ritsuca

第1話

 今日はどうやら仕事の区切りが――それも、そこそこに大きな区切りがついたらしい。

「おかえり」

「ん、そっちもお疲れ」

 炎と換気扇の音ばかりが静かに響くコンロを背に、ソファにごろりと寝ころんだ福島は見覚えのある雑誌を眺めている。たしか先々月号ではなかったか。どうやら事務室の本棚から抜き取ったらしい。ここの事務室に並ぶ資料は時折入れ替えているが、概ね宮城の仕事に――即ち、診療に関わっていて、専門的な領域に踏み込んだ内容のものが多い。

 面白いのだろうかと疑問には思いつつ、合間にきこえた陸奥の挨拶にも生返事をして、宮城は何とか今日の仕事を終わらせた。ごとごとなどとは言いもしない鍋の方から、食欲をそそる匂いがしてくるのだ。それでも、患者が出払う頃を見計らって火にかけられたであろう鍋は、福島にとってみれば時間不足で物足りない代物なのかもしれない。

 さて、とソファを見れば、全く食べる支度をする気配のない福島が、先ほどとはまた異なる本を広げている。

「いいにおいしてるんだけど、そろそろ食べ頃じゃないの」

「うーん、まだまだ。本当は半日ぐらいかけてