「深夜レストランの復讐診断」 ~その後悔、美食で癒してあげます~

ソコニ

第1話




## 第1話:招待


薄暗い路地裏に佇む一軒の隠れ家レストラン。看板はなく、ただ古びた木製のドアに「Last Dinner」という金文字が刻まれているだけ。私はその前で、一枚の招待状を握りしめていた。


「人生で最も後悔していることを話せば、特別な料理を振る舞う」


都市伝説のような噂は、SNSでひっそりと囁かれていた。投稿は数時間で消え、跡形もなく姿を消す。誰が書いたのかも分からない。ただ、「後悔が消える」という言葉だけが、心に残り続けた。


扉に手をかけると、木の質感が冷たい。深く息を吸い込んで、中へと足を踏み入れる。


柔らかな琥珀色の明かりが、私を包み込んだ。シャンデリアの灯りは、まるで蝋燭の炎のように揺らめいている。壁には古い鏡が等間隔で並び、その度に自分の姿が映り込む。白いブラウスに黒のスカート。普段の仕事着のまま来てしまった。


「お待ちしておりました、中島様」


黒服のソムリエらしき男性が、深々と頭を下げた。声は低く、しかし耳に心地よく響く。私は招待状を差し出そうとしたが、男性は軽く手を振った。


「本日のお客様は中島様おひとり。こちらへどうぞ」


案内された個室は、まるで別世界のよう。深い赤のベルベットのカーテンに囲まれ、テーブルには真っ白なリネンが敷かれている。椅子は一脚だけ。


その白さが、病院を思い出させた。


「シェフがまもなくお伺いいたします」


ソムリエが去った後、私は改めて周囲を見渡した。鏡に映る自分の表情が、少しずつ歪んでいくように見えた。


カチャリ、という小さな音。


ドアが開き、白衣のシェフが静かに入室してきた。


「本日は特別なディナーにようこそ」シェフの声は、予想以上に優しかった。切れ長の目が、私をじっと見つめている。「あなたの『後悔』に相応しい一皿を、お作りいたします」


私は軽く喉が渇くのを感じた。招待状に書かれていた通りだ。人生で最も後悔していることを話せば、特別な料理を振る舞う——。


「始める前に、一つだけお約束を」シェフは真摯な表情で続けた。手元の包丁が、手術用メスのように鋭く光る。


「この料理には『戻れない』効果があります。あなたの後悔は確かに消えます。しかし、二度と元には戻れない。それでもよろしいですか?」


私は小さく頷いた。


もう決めていた。あの日のことを、永遠に消し去りたいのだから。看護師として過ごした日々の、あの重い過ちを。


「では、お聞かせください」シェフの声が、静かに響く。「あなたの『最も後悔していること』を」


深く息を吸い込んで、私は話し始めた。10年前、私が新人看護師だった頃の出来事を——。


(第1話 完)










## 第2話:罪の味わい


「夜勤でした」


私の声が、静かな個室に響く。深紅のカーテンに縁取られた空間に、シャンデリアの灯りが柔らかな影を落としている。テーブルクロスの真っ白な布地が、まるで手術室のそれのように、どこか無機質に輝いていた。


シェフは作業を止め、真剣な眼差しを向けてきた。真っ白な調理台の上では、銀色の包丁が月明かりのように輝いている。その刃は外科医のメスのように鋭く、完璧に手入れされているのが分かった。


「もう10年も前のことです。私は新人看護師で、その日が初めての夜勤専従でした。4月に入職して、まだ3ヶ月目。先輩たちの足を引っ張らないよう、必死で働いていました」







目を閉じると、あの夜の病院が鮮明によみがえる。消毒液の匂い。院内放送の反響音。深夜の蛍光灯の下で、白衣が青白く浮かび上がる。緊急時に鳴り響くコードブルーのアラーム。白い壁と長い廊下。すべてが記憶に焼き付いている。時計の針は午前2時を指していた。


「救急外来は予想以上に忙しく、次から次へと患者さんが運ばれてきました。インフルエンザの高熱の方、アナフィラキシーショックの方、心筋梗塞の疑いの方...。先輩たちは慣れた手つきで対応していましたが、私はカルテの記入だけで精一杯でした。手が震えて、字が上手く書けないこともありました」


「西口さん、4番の患者さんのバイタル測ってきて」先輩看護師の的確な指示が飛ぶ。「はい!」返事をする声が裏返る。点滴の準備、採血の手伝い、血圧測定。業務に追われる中、救急車のサイレンが鳴り響いた。


