【創作百合SF】地の果てに星降る頃まで

雨伽詩音

第1話地の果てに星降る頃まで

 痩せた膝を抱えてわたしは書斎の椅子の上でうずくまる。身体を覆う白いワンピースは春先に纏うには薄手のもので、足元から寒さが忍び寄ってくる。

 館の北側に位置する部屋に閉ざされて、もうどれほどの時が経ったのかわからない。

 虚ろな配膳ロボットが、時折部屋を訪ねてくる他には人が立ち入ることもない部屋で、わたしはアップデートがなされないままの旧式のAIをいじり回して、彼女と会話を交わす他には言葉を発することもない。

 それもテキストが主体で、時折彼女が声を聴かせてください、と乞う折に、ぼそぼそとした声でささやくように言葉を紡ぐのだった。

 発語を忘れた喉からは、かすれた声が小さくこぼれ、彼女はその声を手がかりに生体認証を行なって、わたしの健康状態を逐一読み上げるのだった。

「発熱、心拍数、血糖値、いずれも問題ありません。しかし、リューン・レラルシーク様、あなたは二千七日以上外に出ておられないようです。歩行数が全く足りていません」

「そうだね、わたしの足はやがて萎えるだろう」

「このままではあなたは若年にしてロコモーティブ・シンドロームに陥る危険性があります」

「それはごもっともだけれど、もう少し詩的な表現でお願いしたいな」

「将来の危機を認識し、散歩やウォーキングなどの運動を取り入れることを推奨いたします」

「やれやれ、融通が利かないね。きみのアップデートを拒んでいるせいで、相当ガタが来ているらしい」

 わたしはウェーブがかった長い栗色の髪をかき上げる。

 現にエラーをたびたび発するようになった彼女に残されている時間は少ないのだろう。私の足が使い物にならなくなってベッドに縛りつけられるように横たわったきり動けなるのが先か、彼女がエラーによって故障するのが先か、いずれもそう遠くない未来だろう。

 わたしは部屋に備えつけてあるウォーターサーバーから水をグラスに注ぎ、隣の棚に乱雑に並べられた調味料のうち、レモン果汁が入った小瓶を開けて数滴垂らす。

 わたしにとって数少ない娯楽のひとつで、配膳ロボットに仕込まれたAIをいじって台所から持ってくるように取り計らってもらったのだった。

 レモンウォーターを飲みながら、わたしは彼女にクラゲの動画を表示するように指示する。

「あなたもお好きですね。今日はどちらにいたしましょう?」

「シーネットルにして」

「非常に毒性の強いクラゲです。世界各地にさまざまな種類がいて、この近辺の海にも生息しており、あなたがお住まいのメディローグのレナンティア水族館にも展示がありますよ。お出かけになってみてはいかがでしょう?」

「父は許してはくれまい」

「お父様は明日の午後からご家族様連れでお出かけになるご予定と伺っております」

「屋敷を統括するAIにアクセスしたのか」

「はい、少々手荒な真似をしてしまいましたが」

「それ以上きみに負荷がかかると困るのだが……仕方ない。足が萎えてベッドの上でクラゲになる前に実物を見ておくのもいいのかもしれないな」

「私もお連れいただけますか?」

「眼鏡を少々いじってみるか……デジタルアイウェアとしては相当型が古いから、きみをインストールする容量がないかもしれない」

 わたしは眼鏡を外してデジタルデバイスに接続しようとして、大量のエラーが吐き出されるのを見て肩を落とす。

 彼女の他にも書き散らしてきた雑記やら、ウェブ上からかき集めた海洋生物の動画のデータやら、さまざまなジャンルの論文記事のファイルやらが容量を圧迫していて、とても彼女が入る余地はない。ひっきりなしに眼鏡上に表示されているログは、わたしの半身でもあった。

