後編

 その日から、俺は“Thetis”の曲を聴くのも、港さんのSNSを確認するのも、イベントに参加するのもやめた。


 港さんに恋をしていると気づいた以上、港さんが他のファンと親しくしているのを黙って見ていることなんてできない。


 といって、彼氏でもない俺が、港さんにアイドルを辞めてくれと言うことなんて、もっとできない。


 いや、彼氏だったとしてもできないし、してはいけないだろう。


〈私、勉強も運動も絵も料理も苦手で、お母さんやお父さんに褒められることも少なくて……一つだけ、人よりちょっと得意だったのが、歌だったんです〉


 SNSで言っていた港さんから、あんなに生き生きと歌う港さんから、歌を披露する機会を奪うなんて。


      ***


「――港」


「はわっ!」


 慣れ親しんだ七海ちゃんの声だったのに、今日のレッスンでも失敗続きの自分を責めていた私は驚いて、ボトルの水を少し零してしまった。


「あ、ごめん……!」


「大丈夫、大丈夫。こっちこそごめんね」


 手でボトルを拭いて笑ってみせたけれど、七海ちゃんは笑い返してくれない。


「やっぱりあの……筋肉マンのせいなの?」


 質問の内容は想像どおりだったけれど、筋肉マンという表現は想像の斜め上だった。


「こ、光星さんは筋肉マンじゃないよ!」


「いやどう見ても筋肉マンでしょ」


「だから、その、強そうではあるけど筋肉マンじゃないっていうか……」


 もごもごと言うと、七海ちゃんは毒気を抜かれたみたいに笑い、


「わかったわかった、まじめに話すよ……光星さんのせいなんでしょ?」


「うん……」


 私は素直に頷いた。


 今までも、突然SNSで反応がなくなったり、イベントに来なくなったりする人はたくさん……ううん、何人かいた。


 なのに、どうして光星さんのことだけ、こんなに気になるんだろう。


 声をかけて睨まれたときは、怒鳴られたり殴られたりするんじゃないかと思って体がすくんでしまった。


 でも、光星さんは大あわてで謝ってくれた。その目ははっとするくらい優しくて、その声は太いけれど耳に心地よかった。


 ライブで姿を見たときは飛び上がるくらい嬉しかったし、撮影会で私の列に並んでくれているのを見たときは、飛び上がったまま浮かんでしまいそうなくらい嬉しかった。


 新しい言葉じゃなくても、気の利いた言葉じゃなくても、光星さんの言葉はいつも胸の奥に響いた。


 私に興味がなくなっただけならいい。でも、もし重い病気になってたり、大ケガをしてたりしたらどうしよう。


「港がアイドルじゃなかったら、いいアドバイスができるんだけどね……」


 七海ちゃんは肩をすくめてから、私の目を覗きこんだ。


「それでも、一つだけ言えることがあるよ。何かを選ばなくちゃいけないときは、自分の気持に正直になること。仲間とか家族の気持なんて後回しでいいの。それは私たちの歌でも訴えてることでしょ? 港が本心で選んだことなら、どんなことでも私は全力で応援するから」


