君を乗せた電車が発車する

白河 隼

【第1話完結】いつか、またどこかで

 彼と最後に会ったのは、駅の改札前だった。


 冬の終わりの風が吹き抜けるホームで、私は彼の顔をじっと見つめた。柔らかな目元も、少し癖のある髪も、何もかもが愛しかった。けれど、この手のひらに彼の温もりを残すことはもうできない。


 「じゃあ、これで」


 彼の声は、まるで春の陽だまりのように優しかった。


 私は笑おうとして、うまくできなかった。唇が震える。頬に冷たい風が当たって、それが涙を乾かしていく。


 「……元気でね」


 やっと絞り出した言葉は、あまりにも頼りなく、風にさらわれそうだった。彼は少しだけ口元を緩めて、「そっちも」と呟いた。


 何も変わらない、いつものようなやり取り。

 でも、今日はこれが最後。


 心のどこかで、こうなることはわかっていた。大人になればなるほど、愛だけではどうにもならないことが増えていく。彼と過ごした日々は何よりも大切だったけれど、それでも、私たちは違う道を選ぶことになった。


 「またね」


 彼はそう言って、私の頭を軽く撫でた。


 優しくて、温かくて、それが最後のぬくもり。


 彼が歩き出す。私はその背中を目で追うことしかできない。もう何度も見送ってきたはずなのに、今日は違った。今日だけは、どうしても足が動かない。


 彼が改札を通る。


 向こう側にいる彼が、振り返る。


 私は笑顔を作る。


 彼も笑う。


 そして、電車がやってきた。


 ドアが開き、彼は乗り込む。


 彼の姿がゆっくりと遠ざかる。


 「大好きだったよ」


 最後にそう呟いて、私は空を見上げた。


 青く澄んだ空が広がっていた。


 もうすぐ春が来る。


 彼のいない春が。


 ◇


 それから数日、彼のいない部屋の空気に慣れることができなかった。コーヒーカップは二つ、歯ブラシも二本。どちらも使われることのないまま、そこにあった。


 ふと携帯を見ると、最後のメッセージが残っている。


 『またね』


 短い言葉。でも、そこに詰まっていたのは、これまでのすべてだった。


 思い出すのは、出会った頃のこと。初めてふたりで行った海、笑い合った夜、喧嘩して涙した日々。


 それらすべてが、今の私を優しく包むように浮かんでは消えていく。


 「……バカ」


 言葉にしてみても、虚しく響く。


 けれど、後悔はなかった。


 彼と過ごした時間は、かけがえのないものだったから。


 いつか、またどこかで。


 春の風がそっとカーテンを揺らした。

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君を乗せた電車が発車する 白河 隼 @shirakawa_shun_2016

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