筋肉も天使にはかなわない

ハル

前編

 夜の繁華街を、俺はむしゃくしゃして歩いていた。


 最近ジムに入った客に、高い金を払ってるのに全然痩せない、おまえたちの指導が悪いせいだと散々クレームを言われ、ヤケ酒を呷った帰りだった。でも、幸か不幸か酒に強い俺はあまり酔えなかった。


 だから、


「あ、あのぅ……」


 声をかけられたとき、つい相手を睨んでしまったのだ。


「はわっ!」


 その姿を認識して後悔した。どう見てもまだ十代の、華奢な女の子だったのだ。


 清純という言葉が似合う顔立ちに、肩にかかる程度のさらさらの髪。袖が膨らんだ白いブラウスに、水色と白のチェックのスカート、スカートと同じ色柄の、サメの刺繍が入ったネクタイ。


「すみません、怖がらせちゃって……!」


 最敬礼して顔を上げたとき、彼女の持っていたチラシのタイトルが目に入った。


〈“Thetis”初のワンマンライブ!〉


「ざてぃす……?」


「あ、それ、『テティス』って読むんです。ギリシャ神話の海の女神なんです。私たちのグループ名……あ、私、一応アイドルで、港っていいます……」


 彼女――港さんは目を伏せ、おずおずと言った。


 俺は物心ついたときから暇さえあれば体を動かしていて、部活はずっと運動部、専門学校も体育系だった。


 音楽になんて、全然興味がなかった。


 アイドルにハマる人たちを、どこかで下に見ていた。


 なのに、港さんの姿は心臓のど真ん中を射ぬいたのだ。


「ライブのチケットって、ネットとかで買えるんですか?」


「は、はい、前売りチケットはここから……。当日チケットなら会場でも買えますけど……」


 港さんは嬉しそうというより驚いた顔で、チラシのURLを指差した。


 ライブ開催日は三日後で、運良く休日だ。電車に乗るなり俺はチケットを買っていた。


      ***


 公式SNSによると、“Thetis”は一昨年発足したアイドルグループで、メンバーは港さん、そうさん、七海さん、汐香しおかさんの四人。


 各メンバーにイメージカラーとイメージアニマルがあり、港さんは水色とサメ、蒼さんは青とペンギン、七海さんは黄色とアザラシ、汐香さんはピンクとイルカだ。――サメだけ、他の動物とちょっと傾向が違わないか?


 三日後。開場時間より一時間も早く最寄駅に着いてしまった俺は、公園で筋トレをして時間を潰し、会場に足を踏み入れた。


 開演時間になっても、会場には三十人程度の観客しかいなかった。百人も収容できない広さとはいえ、満杯には程遠い。


 港さんみたいなすごく可愛い子がいるのに……。


 悔しいような誇らしいような、複雑な気分だ。


 会場が暗くなり、スポットライトが舞台を照らし、歓声が響く。軽快な音楽が流れ、舞台袖からメンバーが飛び出してきて、歓声がもっと大きくなる。声は上げなかったものの、俺の目は、恥ずかしげな笑顔で一生懸命踊る港さんに釘づけになっていた。


