かわいいきみへ
星野 ラベンダー
花のような君
「おはよう、涼真! 待ってたんだ!」
幼馴染みの
「今日さ、特に可愛いと思わない?」
「んん……?」
涼真は雫を上から下まで見てみた。長く瑞々しい黒髪は上のほうに天使の輪っかのような艶がある。その長い髪は毎日アレンジされているが、今日は緩くカールがかかってあり、下のほうで二つに結ばれている。
目はぱっちりと大きく、小鼻は真っ直ぐと筋が通っており、桜の色に染まる小さな唇はにっこりと笑顔を生み出しており、頬にハムスターの肉球のようなえくぼを作っていた。
今日も今日とて、100人中100人が美少女だと讃えるであろう幼馴染みの姿が、そこにあった。
「なんか変わったか?」
「リップとアイシャドウを変えたんだよ! 信じられないんだけど!」
雫は愕然とした顔で声を上げた。確かに言われてみると、目の縁に色がついている気がしなくもない。口紅については言われてもよくわからなかった。うーん、と首を左右に捻っていると、雫は盛大にため息を吐いた。
「あー鈍すぎる、今日も今日とて鈍すぎるな……。もういいや、涼真に期待したのが間違いだったよ」
「俺はお洒落のことはわからないって、何度も言っているじゃないか」
そのときだった。教室に入ってきたクラスメートが、雫を見るなり、手を大きく振った。
「雫ちゃーん! 今日なんかいつもより可愛いねー!」
「えっ、ほんとー?! やったあ、嬉しいー! ちょっとメイク変えたんだー!」
「似合ってるよー!」
「っていうか雫はなんでも似合う!」
「そうそう、毎日可愛い!」
クラスから次々に褒め言葉が上がる。雫は、女子からのどんなコスメを使ったのかという質問に答え、男子からの本当にデートしたいくらい可愛いという誘いに、慣れた様子であしらっていく。
わいわいと、たちまち雫の話題で持ちきりになったクラスの中を、涼真は一人自分の席につき、読みかけの本を鞄から取りだした。ページを開いたとき、がららっと教室のドアが開いた。入ってきたのは一人の女子だった。その女子を見た瞬間、雫の笑顔が一気に輝いた。
「
「雫ちゃん、おはよう! ……あれっ、なんかいつもと雰囲気違う?」
「ふふん、どこがどう違うと思う?」
「うーん……。わかった、リップとアイシャドウ!」
「正解! さすが柚乃ちゃん! かく言う柚乃ちゃんも、いつもとメイクを変えているね?」
「当たりー! さあどこでしょう!」
きゃっきゃっと、雫と柚乃は、涼真が到底ついていけない話で盛り上がる。近くにいた誰かが、二人の煌めくような空間を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「本当に雫って、女子顔負けってくらい女子やってる男子だよね」
雫は、隣の柚乃と同じく、女子の着るブレザーの制服を着用している。女子生徒の制服が全員そうなように、リボンネクタイをつけ、スカートを穿き、その下にレギンスを穿き、それを完全に様にしている。
初対面の人は、絶対に気づかない。ネタばらししても、まず信じない。
しかし雫は、間違いなく、れっきとした男だ。クラスの皆、それを知っている。
昼食時。弁当を食べていると、同じく食事中の友人の一人が、ふいにこう言った。
「涼真は幸せ者だよなあ~」
「何がだ?」
「だってクラスの花で! 光で! アイドルで! 天使で! 女神の雫ちゃんと幼馴染みなんだからよー!」
「そうだそうだ、羨ましいぞ!」
「幼馴染みってなんだよ、どんなエロゲーのシチュエーションだ!」
「いや、別に幼馴染み以外のなにものでも……。趣味も違うから、最近はあまり話さないし」
言いながら、窓際の雫の席を見てみる。雫は高校に入ってから特別仲良くなった女子、柚乃と二人で弁当を食べていた。
恐らく雫は今日も、量よりも食べ応えよりも何よりも可愛いを重視したパステルカラーの弁当を持参しているのだろう。二人の周りの空間は、きらきら光の粒が舞っているように見える。
「やっぱり雫ちゃんって、昔から可愛かったんだろう?!」
