ヴェモヌユーユの弥市
秋冬遥夏
ヴェモヌユーユの弥市
リネン生地のワンピースから銅貨六枚を取り出して、マルピネの干物を買った。それを籠に丁寧に詰めると、もうすでに西日がマルシェ屋台を鮮やかに染めていて、やわらかい。
長く伸びるかげの先で、ぽふっとガス灯がひとつ点けば、花屋の主人もランタンに火をあてる。そうやって星がつながっていくように、ヴェモヌユーユの街には夜が灯っていった。
夜のはじまりは、街にとって市場のはじまりを意味している。あたりに大聖堂の鐘が響くと、屋台にはカラフルなポーションや野菜が並び、パン屋から香ばしい匂いが漏れ出す。
その香りに背を向けて、裏路地に入った私は、もうあの場所では生きていけない。買い物をした冷たい足で石階段を登ると、いつか私をひどく抱いた男が話しかけてきた。
「あの、きみ。ロロちゃん。だよね?」
「ひ、ひとちがいです」
「うそだあ。大人の目は騙せないよ。その顔のほくろ、たくさん舐めさせてくれたでしょう。おじさん覚えてるよ。おいしかったから」
おもしろくない夜の記憶が、鼻先をくすぐる。欠けた前歯を覗かせる彼は、今日もたまってるんだよねって、いやな愛想を見せた。
「てか、なに持ってるの。それ」
「なんでもないです」
「うわ、マルピネじゃん。よくそんなドブ魚食べれるね。もしかしてロロちゃんは、匂いフェチなのかな。それだったら——」
こんな男たちの、いじわるな性欲を煽らないよう、逃げることも、反応することもせず、一定のペースでワンピースを揺らす出勤にも、ずいぶんと慣れてしまった。
今までの行為が染みたベッドひとつあるだけの簡素な部屋が、私の仕事部屋だった。荷物をおろして、ワンピースのボタンを外して裸になったら、飾り窓をあけて、世界に身体を売る。
ぶわっと風に髪がなびいて、月明かりが乳房の輪郭をなぞる。見ると、向かいの窓でも等間隔に女子が手招いていて、前の石畳を歩く男の表情は、妙に真面目な顔をしていて、きらい。
「ロロちゃん、さがしたよ」
そう私の窓を覗いて、おなかに手を伸ばしてくるのは、さっき話しかけてきた彼だった。もちろん名前なんて知らない。
「ロロちゃん、いまからそっちに行くから。今日はたくさんシようね。あ、もちろんお金は払うよ。おじさん、そういうのはちゃんとしてるから」
「ありがとうございます……」
それからのことは、意識も飛んでしまって、あまり覚えていない。ただ朝起きたら、咀嚼されたマルピネが身体中に塗られていて、はげしい夜だったことは窺えた。
ちゅちゅんと窓でドゴメヤチョウの雛が鳴くたびに、こんな風に私が身体を売るのも、もう三年になるだと、しみじみ思った。
あれは確か、ラミピュモスの花が咲き誇った、あたたかい春のことだった。そのときはまだ母も生きていて、同じ売春街で貯めたお金で、私を魔法の専門学校に通わせてくれた。
そこで私は、母の生活を楽にできる魔法をたくさん学んだ。たまごを上手に割る魔法。水まわりのカビを防ぐ魔法。洗濯が少しはやく乾く魔法。マルピネを美味しく食べる魔法。
どの魔法も見せると、母は子どものように喜んで褒めてくれた。リビングでふたり、魔法を囲んで笑うのが、私の人生でいちばん好きな時間だった。
「ロロはすごいわ」
「そう?」
「そうよ、わたしの子とは思えない。こんな魔法があればきっと、ロロはしあわせになれるわ」
そんな会話を残した翌月、母は亡くなった。死因は性行為中の暴力で、大切なひとを守れる防御魔法を習得できなかった自分を、私は今も責めながら生きている。
娼婦になった私のはじめての相手は、母を殺した男だった。彼はそういうことをする中で、お母さんの方が胸は大きかったとか、ここが感じやすいのは同じだとか、私の知らない母のことを語った。
それを聞いた私の顔が歪むたびに、おなかの中のそれが硬く膨れる。彼の行為と説教はくるしくて、すごく痛かった。
「きみは、親不孝者だな」
「ごめんなさい……もう言わないで」