「その中に、交通事故で運ばれてきた女性がいたんです。確か34歳。会社帰りだったようで、スーツ姿でした。黒のジャケットに、紺のスカート。首にはパールのネックレス。きっと大切な会議か何かがあった日だったのでしょう。横断歩道で信号待ちをしていたところを、酔った運転手の車にはねられたと。でも、一見して大きな怪我は見当たりませんでした」


話しながら、私はシェフの動きを目で追っていた。彼は静かにワインボトルを取り出した。ラベルには文字がない。深い紫色のガラスが、シャンデリアの光を柔らかく反射している。その手つきは外科医のように正確で、一切の無駄がない。


「血圧118/76、脈拍72、体温36.8度、呼吸数16回。すべての数値が正常範囲内。意識レベルもクリアで、会話もしっかりできていました。『大丈夫です、痛むところはありません』と笑顔で答えてくれて...。でも、その笑顔が少し引きつっていたんです」


私は深く息を吸い込んだ。喉が渇く。シェフはゆっくりとグラスにワインを注ぎ始めた。液体が流れる音が、点滴の滴下音のように響く。


「何かが違った。経験も知識も乏しい新人の私には、それが何なのか説明できませんでした。ただ、直感として。皮膚の色が少し蒼かった。額には冷や汗が浮かんでいて、手の平は冷たかった。笑顔の奥に、何か深い痛みを隠しているような...」


「その違和感を、なぜ報告しなかったのですか?」シェフの声は穏やかだが、その問いは手術用メスのように鋭く心を刺す。


「忙しそうな先輩たちに、根拠のない不安を話すのが怖かったんです。新人の私が余計なことを言って、迷惑をかけたくなかった。『まだ慣れていないから、過敏になっているだけかもしれない』そう自分に言い聞かせて...。彼女は病棟に移され、私の担当は終わりました。次々と運ばれてくる患者さんの対応に追われ、あの違和感は記憶の奥に押し込められていきました」


調理台では、シェフの手が新鮮なハーブを刻んでいく。タイムとローズマリーの香りが、部屋に広がる。包丁が動くたびに、ハーブの深い香りが解き放たれる。その香りは病院の消毒液の匂いと重なり、私の記憶を更に鮮明にしていく。


「夜が明けて申し送りを済ませた後、仮眠室で休もうとした時でした。突然、あのコードブルーが鳴り響いたんです。走って病室に向かうと、そこには...彼女が。心肺停止の状態で発見されたと。蘇生処置が行われましたが...」


包丁を置く音が、静かに響く。その音は、あの日の心電図モニターの警告音と重なった。









「検死の結果、内出血が原因でした」私の声が震える。「交通事故の衝撃で、肝臓と脾臓が損傷していたんです。『内臓破裂による大量出血』と記録されていました。徐々に進行する出血を、誰も見つけることができなかった。もし私があの時、違和感を報告していれば、CTやMRIの検査が行われていたかもしれない。そうすれば出血も見つかって...命は...助かったはずなんです」


涙が頬を伝う。何度も何度も思い返した。あの時の自分の優柔不断さ、未熟さが、一人の命を奪ってしまった。それから私は看護師を辞めた。人の命を預かる資格なんて、私にはないと思った。


「毎晩夢に見るんです。彼女の最期の表情を。誰にも気付かれずに、じわじわと命が失われていく恐怖を。私があの時、もう少し勇気があれば...」


シェフは黙って聞いていた。その目には非難の色はなく, ただ深い共感が宿っているように見えた。


「その後、どうされたのですか?」


「看護師を辞めました。今は医療事務として働いています。患者さんと直接関わることはありません。でも、毎日カルテを見るたびに、あの夜のことを思い出すんです」


シェフはカウンターから戻ってきた。手には銀のトレイ。その上に、一脚のワイングラスが置かれていた。深い紫色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。底には、細かく刻まれたハーブが沈んでいる。


「これは『懺悔のワイン』です」シェフは厳かな声で告げる。「特別な製法で作られた、唯一無二の一杯。ブドウの一粒一粒に、あなたの後悔が染み込んでいます。タイムには記憶を呼び覚ます力が、ローズマリーには過去を癒す力が込められている」


ワインの表面が、まるで血液のように深く輝いていた。グラスを傾けると、壁に掛かった鏡に無数の私の姿が映り込む。すべての私が、おびえたような表情をしていた。


「最初の一口で、あなたは彼女の最期の痛みを知ることになります。すべての感覚、すべての苦しみを。それは、あなたの想像を遥かに超えるものかもしれない」シェフの声が、どこか儀式めいている。


