このまま

白川津 中々

◾️

「おかえりー」


マンションの一室。未だに慣れない玄関扉を開けるとカケルが駆け寄ってきた。


「ただいま」


抱き寄せ、そのまま持ち上げる。子供一人。思った以上に重い。


「幼稚園はどうだった?」


「とくになにもなかった!」


「そうか」


なにもなかったでは会話は続かない。俺は無言のままカケルを抱え、廊下を渡る。子供と話すというのは存外難しいものだ。世の父親が頭を悩ませている理由がよく分かる。


「おかえり。先、お風呂入るでしょ」


リビングに入ると彼女が笑顔で出迎えてくれて、「服は脱衣所にあるからね」と言ってキッチンに立った。俺は「あぁ」と返し、カケルを降ろして風呂に入る。

湯船に浸かると驚く程疲れが取れる。毎日シャワーばかりだったから、久しく風呂の効能を忘れていた。やはり、生活の質は大切だ。また、改善されたのは風呂ばかりではない。食の方も、随分と変わった。


「ご飯温めてるから、先にビール飲んでて」


「ありがとう」


冷えたビールに、和え物と煮物。匂いから察するに、温めているのは角煮だろう。少し前までは考えられないような充実した献立に、思わず顔が綻ぶ。


「つぐねー」


「ありがとう」


カケルにビールを注いでもらう。以前、幼稚園の友達から「パパのグラスにお酒注いであげている」という話を聞かされ羨ましくなったそうで、晩酌の際は決まってこうしてくれる。手酌の方が気楽だが、純粋なカケルの目を見ると、とても無下にはできない。


「はい、おまたせ」


勢いよくグラスに満たされ、やや泡が多くなったビールを飲みながら小鉢に箸をつけていると、角煮が卓に運ばれてきた。


「カケルはそろそろ寝る準備しなよ」


「まだ眠くない」


「眠くないけど寝るの。明日は朝から、幼稚園のみんなと遊びに行くんだからね。起きられなかったら知らないよ」


「分かった」


渋々頷き、カケルは部屋へ向かった。リビングには、俺と彼女だけが残った。


「お疲れ様」


「あぁ」


角煮に齧り付く。甘辛い味付けが快く、添えられた半熟卵とよく合った。幸せな日常。代え難い生活。しかし、だからこそ歪さ、綻びは目立ち、違和感が増していく。


「ねぇ、明日なんだけど」


彼女の声。

悲しげで、訴えかけるような、そんな重々しさを感じた。


「うん」


「本当に、参加できない?」


「……まずいでしょ、親子会なんだから」


「でも、実質父親みたいなもんだし、カケルも友達に紹介したがっているから……」


「子供はいいよ。世間体なんか気にしないんだから。ただ、親はそうはいかない。きっと俺達をよくない目で見る」


「そんなことないよ。みんないい人なんだから」


「そりゃ大っぴらには善人面して笑ってるさ。けど裏じゃ分からないよ」


「私は気にしない。それよりカケルが、お父さんがいるんだって、胸を張って言えるようになってほしい」


「……俺には無理だよ。まだ、籍を入れる勇気もないんだから」


「戸籍なんて書類の処理だけじゃない。少なくとも、カケルはもうあなたをお父さんだって思ってる」


「まだ一度もパパと呼ばれた事がない」


「……」


「ごめん。今は無理だ。だけどもう少しだけ待ってほしい」


「カケル。来年は、小学生になるよ」


「……分かっているよ」


角煮をビールで流し、差し出された二本目も飲み終えて、〆のソーメン入りの味噌汁を食べ、歯を磨いてベッドに入った。


一人暮らしをしていた時よりはるかに充実して満たされている毎日。けれど、日に日に強くなっていく家族のニオイにむせ返りそうになる。新卒一年目の人間には、あまりに似合わない香りではないか。

彼女とカケルの事は、未だ親にも伝えていないし、言えばきっと反対されるだろう。周りの人間も、見せ物でも眺めるような無礼な視線を向けてくるに決まっている。それは彼女にとってもカケルにとっても……いや、俺が一番、堪える。どうしても、耐えられそうにない。


二人を愛していないわけではないが、一歩を踏み出せない。早く答えを出さねば、カケルの年齢を考えるともう遅すぎるくらいだ。しかし、どうしようにも、俺の若さが邪魔をする。遊びたい、自由でいたい、金がない、そんな考えが、頭を過ってしまうのだ。


「さっきは、ごめんね」


ベッドの中、彼女の言葉に「いや」と返す。悪いのはどう考えても俺なのだ。謝られるような筋はない。そんな彼女の弱さに、俺はいつまで経っても甘えてしまっている。俺にとっても二人にとっても、どうにかしなければいけない。決断の時は刻々と迫ってきている。先の人生を、彼女とカケルをどうするか。全ては、俺の意思によって決まる。


二つに一つ。時間はそう、長くない。

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