無脊椎バベル
しぼりたて柑橘類
単話:無脊椎バベル
「被告人、入場せよ!」
裁判長が腕をあげると、身にまとった白い衣がはためいた。
掛け声と共に、重々しい扉がゆっくり開く。大扉の向こうから出てきたのは、痩せこけた一人の男だ。
オリオンの如き屈強な男二人に挟まれ、腕の太さほどある鎖で体を縛られている。こけた頬には無精ひげが生え、浮浪者のようだ。しかし、全身に浮かんだ無数の青あざが、彼が虜囚であると示している。看守に引きずられるように、肩まであるざんばら髪を揺らしながら、青白い裸足で歩く。弱々しい足取りは左右に揺れていた。
この痩せたちっぽけな男こそ、裁判の被告人だ。男は法廷へと、ゆっくり連れられていく。
扉と法廷を結ぶ通り道に二分されるように、傍聴席が両側にある。傍聴席はウールの一枚布にベルトを巻いた、怒れる民で満員だった。
「敬虔な宣教師だと思っていたのに!裏切り者が!」
「黒い背骨の愚か者!お前の罪は死んでもそそげると思うな!救った民が泣いているぞ!」
「そうよ!ああ、アンタの骨なんか残らず燃えて灰になればいいのに!」
人々は真白い衣を翻しては、コルクのサンダルを踏み鳴らす。紛糾する様は、さながら最後の晩餐を囲っているかのよう。しかし実際、目の前の男は彼らにとって裏切り者に違いなかった。
鎖に繋がれた男の名はリブ。数年前まで国教の宣教師をしており、教えを説きながら平等に人々を救ってきた。財産の多寡を問うことなく平民や子供、果ては着る服すらままならならずボロ布を纏う奴隷に至るまで、教えを乞う者はみな彼の教え子だった。どんな人間にも真っ当に向き合う彼のことを、賢者と慕う国民は少なくない。
しかし数年前、彼は消息不明になった。貧困に喘ぐ人々への炊き出しの最中、突如行方を眩まかせたのだ。死亡説すら囁かれていた彼が、大罪を犯して帰ってきたのだ。
人々は寝耳に水であったし、どうしてリブほどの者が、と嘆きに嘆いた。
そして、怒った。業火のごとく怒った。民の怒りは街を覆い、燃え上がらせた。義憤に駆られたのもそうだが、自らの信心を裏切られたことに大いに悲しんだのだ。しかし、許すことも出来ない彼らは怒るほか無かった。
「死んでしまえ!なんであんなことが出来るんだ!」
「ああ、どうか嘘だと言って!今のあなたを信じる人などいないでしょうが!」
「俺らと子供たちに向けてくれた救いの手は何だったんだ!あれも全て偽善だったのか!?」
傍聴席から立ち上がった人々は、口々にリブを罵る。
それどころかちらほら石を投げる者も現れた。どこに隠し持っていたのか、一人が投げると続いて投げ始め、傍聴席の間を拳ほどの石が飛び交う。繰り返し投げられた石のほとんどが床に転がった。
そして無数に投げられた1個が、男のこめかみに飛んでいく。
「──うっ」
石を当てられたリブの額は真横に切れ、垂れた血が両目を覆った。鋭い一撃に男は少しよろめく。が、即座に二人の男が鎖を引き、立ち止まることを許さなかった。
民衆は男を追いかけるように席から次々立ち上がると、通路に落ちた石を拾い集めては怒気と共に男へと投げつける。無数に投げたうちの何個かは法廷に転がった。
鎖で引かれながら、よろよろと男が法廷に入ると、裁判長は木槌を何度も叩く。乾いた音が辺りに響き、ざわめきがやや落ち着いた。
「静粛に!静粛に!いくら憎い国逆者だろうとも、法廷に入ったからには等しく人間。背中から石を投げてはならぬ!」
裁判長の眉間のシワは、より深く刻まれた。禿げ上がった頭頂部も真っ赤も染まるほど、怒りに燃えている。
裁判長の激情を読み取ったか、傍聴席はしんと静まり返った。法廷に反響するのは、鎖の擦れる音だけ。痩せた男が呼吸をする度、鎖が弛むのだ。
無音を確かめるように、裁判長は深く息を吸い、男を睨みつけた。
「罪状を読み上げる!
