梅の木の約束

 春の陽光が古びた石段を優しく照らす午後、健太は息を整えながらゆっくりと歩を進めていた。年老いた体には少々きつい坂道だったが、風に乗って漂う梅の香りが懐かしい記憶を呼び覚まし、その足を止めることはなかった。


 頂上に近づくにつれ、陽の光は梅の枝葉を透かして煌めき、まるで別世界への入り口のような幻想的な空間を作り出していた。


 丘の上にたどり着いた健太の目の前には、一本の古木となった梅の木。その下で、薄紫の着物をまとった女性が静かに立っていた。彼女の姿は夕陽に透かされ、どこか儚げで、それでいて確かな存在感を放っていた。


「久しぶりだね。ユエ」


 健太の声は、年を重ねて少し掠れていたが、温かみのある響きを持っていた。


「久しぶりだね。健太」


 ユエの声は、まるで遠い日の記憶のように清らかだった。

 健太は懐かしむように微笑む。


「ふふっ、ユエか。あの頃、ミステリーに憧れていたとはいえ、女の子に酷い名前の付け方をしたものだね、あの時の僕は」


「っ!?」


 ユエの透き通るような瞳が驚きで広がる。


「健太、どうして?そのことはあれから一度も話した事はなかったのに…」


 春風が二人の間を通り過ぎ、梅の花びらが舞い散る。それは、まるで時が巻き戻るかのように、二人を遠い記憶へと誘っていった――


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


 夕暮れ時の丘の上で、一人の少年が古い梅の木の前に立っていた。


「梅の木に現れる幽霊…本当に居たんだ」


 少年の声には興奮と不思議さが混ざっていた。


「幽霊?」


 少女は可愛らしく首を傾げ、「私は幽霊じゃないわ」と答えた。


「違うの?それなら、君は一体?」


「…分からない」


 少女は自分の手のひらを見つめながら答えた。


「私にも分からないの。本当にここに存在しているのかすらも。気が付くと何も無い別の世界に居るの……」


 その声には寂しさが滲んでいた。

 しかし、その話を理解しきれずに健太は眉を寄せた。


「幽霊じゃないけど、普通の人でもないってこと?自分の存在とか別の世界とか、難しくてよく分からない……あ、僕は健太。君の名前は?」


「名前…」


 少女は梅の花びらを見上げた。


「ごめんなさい。それも分からないの」


「そう、なんだ。それは困ったな。君のことを何て呼べばいいのか…」


 健太は考え込むように腕を組んだ。そのまま少し悩んでいたが、何かを思いついたように突然、その顔が明るくなる。


「そうだ!ユエなんてどう?不確定な存在Uncertain Existenceでユエ。今の話にピッタリだし、君にも似合ってると思うんだけど…」


「ユエ?」


 少女の瞳が揺れる。その言葉を確認するように再び口に乗せる。


「…ユエ、私の名前…うん。良いと思う。ありがとう、健太」


「気に入ってくれたみたいで良かった。これからよろしく、ユエ」


 健太の明るい返事に、微笑みを浮かべていたユエの表情が一瞬曇る。


「よろしく、健太。…でも、あなたはきっと今日のことをすぐ忘れてしまう。私が別の世界から戻ってくると…皆、私のことを忘れてしまうから」



「そうなの?…う~ん。それは嫌だな。せっかくユエと友達になれたのに……」


健太はしばらく考え込んでいたが、良いことを思いついたように梅の木を見上げて表情を明るくした。


「それなら、この梅の木を目印にしよう。そうすれば、もし僕がユエのことを忘れてしまっても、ここに来ればまた会えるでしょ?」


「また会える……」


 健太の言葉を繰り返すユエの目に小さな涙が光った。


「うん。それなら、私はこの梅の木の下で、健太がまた会いに来てくれるのを待ってる」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


「どうしてだろうねぇ」


 健太は懐かしむように空を見上げた。白髪交じりの髪が春風に揺れる。


「この年になると昔のことを思い出すことが多くなったからかもしれない。ようやくユエのことを本当に思い出すことができたよ」


「でも、あの時とは姿だって……」


 ユエは自分の手を見つめながら、言葉を濁した。


「そうだね」


 健太は優しく微笑んだ。


「ユエはいつも僕と同じくらいの年齢の姿だった。でも、見た目の違いなんて些細なことだよ」


 彼は懐から古びたノートを取り出した。表紙には数えきれないほどの春を越えた痕跡が残されている。


「記憶を失っていた時の僕も、ノートの記録から君をユエだと認識できただろう?ノートが記憶に変わっただけさ」


「ノートから記憶に…」


 ユエは静かにつぶやいた。


「確かに、言われて見ればそうかもしれないね」


 そう答えた彼女の顔には、一筋の涙と輝くような笑顔が浮かんでいた。


 その後、健太は梅の木の周辺の土地を買い取り、そこに小さな家を建てた。白壁に濃い木目の建具が映える、古き良き日本家屋の趣を残した家。庭には石灯籠が置かれ、夜になると柔らかな明かりが梅の木を照らす。


 やがて近所の人々から梅屋敷と呼ばれるようになったその家には、一人の老人が住んでいる。しかし、その屋敷からは時折、老夫婦のような二人が寄り添いながら、楽し気に語り合う姿が見られたという。その側には、二人を祝福するように満開の梅の花が咲き誇っていた。

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不確定存在のユエ 黒蓬 @akagami11

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