天使の意地、悪魔の美学

芳岡 海

贈り物

 どこでしくじったか。

 きゅっと唇を噛んでイザベルは考えた。黒く長い髪が夕闇の溶けつつある空になびく。顔をあげたと同時に男と目が合う。

「そこまでだよ」

 男が言った。

 さっき二人が飛び降りた石造りの集合住宅の煙突が男の背後にそびえていた。二人はそこから一段低い三角の屋根の棟にいた。スーツ姿のその男は、屋根の上で尻もちをついたイザベルを涼しい顔で見下ろす。

 油断ならない目つきでイザベルを見据えているが、すぐにつかみかかるつもりはないらしい。危うく転がり落ちるところだったイザベルも、屋根の端で息を整え直す。左手の紙包みをしっかりと持ち直した。

 どうする?

 このまま立ち上がるか、飛び降りるか、それとも、飛び立つか。男の動向に注意をはらいながら次の動きに考えを巡らす。


 本来逃げ足なら天使より悪魔の方が早いはずだ。

 ついさっきまでこちらが優勢だった。先手必勝と包みを奪ってこの集合住宅の屋根を駆け抜け、街の広場に飛び降りて姿を消してしまうはずだった。しかし最後の最後で先回りされた。体勢を崩したところを追い詰められてこの有り様。スーツのくせになんなの、あの身軽さは。男の黒いツーピースのスーツをイザベルは睨む。人間の悪友とつるんでるってウワサもうなずける。


「あとちょっとだったな」

 男がまた口をひらく。怒っても焦ってもいない、ただ事実を言っただけ、という口調が余計にイザベルの神経を逆なでした。涼しい顔しても、これが欲しいことには変わりないくせに。

 よろしい、なら交渉といこうじゃないの。左手の紙包みを男に見えるように掲げて立ち上がり、イザベルは彼と正面から向かい合った。

 スーツが夕暮れの空の下で陰影を増す。その背後に音もなく真っ白な羽が広がった。

「本当にそのスーツに羽、似合わないわよ」

 挑発、というよりはうんざりした気持ちでイザベルが言った。

 ラフのスーツ、あれ似合ってるの? とアウラに訊ねたときは「別にいーんじゃない?」と言われただけだった。その何でもすんなり受け入れてしまう素直なところは天使のアウラらしさだったけど、いくら親友のアウラの言うことだって、悪魔のイザベルからするとやっぱり気に入らない。天使の美学ってものはないの?

 その男、ラフはアウラの兄貴分的な存在であり、アウラとの付き合いの長さでいえばイザベルと負けず劣らずだ。

 しかし。

 この包みを渡すわけにはいかなかった。それは悪魔の意地よりも、親友の意地。


 ラフはイザベルの言葉には答えず、しかし視線は外さず、ジャケットの内ポケットに手を入れる。ゆっくりと、もったいつけるようにして銃口がイザベルに突き付けられた。

「包みを渡してもらおう」

「天使の美学ってものはないの?」

 今度こそ本当にうんざりしてイザベルは言った。

「大切にしたいものを大切にする。それが俺の美学だよ」

 ひょいと片方の眉を上げてラフは言う。

「アウラのもんは俺のもんだ」

「親友舐めないで」

「俺がいつもどんだけあいつの世話焼いてると思ってんだよ」

 話す間も銃口はブレることなく、こちらにぴたりと貼りつくようだ。

 今の二人の姿は人間からは見えない。見えない天使を通して見る空は、人間からは余計に美しくきれいな夕暮れに映ることだろう。それが実際はこんなもの。

 どうする?

 飛び降りるにしても、羽を広げた瞬間に打たれるだろう。それくらいなんてことないとしても、「負け」は「負け」だ。ああもう、人間だったら今すぐ地獄行きで終わりよ。イザベルはまた唇を噛んだ。


「10秒待ってやる」

 見据えるラフが言った。

「俺がカウントダウンする。その間にそれを渡せ。これは命令」

 その命令に従わなければ? 彼はそれを言わない。天使に脅されて大切な物を易々手渡すなんて、それこそ悪魔の美学に反することだ。冷静さを装いつつも、イザベルの心の中では青い炎がめらめらとしていた。

「聞こえたか? ――10」

「やっと見つけたあー!」

 振ってきた声に二人は同時に戦意を削がれて上を向いた。

 白い羽を大きく羽ばたかせてアウラが飛び込んでくるところだった。Tシャツにショートパンツというこれまた天使らしからぬ、彼女にとってはいつもの服装で走り幅跳びよろしく着地すると勢い余ってバランスを崩し、屋根の傾斜を「おわ~!」と叫び声をあげながら転がったのち、もう一度羽を広げて浮かんでから改めて屋根に降り立った。天使らしいところと言えば、すっとつま先が屋根に触れる一瞬、波紋のように天使の明るみが広がることくらいだった。

「二人とも飛ぶの速すぎ! それにガチすぎ! あたしがおいてきぼりくらってどーすんのよ」

 二人の間で子犬のようにアウラが足を踏み鳴らす。もともと短い前髪が風にひるがえっておでこが全開になっているが、気にする様子はない。

「まだ勝負ついてないのよ」

 包みをアウラにも見えるように掲げてイザベルが言った。

「だからあ! あたしはじゃんけんで勝った方にあげるって言ったの! 誰が天界vs魔界の争いをやれって言ったのよ」

「勝ちゃいいんだろ」

「じゃんけんで納得できる気がしないんだもの」

 両側に立つ二人をアウラは交互に見つめる。

「また作るってば」

「今日っていうのが大事なんじゃねーか」

「今日じゃなかったらバレンタインのチョコじゃない」

「へいへい。失敗しちゃってすいませんでした」

 まんざらでもなさそうな顔でアウラは答える。バレンタインのチョコケーキ、二つ焼いたんだけど一個焦がしちゃったからじゃんけんで勝った方にあげる、と言ったところ二人とも一歩も譲らなかったのだ。


「にしてもラフ、ゴム弾出すのはずるくない?」

 屋根の棟にちょんと腰かけてアウラが言う。

「別にいーだろ。人間みたいに傷つくわけでもないし」

「でも女の子の顔に向けるのはさすがにナシよね」

 イザベルのその反論には確かに納得するところもあったのか、ラフは肩をすくめてエアガンを納めた。イザベルは先ほど削がれた戦意を持て余し、ふんと彼を睨みつける。

「天の使いが人殺しの模倣のおもちゃ持ってるなんて、ほんっとうに信じらんない」

「殺さないんだからいいだろ」

「その気になれば人間を天界送りくらいできるでしょ。それが人間のおもちゃ使うなんてバカバカしすぎない?」

「便利なんだよ」

 これ以上争う気はない、と示すようにラフは両手をひらりとあげてみせる。

「それでさー、チョコケーキは二人で半分こでいい?」

 アウラの呑気な声が二人に割って入った。

「は、こいつと半分こってなんかムカつく」

「じゃあたしも入れて三分こにする?」

「何、三分こって」

「三等分はむずかしいからやめろ。またケンカになる」

 親友二人の戯れのような口論に、今度はラフが割って入った。

 天使二人に悪魔一人分の怒りと満足が撒き散らされたその屋根の下ではその日、皿が不吉に二枚割れ、電灯が不穏に消えたあとで窓辺の植木鉢から幻の花が咲くなどしたが屋根の上との因果関係に気づく者はいなかったという。

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天使の意地、悪魔の美学 芳岡 海 @miyamakanan

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