第22話

「辻褄が合うんだ、繋がるんだ」

 シート上に乱れ広がる髪。方々へ流れる曲線と小さな渦は、荒れ狂った、しかし美しい夜の海を思わせた。黒く波打つ海へ吸い込まれるように指先を浸したくなったが、しなかった。付着したままの筈の糸屑は、この角度からは見えなかった。

「わかったんだよ。恵麻は、過去の恐怖に囚われてる。同時に、宮間恵麻として生きる人生に疑問を抱いている。それで、ほんとうの自分になれないでいるんだ」

 一呼吸置いた。ヒーターの効いた車内は、薄く汗ばむほどだった。

「ずっと一人で抱え込んで、苦しかったと思う。でも、独りじゃない。僕が居る。僕も、似てるんだ。僕が、描こうとしていた漫画の粗筋を話したことを覚えている?」

 恵麻は目を伏せた。

「……覚えてない」

「――死んだ父親の部屋で、フィルムが見つかる、再生すると、一人の男の人生を描いた映画だったが、出演している役者を誰も知らない、って内容だよ、洋館のカフェで説明していて、途切れたままになった。結末は、単純なんだ、フィルムは、実際に撮影されたものじゃなく、父親の見た夢の内容が、念写されたものだったんだ、馬鹿らしいだろ。映像の中の主役は父親自身で、登場した者たちはプロの役者じゃなく、父親がそれまでの人生で実際に出会ってきた人物だったんだ。ただ、膨大な数の登場人物の中で、一人だけ、顔に黒い靄が掛かった者が居た。頻繁に登場して親密な立ち位置なのに、顔が見えないんだ。顔の無い女は、美女にも化け物にも見える奇妙な雰囲気を有していた。主人公は、その女の服装や物腰や、髪型や声に覚えがあることに思い至る。それは父親の妻で、主人公の母親だった……主人公自身は、フィルムに映ってさえいなかった。それだけの話だよ。それだけの、つまらない話。フィルに夢を映した男は、僕の父だ。父は、映画を撮る夢を叶える前に、自分を消した。死なない人間なんか居ないのに、摂理を待ち切れずに消した。けど僕は消えなかった。消えなかったけど、居残ったことを喜ばれる存在でもなかった。僕は、未だに消化できずに、喜ばれないまま、動けないでいる。ずっと認められなかったけど、そうなんだ。でも、恵麻となら――恵麻となら、僕は」

 再び息を吐く。喉が渇いていた。しかし舌は止まらなかった。

「恵麻は、橋を渡るべきなんだ。本当なら、記憶の中にある橋、その場所を訪ねるのが良いと思う、でも判らないから。違う橋でいいから、最後まで渡りきる、そうしたら、何かが見えるはずなんだ、恐れながらもずっと胸に抱えていた何かの全貌が。どれだけ時間が掛かってもいいから、橋に踏み入って、進むんだ。途中で苦痛が襲うかもしれない、怖い思いをするかもしれない、それも何回も、それでも、最後まで。渡りきったとき、恵麻は、やっとほんとうの恵麻に近づける、何かから奪われたものを取り戻す手掛かりを得られる、はずなんだ。僕は、そのとき、恵麻の側に居たい。同じ景色を見たい。そうしたら僕も、此処から動ける気がするんだ、だから。一緒に渡ろう、これから、」

 僕は恵麻の手を取り、起き上がらせようとした。

「やめて、」

 突如響いた大声に、言葉を呑んだ。両手で顔を覆って、恵麻は叫んだ。

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

 覆った手の下から、涙の筋が輪郭を伝い流れた。

「家に……、帰して。久我くん、は……、おかしい。言ってる……こと、が、わからない」

 しゃくり上げる彼女を不憫に思いながら、僕は慎重に語りかけた。誠実に諭そうとした。

「急に色々言われて、動揺するのは分かるよ。でも、これは恵麻のためなんだ。こうすれば恵麻は幸せになれる。誰よりも……恵麻自身よりも、恵麻のことを理解してるはずなんだ、僕が、僕だけが」