「お母さんは、きみに自分と同じ道を進まないように、魔法学校のお金を貯めてたんだぞ。毎日と抱いてたから知ってる。それなのにきみは——」
その腰は、私が泣くほどに激しく動いた。それでも彼の言葉は、全て図星だった。私に魔法の才があって、地味な家庭魔法以外に、攻撃魔法のひとつでも習得できれば、こうして母を殺した男に跨がらずに済んだかもしれない。
どくっておなかで脈打ったあと、彼は弱った私の身体にもたれて、耳元で生温かい息を吐く。それは嫌なほどに、やさしい声だった。
「お母さんより狭くて、きもちかったよ」
その日も昼に起きたら、夜が残る身体を雑巾で拭いて、ヴェモヌユーユの弥市に出かけた。夜に動き出すこの街で、日中だけは自由を感じられた。
娼婦用の安いものを集めたボロ屋が、昼間でも各所で営業してて、私は毎日そこに行く。魔法を使えば食べれるようなごはんを、探すのがたのしい。
「あの、ラナカミュの実とマルピネをふたつ。いただけますか」
「あんたあ、またマルピネかい。いいけどさ、身体でも壊すんじゃないよ」
ボロ屋のおばちゃんは、言葉は荒いけど、悪い人ではない気がしてる。得意の葉巻をふかして、その煙が青空に届くとき、おばちゃんは思い出したようにこぼした。
「そういや、あんたのお母さんも、よくマルピネを買ってたよ。ほんとむかーしだけどね」
「え、お母さんが?」
「そう、あんたが産まれるってなったら。目をまんまるに輝かして、お金が必要なんですってね。かわいい子だったよ」
商品を受け取って、こころが溢れた。石畳に水滴が落ちて、よくやく自分が泣いてることに気づく。私はたくさん愛されていたんだって、マルピネの匂いが鼻をさした。
その夜は、泣き腫らした目で仕事に臨むことになった。泣いてる子を抱きたいという男は多いもので、ここでは弱った娼婦に価値がついたりする。
しかしその日、私の部屋に入ってきたのは意外にも、ブロンドの髪を綺麗に結き、花柄のドレスに身を包んだ、私と同じくらいの少女だった。
「あの、お客さま。ここは娼館ですが、来るところを間違えてはいませんでしょうか」
「……いいえ、間違えてないわ」
彼女は凛とした顔のまま、荷物を下ろして、ベッドに腰掛けた。どうやら他の男と違って、私を一方的に襲おうというわけではないようだ。
「えっと、お客さま」
「ユフィよ。あたしはユフィっていうの」
「では、ユフィさま……私は何をいたしましょう」
抱きしめたくなるような沈黙のあと、彼女はベッドシーツを握って、小さな身体を震わせながら、花のひらくような声を出した。
「そしたら……て」
「て?」
「手、をつないでも……いいかしら」
「えっとぜんぜん、いいですけど」
ぱっと手のひらを見せると、白くて淡い手がゆっくりと伸びてくる。それはぷるぷると震えていて、怯えた野良猫みたいでかわいい。私がその手を取ると彼女は、あわって鳴いた。
「これでよろしいのですか。ユフィさま」
「な、なんてこと聞くのよ!」
「すみません……」
刺々しい口ぶりとは裏腹に、彼女の小さい手はきゅって握り返していて、満足している体温を感じられた。三年とここで働いてきたが、女の子に指名されるのは、今日がはじめてだった。
ふたりともの距離が近くなって、しあわせが溶けていく頃。彼女は床にある買い物籠を覗いて、これはなーにって聞いた。
「それは、マルピネの干物です」
「マルピネって、あの臭くて食べられないってみんなが言ってるあれ?」
「そうです。でもこうやって、こうすると」
私はマルピネに手をかざす。自分の魔法を他人に見せるのは、学生のとき以来だった。照らされた干物は、徐々にぬめりがなくなって、代わりに表面に油が乗ってくる。母の笑顔を思い出した。
「へえ、すごいじゃない!」
「そうですか……」
「あなたには、マルピネをおいしく食べる才能があるのね。すてきだわ」
「才能だなんて、そんな」
彼女は目を見ひらいて、私の魔法をずいぶんと喜んでくれた。それからマルピネを食べて、これはいただけるわって笑ってくれた。
