ブライダル・プロミス

栗餅

第1話

「必ず魔王を倒して、生きて帰ってくるよ」


勇者様は、わたくしの瞳を真っ直ぐに見て、そうおっしゃいました。

出発の朝、見送りの場でのことです。

わたくしは手を痛いほどに握りしめ、魔王を討伐するために旅に出る、四人の英雄を見つめます。


御使いより与えられた、癒しの力を持つ聖女様。精霊王の力を借り受け、大自然の力を操る魔道士様。軍神の加護を受け、どんな武器であろうとも自在に操る戦士様。

そして、創造神が地上にお落としになった天上の武器、聖剣を人類で唯一握ることの出来る勇者様。


四者とも、人類を背負って立つに値する力と信念を持つ素晴らしいお方たちです。

それ故に民にとっては、彼らは偶像化された英雄であり、人間という枠組みから外れた者と思われているのでしょう。実際、人外じみたお力を持っている事実は覆しようがありません。

でもわたくしは、そうではないと知っています。決して、英雄などという完璧な存在ではないと知っています。

彼らは普通に泣き普通に笑う、ただの人間であるのです。その身に重すぎる使命を背負ってしまった故に、大人びることを強いられただけの。


そんな彼らを送り出すのに、わたくしは躊躇わずにはいられません。

ましてやその一人――勇者様が、最愛のお人であるのですから。送り出さなくてもよい状況なら。そう、数え切れないほどに思いました。わたくしにもっと力があれば。そう思わずにはいられません。


そんなわたくしの心中を読み取ったのか、勇者様は、最愛の恋人は、困ったように笑いました。

男らしい骨ばった手で、わたくしの金髪をかきあげます。

前髪が上げられ、わたくしの額が露になりました。淑女としてはあるまじき姿。でも、勇者様にされることならば全てが嬉しくてたまらないのです。

わたくしの瞳と、勇者様の赤い瞳がかちりと合います。

勇者様は、快活な笑みで言葉を紡ぎ始めました。


「大丈夫、僕の強さは、君も知っているだろう?魔王なんて、簡単に倒せるさ。――必ず無事に帰るから、その時は二人で、ささやかな式をあげよう」


最後の言葉は、少し照れくさげに言って、わたくしの額に口付けてくださいました。

口付けられた額がぽわと熱を持ち、淡く光るのが分かります。気の所為などではありません。たしかに、熱を持ったのです。熱はすぐに引きましたが、わたくしは何をされたのかすぐに把握しました。


“誓約の印”です。

この国の民なら誰もが知っている初級魔術。拘束力があるわけではないですが、約束を思い出しながら印をつけた場所に触れると淡く光ります。また、約束が果たされるまで、決して印が消えることはありません。

そのような特性を持つため、大事な約束をするときに多く使用される魔術です。

それを使って約束してくれたことで、わたくしの張り詰めていた心が少しだけ緩みます。本当に生きて帰ってくれるつもりなのだと、強く信じられましたから。

そして一拍後、プロポーズ紛いの言葉を言われたことに気づいて、顔に熱が集まりました。


「はい……っ」


あまりの嬉しさに、眦に涙が浮かんだのがわかります。はしたないとはわかっているのですが、抑えきれません。

勇者様の手を固く握り、承諾の言葉を返しました。

握り返された手を見つめ、ずっとこの時間が続けばいいのに、と願ってしまいます。

ですが幸せなだけの時間は、そう長くは続きません。


「――そろそろ時間だ」


勇者様はわたくしの手をそっと、名残惜しそうに離し、仲間の元へ歩きます。

三人の仲間に並び立つ姿は、御伽噺に見るヒーローそのものでした。英雄として見たくないと、そう思うわたくしでも瞳の裏に思い描いてしまうほどに。


「じゃあ、行ってくるよ」


まるで散歩にでも行くように、軽い調子で手を振る勇者様。自分だって不安で仕方がないだろうに、笑って別れを迎えられるその強さには尊敬しかありません。

わたくしも少しでもそれに習えるよう、意識的に笑顔を作って手を振り返します。

そんな風に思い、手を振っているのはわたくしだけではありません。民にはお触れを出しているため、ここには王宮住まいの者たちしかいませんが、それでも数多い人々全員が手を振っていました。


人々からの激励を受け、勇者様たちの一行はわたくし達に背を向け、歩きだします。

遠く遠く、その影さえ見えなくなるまで、わたくしは彼らを見つめ続けました。

そうしていることに意味はありません。ただ、そうしなければならないという直感に従ってのものです。

四人の英雄は魔王を討伐するため、死地に赴きました。


     ***


あちこちで火の手が上がっています。水をかけている民も多くいますが、消える炎より燃え上がる炎の方が遥かに大きくて、キリがありません。魔法で作られた炎は自然の炎と違い消えづらく、燃え広がりやすいのです。

