書いた覚えがない。いつ書いたのか教えてほしいです。
アールサートゥ
むかし
「あなたの腕にわたしが触れました。どうでしょう」
期待がこもった――でも変化が少ない――表情で彼女が言った。
僕は考えつくことそのままに答える。
「はい。とっても温かくて綺麗な手です」
実際のところ小さくて細い手には、引っ掻いた赤い線や甘皮が剥がれた跡、痣なんかが見えている。ガーゼの関係で半袖の患者衣を着ているから、余計に白い肌の異常が目立つ。
それでもやっぱり、温かくて、ちょこんと触れる手は綺麗だと思った。
「違う」
ちょっと不満だったのか、つねるとも言えない力加減で僕の腕を摘んでくる。
「ごめんなさい。もっと考えが分かれば良いのですが」
「わたしにあやまるのダメ」
「僕は貴女の期待に沿えないのですよ?」
「嬉しいから、いいと思う」
人差し指と親指で、そっと触れる彼女の手から。嬉しい感情が伝わってくる。
「そうですね、嬉しいのは大事です。嬉しいことを言ってくれたので、今度して欲しいことをしますよ?」
「こおり砂糖をください」
とても申し訳ないことに、僕には砂糖の塊をあげる権利がない。
「ごめんなさい。僕にはできないことです」
「じゃあ、おひざ」
「満足するまでどうぞ」
こおり砂糖を求めるより語気強くもとめる彼女を、僕はひざから手をどけて迎え入れた。
あまりにも満足気なので、こおり砂糖は断られる前提だったように思える。
「あなたに聞きます。わたしはどこがかっこいいですか」
「辛さを受けて黙っていないところです」
「そんけいするところ」
「好きなものがたくさんあるところです」
「かわいいところ」
「……僕がかわいいと思うこと……ではいけませんか?」
「ゆるす」
そんな、どこかで聞いたことがある会話をする。時間がすぎると、周りの方々が部屋に戻るように言ってきた。
「そろそろ戻らなければいけません。今日も話せてよかったです。明日は話せそうですか?」
数ヶ月間毎日会っている彼女は、喋る日が少ない。僕が話せたのはたったの二日だけ、今日で三日目だ。
「わからない。なのでもっといっしょにいたいです」
「ごめんなさい。それはできません」
ここは病院。会える時間も会えない時間も決まっている。最近はもう少し自由に会える仕組みができるとも聞くが、残念なことにまだできない。
「わかりました。じゃあ時間がたったら会いましょう。また会いましょう」
「そうですね。また会いましょう」
彼女の不思議な言い回しに、僕は特に考えることもなくうなずいた。
「喋られないなら絵本を読みます。喋られるなら一緒に考えましょう」
「はい」
「また明日」
「あした」
僕たちは別れて、自分の部屋に戻る。
本を読んで、文字を書いて、計算式を作って、お水を飲んで……いつも通り、ひとりの時間を過ごした。なんとも自由に歩ける時間は少なくて、余った時間にいろいろやってやっと夕ごはん。
「ねえ、◯◯君。お薬、いつもと違うのが混ざってなかった?」
うどんとかまぼことトマト、夕ごはんを食べてる途中で横から声をかけられる。
「◯◯さん。看護婦さんが間違えましたか? アゼプチンがありましたが、もとから知らされていました。予定外のお薬はありませんでした」
「そう……ちょっとね。問題はないから不安にならなくていいからね」
目元と頬が引きつっていますが、おそらくは不安や困惑があるよう。だけど、「気にするな」と誘導されているため、気にしないことにする。
「あまり負担がないことを願います。なにか聞いたら知らせますね」
「……お願いね」
夕ご飯を食べたら、部屋でお薬を飲もうとする。
「………………?」
どうしてか、お水から甘い匂いがしていた。
夕ご飯のあとにいつもおいてある、蓋付きのコップの水。いつも通りに蓋を外したときの匂いに、僕は首をかしげる。
指に水をつけて舐める。ちょっと甘くて、ほんの少し喉に張り付く。なんというか、薬を溶かしたお水みたいだ。
少し考えて、気にせずお薬を飲み込む飲み物に使った。やはり喉に張り付く感覚があったので、追加で水道水を使い喉の違和感も飲み込んだ。
他人がしたならば僕は疑うべきと言うだろうが、僕自身は他人を信じている。だから飲んだ。たぶん大丈夫。
いろいろ理由をつけて自分を納得させ、ベッドに座椅子で座って本を広げる。
「……? よめない?」
目が霞む。文字の意味が頭に入らず、視線はふらふらと泳いでいる。ページをめくろうとした指が動かず、本が床に落ちた。
しばらくぼーっとしていた僕は、諦めて眠ることにする。
布団を掴めない、座椅子の片付けもできない。仕方ないので、横に身体を倒して眠ることにする。動けないのでしかたがない。