「昔からあんな可愛い子が近くにいたら、お前の幸福ゲージは常にMAXだったんじゃないか?!」
「いいなあああああああ!!!」
「確かに昔から雫はあんな感じだったけどなあ……」
涼真はこれまでの雫を振り返った。
男に生まれて男として育った雫は、いわゆる女顔で、線が細く、身長も低かった。更に運動が苦手で、外遊びより家で遊ぶことを好んでいた。子供の頃は何かにつけて、周りの子供におとこおんなだ、オカマだと揶揄われていた。
かつての雫はその揶揄いに、やめてよといつも泣いていた。子供の頃の雫はよく泣く子だった。それが更に、心無い冷やかしに拍車をかけた。
涼真はしょっちゅう雫のもとに駆けつけ、いじめっ子を追い払った。涼真は雫とは逆に小さい頃から他の子よりも背が高く、運動神経も良くて外遊びが大好きだった。雫相手だといじめてくるのに、涼真が来ると一目散に逃げていくその違いに、雫は益々涙を流していた。
ところが小学校四年生頃のこと、ある日を境に、ふと雫は悟った。女みたいと散々言われるなら、いっそなってしまえばいいじゃない、と。
悟った次の日から雫は、“可愛い”に振り切った服を着て学校に来るようになった。揶揄いが集中したのも最初だけで、雫は何を言われても、「そうでしょ? 僕、この世界で一番可愛いでしょ?」と堂々としていた。
どんなことがあっても揺るがない雫の態度に、周りの反応は徐々に変わり始めた。まず女子の支持を集め始め、雫がいじめられるとすぐさま女子達の反撃がされるようになった。雫はクラスでの位置を確立し始め、やがて男子からも「可愛い」と素直に褒められるようになり、ついにはクラスの人気者となった。
「皆ね、真に美しいものには抗えないんだよ」
状況の変化に対し、雫はドヤ顔でそんなことを言っていたものだ。
雫の両親は放任主義で、雫が可愛い服を着るようになったことに何も言わなかった。むしろ雫を可愛くすることに積極的なまであった。その両親の働きのおかげで、雫は中学も高校も女子の制服を着て通学することを許された。男子の制服なんて着たら僕の可愛いが霞んじゃうからね、というのは雫の弁だ。両親のサポートのおかげで、雫は日を重ねるごとに、年を経るごとに、どんどん可愛くなっていった。
雫は女子になりたいのかと、いつだったか、一度聞いたことがある。雫はすぐに、「いや、全く、全然」と首を振った。
「僕がこういう格好をするのはね、可愛いものや綺麗なものが好きだから、ただそれだけ。可愛いものが好きだから、可愛いお洋服とか、アクセサリーとか、雑貨とかスイーツとかに目がないし、自分を綺麗にしてくれるお化粧も大好きだし、何より“可愛い僕”が大好きになるわけ。至って普通の理論でしょ? それ以外に理由なんてないよ」
正直、わかるようで全然わからないのだが、とりあえず雫が幸せならそれが一番だろう。
小学生のときからずっと、雫は美少女を凌駕する美少女として花開き続けている。町を歩けば老若男女問わず多くの人が振り向くし、街角モデルやヘアモデルを頼まれることなんて数え切れないほどだし、芸能人にスカウトされたことも一度や二度ではない。雫は芸能界に興味がないので断っているが、そんじょそこらのモデルやアイドルよりもずっと華がある。
ナンパやキャッチも日常の一部になりすぎて、もはやそれらをあしらうことは目を閉じていてもできるという。男子にモテすぎて、雫の性別を知ってなお、女子からやっかまれることもよくあるらしい。
ちなみに涼真はというと、男子から妬まれることが多い。友人らのように雫の性別を知っている男子からは「男だとしてもあんなに可愛い子が幼馴染みなんて、前世でどんな徳を積んだんだよ~」とつっつかれ、知らない男子からは本気の嫉妬をされる。
涼真としてはよくわからない。雫はどこまで行っても雫でしかないので、雫がどんなに綺麗でも可愛くても美しくても、特に意識することはない。
毎日流行りをチェックして、コーデに悩んで、髪のセットだのメイクだのお手入れだのに時間をかけて、大変そうだなと思うが、涼真は絶対やりたくないなと感じるそれらの手間暇が、雫は楽しくて仕方ないらしい。