この男の名はリブ!完全なる骨無しサンマを創った、国教の冒涜容疑がもたれている!」
「「「ぎゃあああああ!!!」」」
傍聴席に留まらず、建物の外からも割れんばかりの絶叫が響く。法廷は再び、阿鼻叫喚と化した。
※
この国では古くより『スパイン教』が信じられている。別名:背骨教とも呼ばれ、文字通りこの国ではあらゆる主軸を担っていた。重んじられるが故、法律にも影響を与えるほどに。
教義は骨の賛美と尊重。人体の内に秘められ、如何なる時も潔白であり、人間には平等に骨が与えられる。そして死ねば残る。
『我ら、骨と共に生じ、骨と共に生き、骨と共に死せり』と福音書は記されている。
ならば生命の本質とは等しく与えられた骨にこそあり、最大の美にして最高の幸福は誰にでも平等にあるのだ。
教えを信じる民はみな、骨の色と同じ白い毛織物を身に纏う。よって、この国の人々の服装は貴族であろうと賤民であろうと例外なく白で統一されている。ただ、布地がシルクであったり、灰で白く染めた麻布だったりした。それほど骨の尊重される国なのだ。
そのお膝下で、骨が侵された生命など許されるものか。まして人の力で骨を消すなど生命への冒涜に違いない。
故に民は、苛烈に、猛々しく怒るのだ。
我々が信じていたリブはもう居ない。あろうことかリブは骨を消したわ平等を語っていた男が!教義に背き、生命の理に反し、美しき平等な支柱を取り払った!何が為など知ったことか、悪為すことなど、悪のみぞ知るのだ!リブは大罪人なのだ!
「リブに裁きを!判決を!」
「リブに正義の業火を!」
「リブに骨を砕かれる苦しみを!」
傍聴席の人々は声高に叫んだ。裁判所の外の人々も同様である。頭が割れんばかりの大絶叫が、扉の外から響き渡る。傍聴席に座れなかった者は少しでも冒涜者を糾弾しようと、入口に次々押し寄せていたのだ。
見かねた裁判長は槌を振るい、声を荒らげる。
「静粛にせよ!意見陳述もなしに判決などできるか!」
裁判長は何とか自らを律し、法を守る者であろうとした。湯気の上がりそうな赤い頭を数度揺らし、リブに向かって槌の先を向けた。
「さあ、被告人リブ。答えよ。お前は教義を冒涜する骨無しサンマを創った疑いがあるが、その罪を認めるか」
鎖に縛られたままだと言うのに、男は微笑を浮かべる。血だらけの顔だと言うのに、どこか表情は晴れやかだ。
「はい。もちろんでございます」
そう言うと共に、上目遣いの目尻がやんわりと下がって、反対に口角は三日月のように上がる。目と口が繋がって円になりそうなほど憎たらしい笑顔だ。正面から見えていないはずの、傍聴席が静まるほどに。時間にしてわずか数秒だったが、法廷では外で騒ぐ人々の声だけが聞こえた。
裁判長は不気味な顔に生唾を飲んだが、気を取り直してリブに問うた。
「しかし、リブよ。お前ともあろうものが、教義を知らないわけがなかろう。生命は骨と平等に結ばれ、幸福を得るのだ。なぜそれを否定する真似を」
「真似ではございません。否定がしたかったのですよ」
リブは飄々と質問を遮った。
裁判長は怒り心頭。青筋を浮かべて立ち上がると、力の限り槌を打ち鳴らす。あまりの衝撃に、大槌は持ち手から粉々に砕けた。
「見下げたぞリブ!その神をも恐れぬ不遜は、万死に値する!貴様に判決を下す!貴様は磔──」
「待った」
裁判長が判決を読みあげようとしたとき、するりと一本、細い手が上がった。その手の上がった先を見て、裁判長の赤い顔は、みるみる白くなる。
挙げられていたのは鎖に何重にも縛られていたはずの、リブの手である。一瞬のうちに、リブは鎖から抜け出していた。鎖の下から真っ黒な麻布に包まれた痩せぎすの男が現れた。
しかし確かに、両端は男によってきつく締めあげられていた。瞬間的すぎる脱出劇を前に、男たちは手元の鎖とリブを交互に見ては目を擦った。どういう理屈でか繭の緻密さで体を包む鎖を、掻い潜るように抜け出して、リブは手を挙げたのだ。
「裁判長、私に意見陳述をさせてください。判決は呑みますから。罪人であろうと等しく人間なのですから、意見を言う機会は認められているでしょう?」