加えてその魔術を操っているのは、魔王直々に力を与えられた魔族。その炎が消えやすいわけがやいのです。そのため消火活動は、思うように進行していませんでした。


子供の悲鳴が、兵の呻きが、家族を奪われた嘆きが絶えず聞こえてきます。

今もそこで、誰かが死んだのでしょう。

華々しく整理された王都が、血と炎の赤色に染まっていくのを肌で感じます。

そんな地獄のような風景の中でも、わたくしが思うのはただ一人のことだけでした。


――勇者様は、今頃何をしているのかしら。


こんなわたくしはきっと、王女失格なのでしょう。どんなときも国を一番に想い行動するなんて、できっこないのですから。

ですが、一人の女として、愛する人の無事を想わずにはいられないのです。

それも、王宮の一部屋、最も安全な場所で息を潜めているわたくしが言えば、ただの偽善でしかないのかもしれませんね。

勇者様は今だって、最前線で戦っているのですから。

それでも、何の力もないわたくしにできることはこれくらいしかないのです。

嗚呼、どうかご無事でおりますように。

願いを込めて額の印を指でなぞると、そこに熱が灯るのを感じます。

そのあたたかさが、この約束はまだ生きていることの証左に感じられて。

それに縋らずには、いられないのでした。


     ***


遂に王宮が倒壊しました。

こんな日が来ることはわかりきったことでしたが、やはり自らの住んだ家が壊れていくのを見るのはつらいものです。

わたくしは逃げ出しましたが、王宮と心中することを決めた兄様を誰が責められることでしょう。

兄様にお別れを言うことも叶わず、それを聞いたのは人伝でした。

胸がじくじくと痛みます。

わたくしと一緒に逃げてくれた護衛騎士も、一人はわたくしを庇って魔物に噛まれ、一人は蛇のように自在に動く炎に焼かれ、死んでいきました。

王族として顔の知れているわたくしは、騎士だけではなく民に庇われることもありました。

先に行ってください、と自分の命をかえりみず体を張って守ってくれる姿を、嬉しく思いながらも申し訳ない気持ちが先立ちます。

わたくしは民さえ見殺しにしました。

もう既に、王族としての矜恃などありません。

利用できるものを利用しているだけの、小賢しいただの人間です。


それでも、そう自覚していたって、わたくしは走りました。

もはやこの国に、この世界に安全な場所などありません。

それを悟りながらも、足が勝手に動くのです。

何処へ向かっているのかも分からないままに、それでも確かな直感に従って。

額の印に勇気を貰う暇などありません。

当然です。体力などない体で、恐ろしく長い距離を走っているのですから。

額に手を持っていく動作をすればすぐに体から力が抜けて、へたりこんでしまうでしょう。

しかし額になど触れなくても、確かな“約束”は思い出せます。

わたくしと勇者様は、生きて会わねばなりません。

その為だけに、わたくしは走っています。


     ***


目の前に、扉がありました。

とてもとても、大きな扉です。

その大きさとは裏腹に、精緻な文様が刻まれています。

ですが、この美しい文様を素直に讃えられないのは、何故でしょうか。

綺麗ではあるのですが、どこか禍々しさを感じるのです。

ひどく冒涜的な、あってはならない侵害なのではないかと、そう思ってしまうほどに。

それとも、そう感じるのは気の所為であって、『完璧に美しいものなどあってはならない』というわたくしのエゴなのでしょうか。

分かりません。騎士の忠誠を、民の善意を踏み台にして、ここに一人で立つわたくしには、分からないのです。

否定をしてくれる仲間も、肯定をしてくれる第三者も、いないのですから。

ですから、進むしかありません。

この扉を開けたら魔物が出てきて死んでしまうのではないか。

そんな恐怖が無いわけではないですが、どっちにしろわたくしはこの数日何も食べていないのです。

このまま立ち尽くしても、死という避けられない運命が待つのみです。

わたくしはなけなしの勇気を振り絞り、扉を押しました。

重厚感を感じる作りに、もし開かなかったらどうしようかと思いましたが、それは杞憂だったようです。

重みは感じましたが、扉はギィと音を立てて開きました。


ですがその瞬間、濃密な血の香りが鼻をつきます。

嗅ぎなれてしまった臭いですが、そのあまりの濃密さと、綺麗に見える外観とのギャップに驚き、手を離してしまいました。

しかし中がいかに血で汚れていようとも、生きた魔物の気配はしなかったので、外よりは安全なはずです。

正直不快で仕方がないですが、背に腹はかえられません。

再び扉を押し、今度は手を離すことはせず、開いた隙間にスっと体を入れこみます。扉を全開にするだけの力は残っていませんが、このくらいなら非力なわたくしにもできました。