「もっと、もっと魔法を見せてちょうだい」
「えっとなにがいいでしょう。ほつれたボタンを直す魔法、前髪をまっすぐ切る魔法。キスが気持ちよくなる魔法なんてものも、あります」
私がキスと言うと彼女は、それは好きな人とするアレでしょうって、あからさまに照れててかわいかった。私にもこんな時期があったのだろうか。
「ユフィさまは、キスにご興味があるのですか?」
「そ、そんなわけないでしょ!」
「さようでございますか」
こうしてその日から、ユフィさまとのピュアで素敵な夜がはじまった。彼女といるときは、私も普通の女の子に戻れたみたいで、うれしかった。
彼女はここに来ると、決まって私を指名した。しかし要望するのは、手をつなぎたいとか、ほっぺを触らしてほしいといった、性行為にも満たないものばかりで、次第に料金をもらうのが悪くなった。
「ユフィさまは、えっちをしたくないのですか」
「な、なにを急に言い出すのよ!」
「すみません。ですがここは娼館で、私は身体を売るためにここにいます。ですから——」
一から私が店のサービスやオプション内容を説明しても、彼女は顔を赤らめるだけで、私を襲おうという様子はない。ではなんでここに来るのかというのは、なんだか聞けなかった。
「ロロちゃんは、どうしてその。えっちとやらにこだわるの」
「え、どうしてって言われても」
「あたしはあなたとお話してるだけで、とてもしあわせよ。不思議な魔法も見せてもらえるし」
彼女の声でベッドが軋んで、私はどうしていいかわからなくなった。売春をして生活をしてきた自分が、ただお話をしたり、家事魔法を見せるだけで、お金をもらっていいわけがない。
「でしたら、ユフィさま。私に望むことはございませんか。できることならなんでもいたします」
ふたりの間に月光が差し込んで、彼女は幽霊のように美しく揺れる。夜風になびく髪をかきあげて、それなら今日はって立ち上がった。
「いまから一緒に、弥市に行きましょう!」
「……えっと、それは?」
「き、聞こえなかったかしら。あの、そのあなたと、デートに行きたいのよ、あたし」
子どもではいられなくて、大人にもなれないこの街で、私はこの瞬間、ずっと大切ななにかを掴めた気がした。
彼女の手を取って、飾り窓から夜に抜け出すと、なんだかすごく心が軽くなった。母と過ごした売春宿も、遠くに聳え立つウィンボール宮殿も、今の私にはちっぽけに見えた。
「ユフィさま。ありがとうございます」
「なんであなたが感謝するのよ」
「それは……感謝をしているからです」
そんなことを言い合いながら、性に彷徨う男たちを振り払って、石階段を降りて、路地裏を駆け抜けて私は、はじめて夜の弥市を知った。
だれかが吹いた笛の音が広場を彩って、騎士は月がひとつ浮かんだお酒を飲む。夜空をドラゴンが楽しそうに舞えば、魔女が魔法のスープを振る舞う。この弥市では、みんながともだちだった。
「とっても、楽しそうな場所じゃない!」
「ほんときれいですね」
「ねえ、あれはなにかしら」
「あれはラナカミュの花ですね。大切なひとに渡すと、言葉にしなくても想いが伝わるって」
私が話し終わる前に、彼女はヒールを鳴らして走っていき、花の香りを嗅いでいた。そして、宝石みたいに高くないわねって、一本を選んで摘んだ。
「はい、これあげる」
「いいのですか。もらって」
「もちろん、あなたは大切なひとだもの」
そう笑ってまた先に進む彼女。たいせつなひと、という言葉の響きが妙に背中をあたたかくした。涙がこぼれた。そんなの私だって。
「あの、ユフィさま」
ほんとはお花を買ってあげたいけれど、私にはそんなお金はない。だからせめて、言葉ではちゃんと伝えたいと思った。
「わたしも、ユフィさまがたいせつです。とてもとても、たいせつなのです」
上空を舞うドラゴンが火を吹いて、それはまるで私たちの関係を祝福してくれているようだった。