高校に入って柚乃と仲良くなってからは、更に充実しているように見える。休み時間はずっと二人でいて、休日もしょっちゅう二人で遊びに出かけている。彼女とは特別気が合うらしい。メールも通話も柚乃とばかりしているそうだ。この前の夏休みも柚乃とばかり遊んだそうだし、新学期になってからも、柚乃とばかりいる。
そのせいか高校に入ってから涼真とはあまり話す時間が大きく減ったわけだが、まああんなに楽しそうなのに、水を差す必要はないだろう。
「あ~眼福眼福……。何を話しててもどんな表情してても絵になる美しさ……」
「全ての女子が霞む可愛さ……」
「雫ちゃんみたいな彼女欲しいなあ……」
友人達が雫のいる方向に向けて、揃って手を合わせて拝んでいる。雫は笑顔で弁当のおかずを頬張りながら、柚乃と何かを話している。彼は今日も幸せそうだった。
日曜日。文房具を買いに街に出た涼真は、目的を達成し、帰ろうとしていた。その矢先、見慣れた人影を目にした。
「雫……?」
薄いピンクのワンピースを身につけた雫が、柚乃と一緒になって、大学生らしき若い男性二人に話しかけられていた。雫の顔は険しく、柚乃は怯えている様子だった。
「だから迷惑ですって、私何度も言ってるんですけど」
雫が毅然と言う。柚乃を背中側に庇っている雫は、よく見ると一人の男から、手首を掴まれていた。
「そんなこと言わないで遊ぼうよ、財布は出すしさあ」
「ここで会えたのも何かの縁だしさ! ねっ!」
「困るんですけど。私達この後用事があるんです」
「用事あるの? じゃ俺らもついて行っていい?」
「無理って言われても行くけどな!」
どうやらタチの悪いナンパに絡まれているらしい。まずいな、と涼真が間に入ろうとしたときだった。
「ほら、女子二人に男子二人、滅茶滅茶バランスいいじゃん!」
一人がそんなことを言った。
「女子だけじゃ楽しくないでしょ絶対! っていうかちょっと寂しいって! 男もいないとだめだってば!」
そのときだった。雫の目がきらりと光った気がした。くすり、と口紅(雫いわくリップらしいが、違いがわからない)の塗った唇の端が上がる。丁寧にネイルの塗られた、白く細い指先で、口元を覆う。朝日を浴びながら蕾が花開いたような、そんな可憐な笑みを浮かべる。
「男子三人に女子一人、だよ」
雫は鈴の鳴るような声で、そう言った。
「は?」
「いやね、僕」
雫は自分自身を指差し、大輪の花も霞むような笑顔を浮かべた。
「男だから」
作っているときの高い声ではない、地声に近いハスキーボイスが流れる。は、と男二人は硬直した。いやいやそんなと最初は疑い、冗談ではないと気づき始め、次の瞬間、はあ、と怒りを前面に押し出して怒鳴った。
「嘘だろ、なんだそれ!」
「詐欺だろこんなの!」
「えー気づかないほうが悪いでしょ。でもまあ僕、正直女子より可愛いでしょう?」
「ふざけんな、野郎になんか興味ねえんだよ! 騙しやがって!」
雫の手首を掴んでいた男が、放り投げるように手を離した。掴んでいた手を服でゴシゴシとこする。「わあ、失礼しちゃうね~」と、雫は人差し指を口の下辺りに当てた。直後、男の一人が「この!」と手を拳の形にして振りかぶった。
その男の肩に、涼真は手を置いた。
「良くないぞ、そういうの」
振り返った二人は涼真を見上げ、面食らったように何度も瞬きした。
「さっさと立ち去ったほうがいい。はっきり言って、見苦しい」
男二人は何か言おうとしていたようだが、周囲の目も集まりだしたこともあり、苦し紛れの捨て台詞を吐きながら去って行った。去り際、わざと雫にぶつかることも忘れずに。雫は気にもとめない様子で、二人の背中に「バーカ」とぶつけながら、手をひらひら振った。
「雫、大丈夫か?」
「平気ー! いやあ、僕の可愛いお顔に傷がつかなくて良かったよ! まあちゃんと避けるつもりだったけどね。ふふ、涼真の無駄にでかい図体もたまには役に立つねえ!」
「無駄に…………。あ、鈴川さんも大丈夫だったか?」
「うん、私はなんとも。ありがとう、伊武君! 助かったよ、本当に……!」