ギィィ……という不快音の後、バタンと扉が閉まります。

この屋敷には扉以外に光を取り入れる場所はないようで、ただただ暗闇が続いていました。

その異様な光景は、まるで世界から隔絶されてしまったかのようで、どこか、恐ろしさを感じさせます。


それでも勇気を出して一歩を踏み出すと、足元に何かが当たりました。

こつん、という固い感触。

思いがけない障害物に転倒しかけましたが、なんとか踏みとどまります。

それを拾い上げてみると、拳大の金属でした。

手元も見えないほどの暗さなので、どんな金属なのかは判別出来ません。

ですが、どんな金属でも躓けば危ないことには変わりないでしょう。

こんなものがたくさん転がっていれば、歩いて探索どころではありません。

転ばないように、右足で足元を探ってみます。

少々はしたないですが、それは今更なことでしょう。王宮から着てきたのは簡素なワンピースですが、所々破けてしまっています。そのおかげで足を思い切り伸ばせるという利点もあるのですが。

それでも、それほど身長が高くないわたくしの足が届く範囲は広くありません。しかし、いくつも足が引っかかる地点がありました。

どうやら、いくつも金属か、そうではなくても障害物が落ちているようです。

これは、目が慣れてからではないと危ないですね……。

そう思ったわたくしは、その場で立ち止まりました。急く気持ちはありますが、ここで焦って進んでしまえば怪我をするのは明白だったからです。

わたくしは、自分で言うのもなんですが深窓の令嬢でしたので、運動神経もそれほどよくないですし。


立ち止まり思考する余裕ができると、むせかえるような血の匂いをさらに意識してしまいます。

魔物の血も、人の血も浴びてきました。しかし建物は破壊され、ほとんどの時間屋外にいたこともあって、ここまでの衝撃はありませんでした。しかしここは密室です。直接的に感じる血の匂いに、気分が悪くなります。

