推しが幸せになった。だから祝ってやろうと思う

にゃしん

第1話

 寒い冬の日。

 明日は休日ということで私は意気揚々とアパートの階段を昇りながら、鼻歌まじりでビニール袋を揺らしていた。

 中身は新発売の缶ビールで前から気にかけていたものであった。

 滅多としてコンビニには行かないが、日常に一匙の変化を求めた故であった。

 自宅に戻り、一番にすることはパソコンの前に行くことであった。

 仕事着のままカバンはソファに放り投げ、ビニール袋は床に起く。

 SNSの通知を無視し――推しのものが目に止まった。

 しばらくの間、更新が滞っていたものが数ヶ月ぶりに動いたのだ。

 私はビールの事など忘れて、内容を確認すべく素早い手さばきで選んで一気に読み始めたが、次第に私の口角は下がり始め、最後は表情を失ってしまっていた。


 私はパソコンの前で呆然としてしまった。

 部屋とは別の寒さから指先の感覚が急激に失われていく。

 乾いた笑いが漏れ、書かれた文字を指でなぞった。

 推しが幸せになるという文面が綴られている。

 突然のことで脳内は白く染まった。

 思考は途切れ、伝達神経は死滅し海馬は記憶することを拒絶する。

 足裏の感覚が消え、肥えた太ももだけで全体を支えているような錯覚を覚える。

 動悸も異常な早さで悲しみを訴えかけ、鎮まるよう思わず胸に手を添えた。

 誰にも気付かれない場所に隠れ、独りでに悲しみに暮れたい気持ちだった。



 放心状態のまま、気づけば日付をまたごうとしていた。

 未だ実感の無い最中にいるが、風呂に浸かりたい気持ちはある。

 浴槽に湯を溜めながら、曇りガラスの引き戸に背を預ける。

 そうして足で三角を作り、顔を埋めると推しの笑顔が浮かんだ。

 傍には私が――顔を黒く塗りつぶされた私が立っていた。

 推しの傍に立つ資格を失った私がどんな表情でいればいいかなど、わからない。

 私の役割は失われ、顔も声も知らぬ者が今後を支える事実は受け入れがたい。

 まだ涙は出ず、夢だと信じて上を向いた。

 経年劣化して仄かに色褪せたシーリングライトに照らされる。

 時間の流れを緩慢に感じていると、浴槽から溢れる水音に気づいて現実に戻った。

 

 悠長に浸かることはやめ、早々と寝間着に着替えた。

 心非ずだったが、少し和らいだ私は現状に向き合うことを決心した。

 再びパソコンの前に座り、深呼吸をしてから最初から内容を読み始めた。

 声に出しながら、頭の中に叩き込んで理解へと変えていく。

 綴られた言葉からにじみ出る幸せが心を蝕んでいく。

 ついにはたまらなくなり、勢いよく立ち上がると部屋を歩き回りながら独り言を呟き始めた。

 私の昔からの癖で、そうしていればいづれ気持ちに整理がつくことを知っていた。

 様々な言葉が次々と脳裏に浮かんでは、精査することなく躊躇いなく声に出す。

 苛立ち、悲しみ、後悔、怒り等々多くは負の感情で占めていたが、素直に祝福する言葉も少なからず漏れた。

 発する単語は一句足りとも覚えられず、口に出すことで満足気になり、やがて頭も冷えて自我が戻る頃には再び椅子に座り直した。

 そしてもう一度事実確認をするためパソコンを覗き込み、間違いなくかかれた結婚の文字に私は顔を赤くさせ、やるせない気持ちとなりそこでようやく、涙を流し始めた。


 

 私と推しの出会いは奇跡で運命的なものであった。

 物心付く前から日常を共にしており、推しの映像は何度も見直していた。

 つぶらな瞳に愛らしい口元、少し癖っ毛が魅力的である。

 けがれを知ることなく、いつまでも無垢で居て欲しいと願った。

 推しは私の望み通りに、しかし少しばかり希望から逸れながらも成長していった。

 やがて年相応に美しく、儚げな雰囲気をまとう大人しい清楚な子になった。

 暴力的に衝動は見せず、粗暴な言葉を使う姿は見たことがない。

 粗探しをするだけ無駄だと私が一番良く知っていた。

 私が小学生にあがり、高校生、社会人と瞬く間に時が過ぎても、推しへの気持ちは変わらず、大人になった事でより推しへの感謝と敬意が膨らんだように思える。

 もう何十年と追いかけているのだから、知らない事を探すほうが難しいのかもしれない。

 それに両親も推しのことを良く理解してくれていた。

 私以上にそうであったかのように思えるが、距離感でいえば私の方がより近い位置に立っていたと確信している。

 だからこそ、結婚など認めたくなかった。

 祝う気持ちとは裏腹に手元を離れ、視覚や聴覚で捉える事が出来ない知らない世界に旅立ち、残された私はかつての面影を虚しく想うことしか出来ないのが堪らず許せなかった。

 いつまでも籠の中に入れて愛でていたい。

 独断的で傲慢。私は推しとは対象的な存在であった。

  


 泣き疲れた私は気づけばベッドに飛び込み、起きた時には休日を迎えていた。

 視界に映ったビニール袋を見て、愉しみを思い出すが今はもうどうでもいい。

 どこか遊びに行くことも掃除することさえも気が起きない。

 微睡みから脱し、怖いもの見たさで電源を付けたままのパソコンを覗くと、別の文章が追加されていた。

 私は間違いだったことを望み、内容に目を走らせた。

 内容は至って単純で、これからの幸せについて語られたものであった。

 お相手の仔細は特に書かれておらず、顔も知らぬ相手に怒りが募る。

 私はやりきれない感情と大人の装いを求められているようでぎこちなく一人笑い、

コメントしようと気の利いた言葉を模索した。

 丁寧な仕上がりを構想する中、数多の出会いと幸せが走馬灯のように脳内を縦横無尽に駆け巡り、私の瞳もまわってしまっているのではないかと錯覚する。

 完成した内容に失礼がないか暫く見返し、幾度の改稿を経たのちに送信を終えた。                

 私の書いた文章は長くある意味、悪目立ちしていた。

 絞り出した割に言葉は他愛のない普遍的な祝言で、社交辞令のような言葉回しに自分でも呆れてしまう。

 暫くすると、他の者も祝のコメントが増え始め、それに気づいた推しが返信をしていく。私は単なるファンの一人なのだと理解することができた。

  


 そこから月日は私の事など放置したまま過ぎていった。

 肥大化していた悲哀という名の出来物は萎んでくれたが、硬い芯は健在で時折、思い出したかのように再発をしては私を苦しめていた。

 だが深い傷跡の後には余分な空白が生まれてもいた。

 そこに寛容の精神が上手い具合に舞い込んでくれたおかげか、私は徐々に平穏の日常を取り戻しつつあった。

 凝りもやがて良い思い出になると、私は前向きに過ごせるようになった。

 春を迎える頃、私は幸せな気持ちでカレンダーを見つめた。

 当日には大きな丸が描かれている。

 最初、私を大きく悩まさせた日は最高の日となろうとしていた。

 式の時間まで余裕は残されていない。

 洗面台の前に立ち、私は口角をあげた。

 かつて私と共に過ごした推しが、今日幸せになる。

 だから祝ってやろうと思う、私のただ一人の妹のために。

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推しが幸せになった。だから祝ってやろうと思う にゃしん @nyashin

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