お酒というのを嗜んでみたい、というユフィさまの要望から、次の日は一緒に酒屋に行った。いかつい見た目の海賊も話すといいひとで、売春宿に来る男よりもよっぽど楽しい。
「ユフィさま。すこし飲みすぎではないですか」
「なによお、ロロちゃんまで。あなたもすこしは飲んでみたらどうなの」
「私はお金がないので」
「お金なんていいわ、あたしが出すから」
そう言ってワインボトルを開ける彼女は、かなり酔っていた。樽ジョッキに注がれた深い赤の液体。この一杯だけで、私が二週間過ごせるだけの値段がする。
「本当にいただいていいのでしょうか」
「しつこいわね。いいのよ、あたしはあなたが酔ってるところが見てみたいのー」
「酔わせて、なにをするつもりですか」
「べ、べつになにもしないわよ!」
ほんとかなあってひと口飲むと、葡萄の香りが鼻を抜けて、おもしろい。天井と床が弧を描いて、回転して、すぐに変な気持ちになった。
「ユフィさま……毒をお盛りになられましたか」
「あはは、なにもしてないわよ」
飲んでいると不思議とこころが安らいで、限りなく天国に近い場所を彷徨う。そして気づけば、好きですってこぼしていた。
「な、なにを言い出すのよ!」
「わたし、ユフィさんのこと好きなんです。本当なんですよお。わたし女の子だけど、ユフィさんみたいな子と、将来結婚なんてできたら——」
私の話を遮って、彼女は会計を済ませ、手を取って店を出た。恥ずかしがっているのだろうか、かわいいユフィさん。後ろからは、お幸せにっていう理解のある海賊の声が聞こえた。
次の日の朝は、とんでもなかった。なぜか私は全裸でベッドにいて、私のおっぱいに顔を埋める形でユフィさまが寝ていたのだ。
「ユフィさまも、ようやくえっちなことに興味をお持ちになられたのですね」
「ち、ちがうわ!」
「では、なんで私は裸だったのですか」
「それはあなたが帰るなり、すぐに荷物を置いて、裸になって、窓を開けたりするからでしょう。ほんと大変だったんだから」
彼女の言葉を聞いて、すべてが理解できた。きっと酔った私は、いつもの癖で売春の準備をしたのだろう。きっと窓を開けた次は、胸を揺らしたり、おしりを振ったりしたに違いない。
「幻滅……しましたよね」
「いいえ」
「隠さないでいいのです。男を挑発するような、下品な動きを見て、幻滅しないわけないですから」
恥ずかしさから毛布に隠れると、途端にかなしくなった。私がもっと普通の女の子だったら、自信を持って彼女といられたのにって。
「あの……ごめんなさい」
「なんで、ユフィさまが謝るのですか」
「もちろん、幻滅してないと言ったら嘘になるわ。ただ、それよりもずっと、あなたのことが知れて嬉しかった」
私が泣いている間、彼女は一度も離れずにベッドの端にちょこんと座っていた。気を遣わせてしまって、どうしたらいいかわからないでいると、彼女はいつかと同じことを言った。
「そしたら……て。
手、をつないでも……いいかしら」
それはどこか芝居がかった台詞で、私はすぐに彼女がなにをしたいのかわかった。だから私もあの日の自分を演じて、布団から出した手をひらいてみせる。
「えっとぜんぜん、いいですけど」
ゆっくりと近づいてくる猫みたいな手を、出逢った頃のように取ると、彼女はわざとらしく、にゃって鳴いた。
「これで、よろしいのですか。ユフィさま」
「もう、なんてこと聞くのよ!」
「すみません……」
しあわせな体温が溶けていき、ふたりの演劇が幕を閉じると、すごくおもしろくなった。躓いても、ぶつかっても、ふたりなら何度でもやり直せるって、いつまでも笑い合えた。
それからも彼女と弥市に出かけては、いろんな楽しいことをした。
魔法図書館に忍び込んで魔道書を読んだり、勇者御一行が帰還される凱旋パレードを見たり、マルピネを盗んだ猫に誘われて海に出たり、素敵な思い出が重なるたびに、私たちは大人になっていった。
しかしおかしい。今夜はなぜか彼女の元気がない。細くきれいな睫毛も、妙な悩みを秘めているように見える。