吐き気を催しますが、胃は空っぽで、吐く食べ物などありはしません。

口呼吸をするように意識し、耐えました。

そうして、どれくらい経ったでしょうか。

鼻が麻痺してくると、わたくしは血の匂いに違和感を覚えました。

先程までは強烈な匂いだったため気づきませんでしたが、今なら分かります。

駆けてきたどの場所とも微妙に違う、この匂い。

それは、魔物の血独特の匂いでした。

魔物の血は、人間や動物の血とは違い、仄かな果実の香りを漂わせます。それは、神話に書かれた禁断の果実を思わせるほど、甘美で心惹かれる香りです。

それは殺された魔物の至近距離に居なければ分かりませんが、不幸か幸いか、きっと不幸でしょうね。わたくしはその現場を何度も見ています。

ですが、街中の血の匂いは魔物と人間の血が混じって、果実の匂いなど感じさせません。

それを感じるということは、この場の血の匂いは、殆ど魔物のものなのでしょう。

もしかしたら少しは人間の血が混じっているのかもしれませんが、大部分が魔物の血だという事実は、わたくしが救いを感じるには十分なものでした。

気持ち悪さが少し軽減され、安堵を覚えます。

気持ちが軽くなり、少し経つと、今度は目が暗闇に慣れてきました。

慣れてきたとは言っても、数メートル先が薄暗くもギリギリ見える程度です。

しかし躓く可能性は減ったので、この城を探索してみることにしましょう。

転ばぬように慎重に、一歩一歩歩いていきます。

床には金属、礫、剣や盾などの武具や、回復のためのポーション、魔物の死体と言ったたくさんのものが落ちていました。

武具やポーションがあるということは、ここには人間がいたのでしょうか。

しかし、今の所人間の死体はありません。

それは幸いですが、手がかりとなるものも見つかりません。

外観を見る限りかなり大きく、少なくとも一階建てでは無いはずなのですが、階段さえも見つかりません。

吹き抜けなのでしょうか。ですが、全て吹き抜けの建物など聞いたこともありません。

一部吹き抜けになっているとしても、きっとどこかに階段はあるはずです。

わたくしは手がかりを探し、歩きました。

十数分ほどは、歩いたでしょうか。いえ、もっと短いかもしれません。暗闇で一人、歩き続けるのは、ひどく精神を消耗します。時間感覚などなくなってしまうほどに。


しかし、やっと階段を見つけました。螺旋階段です。

手すりを指でなぞってみると、扉と同じように精緻な文様が刻まれているのが分かります。

扉と完全に一致した物なのかは分かりませんが、似たようなデザインではあるのでしょう。

興味をそそられない訳ではありませんが、今は先に進むときです。

螺旋階段。城全体が歴史を感じさせながらも古くさいとは思わせない作りでしたが、階段に乗っても、壊れたりはしないでしょうか。

一段目に右足を乗せてみましたが、軋むことも無く丈夫そうだったので、登っても大丈夫でしょう。

それでも一段一段、慎重に踏みしめて登ります。

豪勢な作りの階段を四十段ほど登ったでしょうか。二階に着きました。

まだ階段は続いており、暗くて見えにくいですが、もう一階分、あわせて三階だけで終わることは無いでしょう。

一フロアもあれほど広かったのですから、全ての階を踏破するのは大変そうです。

何か食べ物を見つける前に力尽きてしまえば、そこで終わりという縛りもあることですし。

早く見つけなければ、歩くことさえも難しくなっていくでしょう。

ですが、外から見る限りここは城。物置などではありません。

城ならば、どこかに必ず厨房があるはずです。

魔物に襲われて酷い有様となった内観ですが、魔物が狙うのは人のみで、家畜の肉には興味を示すことはありません。

ですから厨房さえ見つけてしまえば、問題は無いでしょう。

そう結論づけると、一階と同じように床に転がった障害物を避けながら、二階をゆっくり、それでも気持ちは急いて、歩いていきます。

十分ほど、歩きました。

わたくしの目の端に、これまでの魔物とは、違う死体が映ります。

何だろう、と近寄ったのが間違いでした。それは容易に予想出来たことであるのに。


「ひっ……」


わたくしの視界いっぱいに映ったのは、人間の死体。

腕が千切られ、体にはいくつもの切り傷があり、足はあらぬ方向に曲がっています。

そのおぞましさに、思わず小さな悲鳴をあげてしまいました。

直視したくなくて、目を逸らします。

ですが一瞬見えた、破れ原型を失った衣服に見覚えがある気がして、恐る恐る、視線を戻しました。

それでも目を見開くのは恐ろしく、できるだけ見ないで済むように瞳をほんの少しだけ、開きます。

薄目で見つめると、それが何か分かりました。わかってしまいました。

教会で与えられる修道服。大まかなデザインは同じであるものの、修道女が着るものとの違いが目に着きます。通常は黒が基調の衣装ですが、これは国色である蒼色の布地を基調に、国旗と十字架を模した紋章が縫い付けられています。

それを纏うことを許されるのは、ただ一人。


「聖女様……?」


信じられなくて、驚きのあまり、薄目で見ることも忘れて目を見開いてしまいます。

慌てて手で顔を覆おうとしましたが、わたくしの瞳がそれを捉えるほうが早かったのです。

目の前の死体からはらりと零れる髪。血に濡れて辛うじて元の色が見える程度ですが、癒しの色であるホリゾンブルーの淡い色は、見間違えるはずもありません。

癒しの色は、御使いが纏う衣の色。

現世の民は、それを自然に持つことは許されません。

しかし聖女様は御使いに認められた英雄です。

つまりホリゾンブルーは、この世で聖女様しか持てぬ、優しく美しい色なのですから。

もう確信しかありません。

聖女様は、確かにここで死んでいるのです。

でも、聖女様たち四人は魔王城に向かったはずでは……?