柚乃はぺこ、と頭を下げた。二人とも大丈夫そうだと確認し、じゃ、と涼真は立ち去ろうとした。と、柚乃が急に呼び止めてきた。
「私達、今から私オススメのカフェに行くんだけど、良かったら高遠君も来ない? お礼したいんだ!」
え゛、と低く潰れた声を発したのは雫だった。
「な、なんで涼真も誘うわけ? 今日は二人でって約束だったじゃん、涼真が来たらむさ苦しくなるでしょうが!」
「そんな失礼なこと言わないの! せっかく助けてくれたのに!」
「僕だって柚乃のこと助けてたよ?!」
「それは嬉しいけど、伊武君も私達のこと助けてくれたじゃん。ね、どうかな? 甘いもの平気だったらだけど」
「あ、甘いものは平気だ、けども……」
嘘でも苦手と言うべきだったろうか、と後悔した。雫が涼真に向けて、いかにもな「邪魔だオーラ」を発していたからだ。やっぱり俺はいいよ、と早急に立ち去ろうとしたが、遅かった。
「良かった! じゃあ行こう!」
柚乃は有無を言わさぬ調子で歩き出した。流れでついて行くしかなくなった涼真は、そっと雫を見た。雫は絶対零度の眼差しで涼真を睨んでいた。
道中ずっと雫に睨まれながら歩き、程なくして着いたのは、カフェも併設されているというケーキ屋だった。あまりにもラブリーすぎる店だったら肩身が狭くなっていたが、シンプルかつナチュラルテイストな外観と内装に、涼真はほっとした。
中に入ると、「いらっしゃいませー」と、ケーキ屋の制服を着た、高校生くらいの女子が出迎えた。同い年っぽいな、と思ったとき、「恭香ちゃん!」と柚乃が駆け寄った。
「柚乃ちゃん!」
恭香と呼ばれた女子は、一瞬驚いた顔をした後嬉しそうになって、柚乃の手を取った。
「会えて嬉しいよ、柚乃ちゃん! まさか今日会えるなんて」
「わっ、私も嬉しい! でもいきなり来てごめんね。驚かせたくって」
「ごめんなんて言わないでよ! あれ、そっちの人達ってもしかして」
「うん、この前話した、私の親友の美澄 雫ちゃん! あと、雫ちゃんの友達の伊武君ね。伊武君は途中で偶然会ったから連れてきたんだ」
「雫でーす! こんにちは! 柚乃ちゃんに、最近よく行くオススメのケーキ屋さんがあるって聞いてたから、行くのずっと楽しみにしてたんだ!」
「……伊武です。どうも」
雫はきらきらとした調子で、涼真は短く自己紹介する。こんにちは、と恭香は明るく挨拶し、この店が恭香の実家で休みの日に手伝っていること、柚乃が一ヶ月前、ちょうど夏休み中にこの店を訪れたことをきっかけに二人が知り合ったこと、学校は違うが、すっかり仲良くなったことなどを話した。
恭香は雫を見て、「凄いこの子、可愛すぎる!」とはしゃいだ。
「柚乃ちゃんから聞いていた通りの可愛さ! あなた、美少女ってよく言われない?」
「えへへ、一番言われるよ!」
可愛いと言われ、雫は気を良くしたようだ。嬉しそうに頷いて見せた。
「うっ、でも可愛すぎてちょっと女子としての自信なくしちゃうかも……」
「そんなことないよ、恭香ちゃんはとても可愛いよ!」
その瞬間、柚乃は大きな声で主張した。そうかな、ありがとう、と恭香は顔を赤くした。
「雫さん、良ければ今度オススメのスキンケア用品とかブランドとか教えてね!」
「あっ、うん! 柚乃と一緒に語ろうね!」
「……わっ、注文忘れてた! ごめんね、恭香ちゃん。オススメはどれ? 私、恭香ちゃんとこのケーキ食べるために、お昼少なくしておいたんだ」
「ええっ、ありがとう! えっとね、オススメは……」
柚乃と恭香はショーケースの前に並び、あれこれ話し始めた。ケーキについてわいわい喋る二人はとても楽しそうだった。
雫はというと、涼真がそうしているように、一歩下がったところから、二人の姿を眺めていた。雫と柚乃が二人一緒にいて、他の人が間に入れないところは何度も見てきたが、雫が柚乃と誰かの間に入れない場面は初めて見た。珍しい、と思いながら、涼真が柚乃に視線を移したときだ。あることに気づいた。
柚乃の耳が、真っ赤に染まっている。
恭香と少し肩と肩が触れ合うだけで大げさに体を震わすし、ケーキを指さした恭香の手と柚乃の手が偶然当たったときなど、わたわたと、どこか幸せそうに、動揺していた。柚乃の横顔は、そんな化粧はしていないのに、赤くなっていた。