「あの、ユフィさま。なにかありましたか?」
「いいえ、なんでもないわ」
「さようですか……」
彼女は頬杖をついて、床についた傷をじっと見ている。その姿はまるで天使の彫刻作品のようで、うつくしかった。
「あたし、あなたに隠してたことがあるの」
しばらくして、マッチの火を灯すように、ぽつりと彼女はつぶやいた。いつも明るい彼女の頬に、等身大のさみしさが伝う。
「なんでしょう。私が食後に取っておいたラナカミュの実を食べたことなら気づいてますが、ぜんぜん怒ってないですよ」
「それは……ごめんなさい。でもそうじゃないの」
涙ぐむ彼女は、スカートの裾をきゅっと握ると、窓の外を指さして、あそこにウィンボール宮殿が見えるでしょうっていたずらに笑った。
「実はあたし、あそこで生まれた第四王女なの」
「だいよん、おうじょ?」
「ええ、第四王女。でもね、宮殿はとても息苦しかったわ。あたしは生まれつき国と親のもので、好きな服を着ることも、外に出ることも許されなかった」
それはあまりにも急で、娼婦の私には、整理も想像もできないことだった。しかし、たとえこの国の王女でも、ユフィさまはユフィさまだ。なんにも変わらない。彼女はうつむいたまま、続ける。
「だから、夜に抜け出してあなたと遊ぶのは、本当に楽しかった。知らないことだらけだった。でもそんな素敵な夜もやがて——」
透き通るような肌をゆく涙が、ベッドシーツに落ちて素敵なシミを作ると、魔法にかかったようにさみしくなった。
空が白んで、ドゴメヤチョウの雛が鳴く。ふたりの輪郭が切り取られてはっきりする頃、あのねって彼女は精いっぱい笑いかけてくれた。
「あたし、来月には結婚することになるの
だからもうここにも、来れなくなってしまうわ」
今日は第四王女——ユフィさまの結婚式だからと、珍しく早朝から大聖堂の鐘が響いて、ヴェモヌユーユの弥市は賑わっていた。
海賊はビアガーデンでお酒を飲んで、青空ではいつかのドラゴンが火を吹く。その婚約が結ばれれば、隣国からの資源も観光客も増えるため、市場にとって大きなことだった。
楽しそうなひとの波に揉まれながら私は、いつものおばちゃんから、今日もマルピネの干物を買おうとしていた。相変わらず葉巻の煙は、空を揺らぐ。
「あんた、浮かない顔してるわね」
「そうですか?」
「あたしゃ、ながーく娼婦を見てきたからね。悩みのある女の顔くらい、見ればわかるわよ」
最近になって、やっぱりこのおばちゃんは、すごくいいひとだということが、わかってきた。口はぜんぜん悪いけど。
「娼婦はね、みーんな子どもができると弱るのよ。なぜだかわかるかしら。それは、子どもが宝物になってしまうからよ。
たいせつなものができたとき、ひとは弱さがひとつ増えるの。自分がひどい目に遭うのは耐えられても、宝物が傷つけられるのは耐えられない」
ふうって彼女が吐き出した煙。それは、細くどこまでものぼっていき、母にも届いたような、そんな気がした。
「でもあんたのお母さんは違った。娘はぜったいにしあわせになるわって、疑いを知らない目で言うのよ。ほんと笑っちゃうわよね」
でも母の言うとおりだ。私はしあわせになった。質素な暮らしでも、ユフィさまに出会って、売った春を取り戻せた。そんな日々こそが私にとって、子どもみたいなもので、宝物だった。
「母はとても強かったのですね」
「そうよ、あんたも見習いなさい。好きなものはどんな手を使ってでも守り切ることね。それが娼婦の生きがいってもんよ」
ここまで聞いて、なんだかおばちゃんは自分のことを話してるように感じた。もしかしたら、おばちゃんも元娼婦なのかもしれない。
ふと、やわらかい風に煙が靡いて、その向かう先には、ウィンボーン宮殿が聳え立っている。結婚式のはじまる鐘が三回鳴って、私は決めた。
「あの、おばちゃん」
「なんだい」
「やっぱりマルピネをやめて、ンジャノダの欠片を買えるだけください」