 恵麻は、手を除けて僕を見上げた。滲んだ瞳を通し、僕は己と対面した。思いのほか、縋るような、祈るような、泣き出しそうな顔をしていた。

「――五嶋さんは、橋、を、手放したら、距離を置いてみたら、いいって、」

 拳で窓を叩いた。びくりと肩を震わせ、恵麻は言葉を止める。

 恵麻を起こし、ドアを開け、車外に押し出した。後部座席に置いてあった二人の上着を抱え、続いて外へ出ようとしたところで、ふと考えつく。後部ドアに付けた収納ポケットからライターを取り、ジーンズのポケットに入れた。コンビニで買える安物で、樹生がここに隠し置いていたものだ。隠れて喫煙し始めたことは知っていたが、面と向かって咎めたことはなかった。

 黙したまま、引き摺るように連れて行った。暖かな車内に居たというのに、恵麻の手は冷えて、氷を掴むのに近かった。曇天と寒さゆえか、他に人の姿は無かった。橋が近づく、次第にその堂々たる姿を現す。吊り橋は、シンメトリーのハンガーとケーブルでできた両腕を迎え入れるように広げ、待ち受けていた。

踏み板に足を乗せ、恵麻の手を握って引き入れようとするが、彼女はここに来て強く抵抗をみせた。腰を落とし体重を掛けて踏みとどまり、一歩でも動くまいと強い姿勢を見せた。ケープコートの裾が土に擦れるのも構わず、頬を上気させる恵麻に説得を試みたが、泣きじゃくって嫌、嫌、を繰り返すのみ。やむなく力尽くで抱え上げた。抱えたまま、十歩進む。途中、恵麻の靴が脱げた。降ろすと、恵麻は膝を震わせて僕に掴まった。声を上げることさえ出来ず、立っていることもままならないらしく、しゃがみ込んで僕の脚に必死に縋る。慈しみともいえる感情が湧き起こり、僕は微笑む。「行こう、大丈夫だから」と、手を貸す。彼女はゆっくりと立ち上がろうとする。これから、新しく生まれ直すために二人並んで対岸を目指すのだ、今度こそ手を取り合い。その前に、脱げた靴を拾ってやらないといけない。しかし恵麻は、中腰のまま、黒いストッキングのみの脚で、引き返そうとした。来た道を目指す恵麻の肩を捕まえるが、また暴れ出してどうにもならない。僕はダウンジャケットを脱ぎ、恵麻の手前へ投げ捨てた。素早くライターで着火する。凹凸に富んだ化学繊維の上で、炎は意外なほど勢いよく増殖した。オレンジの輪が猛りながら服を喰ってゆく。退路を塞がれた恵麻は、愕然として炎を見ている。靴を渡すこともせず、解けぬよう腕を組み、歩き出した。恵麻はもう抗わなかったが、足取りは酷く重かった。風が吹く、髪をばさばさ操り、頭皮を冷やす。十メートル、二十メートル、三十メートル、残りあと五メートル……僕らは鈍色の川の上を進んだ。恵麻は言葉を発さず、激励していた僕も次第に口を閉じた。寒さが骨まで浸食してくる。脳天を柔く突くものがあった。雪でなく雨だ。雨は勢いを増し、躊躇無く肌に染みいり熱を奪った。気づかぬ間に、渡り終えていた。恵麻の体から急に力が抜け、地面に尻を付いて脱力した。ストッキングの足裏は破れ、汚れた素足が覗いていた。化粧が取れ髪を頬に張り付けた恵麻は濡れそぼった痩せ鴉のようでみすぼらしく、僕も同じような風体に違いなかった。恵麻は、紫がかった唇で、百年振りに喋ったような、老いた声を絞り出す。

「いえに、かえして」

顧みると。遠目に、ばらけた靴と、煤けたジャケットの残骸が認められた。それだけだった。

明日、一人で、知らない街へ発とうと決めた。

(了)

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砂川緑 @funnyglasses

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