で書いたのですがどうでしょうか。まあ分かりにくいですよね。これが半年間国語の勉強をサボタージュした者の末路です。(※良い子のみんなはこうならないように勉強をしましょう。)
お気づきでしょうか、タイトルは架空目次からとらせていただきました。これで完全に架空ではなくなったということですね、なんだか申し訳ないですが何も思いつかなかったので仕方ない。
もともとは、過去につながっていた裏組織との関係を断って一人で暮らして、、、という筋書きがなんとなく頭の中にあったのですが、表現力と時間の不足により何かそれらしき匂わせをするまでもなく、強制的に終焉を迎えた次第です。一応「っぽい」終止符を打ったつもりですが、最後は中身と全く関係がないことに今更気付きました。
思いっきり蛇足と化した伏線の亡骸を弔いつつ楽しみながら読んでいただけたら幸いです。
ところで、知っていましたか? 心臓は一回の拍動で二回鼓動するそうですよ。
鯨と心拍数 筑駒文藝部 @tk_bungei
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