「うん……ありがとう」


 七海ちゃんの真剣な想いが伝わってきて、胸がじんわり温かくなる。同時に考えずにはいられない。


 私の気持……正直な私の気持って……。


      ***


「なぁ、これはどうかな?」


 せきが指差した財布を見て、俺は腕を組んで唸った。


「やっぱ蛇革はやめないか? 蛇、可哀想だし」


「牛革は牛が可哀想だろ」


「牛の肉は食われてるけど、蛇の肉は食われてるわけじゃないだろ」


「えっ、食われてねぇの?」


 そう言われると、俺も自信がなくなってきた。


 今日は、同僚の関が財布を買うのにつきあって大型雑貨店に来ていた。関は、財布だけはネットではなく実店舗で買うことにしているらしい。


「じゃあ、蛇革じゃなくて金運が上がりそうなの……」


 関が金ピカの財布に目を留めたとき、


「光星さん……?」


 後ろから、耳にも心にも染みついた声が聞こえた。


 反応しないで人違いだと思わせなくては、と思う間もなく振り向いていた。財布売場の隣のカフェから出てきたらしい港さんと七海さんが、呆然と俺を見つめている。


「やっぱり光星さんだ……!」


 一瞬輝いた港さんの顔が、くしゃっと歪んだ。


「よかった、元気で……病気とかケガじゃなくて……」


 その瞳からは涙が零れ、喉からは嗚咽が漏れ、港さんは子供のように両手の甲で涙を拭う。


「えっ、何、斎藤の彼女!?」


 関が口をあんぐり開け、港さんと俺を見比べた。港さんはぶんぶん首を振り、


「ち、違います……私、光星さんの彼女なんかじゃありません。ただの地下アイドルで……」


「違う!」


 初めて、俺は舞台に立っていない港さんの前で大声を上げてしまっていた。


「俺にとって、港さんはただのアイドルなんかじゃない……」


 押し殺そうとしていた想いがあふれ出す。もう止まらない。止められない。


「好きな人、なんです……」


 港さんの濡れた瞳が真ん丸になった。


 あぁ、絶対嫌われた。キモいと思われた。


 きっとこのまま逃げ去ってしまうのだろう。


 もう二度と会えないのだろう。


 そんな予想に反し、港さんは泣き笑いのような顔をした。


「私にとっても、光星さんはただのファンなんかじゃありません……。SNSで反応をもらえなくなって、イベントにも来てもらえなくなって、それがわかりました……」


 筋肉でできた俺の脳では、なかなかその言葉の意味が理解できない。


「そ、それは俺の勝手な嫉妬で……港さんが他のファンと仲良くしてるのを見たくなくて、でもアイドルならどのファンとも公平に仲良くしなくちゃいけなくて……」


 港さんは目を閉じ、ゆっくりと首を振った。


「私、アイドルでいることにはこだわってないんです。あ、もちろん歌のレッスンも受けられて、楽しい思い出もいっぱいできて、七海ちゃんにはすごく感謝してますし、蒼ちゃんと汐香ちゃんのことも大好きですけど、私にとって大切なのは、誰かに歌を聴いてもらえることなんです」


「え、え、え……」


 脳が処理落ちした俺のもとに、港さんは小走りに駆け寄ってきて、最後に会った日のように手を包みこんでくれた。


「アイドルとファンとしてじゃない、初めての握手です……」


      ***


 その二ヶ月後、港さんは“Thetis”を卒業した。


 でも、歌はやめなかった。俺もやめないよう強く勧めた。


 港さんは、動画投稿サイトの歌い手として再デビューしたのだ。


 映像は本人が出ないMVで、動画制作が趣味の友達の協力を得て作った。もっとも、一日も早くひとりで作れるようになるべく猛勉強中だ。


 今も、港さんと俺は叩き台のMVを見て意見を交わしている。


「このへんで休憩しましょうか。港さん、紅茶と緑茶とコーヒー、どれがいいですか?」


 伸びをして腰を浮かすと、


「じゃあ緑茶を……」


 答えた港さんの瞳が、ふと淋しげに翳った。


「ところでずっと気になってたんですけど……光星さん、どうしてまだ敬語なんですか?」


「港さんだって敬語じゃないですか」


「わ、私は年下ですから……。光星さんには、そろそろタメ語で話してほしいんですけど……」


「で、でも敬語のほうが慣れてますし……」


「むぅ……」


 港さんはぷくっと頬を膨らませ、


「敬語を使うなら、まだアイドルとファンの関係だってことで、お金を払ってもらいますよ?」


 手の平を上に向けて差し出した。可愛さに転げ回りたくなるのをこらえ、財布から万札を出すと、


「も、もう……!」


 港さんはたちまち困り顔になり、俺の両膝に手を置いて顔を寄せてきた。目を閉じた俺の唇に、柔らかいものが触れる。


「一万円は、ただのお茶会には高すぎますから……。キス会も開催しなくちゃ、です……」



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筋肉も天使にはかなわない ハル @noshark_nolife

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