「二口目で、あの日にあった別の選択肢が見えるでしょう。実現しなかった可能性の数々が。そして最後の一口で——あなたは解放される。ただし」シェフは一瞬言葉を切った。


「ただし?」


「この味を、永遠に忘れることはできません。毎日、毎晩、この味が舌の上によみがえる。それが、あなたの背負う新しい十字架となる。罪の記憶は消えますが、贖罪の味は残り続ける。それでもよろしいですか?」


私はグラスを持ち上げた。グラスは思ったより重く、手が少し震える。でも迷いはなかった。


「はい。これが、私の償いです」


目を閉じ、最初の一口を含む。


突然の痛みが全身を走る。内臓が引き裂かれるような激痛。息ができない。冷や汗が噴き出す。これが、彼女が味わった痛みなのか。涙が溢れる。誰にも気付かれずに、こんな苦しみを...。


二口目。

映画のフィルムのように、あの夜のシーンが頭の中で再生される。別の選択肢が次々と浮かぶ。


「すみません、先輩。ちょっと気になることがあるんです」

「念のためCTを撮ってみましょうか」

「もう少し経過観察させてください」


選べたはずの、無数の可能性。でも、それはもう戻らない過去。


深く息を吸い、覚悟を決めて最後の一口を——。


「あら?」


不思議な声が聞こえた。目を開けると、テーブルの向こうに、一人の女性が座っていた。スーツ姿の、見覚えのある顔。交通事故で運ばれてきた、あの患者さん。首元には、あの日と同じパールのネックレス。


彼女は、10年前と変わらない笑顔で私を見つめていた。その表情には、恨みや怒りは微塵もない。


「お久しぶりですね、看護師さん。ずっとお会いしたかったんです」


その声は、あの夜の病室で聞いた声そのままだった。






私は言葉を失った。喉から声が出ない。目の前に座っている彼女は、確かにあの時の患者さんなのに、どこか違う。血の気のない蒼白い肌。でも、その笑顔は10年前と変わらず温かい。


「びっくりなさったでしょう?」彼女は優しく微笑んだ。「私も最初は驚きましたよ。このレストランに招かれた時」


シェフは静かに部屋を出ていった。扉が閉まる音が、どこか決定的な響きを持っていた。


「あの日のこと、覚えていらっしゃいますか?」彼女は続けた。「私、気付いていたんです。看護師さんが心配そうに見ていてくれたこと」


私の手が震える。涙が止まらない。


「ごめんなさい。本当に、申し訳ありません。私が、私がもっと...」


「いいえ」彼女は首を横に振った。「看護師さんは何も悪くありません。むしろ、私の方こそ謝らないといけないんです」


「え?」


「痛みを隠していたのは私なんです。『大丈夫』って言ったのは私。『痛くない』って微笑んだのも私」彼女の声が少し震えた。「その日、私には大切なプレゼンがあって。病院に長く留まりたくなかった。だから...」


彼女の言葉に、私は息を呑んだ。


「でも、看護師さんだけは気付いてくれた。私の嘘に。痛みに。なのに、私はその優しさを裏切ってしまった」


テーブルの上で、彼女の手が私の方に伸びる。触れることはできないのに、不思議な温もりを感じた。


「だから、ずっとお礼を言いたかったんです。気付いてくれて、ありがとう」


その瞬間、シャンデリアの灯りが瞬いた。彼女の姿が少しずつ透明になっていく。


「もう、行かないといけません。でも、これだけは覚えていてください。あなたは、とても優しい看護師さんでした」


最後の言葉が、部屋に残響する。気がつくと、そこにはもう彼女の姿はなかった。ただ、かすかにパールのような光が、空中に浮かんでは消えていった。


シェフが静かに戻ってきた。


「これが、あなたの後悔への答えです」彼は静かに告げた。「そして、これがあなたの新しい始まり」


テーブルの上には、新しいワイングラスが置かれていた。先ほどの深い紫とは違う、淡い薔薇色の液体。


「これは『再生のワイン』。あなたの新しい人生のための一杯です」


私は震える手でグラスを取る。香りを嗅ぐと、病院の消毒液の匂いではなく、優しい花の香りが漂ってきた。


明日から、また看護師として働こう。

あの日の私は、確かに未熟だった。でも、患者さんの痛みに気付ける感性は持っていた。その感性を、もう一度信じてみよう。


グラスを傾けると、淡い薔薇色の液体が、夜明けの光のように輝いていた。


(第2話 完)