「……………………」
身体は動かなかったが、不思議と眠れなかった。血圧を上げる薬を飲んだことを思い出した。あのちょっと大きな錠剤を飲んだ日は、なかなか眠れなくなるのだ。循環器系の機能を助ける薬も飲んだ、あれも眠れなくなる。
眠れない、動けない。意識はある、指先も動かない倦怠感。体温が高くて息が少し荒い、布団がないので少し肌寒い。
ふと、扉が開く音がした。声が出ないので、助けも求められない。
ふわふわとした意識のなか、肩を揺さぶられてちょっと視界の霧が晴れた。
なんとも不思議なことに、彼女がいた。時間は分からないが、夜のはず。夜は患者の交流は基本できないはずだ。
手を伸ばしたかった。「どうしたの」と声をかけたかった。
泣いている彼女は、唇を噛んで傷をいくつも作っていた。
「――……」
残念なことに、僕の声はでない。
彼女も喋らない。今の彼女は、喋ることのできない状態らしい。
僕の頭に、小さな手が乗る。ゆっくり動かしては、僕の頭をなでているらしい。珍しいことだ、いつもは逆だ。
次に、彼女は腕を伸ばして抱きついてきた。僕の頭、腕、足、腰、また頭……。
ペタペタと、ずっとずっと触られる。寂しいのだろうか、そう僕は思った。
喋らないまま泣いている彼女は、僕の服を噛みだした。指も、おなかも背中も噛まれる。感覚が鈍っている僕でも、噛まれていることは分かった。
満足したのか歯を離した彼女は、ベッドを降りて引き出しを開け始めた。帰るのだろうかと思えば、彼女は掛け布団を僕に掛けてくれる。
優しい、と褒めたいが。やっぱり声が出ない。
体温が高いのに、布団が身体を覆っている。とても暑く感じる。
なぜか、彼女は僕の布団にもぞもぞ潜り込んできた。寂しいのだろうか、再び僕は思った。
僕の上に寝そべった彼女は、僕の顔を眺めている。眺めたあとに、髪をかじかじと食べ出した。
どのような行動なのか、さっぱり分からない。どのような心が込められた行動なのか。ただ。涙と唾液で顔がペタペタする。
そんな僕だった。唇を噛まれて、舌が入って、目を見て、はじめて僕は彼女の考えに思い至った。
目を瞑る。たぶん、見てはいけない。自分の意志で、目を閉じた。
眠れない僕の耳に、唸るような彼女の泣き声が入ってくる。
そのあとすぐだったと思う。
爪と歯と彼女自身が、僕の身体に食らいつく。
起きたとき、僕はいつもと別の部屋に横たわっていた。
看護婦ふたりと医師三人、僕の起床を待っていたようだ。
正直に正確に、記憶の通りに言葉を伝える。
少しも笑わない方々に、僕はにこりと笑いかけた。いつもと変わらないように、いつも通りの気持ちで。
笑顔はとても大切なものであるから。僕は笑顔が好きだった。
看護婦さんのひとりが泣いてしまった。肩を支えられて、部屋を出て行った。医師がひとりだけ、僕と部屋に残っている。
困り顔の僕に、医師が言った。
「なにか、思うことはないですかね?」
僕は思ったままを口にした。
「皆さんが困って悲しんでいることは、とても苦しいです。お手伝いできることはないでしょうか」
「いえ、いえいえ、大丈夫です。手伝うのは大丈夫ですよ。たぶん時間がたてばいつもどおりですよ」
早口であったのが気になったが、僕は気にしてほしくないようだったので気にしない。
「◯◯◯さん、僕にはなにか思うことはありませんか?」
僕は逆に、医師に向かって聞いた。時間をかけて考えた医師は、ためらいがちに言葉を発した。
「えっと、◯ちゃんをどう思っています?」
「また遊べればよいと思います。こおり砂糖を一緒に食べたいですね」
僕はいつも通りに答える。医師はホラー映画を見たような顔になって、こっそり書いていたバインダーを下ろした。
急かされるように医師は部屋から出て行き、僕はひとりになる。考えていたのは、今日会う人々は元気だろうかなんてこと。
時間が過ぎた。
彼女とは二度と会うことはなかった。東北に行ったとも聞いたが、確かではない。
今ならば、医師や看護婦の気持ちが分かる。医師がなにを怖がったのか分かる。
周囲の人物があの夜と同じ状況だったならば、僕は全力で心配して手助けできないかと考えただろう。相談できないか、いつも通り過ごすか、話を聞くか、遊ぶか、必死に考えただろう。
彼女への想いが変わらない僕に、僕はどうにも困ってしまう。
この生き方を、どうにか変えようと努力した。
特別が僕を少しだけ変えて、僕はやっと彼女を嫌いになれた気がする。
書いた覚えがない。いつ書いたのか教えてほしいです。 アールサートゥ @Ramusesu836
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