動けなくなった男

鴻上ヒロ

動けない男

 午前八時十分、私は動けなくなった。

 私は、自宅デスクの椅子から、動けなくなった。

 窓の外は朝らしく、小鳥の囀りが耳にうるさく、そのうえ直視できぬほどの日光が照らしている。お節介な陽の光を避けようとカーテンを閉めるが、遮光性が足りないらしい。


 さて、私はどうしてデスクの椅子から動けなくなったのか。わからないのだが、とにかく昨日の晩は酒をたらふく飲んだような記憶がある。酒を飲み、アイランドデスクなんて格好良いじゃないかとデスクを動かし、PCラックで道を閉ざした。

 ラックはピタリと壁にくっついてしまっており、動かすことができない。なぜこのようなレイアウトにしたのか、椅子を引くことすらもままならない閉塞とした空間が、突如として出来上がっていたのだ。


「どうしたものか」


 異常な配置のデスク周り以外は、普段通りの部屋である。缶ピースで黄ばみ、元の色を思い出すこともできなくなった壁に、半年は敷かれたままの煎餅布団。

 ここはまるで牢獄か座敷牢か。いずれにしても牢であることに違いない。


 私の人生は、ここで終わるのか。

 そう思うと、途端に腹が立ち、腹が減ってきた。

 私には、幾分かの青春への憎しみというものがある。それを途端に思い出し、辟易とし、嘆息を抑えられなくなった。


 私には、苦手な人がいる。人間関係というものを軽々しく切り貼りできると思っている人間だ。

 私には、苦手な食べ物がある。甘ったるいホイップクリームだ。

 私には、苦手なことがある。大量に積み上がった書類の山だ。

 私には、嫌いなことがある。如何ともしがたい事態に直面し、ただ怯え諦めることだ。


 目を閉じると、そのようなことばかりが浮かんでくる。嫌いなものや苦手なものばかりが脳内に積み上がっている。


 私は動けなくなったのだ。


 そろそろ、現実逃避をするべき時間は過ぎただろう。窓の外から差し込む陽の光が背中を熱し、私の心を急かしてくる。ひとまず昨晩食べ残したワラスボをかじりながら、ラックを動かそうと試みる。ピクリとも動かない。

 デスクを動かそうと試みる。床に根を張っているかのようだ。

 そもそも、このような狭い空間では力を込めることすらままならない。椅子を引けないということは、椅子から立ち上がれないということでもあるのだ。

 椅子に座ったまま、この接着されているような物達を動かすことができるだろうか。


 そうだ、電話をかけ助けを呼ぼう。

 携帯電話の連絡先には、誰も登録されていない。チャットアプリの友達も、綺麗さっぱり消えていた。まったく、おかしな話があったものだ。昨晩の私は、連絡先という連絡先を根こそぎ消してしまったのだ。

 友と言えど、電話番号など覚えてはいない。


 私は、動けなくなった。


 時間はまだ午前八時十三分である。歯に挟んでいるワラスボも、まだ噛んでいる真っ最中だ。信じられぬほどに時間がゆっくりと感じる。身動きが取れないというのは、これほどまでに人間の心を追い詰めるものなのか。

 いや、そもそも私は動ける人間だったのだろうか。私は借金で身動きの取れない人間であり、心に重石が乗せられたかのように動かない人間だったように思える。

 動けないから追い詰められているのではない。追い詰められているから動けないのだ。


 私は動けなくなった男ではなく、元より、動けない男だったのだ。嫌いなものと苦手なことが目の前に積み上がり、手足を藻掻き動かすことすらも無駄だと断じてしまった情けない男に過ぎない。

 他の仕事をしたほうが良い、この仕事は向いていない。そう思いながらも、他の仕事に移れなくなった男でもあった。

 ならば、今更だろう。

 動けなくとも良いじゃないか。今目の前には無数のやるべきことがあり、人生という道を塞いでいる重石をどかすための行動が提示されているのだ。


「仕事するか」


 私は、手のみを動かし始めた。

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動けなくなった男 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki

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