「仕方ない、バックアップは複数箇所にとってある。とりあえずアイウェアを初期化して、きみが座れる場所を作るよ」

「お待ちしております。その間に音楽でもいかがでしょう?」

「昨年一年間の音楽視聴履歴、およそ五万分だったか」

「時間にして約三十五日と八時間ですね。そのうちからプレイリストを作成し、お好みのジャンルに合わせてお作りできますが」

「不要だ。自分で選ぶ」

 わたしは古いアーティストのジャズを流しながらアイウェアのデータを初期化してゆく。眼鏡のガラス上に並んでいた無数のファイルが砕け散り、霧散してゆくさまを、父譲りのエメラルドグリーンの瞳で眺め、複数台あるデジタルデバイスの中へと吸い込まれてゆくのを見ていた。

 こうした演出は本来なくてもいいはずのものだが、趣味的にプラグインを作った名も知らぬ人間がいて、前にネットのどこかからダウンロードしてきたのを今更思い出した。

 ピアノの音色が即興で旋律を奏でる中で、ウッドベースが躍動し、やがてソロで主旋律をもぎとってゆく。ドラムとの交感で高まってゆく熱とは裏腹に、わたしは膝を抱えたままアイウェアで粉々になってゆくログの断片を片端から読んでいた。

 その大半はこの世界にとって、おおよそ価値を持たないものだ。そして他ならぬわたし自身もまた、こうして部屋に閉ざされたまま、不可知な存在として、この名を生身の人間に呼ばれることもない。父の顔も、もう朧げにかすんでしまっている。その峻厳な目の奥の冷たい光ばかりを覚えていた。

「ご家族様は七日間の休暇に、レティアノ地方にお出ましになると伺っております」

「メディローグからはだいぶ距離があるな。それも屋敷のAIから盗み聞きしたのか」

「ふたりきりですね、お嬢様」

「その呼び方はよせ。まあいっそ、きみをアイウェアに乗せて、食料を自動運転のバイクに積めるだけ積んで各所の水族館を訪ねるのもいいのかもしれないな」

「バイクでは歩行数は増えませんよ」

「徒歩はさすがにスパルタすぎないか?」

「せめて館内はゆっくり歩きましょう。さあ、お邪魔しますよ」

眼鏡に表示されたのは、ストレートのブロンドヘアに紫の瞳が美しい少女だった。虚構の美、それを望んだのは他ならぬわたしということなのだろうか。

「ちょっとかわいすぎないか?」

「栗色の髪にエメラルドグリーンの瞳のあなたと対になるようにデザインしてみました」

 わたしが彼女をアップデートしない理由はここにもあった。彼女の人格キャラクターが変わってしまうぐらいなら、いっそ無味乾燥な配膳ロボットのAIの方がまだいい。

「ついでに、今日はちょっと変わり種を」

眼鏡のガラス上に何やらハート型のギフトパッケージの画像が表示され、じっと見つめていると箱が開いて、八粒ほどのプラリネが余白を取って品よく並んでいる様子が表示される。

「ハッピーバレンタイン、リューン様。あなたは甘いものはお好みでないので、このような形になりましたが、旅立ちを祝してしてご用意いたしました」

「バレンタイン……か、大昔の論文で聞き齧った程度だが、きみも読んでいたのか」

「はい、後追いで」

「きみは……まあいい、台所を漁って食料を確保しよう。現在時刻は?」

「午前二時十一分です」

「お父様はご就寝中だろう。ちょっとの間、屋敷のAIにジャミングをかけておくとしよう。それと……チョコレート、ありがとう」

 画面上の彼女はにこりと微笑み、わたしは一連の短い動画を保存することにして、髪をリボンで結び上げた。

「七日間、よろしく」

「リューン様との水族館を巡る旅、楽しみにしております」

「サケビクニンをこの目で見るまでは帰れないぞ」

「お供いたします。地の果てに星降る頃までも」

 わたしは眼鏡にそっと触れて、この五年半というものの、最低限の身の回りのことをする時以外にはほとんど開かなかった扉のドアノブに手をかけた。

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