## 第3話:隠された真実




朝陽が差し込むレストランの窓辺で、私は「再生のワイン」の最後の一滴を飲み干していた。薔薇色の液体が喉を通り過ぎる度に、不思議な温かさが体に広がっていく。


「もう一度、看護師として生きていく」


その決意を口にした瞬間、シェフの表情が微かに変化した。


「その決意、本当に貫けますか?」


突然の問いに、私は戸惑う。シェフは調理台に戻りながら、静かに続けた。


「中島さん。あなたは本当の『後悔』を、まだ語っていません」


私の背筋が凍る。


「本当の...後悔?」


「はい」シェフは包丁を持ち上げた。刃が朝日に輝く。「あの夜の出来事、すべてを話してください」


私は思わず立ち上がった。膝が震える。


「すべて、話しましたよ。私は新人看護師で、患者さんの異変に気付かなくて...」


「違います」シェフの声が鋭く響く。「あなたは気付いていた。そして、行動も起こした。でも——」


シェフの言葉に、封印していた記憶が甦る。


そう、あの夜。私は確かに...






「思い出してください」シェフの声が、まるで催眠術師のように響く。「あの夜、あなたは確かに行動を起こした。先輩に報告しようとした。でも——」


記憶が、凍った氷が溶けるように蘇っていく。


あの夜。私は患者の異変に気付いた後、確かに行動を起こしていた。ナースステーションに向かい、当直の先輩を探した。でも...


「上川先輩...」私の声が震える。「上川先輩が、私の報告を...」


「そう」シェフは包丁を置き、真っ直ぐに私を見つめた。「上川美咲。彼女があなたの報告を、どう扱ったのか」


その名前を聞いた瞬間、すべての記憶が鮮明に蘇った。


深夜2時45分。私は患者の異変を感じ取り、ナースステーションに駆け込んだ。


「上川先輩、交通事故の34歳女性の件で...」


「西口さん、今忙しいの」上川先輩は、パソコンに向かったまま振り返りもしなかった。「彼女のバイタルは安定してるでしょ?」


「はい、でも...何か様子が...」


「大丈夫よ。私が診てきたから」


その時、上川先輩の手元に見覚えのあるものが見えた。パールのネックレス。


「それ...」


「ああ、これ?患者さんが預けたの。高価そうだから、ナースステーションで預かっておくって」


でも、私は確かに見た。上川先輩が病室から出てきた時、白衣のポケットに何かを滑り込ませる動作を。


「先輩、本当に患者さんから預かったんですか?」


その瞬間、上川先輩の表情が凍りついた。


「西口さん」その声には、今まで聞いたことのない冷たさがあった。「あなた、私を疑ってるの?」


「いえ、そういうわけでは...」


「新人の分際で、先輩を疑うような発言をするなんて」上川先輩は立ち上がった。「これ以上変なこと言うなら、上に報告するわよ。研修医の時に起こした事故のこと、上に話さなきゃいけないかもね」


私は息を呑んだ。研修医の時の事故。確かに私はミスを犯していた。それを上川先輩だけが知っていた。


「もう、戻りなさい」


私は、そこで黙ってしまった。患者の異変も、ネックレスのことも、何も言えなくなった。


「気付いていましたか?」シェフの声が現実に引き戻す。「上川美咲は、患者から盗んだネックレスの証拠を隠すため、意図的にCT検査を避けた。そして、あなたの報告も握りつぶした」


私は崩れ落ちそうになる体を支えながら、椅子に座り直した。


「私の本当の後悔は...」声が震える。「患者さんの異変に気付かなかったことじゃない。気付いていたのに、上川先輩の脅しに屈して、黙ってしまったこと。私は...私は...」


シェフは静かに調理台に向かい、新しい包丁を取り出した。その刃は、今までのものとは違う漆黒の色をしていた。


「そして、あの患者さんは亡くなった。ネックレスは証拠品として押収されることもなく、上川美咲の手元に残った。彼女は今でも、時々そのネックレスをしているそうですね」


「え?」私は息を呑む。「先輩のことを、なぜ...」


シェフは黒い包丁を掲げ、ゆっくりと振り返った。その瞬間、私は彼の目に見覚えのある光を見た。


「なぜって...」シェフの声が変わる。「私が、あの時の患者の夫だからです」








シェフの告白に、部屋の空気が凍りついた。


「あの日から、私は妻の死の真相を追い続けました」シェフは黒い包丁を、まるで大切な宝物のように握っている。「病院の記録、防犯カメラの映像、スタッフの証言...すべてを調べ上げた。そして、たどり着いたんです」


