演者ラッキー・ガールP 1

 芸名「演者ラッキー・ガールP」は2004年埼玉県川口市に生まれた。本名は権藤頼子。この固い響きを避けてカナ多めの芸名にしたというのもあるにはあったが、やはり、PUFFYの1998年『渚にまつわるエトセトラ(作詞井上陽水作曲奥田民生)』のなかの「私たちは スゴイ ラッキーガール」っていうあの部分を好んでいたというのが芸名命名にあたっての主だった理由である。父母がPUFFY世代なのでよく聞かされていて自分も馴染んだということなのだった。


 PUFFY世代なわりに「子」のつくオールドファッションな名前にしたのは、父が「リスペクト」する祖母、父からみれば「実母」の名をそのままとって「継承」したいうことである。祖母は父出産直後の産後の肥立ちが思わしくなく、そこへ、その当時折悪く流行していたインフルエンザに罹患して「早逝」したために、ある意味「伝説」の存在になっていたのだった。芸能に関しては和洋の楽器、声楽、そして作曲等、多方面の音楽の才能があり、世間一般広く名を知られる、ということはなかったのだが、残された写真、映像をみると確かに一目で秀でた人だったとわかるインパクトで、孫たる頼子も憧れを抱いていた。


 祖母頼子は「実演」中心世代だったが、ガールP(※以下この呼称で統一※)はDTM、ボカロなどが周囲に当たり前にある環境に育ったので、ためらわずになんでも使い倒す行動様式で音楽活動に臨む。PC駆使した打ち込み音源製作能力も、祖母から受け継いだ実演の能力も、両面すくすくと成長し、ローティーンの段階で、アップロードした音楽作品動画が次々再生回数100万超え連発するレベルになった。


 高校卒業して「顔出し」して、実演に打って出て、祖母頼子に匹敵する秀麗なルックスにより、レコード会社、芸能事務所などの、引く手あまたの「争奪戦」が繰り広げられるさなかに事件は起こった。


 交渉相手のひとつだった大手芸能事務所ガルガンチュア、音楽業界全体の「大立者」とも見なされていたそのガルガンチュアの社長が直々に自宅マンションまで出向いてきた際に、あまりのハラスメント仕草に堪忍袋の緒が切れたガールPが口汚く罵倒したら、元々「瞬間湯沸かし器」と揶揄されがちだった社長も、なんだ!?この小娘が!!生意気な!と言い返してきて、のみならず手も出てきたので、払いのけたところ、高齢で運動不足で不摂生な暮らしぶりが続いていた社長はその不意の反撃によろめいて転倒し、後頭部強打して死んでしまったのだ。


 たまたまこの一部始終はガールPデビューへ向けてのドキュメント番組制作進行中だったのもあって録画されており、事件性のない事故として処理され、ガールPは罪に問われることはなく、むしろ元々悪評の高かったガルガンチュア社長の死は世の中の「お茶の間」面ではむしろ歓迎されたくらいだったが、それはそれとして、オールドメディアを中心とした「表」の側では、大問題となり、ガールP側への風圧の方がもの凄いことになってデビューうんぬんどころではなくなり、ハイティーンにして才能豊かな者が、一瞬にして「表街道」から姿を消すことになった。


 なったのだが、既に楽曲管理始めて5年以上経過していたし、実のところ収入面での将来展望は暗くはなく、変に人前に出て、頭のおかしな者と直に接する機会なんぞは、むしろなくてもいいような気もしていたので、初対面の爺さんがいきなり目の前で死んだショックはあったにせよ、それが「トラウマ」になるってほどのこともなく、概ね静かに、心おだやかに、数年の時を過ごした。


 以前と変わらぬペースで作詞作曲して、音源作って動画にしてアップロードしていれば、常に高評価、再生回数トップクラスになるので、そこは何も問題はなかった。


 ただやはり祖母頼子から受け継いだ「実演者」の血が騒ぐという側面もだんだん出てきた。それにやはりまだ若いし、動画制作生活のひきこもり状態に飽きてもきた。


 人前で「大声」出すっていう快感もそれはそれで捨てがたいというのもあった。


 で、純粋に「実演」をできればその形式がどうであれ、なんでもかまわない、というある意味「鷹揚」な精神状態でもあった。何せ作詞作曲編曲家&動画制作者としては既に「成功者」だったし、「ワナビー」ではなかったから、気持ちに余裕もあった。


