一条の糸

野之人

一条の糸

森を歩く僧が池の横を通りかかると、小さな蜘蛛が池に向かい一条ひとすじの糸を下ろしていた。


その糸は水面に繋がり、中を覗くと痩せ細った人々が水底で力無く地に膝を着いていた。

「かつて此の地に存在し、水底に沈んだ村人達である」

背後からかけられる声に目を向ければ、一人の老爺が佇んでいた。


「この村の者どもは、己の富欲しさに愚行を働き、山神の怒りに触れた。

川がすべてを薙ぎ払うように人々やそれらが築いていたものを飲み込み、罪深き哀れな者どもを沈め、水底に止まらせた」

僧は再び水底に目を向けた。

糸は奥底まで届き、村人の手の届く位置まで下されている。


「まるで、かの小説の“蜘蛛の糸”のようだ」

僧が小さく言葉を漏らすと老爺は頷いた。

「この哀れな蜘蛛は、その村人の一人が読んだ小説の真似事をしている。

人とも満足に関われぬ孤独なあの者の気まぐれで棲家を壊されず、暫しの時を共にしただけであるというのに」

老爺は糸を見つめた。

「しかし、咎人とがにんの目に糸が映る事はない。

見えたところで物語のように糸など人を支えるに至らず。手を伸ばせば糸が切れるより先に、この哀れな蜘蛛も水に沈む。無意味な事よ」


老爺はここまで語らうと、僧の目を静かに見据えた。

「この村人どもの供養に参ったのか」

暗闇の中で光る白刃を向けられたような感覚を覚える眼差しであった。

「ひとつ先の山に化け猫が現れると聞いた。其処に用があるのだ」

僧の言葉に老爺はその視線を解き、再び蜘蛛へと目線を戻した。

「無意味な事よ。人の業が巡り己に返っただけの事」

そう言葉を残し、僧が蜘蛛の糸から老爺に視線を移した時には、その姿は消えていた。


僧は水底を覗いた。


村人達が力無く膝を着き、地を見つめるなか、一人膝を抱え静かに座り目を細めている男がいた。


風に誘われ、一片の花びらが僧の横を通り、水面に降り立った。

僧は己の息一つでも影響を与え花が沈まぬよう、静かに腰を下ろした。


蜘蛛の糸は陽の光に白銀に煌めき、その美しさに僧は目を細めた。




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一条の糸 野之人 @yalayalayalayalayala

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