ンジャノダの欠片はこのボロ屋の商品で、いちばん高価なものだ。煎じて飲むことで、微量の魔力を得ることができて、新陳代謝を高め疲労回復・風邪予防・身体抵抗力維持に役立つとされている。
私はそれを全財産をはたいて買い占めた。微量の魔力でもこれだけあれば、しあわせを守るのに十分だろう。試しにひとつ齧ると、こころの底から初恋のきもちが溢れ出した。
私はユフィさまのことが、たまらなく好きだった。魔法を喜んでくれたことも、お酒で失敗したことも、ラナカミュの花をくれたことも、すべて大切な夜の思い出だ。
やがて私は、魔物になった。日光に鋭く牙が光り、マルピネに似た鱗と粘液に覆われる。背骨が浮き出た身体は、何倍にも膨れて、にぎやかの弥市を踏み潰していく。
「ユフィさま、いま行きます。次はわたしが恩返しをする番ですから」
そう空に吠えると、口から紫色の煙が出た。それが街を包めば、夜。月が雲の上で回って、ランタンの星座がつながっていく。街路樹が子守唄を歌って、市場のランウェイを魔獣が行く。
やがて野良猫がにゃっと鳴いて、煙に包まれた生物は狂ったようにキスをした。海賊もドラゴンも魔女も、私の処女を奪った男も、ボロ屋のおばちゃんだって、誰ふり構わず舌を絡める。
最大火力の、キスが気持ちよくなる魔法だ。
「その結婚、ちょっと待ったー!」
私がチャペルの屋根に穴をあけると、ちょうどユフィさまの薬指にリングを通そうとするところだった。街ではキスで発情した民が、そこら中でまさぐりあっている。
「ユフィさま、遅くなりました」
「その声。あなたはロロちゃんなの?」
「ええ、わたしです。あなたがとらわれていた国や世界を壊して参りました。見てください、これ」
彼女をひょいっと持ち上げて、頭の上に乗せると、そこには崩れた街が広がっていた。王子や神父が後ろで何やら叫んでいるが、なんにも聞こえない。
「これ、あなたひとりでやったの?」
「さようでございます」
「あはは、やりすぎよ。でも……ありがとう」
グルルと魔物らしく喉を鳴らすと、漏れ出たエロ煙が地を這って、チャペルを覆った。それはやがて宮殿全体へと回ってゆく。
神父が全裸になって、十字架の前で踊る。王と王妃の愛も、何十年越しに再燃。隣国の王子は、ずっと想いを寄せていたらしい実の妹に抱きついて離れない。街の至るところから、そういう声がして、おもしろい。
「ユフィさま。これからどうしましょう」
「そうね……」
頭に乗る彼女は、重たいウェディングドレスを脱ぎ捨てて、全裸になった。月夜に消えたドレスは、ゆらゆらと舞って、やがて星になる。
「一緒に買い物でもしましょう。いつかドレスじゃない服を着てみたかったの」
❖
今日もいつもの簡素な部屋でふたり、夜を過ごしている。飾り窓をあけると、ピンクの灯りがヴェモヌユーユを包んでいて、あれからこの街はすべてが売春街となった。
ベッドに腰掛ける彼女は、また彫刻のように頬杖をついて、路上でディープキスをする男女を見ている。その表情は妙に真面目だ。
「……ユフィさま?」
「なによ」
「もしかして、キスに興味が出てきたのですか?」
「そ、そんなわけないじゃない!」
頬を薄ピンクに染める彼女。実はまだ彼女とキスとか、そういうことはできてない。それでもいいのだ。一方的にされるのは気持ちよくないのを、私がいちばん知っている。
いつか彼女が大人になったら、そういうことをする時もくるはずだ。それまでは今の関係を楽しんでいようと思う。
「さあ、ユフィさま。買い出しに行きましょう」
「そ、そうね」
「夕飯はなにが食べたいですか」
ふたりで飾り窓から抜け出して彼女は、マルピネの素揚げがいいわって、とびっきりの笑顔を見せていた。ランタンの火が灯って、ヴェモヌユーユの夜は長い。
ヴェモヌユーユの弥市 秋冬遥夏 @harukakanata0606
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