何の気なしにそう言う様が、周囲を震え上がらせた。その恐怖のせいか、今更何を言うかと異を唱え、石を投げる人間は誰一人いなかった。
「……認めよう」
「ええ。スパインの下に、そう仰っていただけるとと思いましたよ。いや、しかし悲しいかな。私は心の底からこのスパインという宗教の歪さを感じてならないのです」
どよめく民衆の顔が見えるように、リブは振り返る。そして、とぐろを巻くように積み重なった鎖の上に腰掛け、前屈みに膝に手をついた。
「聞いていますか盲信する民たちよ。スパインという宗教は果てしなく歪んでいるのです。教義が概念でなく、実存する骨を信仰の対象としているのだから」
両手を広げてリブは語る。炭で染め上げられた、黒い布は揺れた。何人かは、国教を侮辱された怒りから立ち上がろうとしたが、リブの眼力に呑まれたか、おずおずとその場に座り込んだ。
「人間の骨の本数は、死ぬまで変わるでしょう?戦がない泰平の世とはいえ、生まれ持った段階から骨が無い者もいます。
五体満足であったとして、子供や老人の脆い骨は焼けば容易く朽ちてしまう。私が宣教師として最後に見たのは、貧民窟です。
光も差さない湿った洞窟の中で街を追われた骨無き者、骨無き者の遺族たち痩せ細りつつ身を寄せ合っていました。人間の骨の色など死ぬまで分からないと言うのに。彼らは骨憎さから、骨を護符として売りさばくに留まらず、墓荒らしすらもする。
ここにいる者には耳が痛い話でしょうが、追い詰められた人間は、如何程にでも残酷になれる。でしょう?」
リブが傍聴席をひと睨みすると、立ち上がっていた人々は力無く項垂れた。リブは覚えていた。ここにいるほとんどの人間は、自身が説教した教え子だった。彼らには最早返す言葉すら見つからなかったのだ。
「しかし、教義に異を唱えようと誰も話を聞かなのです。背骨となった教義は、決して歪みを直されることも無いまま、国の中核に据わり続けた。骨ばかりが育ち続け、肉と脂肪はという名の国民と道徳は痩せ細り分断されたのでふ。あなたたちが切り捨てた歪なる枝葉末端の人間であろうと、国にとっての手足に変わりない。剪定を騙り、肉を抉り、骨を晒したのです。
所詮、たかがサンマの骨。こんな裁判が開かれる時点で分かるように、この国の体制は宗教によって破綻したのです。幾ら背骨が太く強靭であろうと、周りを支える肉体の分の滋養を吸い取り、痩せ細らせ。今や骨しか残っていません。
歪な白い巨塔が、この国の本質。崩落目前の国を前に、私には最早、こうすることしか出来なかったのですよ」
「な、なるほど……」
「それで、なにか質問は?」
「し、しかし……ううむ」
最早裁判長すらも、リブに気圧されていた。低く唸って椅子に座りこみ、腕を組んだ。最早、裁判という形式すら忘れて考え込んでいる。
リブの発言は異端にほかならない。しかし的を射ている。この話をどうやって誤解なく、保身もしつつ民に伝えるべきかと悩んでいるのだ。その思考を読んでか、リブの口の端は真一文字に結ばれた。
法廷に沈黙が続く中、傍聴席のうちの一人が手を力無く上げる。
「でもなんでわざわざ、取り立てて食べられる訳でもないサンマを骨無しにしたんだ?もっと他に方法があったんじゃないのか?」
「ありません。他に方法は無かったのです。それに、骨無しサンマは副産物に過ぎないのですよ」
冷徹にそう答えた。そしてリブは懐から小瓶を取り出し、目の前で振って見せた。ガラス瓶の中にはタール状の、粘り気のある黒い液体が波打っている。
「こちらがその薬。骨無しサンマを作る薬ではなく、摂取した生命体の骨を無自覚に溶かす薬です。これを海にばら撒いたのですよ」
「なに!?では、骨無しサンマだけではなく、大量の魚を骨無しにしていたということか!?」
裁判長は声を荒らげる。リブは真っ赤になった彼から少し目線を下げ、ため息をついた。
「あなた方は私の罪状すらも正しく見えていない。私は単に骨無しサンマを作った訳では無い。海は水のかさこそ多いが、井戸に比べて一度に触れる人間が非常に多い。海産物も合わさればさらにだ。この国のほとんどの人間がほぼ同時に、気が付かないまま、この薬に触れているはずです」
