終章
第55話
からんとドアのベルが来客を知らせ、茜は屈めていた体を起こした。壮年の男性が二人、仕事の合間の休憩か、物珍しそうに店内を見回している。
「空いているお席にお掛けください」
茜は声をかけ、店の中ほどに手を向けた。
戸惑いがちに小さく頷く様子も、不自然なほどぎこちなく歩く姿も、そういえば久しぶりに見た。
コップに氷と水を入れ、おしぼりを受け皿に置いて、トレイに揃えて先ほどの客のところに向かう。
「いらっしゃいませ。ご注文が決まる頃にお伺いします」
「あの、本当にこの店は、その……『あゆみ』に従わなくてもいいんですか?」
「はい。区から特別な許可を受けて営業しております。お店を出るその時間までは、ご自由にお過ごしください」
茜がそう言うと、男性二人は安堵の表情を浮かべ、上着のボタンを外した。
茜は一礼をし、カウンターに戻る。そのやりとりをしたからか、カウンターに秋葉の姿が重なって見えた。茜は立ち止まり、目を凝らす。けれどそこに秋葉の姿などあるはずもなく、火を落としたサイフォンの列が茜を待っているだけだった。
あの日、文化祭の日から五年が経っていた。その時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。舞台で沙織が歌唱を終えるや、騒ぐ聴衆を掻き分けて壇上に上がってきた厚生局員と一悶着の末、舞台袖にいた秋葉、群衆に紛れていた上原と一緒に拘束され、警察署へ連行されることになった。学園祭はそのままなし崩し的に中止になったことを知ったのは、拘束されて二日目、絵梨香と沙織と三人いっぺんに釈放された時だった。
三人ともそれぞれの事情で釈放となったが、流石に首謀した秋葉とサークル幹事長の上原は逮捕され、上原は不起訴になったものの、秋葉は裁判で実刑判決が下り、控訴することなく刑務所に収監された。
秋葉が逮捕、起訴されたことで、この喫茶店も閉店を余儀なくされた。けれど、茜はどうしても店を守りたかった。いつか、秋葉が出所した時、帰ってくる場所が必要だと思ったのだ。
いつ帰ってきてもいいように、それだけを思い、茜は厚生局に直訴してまでこの店で働くことを選んだ。
再開には、神田が手伝いを買って出てくれたし、驚いたことに厚生局の吾妻と志村も、行政手続きを引き受けてくれた。厚生局としては『劇団』を刺激しない方がいい、という政治的判断をしただけだと思っていたが、もしかしたら二人も内部で味方になってくれたのかもしれない。そういう話を吾妻にしたことがあったが、「私もこの店がなくなるのは寂しいって思っただけです」とつっけんどんに返された。志村が「それってツンデレっていうんですよ」と言ったことに思わず笑ってしまったが、それからも、たまに二人で店に来てくれる。今ではもう大切なお客さんだ。
郷愁にも似た心持ちでカウンターに入り、一つ前のオーダーの準備を再開する。ちょうどカウンター下の収納棚からカレー皿を出そうとしていたところだったのだ。
「だから、カレーは頼んでないってば」
矢継ぎ早に指摘され、茜はカウンターに座っている絵梨香と沙織に向き直った。
「すごいね、中断してたのに」茜が気持ちの全くこもっていない感嘆を口にすれば、「いい加減、よく飽きませんよね」と呆れ顔の沙織がため息混じりに言う。
「よくできました」
茜はけたけたと笑い、本当の準備、サイフォンの設置に取り掛かる。
「さっきのお客さん、初めての人っぽかったね」
「雑誌読んでくれたのかもしれないですね」
「茜がこの店を継いだのにも驚いたけど、あんな特例を茜が言い出すとは思わなかった」
「そう? 絵梨香が協力してくれたおかげだよ」
サイフォンの漏斗へコーヒー豆を入れる途中で、茜はそう呟いた。『あゆみ』は今でも健在で、基本的にはそれに従って生活することに変わりない。けれど、あの事件をきっかけに、少しずつではあるが風向きは変わりつつある。茜が店の再開とともに提案したそれは、これまで人目につかない場所でひっそりと行われてきた『あゆみ』からの逸脱を公式に認め、管理することで行き過ぎた倒錯を防ぐという名目で厚生局に納得させたものだ。
「たまに来るんでしょ? あの人たち。吾妻さんはさ、絶対秋葉さんのことが好きなんだよ」