シェフは調理台の引き出しから、一枚の写真を取り出した。それは上川美咲の最新の写真だった。彼女は確かにパールのネックレスをしていた。妻から盗んだネックレスを、今でも身につけているなんて。


「西口さん」シェフの声が急に優しくなる。「あなたは、真実を知る最後の証人です。そして、罪の意識に苛まれ続けた、唯一の人間」


私は震える手で、テーブルの端を掴んだ。


「このレストラン...まさか」


「はい。ここは、復讐のために作られた場所です」シェフは静かに微笑んだ。「でも、善良な人を罰するための場所ではない。むしろ、罪から解放するための場所」


黒い包丁が、朝日に漆黒の影を落とす。


「明日の夜、上川美咲がここに来ます。彼女にも、特別な招待状が届いているんです」


私の背筋が凍る。先ほど飲んだ再生のワインの温かさが、一気に冷めていく。


「彼女に振る舞うのは『審判のディナー』」シェフの声が低く響く。「そして、その場に立ち会っていただきたい」


「私に...何を望むんですか?」


「証言を」シェフは真剣な眼差しで続けた。「あなたの語る真実が、彼女への最後の審判となる。そして——」


その時、レストランの入り口のドアが開く音が聞こえた。朝一番の配達だろうか。シェフは一瞬そちらを見やり、また私に向き直った。


「選択はあなたの自由です。明日の夜9時、ここで待っています。来るか来ないか、それはあなたが決めることです」


私は立ち上がった。足が震える。


「最後に一つ」シェフが私を呼び止めた。「妻は、あなたのことを『優しい看護師さん』と呼んでいました。霊安室で、最期まで」


その言葉を最後に、シェフは奥へと消えていった。後には、闇を切り裂くような黒い包丁の残像だけが、私の網膜に焼き付いていた。


私は朝もやの立ち込めるレストランを後にした。かつての上司、上川美咲。彼女は今、大学病院の看護師長として、順調な生活を送っているという。パールのネックレスを身につけ、誰にも疑われることなく。


ポケットの中の招待状が、まるで氷のように冷たかった。明日の夜。私は——。









翌日の夜8時45分。

私は再びLast Dinnerの前に立っていた。扉に刻まれた金文字が、夜の闇に浮かび上がる。


来るべきか悩んだ。でも、10年前のあの日から逃げ続けてきた私に、もう逃げ場はない。


扉を開けると、シェフが静かに待っていた。


「来てくださいましたね」


カウンターには見覚えのある黒い包丁。その隣には新しい調理器具が並んでいる。すべてが漆黒に輝いていた。


「上川美咲はもうすぐ到着します」シェフは告げた。「準備はすべて整っています」


「彼女に...何をするつもりですか?」


「それは」シェフがゆっくりと振り返る。「彼女次第です」


時計の針が9時を指す直前、ドアが開いた。


「あら、西口さん?」


懐かしい声。上川美咲は、10年前と変わらない優雅さで入ってきた。首には、あのパールのネックレス。


「こんな所で会うなんて」彼女は笑顔を浮かべる。「看護師を辞めてからですもの。まさか...」


その時、彼女の表情が凍りついた。シェフの姿を認識したのだ。


「あなたは...」


「よく覚えていらっしゃいましたね」シェフの声が低く響く。「10年前、あなたが殺した女性の夫です」


上川の顔から血の気が引く。パールのネックレスが、かすかに揺れた。


「何を...言っているのか」


「分かっているんですよ」シェフは黒い包丁を手に取る。「あなたが妻からネックレスを盗んだこと。証拠隠滅のためにCT検査を避けたこと。そして、西口さんの報告を握りつぶしたこと」


「違います!」上川が叫ぶ。「それは...」


「本当に違いますか?」私は静かに声を上げた。「先輩、あの夜のこと、私は全部覚えています。先輩が私を脅して黙らせたこと。研修医時代の事故を握りつぶす代わりに...」


上川の表情が歪む。「まさか、あんたまで...」


「さあ、特別なディナーの時間です」シェフが告げる。「『審判のディナー』をお召し上がりください」


黒い皿が運ばれてきた。その上には、真っ赤な肉料理。ソースが血のように滴り落ちている。


「これを食べれば、すべての罪から解放される」シェフは続けた。「ただし、代償として、あなたの中の『人間性』は永遠に失われる。それでもよろしいですか?」


上川は震える手で、フォークを取る。「こんなの...」


その時、私は決意した。


「待ってください」


二人が振り返る。


「先輩、まだ遅くありません。すべてを話しませんか?警察に、病院に、そして...」私はシェフの方を見た。「御主人にも」


沈黙が流れる。


シェフはゆっくりと頷いた。「そうですね。復讐よりも大切なものが、きっとある」


上川の手からフォークが落ちる。彼女の目から、涙が溢れ出した。


首に掛けられたパールのネックレスが、静かに光を放っている。まるで、本当の持ち主が微笑んでいるかのように。


夜風が流れ込み、黒いテーブルクロスがそよぐ。

新しい物語は、ここから始まる。


(第3話 完)








