septet 01 拡張式パノプティコン-試験-
palomino4th
septet 01 拡張式パノプティコン
教室の中は無音だ。
もちろん彼の耳にも細かいノイズ自体は届いている。
教室内に並べた机のそれぞれに着席した級友たちが立てるごく些細な音。
呼吸音、咳払い、椅子と机の脚で床がきしる音、答案に記入するシャープペンシルの先端の出すひっかき音。
彼の耳は流れ込むそれらをそのまま掬い取らずに流していく。
試験の真っ最中なのだから、出題に集中するのが当然だ。
よりにもよって数学だ。
覚えている限りの方程式の解法を記憶から引き出さなければ。
それなのに彼の意識は集中から程遠い。
集中しなければならない時に限って雑念が……意識のノイズが湧き上がる。
体調が万全ではないのか。
耳鳴りがしている気がするがそれは病気というほどじゃない。
他のノイズと同じく聞き流すのが良い……でも彼は気がついてしまった。
小さい、耳元で鳴りようやく気が付きそうな微かな音。
機械の振動するような、羽虫の羽音のような、速い速度で鳴る音。
答案用紙と向かいながら、意識は音に奪われている。
気になって仕方がない。
こんな季節に虫だろうか。
蚊か、それに近い不快な羽虫。
両掌で激しく叩き潰してやりたくなるけれど、今は試験中だ。
無駄に目立つ動作などはしたくない。
彼はSNSで妙な噂が流れていたことを思い出す。
政府が極秘で開発し密かに飛ばしている、小型の虫を模したドローン。
見た目は名前も定かではない、人に近づくと刺してきそうな不快な羽虫だ。
しかし複眼の奥に精巧なカメラが仕込まれていて、それで撮影した画像を監視専門の部署に中継している。
場所の特定をできない監視カメラだ。
彼はふと級友の……今、この教室で試験を受けている生徒たちの名前を頭に思い浮かべている。
一人一人の顔に名前を……フルネームを当てはめている。
多分、卒業をすれば一生思い出さない名前だ。
しかし今は覚えている。
一つ一つ当てはめているのに、なぜかよけいなものが一つ残っている。
顔が思い浮かばないのに「美鈴」という名前だけが浮かんでいる。
フルネームで出てこない、名前だけだ。
そして顔も出てこない。
「美鈴」、クラスの女子の名前の筈だけど。
このクラスの机は全て埋まっていた、それなのに見当たらない生徒がいたようなのだ。
なんで気になるのだろう。
教室の正面、黒板の横に設置された棚の上に一輪挿しがあり、クリーム色の薔薇の花が一つあるのだ。
彼はこの薔薇こそが「美鈴」じゃないかと思い込んでいる。
答案用紙にまだ自分の名前を書き入れていないことを思い出す。
ふと戸惑う。
この欄に記入すべき名前をどちらにするのかが分からなくなっていたからだ。
「B-1013」という番号が頭にちらつく。
これは学生番号じゃない。
何の番号だったのだろう。
気を取り直してそこに普通の……高校生として通学している人間の名前を記入する。
確か自分の本来の名前はこっちだ。
解答に集中しなければ。
そう、卒業し大人になってもう学生でもないのに、不意に夢の中で学生時代の夢を見るという。
そこでテストを受けている夢も少なくはないだろう。
今はそんな夢を見ているのだえろうか。
夢ならば試験を真面目に受けても意味がないだろう、放棄して教室を出ていってもいいのだ。
しかし問題はこれが本当に夢なのかが分からないところなのだ。
そして解答欄が埋まらない。
問題に集中しろ、試験範囲の学習を思い出せ。
校舎の外で大風と大雨の音がしている。
それとは別に奇妙な羽音が止まない。
教師が試験中の教室を監視している、でも本当の監視はこちらの見えない次元から行われている。
彼は薄々気付き始める、これが現実の学校ではなく、夢の中であり、悪夢の一つとして見ている最中であることを。
しかし席を立ち、教室から脱出することができない。
監視されているから?
そうではない、彼自身が囚人としての規範行動の中に囚われているからだ。
手足に枷があるわけでもなく、独房に閉じ込められているわけでもない。
それなのに自発的に立ち上がることもできない。
彼は教室の前、一輪挿しに挿された薔薇の花のクリーム色を見る。
名前だけ記憶に残り姿の無いクラスメイトは、果たしてこの開かれた収容所から脱出した人間なのではないか。
彼女は自分の中にある枷を外して出て行き、教室は表向き欠席者のいない全員出席であるように取り繕っているのだ。
さあどっちを選ぶ?と彼は自分に問いかけた。
目の前の試験を完走するか、それとも立ち上がりこの教室を出てゆくか。
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