なぜ、ここにいるのでしょうか。

その疑問に数秒向かいあい、導き出した結論は簡単なものでした。


ここが、魔王城だったのです。

思いつかず、数秒でも悩んでしまったのが馬鹿らしくなるほどにあっさりとした結論でした。

戦いの後というのならば、散らばった金属の破片も、魔物の死体も納得出来ます。

そして、命を賭して戦った英雄の亡骸があることも……。

英雄が祖国のために戦い、その命を散らした。

そのことに心が重くなる程度には、わたくしも国を捨てていなかったようです。


「いかなる時も国を思い続けた同胞に、安らかな眠りのあらんことを」


思わず手を組み、そう、祈りを捧げます。

殉職した騎士に捧げる言葉です。

彼女に捧げる言葉として、そう間違ってはいないでしょう。

こうしてもらえれば本望だろう、なんてことを好き勝手に言うつもりはありませんが、聖女様ほどのお方が誰にもその死を悼まれないことはあってはなりません。

数分黙祷を捧げると、わたくしは立ち上がりました。

もっとぐずくずここにとどまっていたい気持ちはありますが、こうしてはいられないのです。

わたくしには、決して余裕があるわけではないのです。まだやらなければならないことが沢山あるのですから。


数歩、歩いたところ。

最後にもう一度、と聖女様の方へ向き直ると、今まで無意識に思い出さないようにしていた事が頭をかすめます。

それは聖女様という英雄の一人を見た以上、当然のことだったのでしょう。

元々それほど固くない、意識的に閉めた記憶の蓋です。開いてしまうのも、仕方の無いことでした。

――勇者様は、今頃、何を……いえ、本当に、生きていらっしゃるのでしょうか。

“約束”は容易に思い出せます。忘れることは一生ないでしょう。

でも、分からないのです。

それが果たされるのかどうか、わたくしには。


――聖女様が死なねばならなかったくらい危険なのだから、勇者様ももう、死んでしまっているのでは?

そう、わたくしの中のなにかが問います。

それは確かな形を持たず、暗闇から生まれ暗闇に還るような、倒しようのない負の感情です。

その言葉の刃に貫かれ、痛みを主張する心に、じわじわと体も凍っていくようでした。

その痛みと向き合いたくなくて、考えなくて済むように、聖女様に背を向けて、走り出します。

静止しているとどうしても、余計なことを考えてしまうのです。

階段を登ってきた方に引き返し、走って走って、踊り場へ辿り着き、螺旋階段を駆け上がりました。

思い出したくはないのに、一度思い出してしまったのですから、もう抑えきれません。

きっと、これはわたくし自身にも止められない本能なのでしょう。


四階――違う。

五階――違う。

六階――違う。

七階――ここだ。


自分でも無意識のうちに、彼の姿を、気配を探していたのでしょう。

直感に従い、螺旋階段の途中で、踊り場に足を止めました。

観測しなければ、少なくともわたくしの中では結果は確定しないというのに、愚かで弱いわたくしは生きている確証を欲しがってしまいます。

嗚呼、聖女様の亡骸に気づいていなければ、記憶に蓋をしたまま死ねたのでしょうか。

しかし、不幸にも思い出してしまったわたくしには、もう関係の無い話です。


「ぁ……」


間違えるはずがありません。えぇ、当然です。愛しくて仕方がない、たった一人の恋人を忘れる女がいるでしょうか。

勇者様は、ブロンズの髪を散らせて、床に転がっていました。

仰向けに脱力したそのお顔は安らかで、軽く汚れてはいますし、切り傷はいくつもありますが致命傷には見えません。

ただ、疲れて眠っているだけのように見えます。

……その左胸の、決して脆くはない鎧を貫いた小穴を見なければ。


死んでいます。

誰がどう見ても、助かる見込みのないとわかる鮮やかな姿で。


わたくしは思わずその場にへたりこんでしまいます。

両手を固く握りしめ、声にならない声を吐き出すことしかできません。


約束は、違えられました。

勇者様は、“生きて”帰っては来なかったのです。


その事実に、涙が溢れます。

水分さえとることもままならない状況で、涙なんてものを流すのは信じられないほどに愚かです。

でも、それでいい、もう生きる意味などないのだから、と思ってしまうのです。

帰ったら、式をあげようと、そうおっしゃってらしたのに。

ささやかな式をあげよう、と照れ笑いした珍しい表情が、未だ瞼の裏に焼き付いています。

あなたと、将来を誓うことが出来たなら。

そう思わずには、いられません。

気がつくと、言葉がこぼれていました。


「っ……健やかなるときも、病めるときも」


場所は、神を祀る教会ではなく、神に楯突く魔王城。


「喜びのときも、悲しみのときも」


立会人は敬虔な神父と列席者ではなく、冒涜的という言葉の体現者である魔物の、大量の死体。


「富めるときも、貧しいときも」


“誓約の印”に右手で触れればあたたかい光がこぼれるのに、それとは裏腹に冷たいままのパートナーの体。


「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け」


本来ならばしゃんと立ち、向かい合っているはずの二人の体は、片や寝転がって、片やへたりこんだ無様な格好。


「この命ある限り、真心を尽くすことを――誓います」


何より、二人で作り上げる、結婚式という催事なのに、言葉を紡いでいるのは一方だけ。

矛盾だらけの結婚式を、それでもわたくしは最後までやり遂げます。

勇者様の冷たい頬にそっと手を添えました。

そして、勇者様の青紫色の唇と、自らの唇を近づけます。

二人の唇が、今、重なりました。

カサついたその感触さえ、愛しく思えます。

人生最後の口付けは、濃密で芳醇な、死の香りがしました。

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ブライダル・プロミス 栗餅 @kujaku_ishi

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