## 第4話:選択の夜




翌朝、私は警察署の前に立っていた。上川美咲との対面から12時間。すべてを告白するという約束をした後、彼女は一旦帰宅することになった。


「必ず来ます」


そう言った彼女の声が、どこか虚ろだった。シェフは黙ってそれを見送った。


「本当に来るんでしょうか」


私の問いかけに、シェフは静かに答えた。「来ませんね」


その言葉通り、上川美咲は姿を消した。携帯電話は不通。自宅には不在。病院にも出勤していない。


「覚悟はしていました」シェフが言う。「だからこそ、もう一つの準備をしておいたんです」


彼は一枚の封筒を取り出した。中には、10年前の防犯カメラの映像データ。上川がネックレスを盗む瞬間が、鮮明に記録されていた。


「なぜ、これを...」


「人は時に、善意の選択では動かないものです」


その時、私の携帯電話が鳴った。差出人は"Last Dinner"。

開くと、意外な内容が表示されていた。








メッセージには一行の文字と、一枚の写真が添付されていた。


『本日午後8時、最後の晩餐を用意しています——上川美咲』


写真には、パールのネックレスが写っていた。しかし場所は見覚えがない。薄暗い室内、古びた壁。どこかの廃屋のようだ。


「罠ですか?」私はシェフに問いかけた。


「ええ」シェフは静かに頷く。「そして、これが最後の機会です」


シェフはカウンターから一本のワインボトルを取り出した。これまで見たことのない、漆黒のボトル。ラベルには「Last Judgment(最後の審判)」と金文字で記されている。


「上川美咲は、すべてを終わらせるつもりでしょう。証拠も、証言も、証人も」


私は息を呑む。「私を...殺すつもりだと?」


「可能性はあります」シェフは黒いボトルを掲げた。「だからこそ、これを」


「これは?」


「特別な酒です。飲めば、人としての感情を完全に失う。しかし、同時に——絶対的な力を得る」


シェフの瞳が、不気味な光を帯びる。


「かつて、私の妻が死んだ時。私はこれを飲もうとした。復讐のために。でも、妻の写真を見て、思いとどまった。彼女は、そんな夫を望まなかっただろうから」


窓の外では、夕暮れが迫っていた。


「選択はあなたの自由です。警察に行くか、彼女に会いに行くか。そして、このボトルを...」


私は黒いボトルを見つめた。その中には、漆黒の液体が渦を巻いている。









私は選択をした。黒いボトルは持たずに、警察にも行かずに、指定された場所へと向かうことに。


「本当にそれでいいのですか?」シェフの声が背中に響く。


「はい。これが、私の選んだ道です」


廃墟となった元病院。10年前、この街にあった第二病院は、経営破綻で閉鎖された。上川美咲が指定した場所は、ここだった。


夜の8時。

朽ちた自動ドアをくぐると、消毒液の古い匂いが鼻をつく。壁には「立入禁止」の張り紙。床には散らばった診察券や書類。月明かりが、割れた窓から差し込んでいる。


「よく来てくれました」


暗闇から、上川美咲の声。しかし、いつもの優雅さはない。掠れた声だった。


「先輩」


「もう、先輩とは呼ばないで」彼女が月明かりの中に姿を現す。「私たちは、ただの...加害者と証人でしょう?」


首には例のパールのネックレス。その光が、不気味に揺らめいている。そして彼女の手には——拳銃。


「これで、終わりにしましょう」


銃口が、私に向けられる。


「先輩...なぜ、ここを?」


「分からない?」彼女が嗤う。「ここは、第二病院の霊安室よ」


その言葉に、私は背筋が凍る。10年前、彼女の遺体が運ばれた場所。最期の時を過ごした場所。


「ここで、あの女も死んだ。そして——」


月明かりが、銃身を照らす。












「分かってるの?」上川が銃を握り締める手が震えている。「あの日から、私はずっと...ずっと...」


「見られているような気がする。誰かに見つめられているような」


彼女の声が切迫している。パールのネックレスが、月明かりに妖しく輝く。


「最初は気のせいだと思った。でも、徐々に...徐々に...」


上川の表情が歪む。


「食事をしていても、仕事をしていても、眠っていても。いつも、誰かの視線を感じる。特に、このネックレスを身につけている時は...」


そう言って彼女は首に手を やる。しかし...