リブは体の軸を失ったような、弱々しい足取りで傍聴席に向かう。人々は、冷や汗を浮かべながらリブの動きを目で追った。
リブはふらふらとよろめきながら、傍聴席と法廷を分ける木の柵に両手を付き、つかまった。
「さて、お気づきでしょうか。最初からこの国の背骨の破壊に尽力していたのです。
私が縛られていた鎖を容易く抜け出した時。私に向けて投げた石が、思うように当たらなかった時。あるいは不意に立ち上がったもののすぐ立っていられなくなった時。違和感を感じませんでしたか?裁判長もいつもより槌を振るうスナップが鋭かったようですが……」
そこまで言うと、リブはぐったりと木の柵に倒れ込んだ。しかし、脱力するその姿はあまりに生気がなく、干された洗濯物のよう。最後の審判を迎え、引き剥がされた生皮のように力無く木の柵に立てかけられた。民衆は驚きのあまり自らの体に触れ、口々に叫ぶ。
「体が、柔らかい!骨が無くなったのか!?立っていられない、体の形が保てない!」
「い、息が苦しいわ……!肺が……潰れる……!」
そう言って、次々に力無く倒れていった。
最早法廷に立っているのは入口を押さえる警備員の筋肉ダルマのみ。それすらも、扉にもたれ掛かるようにしてやっと地に足をつけている。
「骨のある人間は一人もいなかったようですね。国を滅ぼすことでしか、宗教は滅ぼせないと分かった時には気が遠くなりそうでしたが、冗長に驕り高ぶった分、崩壊は一瞬でしたね」
「ゆ、許されると思うなよ……!」
裁判長は懸命に机につかまり立ち、リブを睨んだ。
「お前の悪逆を、民は許すものか!まだ助かる者もいるはずだ!お前はその者達から国教によって裁かれるのだ!」
「この国で海産物に触れぬ人間など、貧民窟の差別階級のものだけでしょう。彼らが法に則ってあなた方を救うとでも?あまりに虫が良すぎる話だ!
──それに」
そう言いながらゆっくり後ろに倒れ込むと、再び気色悪いほどの満面の笑みを浮かべた。この笑顔も、骨がないからこそなせる技だったのである。
「早くしないと、彼らが入ってきますよ?すごい人数が、扉にもたれかかってるみたいですし」
リブは民衆の迫る大扉の方を指さした。
薬は無自覚に骨を溶かす。つまり、リブの声が聞こえていない外の連中は、リブの独白も、何も知らないのである。
骨が溶けた人間同士がなだれ込み、ぶつかり合えばどうなるかなど目に見えている。
傍聴席は、地に這う人々で狂乱の嵐になった。
「潰される!死んでしまう!助けてくれ!」
「馬鹿野郎!助けを求めるな!お前のせいで私たちが押し潰されたらどうしてくれる!」
「裁判長、早く判決をしてくれ!何も聞こえない!」
入口の大扉を何人もの大男が懸命に押さえているが、今にもこじ開けられそうだ。少し開いた扉の隙間から、無数の腕が顔を出した。
顔面蒼白の裁判長は揺れる頭を振って、何とか気を取り直す。
「し、仕方ない。ここは迅速に判決を出さねば。人々が詰めかけて死者が出てしまう。せ、静粛に!静粛に!」
裁判長は自らの槌が無いことを今思い出した。槌の音も無しに、民の暴走は止まらない。骨が朽ちて地に伏せた人々は、重力に抗えず呼吸が止まりかけている。聞こえている大声は、外にいる人々のものだった。その数、五百人は優に超える。そんな数の人々が詰めかければ、真相を知る人間は潰される。国にいる人間には、誰一人骨が残っていないのだから、誰もがなぜこうなったかも分からずに滅びていくしかない。
とうとうリブの鎖を掴んでいた男たちも駆り出され、扉を総出で扉を押さえ始めた。その加勢も虚しく、扉は徐々に開き始めている。
押し返される扉を前にしても、リブは血の滴る顔に顔に笑みを称えていた。
さて目に見える事実ではなく、骨子だけを述べよう。
スパインという宗教は尽く滅んだ。文字通り、骨ひとつ残すことなく。
物理的な高みではなく、思想的な高みに至ることを目指そうとも、尊大になった時点で国の崩落は決まっていたのだ。
無脊椎バベル しぼりたて柑橘類 @siboritate-kankitsurui
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