愛の挨拶

深山心春

第1話

 音楽室からピアノの音が聴こえてくる。その音色だけで弾いているのが、藤原君だとわかる。

 豊かな音色、まるで色がついているような鮮やかな音色。初めて聴いて一瞬で恋に落ちた音色。

 私はピアノは弾けないけれど、聴くのは好きだった。ピアノのリサイタルにも良く出かける。だからか、耳だけは肥えているので、藤原君の音色を初めて聴いた時には驚いた。こんな豊かな音色は聴いたことがない。

 それもそのはずで、彼はピアノコンクールの常連だと音楽の先生に尋ねて知った。しかも飛び級での金賞受賞。

 精悍な顔立ちをした彼に憧れる女の子も多いけれど、彼の恋人はピアノだと密かに囁かれている。

 藤原君は毎週、水曜日に朝早く登校して音楽室の鍵を借り、グランドピアノを弾きに来る。これも先生から聞いた。

 その日から私は水曜日には低血圧にも関わらず、死ぬ思いで早起きをして学校に登校するようになった。いつもより丹念に櫛で髪を梳かして、可愛いヘアピンで前髪を留めて。今日は椿の花のヘアピンにした。

 そして音楽室の前でこっそりと息をひそめて、藤原君のピアノを聴くのが私のささやかな楽しみだった。

 今日の藤原君の気分はショパンらしい。子犬のワルツを恐ろしいほどの技術と、鮮やかな音色で弾いていく。1音のミスもなく、目を閉じれば子犬がくるくるとじゃれて遊んでいる姿が思い浮かぶ。

 その時、いきなり曲が変わる。愛の挨拶だ。藤原君が弾くには珍しい選曲に思えたけれど、私も大好きな曲だったから、その美しい音色を堪能した。愛の挨拶か…と私は思う。愛どころか、私は藤原君と挨拶もしたことがない。いつもこうしてピアノをこっそり聴いているだけ。あれ、これってもしかして盗み聞きなのかな、と慌てた時、音楽室のドアが勢いよく開いた。

「おはよう…」

「お、おはよう…ございます…?」

 初めて聞く藤原君の声は少し眠そうで、不機嫌そうにも聞こえた。やっぱり気分を害してしまったのかと私は慌てる。

「ごめんなさい…! 私…」

「なんで謝るの?」

 藤原君は意外にも不思議そうに首を傾げた。そして、ああ、と何かに思い至った顔をした。

「ごめん。俺、朝弱くて。ちょっとキツイだけ」

「え?私も朝弱いの…」

「一緒だな」

 ぷはっと藤原君は吹き出した。

「朝弱い小田原さんは、どうしてこんなに早く学校に来ているの?」

 藤原君が私の名前を知っていたことに驚いて、私はぽかんと口を開けた。クラスも違うし話たことさえないのに。

 藤原君は少し気まずそうに口元に手を当てた。そして質問を変える。

「ピアノが好きなの?」

「うん。藤原君のピアノが好き」

 私は混乱のあまり素直に答えていた。

「偶然聴いて、あまりに上手で驚いて…ピアノが、聴きたくて頑張って早起きして聴きに来ていました…ごめんなさい!」

 一息にそう言って藤原君を見ると、変わらず口元を押さえたまま黙っている。

 やっぱり気分を害しただろうか…そう思って首を竦めると、藤原君はおいでというように手招きをした。

「ドア越しに聴いていても音がこもるでしょう。良かったら聴いてってよ」

 思わぬ申し出にぽかんとしている私に、藤原君はピアノから少し離れた席を指し示した。私は音楽室の中に恐る恐る入り、真ん中より少し後ろの席に座った。

 そして先ほどの続きの愛の挨拶を弾き始めた。軽快で美しいピアノの旋律。ドア越しではなく初めて聴く、藤原君の近くで聴く音色は私を空想の世界へと導いた。愛のとはいわない。私も藤原君と挨拶をできるようになりたい。本当はずっとそう思っていた自分に気づく。

 美しい余韻を残してピアノが終わる。私は夢中で拍手をした。凄い、本当に凄い。そして、真剣な表情で弾く藤原君がとても素敵だと思った。

 藤原君はピアノの蓋をそっと閉めると私の席の前に歩いてきてまた口元に手をやる。藤原君は背が高い。私は見上げるようになっているのに気づいて、彼は私の前の席に座った。

「知ってたんだ…その…小田原さんが聴いてること」

「え…」

 私は驚いて声を上げる。 

「俺、朝弱くて、でも、グランドで弾きたくてなんとか、早起きしてたんだけど、もう、本当にキツくて…」

「う、うん…」

 わかるよ、と心のなかで頷きながら私は彼の言葉の続きを待った。

「でも、毎週、聴きに来てくれている子がいるのに気づいて、自惚れかもしれないけど、行かなかったらがっかりするかもしれないって、めっちゃ頑張って早起きして…」

 藤原君の、耳が赤い。私に至っては多分、顔中真っ赤だ。藤原君はなにをどう続けたらいいのかと逡巡しているようで視線を彷徨わせたあと、私の方を見た。

「そのヘアピン、似合ってる。良かったら、またヘアピン見せに来てくれる…?」

「え…? え? う、うん!」

 私は勢いだけで頷いていた。嬉しい。決して気づかれることはないと思っていたのに。

「さっきの曲知ってる?」

「うん! 愛の挨拶でしょう? 私、大好き」

 そう言うと、藤原くんはぱちぱちと瞬きをして、真っ赤になった。

 つられて私もまた真っ赤になる。

「……また、聴きに来てくれる?」

 藤原君は、また口を押さえて少し低い声で言う。

「寝坊しないよう頑張るから。小田原さんが、聴きに来てくれると嬉しい」

「は、はい…ぜひ…。私も寝坊しないよう頑張ります…」

 ドキドキと胸が早鐘を打つ。なぜ、藤原君は私の名前を知っていたんだろう。聴いていたのもばれていたのだろう。いろんな疑問は渦巻くけれど、嬉しさのほうが勝った。

「取りあえず、挨拶からはじめないかな。音楽室で」

「うん…!」

 ふたりで改めて向き直って頭を下げる

「おはよう、小田原さん」

「お、おはよう…藤原君」

 そして、なんだかおかしくなってふたりで笑った。胸の奥が温かくて、くすぐったい。

(藤原くんのピアノが好き)

 けれどそれよりも彼が好きになるかもしれないと、私は彼の顔をみて思う。

 その予感はきっと的中するだろう。だってもう、私の胸の中に、蕾だった小さな花が開き始めたのを感じているから。

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