「え?」


上川の顔が青ざめる。ネックレスが、外れない。


「何なの、これ...どうして...」


彼女が必死でネックレスを引っ張る。しかし、まるで肉に食い込んだように、びくともしない。


「助けて...誰か...」


その時、霊安室の温度が急激に下がった。視界が白く曇る。


そして、上川の背後に、おぼろげな人影が。


「ずっと待っていました」


聞き覚えのある声。患者...いや、シェフの妻の声だ。


「私のネックレス、とても気に入ってくださったようですね」


上川が振り返る。拳銃が床に落ちる。


「あ...あなた...」


「看護師さん」幽霊は私の方を向いた。「あなたの役目は、ここまで。後は、私たち二人で...」


その瞬間、上川の悲鳴が響き渡る。


「やめて...許して...このネックレスを...」


しかし、パールの輝きは増すばかり。それは上川の首に、まるで蔦のように絡みついていく。


私は、その光景を目を逸らさずに見つめた。これが、最後の審判——。








「お願い...許して...」


上川の声が次第に弱まっていく。ネックレスは彼女の首に絡みつき、パールの光が増していく。その輝きは、もはや人工の真珠とは思えないものに変わっていた。


「10年前、あなたは私から命を奪った」女性の声が響く。「そして、大切な形見まで...」


上川が床に崩れ落ちる。彼女の指が、必死にネックレスに伸びるが、届かない。


「苦しい?」透明な姿が上川に寄り添う。「でも、私はもっと苦しかった。誰にも気付かれず、助けを呼ぶこともできず、ゆっくりと...ゆっくりと...」


「ごめんなさい...本当に...ごめんなさい...」


上川の声が、か細くなる。


その時、私は動いていた。


「もういいんじゃないですか?」


私は幽霊に向かって言った。声が震える。でも、言わなければならない。


「彼女は、確かに過ちを犯しました。でも、この10年間、あなたの存在に怯えながら生きてきた。それは、十分な罰なのでは?」


幽霊が私を見つめる。その目には、悲しみと憎しみが混じっている。


「西口さん...」


「お二人の苦しみを、私は見てきました。患者として、看護師として。だから...これ以上の復讐は...」


月明かりが強くなる。霊安室が、白い光に包まれる。


「そうですね」幽霊の表情が和らぐ。「これ以上は...」


パールの光が、徐々に収まっていく。上川の首を締め付けていたネックレスが、静かに外れ落ちる。


「これが、最後の審判です」


声が遠ざかっていく。光が消えた時、そこには上川が倒れているだけだった。かすかな息遣いが聞こえる。生きている。


そして床には、一つのパールのネックレス。もう、不気味な輝きはない。


後日、上川美咲は自ら警察に出頭した。10年前の証拠隠滅、そして患者の所持品窃盗の罪を認めた。


Last Dinnerに戻ると、シェフが待っていた。


「妻は、ようやく安らかな眠りにつけるでしょう」


彼は黒いボトルを手に取り、そっと棚に戻した。


「もう、これは必要ありません」


窓の外では、夜明けの光が射し始めていた。新しい朝の始まり。


「さて」シェフが私に向き直る。「あなたの新しい人生のために、最後の一品を」


テーブルには、温かなスープが置かれていた。その香りは、希望の朝のよう。


これが、私たちの選んだ終わり方——。そして、新しい始まり。


(第4話 完)








## 第5話:最後の晩餐




「もう一度、看護師として働きませんか?」


シェフの言葉に、私は手に持ったスプーンを止めた。窓の外は、夜明け前の静けさに包まれている。


Last Dinnerの内装が、少しずつ変わっていることに気がついた。深紅のカーテンは薄い白に。漆黒のテーブルクロスは温かみのあるクリーム色に。まるで、レストラン自体が新しい装いに生まれ変わろうとしているかのよう。