 港さんと出会ってから三日しか経っていないし、ライブで初めて曲を聴くのもいいと思っていたから、俺は予習をしていなかった。


 蒼さん、七海さん、汐香さんが一節ずつ歌い、最後に港さんの番が来る。


「いつの間にか 作り笑いが 顔に張りついてしまってた」


 その声を聞いた瞬間、俺は港さんが名乗ってくれたときの何倍もの衝撃を受けた。


 水晶のように透明で、新芽のように伸びやかな声。表情も動きも別人のように生き生きしていて、歌うのが楽しくてたまらないのがわかる。


 全員で歌う一番目のサビが終わり、間奏に入る。そのときにはもう、俺は他の観客に負けじと拳を振り上げ、港さんに声援を送っていた。


      ***


 俺は終演後の物販で“Thetis”のCDを全種類買い、チェキ撮影会なるものにも参加した。


 港さんが一番人気だと思っていたが、撮影会の様子を見るに、メンバーの人気に大きな偏りはないようだ。


 俺の番が来ると、


「来てくださったんですね……! ありがとうございます」


 港さんは笑みを深めてぴょこんと頭を下げた。


「い、いえ……」


 明朗に話すことが染みついている俺なのに、うまく言葉が出てこない。


「こっちこそ……覚えててくれてありがとうございます」


「もちろん覚えてますよ。ムキム……じゃなくて、強そうでしたから」


 ――今ほど切実に、体を鍛えていてよかったと思ったことはない。


 チェキを撮る間、俺は港さんに動悸が聞こえるんじゃないかと本気で心配していた。港さんはチェキにサインをして渡してくれ、


「よかったら、お名前を教えてもらえませんか?」


 少しうちとけてきた顔で言う。


「あ、はい、もちろんです! 斎藤です……斎藤光星」


「コウセイさん……どんな字を書くんですか?」


 突然名前で呼ばれてどぎまぎしながらも、


「えっと……光る星、です。名前負けしてますよね」


 俺は自嘲ぎみに笑った。似合わないとよく言われるこの名前が、実は結構コンプレックスだったのだ。


「そんなことないですよ!」


 港さんは両脇でぐっと拳を作り、


「素敵なお名前ですし、光星さんって本当に輝いて見えますから……。ほら、強そうってことは努力してるってことで、努力してる人は輝いてるっていうか……。ご、ごめんなさい、変なこと言っちゃって……」


 頬を染めてうつむいてしまった。


「謝らないでください……! 港さんこそ舞台ですごく輝いてましたよ。あ、今も輝いてますし、この前だって輝いてましたけど……」


「そんな……」


 港さんの頬のピンク色が濃くなり、耳まで広がった。


「とにかく、次のライブにも絶対来ます!」


 自分の耳も火のように熱くなっているのを感じながら、俺は素早く頭を下げて身を翻したのだった。


      ***


 その日から、俺は“Thetis”の曲をヘビロテし、毎日港さんのSNSを確認し、ライブを初めとするイベントにも毎回参加した。


 SNSの投稿やイベントでの会話で、俺は港さんのことを一つずつ知っていった。


 勉強も運動も絵も料理も苦手で、ご両親に褒められることも少なくて、唯一得意だったのが歌だったこと。


 幼馴染の七海さんに誘われて一緒にアイドルのオーディションを受け、合格してしまったこと。


 イメージアニマルがサメなのは、港さんが一番好きな海の生物だからということ。


 好物はメロンで、苦手な食べ物は納豆だということ。


 給料で港さんに会えると思うと、仕事にも精が出た。


 でも――。


 いつからか、港さんが他のファンと話したり、チェキを撮ったりしているのを見ると、もやもやするようになった。やがて、それは明確な苛立ちに変わった。


 その苛立ちは、港さんがライブで俺以外にファンサしていたり、SNSで俺以外と会話したりしているのを見るだけでも、生まれるようになった。


      ***


 ある日の握手会で、


「光星さん……何か嫌なことでもあったんですか?」


 俺の番が来たとたん、港さんは細い眉を寄せて訊いた。


「い、いえ、そういうわけじゃ……」


「でも、すごく怖い顔してましたけど……」


「こ、これが地ですから……そう、俺、赤ん坊のときいっつも顰めっ面してたらしいんですよ! 腹が一杯でも玩具で遊んでても!」


 苦しすぎる言い訳だったが、港さんはきょとんとしてからくすっと笑ってくれた。両手を伸ばして俺の手を包みこみ、


「新曲で、少しでも元気になってもらえるといいんですけど……」


 小さいが真摯な声で言う。


 その瞬間、俺は理解した。


 あぁ……俺、港さんが好きなんだ。


 地下という言葉がついているとはいえ、紛れもないアイドルである港さんに、十以上も年下の女の子に、本気で恋をしてしまったんだ。

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