隣で何かが動く気配がして、涼真はそちらを見た。俯いた雫が、静かに床を見つめていた。彼の表情は、わからなかった。
それから二週間ほど経ったときのことだ。教師から言いつけられた用事を終え、涼真は帰路についていた。途中、公園の前を通りかかった。もうすっかり空が赤く、子供は一人も遊んでいなかった。が、奥のブランコに一つだけ、人影があった。なんとなく気になって目を向け、思わず立ち止まった。
「雫……?」
先に柚乃と帰っていたはずの雫は、一人でブランコに乗っていた。下を向き、ぼんやりと、どことも知れない場所を見つめている。遠目からでもわかるほど様子がおかしかった。涼真は雫に近づいた。
「どうしたんだ雫、こんなところで?」
「ん……? なんだ、涼真か……」
「なんだってことはないだろ。鈴川さんはどうした? 一緒に帰ったんじゃなかったのか?」
「……駅で別れて、僕だけそのままここに来た」
「おい雫、大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
「……別に」
明らかに、様子がおかしい。俯く雫は、涼真と話すことを拒絶している。だが、今すぐいなくなってほしいわけでもなさそうだ。そこまで空気が強張っていない。
一瞬迷った涼真は、隣のブランコに腰を下ろした。雫は何も言わなかった。両足に地面をつけ、両手にブランコの鎖を持ち、ブランコをほんの少しだけ、前後に揺らし始める。きいきいと、鎖の軋む音が公園内に響いて、遠ざかって、寂しく消えていく。
やはり変だと思った。いつものようにキャピキャピしておらず、夕暮れが作る長い影よりも、ずっと暗い陰りを顔に宿している。どうしたのだろうか。数日前、最近あまり柚乃と遊べていないと涼真に愚痴を零しに来たが、それに何か理由が隠されているのか……。
しかし無理に聞き出すのも違う気がして、涼真は黙っていた。雫も黙っていた。
夕暮れの空が、どんどん濃くなっていく。それに伴い、辺りが暗くなっていく。公園の前を、自動車が、自転車が、人が、何台も通りすぎていく。ぱっと、今から夜だとアナウンスするように、砂場のそばの街灯に光が灯った。そのとき、艶やかな髪を人差し指に絡ませていた雫が、ふと呟いた。
「僕、もうこの髪、切ろうかな」
「ええ?」
涼真は耳を疑った。雫の長い髪は、雫が一生懸命伸ばしたもので、彼の宝物だ。毎日梳かしてシャンプーしてリンスしてトリートメントしてヘアオイルをつけて他にもたくさんの手順をかけて、時間をかけてお手入れしている大事な箇所だ。髪が長いと、ヘアアレンジの幅が広がるから大好きなんだと、雫は長い髪を特に自慢していた。
「もったいないこと言うなよ、いつも手入れして大切に扱ってるんだろ? 長い髪を突然切るなんてそんな、まるで失恋したみたいに」
「そうだよ」
軽く、何も考えずに言った台詞だった。涼真は息を止めた。雫はだらりと両手を下げ、ブランコを小さく漕ぐことすらしなくなった。
「……鈴川さんか?」
とても小さく、引き攣れなのかそうでないのかわからないくらいに小さく、雫は頷いた。
「もしかして、相手って」
涼真は柚乃の相手に、思い当たる節があった。そう、と雫は力なく笑いながら頷いた。
――実は私、女だけど、男の子じゃなくて、女の子が好きなんだ。
放課後、他に誰もいないクラスで、柚乃が雫に言っているのを、たまたま耳にした。忘れ物に気づいて取りに戻ったときのことだ。雫が柚乃と友達になって三ヶ月ほど経った、もうすぐ夏休みという日のことだった。
「誰にも言ったことがないんだけど、雫ちゃんには言えるかなって、そう思って。あの、でも、やっぱりびっくりした、よね」
凄く震える声で、柚乃は言った。やっぱりなんでもない、ごめんとわざと明るい声を発したとき、雫は、なんで謝るの、と声を尖らせた。
「別にそんなことなんでもないよ。大切な話があるって改まるから、どんな大層な話かと思って身構えてたら……。逆に拍子抜けだよ」