「実は」シェフは窓際に立ち、朝焼けを見つめながら続けた。「このレストランには、もう一つの顔があります」


彼がカウンターから一枚の写真を取り出した。そこには見覚えのある建物が写っている。


「これは...」


私の声が震える。








写真に写っていたのは、かつての第二病院。しかし、廃墟となった今の姿ではない。10年前、まだ病院として機能していた頃の姿だ。


そして写真の隅には、見覚えのある人影。白衣を着た私自身。そしてその横には...シェフ。医師の白衣を着て、優しく微笑んでいる。


「あなたは...」


「ええ」シェフは静かに頷く。「私は第二病院の外科医でした。妻の主治医でもあった。そして——あなたの指導医でもあった」


記憶が、雪解けのように蘇ってくる。


研修医時代の私。必死で医療の道を学んでいた日々。そして、あの「事故」。


「思い出しましたか?」シェフの声が優しい。「あなたが研修医として配属された最初の日のこと。そして、なぜ看護師に転向したのか」


私の手が震える。


「私は...私は...」


「はい。あなたは患者を救えなかった。しかし、それは誰にも防ぎようのない事故だった」


シェフは調理台に向かい、最後の料理の準備を始める。包丁の音が、まるで心臓の鼓動のように響く。


「しかし、あなたは自分を責め続けた。そして、『医師ではなく、患者により近い存在になりたい』と看護師への転向を決意した」


涙が頬を伝う。すべて、思い出した。


そして、もう一つの真実も——。








「シェフ...いいえ、藤堂先生」


その名を口にした瞬間、さらに記憶が溢れ出す。


第二病院での研修医時代。新人の私を、いつも温かく見守ってくれた指導医。そして、その妻——。


「私が初めて担当した患者が...先生の奥様だった」


シェフは黙って頷く。手元では、最後の一皿の準備が進んでいく。


「末期の膵臓がん。どんな治療も効果がなく、残された時間はわずか。それでも、彼女は毎日笑顔を絶やさなかった。『西口先生の診察が楽しみなの』と」


思い出すだけで胸が痛む。


「そして、私は大きな過ちを...」


「いいえ」シェフが遮る。「あれは過ちではない」


「でも、私が投与した薬が...」


「あなたは、妻の願いを叶えただけです」


その言葉に、私は息を呑む。


シェフは静かに語り始めた。妻が密かに残していた手記のこと。激しい痛みに耐えかねて、自ら選んだ最期のこと。そして——。


「妻は、あなたを信頼していた。だからこそ、最後の頼みを打ち明けた。『安らかな眠りにつかせて欲しい』と」


「でも、それは...安楽死...」


「そう、当時は違法でした。しかし、妻の苦しみを知る者として、あなたは彼女の願いを聞き入れた。その優しさが、妻にとってどれほどの救いだったか」


調理台から、香ばしい香りが漂ってくる。


「Last Dinnerは、そんなあなたを取り戻すために作られたレストランです。復讐は、ただの表向きの顔」


シェフの告白に、私は言葉を失う。






「このレストランには、もう一つの使命があった」シェフは最後の一皿を完成させる。「傷ついた魂を癒し、本来の場所へと導くこと」


白い皿の上には、シンプルな温かいスープ。病院食のような質素さだが、香りは心を癒すように優しい。


「これが、最後の一品です」


「これは...」


「ええ、妻が入院中、一番食べたいと言っていたもの。しかし叶わなかった、野菜スープです」


スプーンを手に取る。一口。

懐かしい味が、温かく広がる。病院の日々。必死で医療を学んだ日々。そして、患者さんの笑顔。


「先生」私は決意を込めて言った。「私、もう一度」


「ええ、分かっています」シェフは微笑んだ。「新しい病院で、医師として働きませんか?」


驚いて顔を上げる。


「もう、逃げる必要はありません。あなたは最初から、優しい医師だった。妻も、それを知っていました」


窓の外が、明るみを帯びてきた。夜明けだ。


「Last Dinnerは、今夜で最後です」シェフが告げる。「私の役目も、ここまで」


立ち上がると、レストラン全体が朝日に包まれていく。テーブルも、椅子も、カウンターも、すべてが柔らかな光の中で、ゆっくりと透明になっていく。


「さようなら、西口先生。そして——」


シェフの姿も、光の中に溶けていく。最後の瞬間、彼の背後に二つの影。奥様と、あの患者さん。二人とも、優しく微笑んでいた。


「ありがとう」


光が消えた時、私は病院の正面玄関に立っていた。手には一通の封筒。新しい病院からの採用通知書。


首から下がっているのは、白衣。胸ポケットには、「Dr.西口」という名札。


そう。これが、私の居場所。

これが、本当の「最後の晩餐」の意味——。


空には朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしていた。


(完)







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「深夜レストランの復讐診断」 ~その後悔、美食で癒してあげます~ ソコニ @mi33x

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