「そうなの?」
「絶対にそう。絵梨香さまの目は誤魔化せない」
「絵梨香さんそれ系の話題好きですよね」
「だって、普段はそういう話ってできないじゃん」
「そのための場所ってわけじゃないんだけど」
フラスコに水を入れ、火を付ける。
「オーダー取ってくるから、ちょっと見てて」
本当はいけないのだろうが、絵梨香に火の番を頼み、先ほどの客のテーブルに向かう。コーヒーを二つとチョコレートケーキとチーズケーキとは、甘いものが好きなのだろう。もしかしたら、会話が弾む気配を感じているのかもしれない。
自分の淹れたコーヒーが誰かの元に届くことが、実は未だに不思議だった。秋葉がいた時にもランチタイムに抽出を手伝うことはあったが、それは秋葉が整えた状態に自分が最後の仕上げをする程度だった。豆のブレンド、煎り具合、粉の粒度、抽出時間、それら全てを自分でコントロールすることがどれだけ大変か、やってみるまで想像することもできなかった。
どれだけ『あゆみ』に頼って生活していたのか、それがよく分かった。
絵梨香たちのコーヒーと続けて抽出し、一通り給仕が終わる頃、別の客の会計が入り、またカウンターを抜ける。ひとりで店を切り盛りしていると、なかなかに目が回る。ランチタイムだけでなく、夕方もアルバイトを雇った方がいいのかもしれない。
ようやくひと段落し、カウンターに戻る。
「この三人が揃うのって、そういえば久しぶりですよね。私はまだ学生だからたまに来ますけど、絵梨香さんは最近どうなんですか? 厚労省ですよね?」
「どうもこうも、『あゆみ』の今後について、ずっと会議だよ。神田先生とも話してるけど、やっぱりこの国の根幹だから、この特例を認めるのにだって結局一年かかったし、一応緩和の方向で話を進めるようにしているけど、やっぱり抵抗する人は多くて、もうどうしたらいいものか……」
「沙織ちゃんはその神田先生のところで院生なんだから、なんだかんだ『あゆみ』とはみんな縁があるよね」
「先生も意外と厳しいし、私もその会議の準備とかで色々大変ですけど、でも何だか楽しいですよ。きっとなんとかなります」
「沙織ちゃんって、楽天的っていうか、享楽的なのかな」
「エムってこと?」
「兄はシスコンだし、大変ですよ」
「エムじゃないでしょ、沙織ちゃんは」
「やっぱり、誰も兄のことを庇わないんですね」
三人でひとしきり笑う。餌食になった上原は今、大学の近くにある小さな出版社で働いている。学生街の情報誌やグルメ雑誌を手掛けているようで、この店もたまに紹介してもらっている。
「そろそろ行くね。これから先生と沙織ちゃんと三人で食事、という名の作戦会議だから」
「うん」
伝票を取り、レジへ向かう。
「ごめんね、仕事の邪魔して」
「いいよ。久しぶりに楽しかったし」
金額を伝え、絵梨香がまとめて支払う。
「いいんですか?」
「お姉さんに任せなさい」
手を振り出ていく絵梨香と沙織を見送り、茜はカウンターに向き直った。やはりそこには誰もいない。今はまだ、それでいい。フロアから手が上がり、茜は伝票を握って静かに歩いた。おかわりを所望する客の注文をメモし、再びサイフォンに向き合う。火に熱せられて沸き立つ熱湯が、コーヒーに変わっていく。
あの時、秋葉がこの国に投じた『あゆみ』にまつわる問題提起は、それに関わった人の人生に大きな影響を与えた。あれがなかったら、自分は最後まで敷かれたレールの上を走っていただろう。
けれど、秋葉がそれを変えた。もう変わってしまった。土曜日の午後に新宿の喫茶店へ行くこともなく、あの時、『あゆみ』で宣告された死は、ついぞ訪れることはなかった。
不安はある。店は繁盛するのか、といった下世話なことも、秋葉が帰って来なかったらどうしよう、といった漠然としたものも、上げればキリがない。けれど、それが自由ということなのだと、秋葉なら言うだろう。
ドアがからんと来客を告げた。茜は思考の渦から顔を上げ、声を出す。
「いらっしゃいませ」
相好を崩し、軽く手を振る仕草がひどく懐かしく、茜は思わずくしゃみをした。
アクト 長谷川ルイ @ruihasegawa
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