柚乃の返事はなかった。代わりにしゃくり上げる音が聞こえてきた。その涙が悲しみによるものではないことは明らかだった。
このままでは盗み聞きになってしまうので、涼真は二人の前に現れて、話を聞いてしまったことを正直に打ち明けた。「忘れてほしかったら、頑張って忘れるようにする」と言うと、柚乃は吹き出して、そんなことしなくていい、正直に言ってくれてありがとう、と優しく笑った。
その柚乃は、涼真が雫達と恭香のケーキ屋に行ったあの日から一週間後、雫がいない隙に、柚乃一人で、涼真にこっそり話しかけてきた。雫ちゃんに相談するにはちょっと恥ずかしくて、という前置きのあと、こんなことを尋ねられた。
「い、伊武君。告白って、やっぱりストレートに好きですって言ったほうが伝わる、かな?」
「まあはっきり言ってくれたほうが良いんじゃないか?」
「だよね! 良かった、伊武君って嘘言わないもんね。決心がついた!」
「告白したい人がいるのか?」
ぎくっと、柚乃は体を硬直させた。涼真は声を潜め、「もしかしてこの前のケーキ屋の?」と聞いた。たちまち柚乃の顔は、耳の端まで真っ赤っかになった。
「な、なんで?! そんなにわかりやすい?!」
「とても。非常に」
「そそ、そっかあ……。う、うん、あのね、今度の日曜に、その、い、言おうと思ってて……」
「そうか。頑張れよ」
「頑張る! ありがとう!」
そこで終わりにしようとした。しかし、できなかった。言う予定のなかった言葉が、口をついて出てきたのだ。
「……けどそれじゃあ、他に鈴川さんのこと好きなやつがいたら、ショックかもしれないな」
「ええ?」
何を言ってるんだと、柚乃は首を傾げた。
「もう、伊武君は。私にそんな人、いるわけないって。雫ちゃんはモテモテだから、違うだろうけどね!」
そう、無邪気に言い切った。
彼女の告白が上手くいったかは、次の月曜日の様子で、明らかだった。柚乃の周りの空気はやけにふわふわしていて、どんなときもやたら嬉しそうで、幸せの花が満開に咲いていた。
雫はそのことに、気づいていたのか。恐らく柚乃が幸せそうなことには、すぐ気づいただろう。その理由も、薄々察していたはずだ。しかし、柚乃から言われるまで、信じまいとしていたのだろう。そして、恐らく今日、柚乃から決定的な台詞を聞かされたのだ。
「……涼真。僕、女の子に見えるだろう?」
「……もちろん」
問われて、改めて雫の姿を見る。髪も化粧もスカートも、とてもよく似合っている。雫が男物の服を着たら、そっちのほうがずっと違和感を放つだろう。異性装と言われるまで気づかないし、言われてもなかなか信じられない格好をしている。彼の容姿は、“彼女”と表現するに相応しい。
「告白とかじゃ、なくて。前ね、柚乃に、僕って女子みたいでしょって聞いたことあるんだ。好きになっちゃうんじゃないのって、ふざけた感じで言った。そうしたら、柚乃、あははって面白そうに笑って、こう言ったんだ」
ひく、と。雫の、小さく喉仏がある喉の奥が鳴る。
「“雫ちゃんは可愛いけど、それは絶対に有り得ないよ。だって雫ちゃん、男の子だもん”って」
雫はゆっくりと、前屈みになった。女子と比べたら、どうしても骨張って見える手で、顔を覆う。
「どうして、だろう。僕、こんな、女子みたいなのに……」
抑えきれないといった嗚咽が、口から漏れていく。手の隙間から、涙が零れていく。雫は体を震わせながら、ずっと泣き続けた。
雫が柚乃のことを好きなのは、遠目から見ても知っていた。雫はあくまでも友人として柚乃のそばにいたようだが、それでも幼馴染みの目を通せば、バレバレもいいところだった。
いつか、友人を超えた仲になりたいと願っていただろう。柚乃から女子が好きだと打ち明けられても、希望と期待を持ち続けていたはずだ。なぜなら雫は老若男女問わず、美少女のようだと讃えられる存在だから。
だが、どんなに女と見紛うばかりの存在でも。雫は、どこまで行っても、男だ。
柚乃はそれをわかっている。涼真もそれを、よくわかっている。雫を女だと思ったことは一度もない。わかっていて、なお。
「(好き、なんだよな……)」
いつからかはわからない。気づいたら好きになっていた。雫が女性の姿をしていようが男性の姿をしていようがどんな姿をしていようが、変わらずに好きだ。雫はどこまで行っても雫で、だから自分も、どこまで行っても雫が好きなのだ。
雫が柚乃とばかり遊ぶようになったとき、本音を言うなら少し寂しかった。だが、“好きな人”といる雫は本当に幸せそうだったから、邪魔するつもりは起きなかった。だから、この心を、本人に伝えたことはない。伝えられるとも、思っていない。
雫はブランコの上で、苦しげに泣いている。手では追いつかなくなったのか、鞄を抱きしめて、顔を隠さずに、泣いている。背を丸めて泣く姿は、昔の雫そっくりだった。
そっと片手を伸ばす。すぐに引っ込める。抱きしめてやりたいと思う。だができない。雫が抱きしめてほしいのは鈴川 柚乃で、伊武 涼真ではない。
雫は女になりたいと思ったことは一度もないという。けれど涼真は、もし自分が女だったら、もっと雫に近づけたのだろうかと、何度も思った。
涼真は目を閉じ、雫に気づかれないよう、長く息を吐き出した。こうしている間も、雫の嗚咽が聞こえてくる。今まさに、雫が悲しんでいる。なのに今、叶わないたらればに想いを馳せる暇などないのではないか。
涼真は立ち上がり、雫の前まで移動した。膝をつき、「雫」と呼ぶ。雫は顔を上げた。まぶたがすっかり腫れていた。
「……まだ、いたんだ」
「いるさ。ずっといる」
「それも、そうだね。君はここで立ち去ったりなんかしないよね」
「雫。一つ、お願いがあるんだ」
涼真は雫としっかり目を合わせた。
「俺に、服のこととか、メイクのこととか……雫の好きなもののこと、教えてほしいんだ」
雫は、涙の残る両目を丸く見開いた。
「ど……どういうこと? 涼真もお洒落に目覚めた? いやそんなわけないよね?」
「目覚めていない。ただ、知りたくなった。今まで“わからない”で通してきて、雫がどんなものが好きか、興味すらも持たなかった。けど、幼馴染みなのに、それでいいのかって、気になってもいたんだよ」
「……多分わけわからないと思うよ。話せって言われたらいくらでも話せるけど、でも、涼真からすれば、絶対退屈になる」
「そうだな。共感はできないだろう。でも、雫が見ている景色がどんな景色なのか、知ることはできる」
涼真は静かに微笑み、雫に向けて右手を差し伸べた。右手と顔を交互に見た雫は、あは、と吹き出した。
「もう、なんだよそれ……!」
「どうだ?」
「……いいよ! 柚乃ちゃん、恋人と過ごすのに忙しくて、僕時間余ってるから、ちょうど良かったし」
雫は「何から教えていこうかなあ」と楽しそうにしながら、涼真の手を取った。新しい涙は生まれていない。好きなものについて心を巡らせている雫は、やはり、幸せそうだ。
「あれ、手ほどかないの?」
「……今日はこのまま帰らないか?」
「へ? まあいいけど。っていうか、なんかこうやって手を握りながら帰るの、子供のときを思い出すね! なんか楽しいなあ」
「そうか。良かった」
雫はぶんぶん、握った手を面白そうに振りながら歩いていく。雫はなんとも思っていないだろうが、涼真は正直、手から伝わってくる雫の温度に、心音が早まっている。鼓動の音量の大きさがばれるのではないかと、無表情を装う裏でひやひやしている。
なんとか誤魔化そうとして首を上に向けると、一番星と目が合った。
いつか、この心を伝えられる日が来るのだろうか。そんなことをぼんやり思う。
だが今はとりあえず、雫がいつも見ている、雫の好きな世界について知るほうが先だ。そうやって雫に近づいていくことは、男でも女でも、涼真でもできることであるはずだから。
少しだけ、力を込めて手を握る。雫は握り返しながら、笑いかけてきた。彼の微笑みは、夜に塗り替えられつつある空に輝く一番星よりも、ずっと綺麗だった。
完
かわいいきみへ 星野 ラベンダー @starlitlavender
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