 そしてある日、ネットサーフィン中にパチ屋の店頭で実演している「演者」の動画をみて、ああこれだ、この境地だ、と思ったのだった。とにかくその機動性がよいではないか、と。


 全国ドームツアー、のような大掛かりさまるでなし、というのが気に入った。


 業界最大手の「ギガント」は、タイゾー&ひゃっこ夫妻の独壇場になっていたので、2番手と目される「大艦巨砲」チェーンに自ら売り込みをかけたら、「え?あのガールPさんですか?」と驚きの反応があり、即採用となり、大鑑巨砲の旗艦店における旧「強イベント」的な日取りの際に、大概呼ばれて出向いて演奏するような流れになった。


 なにしろ「実演」に飢えていたので、ネタは大声で歌えればなんでもよく、そのあたり実技能力には十分長けていたので、ネットでチェックしたパチンコ、パチスロ音楽の著名なものはショルダーキーボードでサクッと弾けて、スキャットでフルコーラス主旋律を歌いきって、さらにそれを変奏して延々何コーラスでもインプロでやれる、っていうくらいの仕込みはしておいた。自らのオリジナル曲をやるつもりはさらさらなかった。


 人前、実演、にあたっては、肌の露出を抑え、顔面もコスプレであまりわからないようにして、元来そのあたりパチ業界側は真逆の「露出」の方向を要望しがちな面が多々あり、当初不満も漏れ聞こえてきたが、何しろ圧倒的な「実力」でそこは押し切った。とにかく「上手い」「速い」うえ、アドリブ効くので顧客のその場のリクエストにもこたえまくりなので、評判が評判を呼び、色気、性欲度外視の「ヴィルトゥオーソ」要素のみで、再度「表舞台」にちょくちょく出てくるようになった、というかオールドメディアもタブー視せず話題にするようになってきた。


 がしかし、その場の当意即妙のアドリブ展開も多い「実演」のため、著作権絡みのあれこれもあって、テレビメディアでその様子が詳細に流れることはあまりなかった。「実演」できればよくて、集客についてはどちらかといえば避けたいガールPにしてみれば好都合な展開である。


 さらにいうと、「退廃娯楽廃絶」の政治的動きの活発化で、業界自体瀕死の様相を呈しており、ちょくちょく「話題」にされ、再度の「注目」を浴びるようになったとはいえ、それはどちらかというと、「あの人は今」的な「落ち目」感を強調するようなところもあり、それもガールPにとってはむしろ好都合であったし、実際「パチ」業界の行く末に関してそう深い興味はなかったのだった。


 というわけで「自己表現」という内省の部分は作詞作曲動画アップの面で満たし、楽器を弾いて声を出す、という「身体の解放」のフィジカル面はパチ屋の演者をやることで発散する「二重生活」が始まったのであった。


 なので「動画」のアカウント名は「ラッキー・ガールP」であり、パチ屋店頭に立つ際の芸名は「演者ラッキー・ガールP」と使い分けるような形式になった。


 快適なその「二重生活」が始まって4年が過ぎて、ガールPが齢27になった2031年、いよいよ「退廃娯楽廃絶」を主張する側、「野党連合」=「大陸東連合」の動きも過激化し、「パチ」実店舗破壊工作もちらほら始まっており、あくまで「音楽家」として振る舞い、政治的言動は一切してこなかったガールPではあったが、眼前の「身体的危害」のリスクが高まってきつつあった。


 当初、パチがこの先どうなろうとあたしの知ったこっちゃない、という考えだったものが、「二重生活」4年の歳月が流れるうちに、業界の再度の隆盛はたとえ無理にしても、「廃絶」というのはあまりにおかしな考え方ではないか?という疑問を抱くようになり、関連書籍をぼつぼつ読むようになった。


 そのなかで特に惹かれたのが東大先端研究所所長御手洗中也の著した『銀玉のブルックナー』であった。











































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日本列島のパチ文学 辻タダオ @tsujitadao

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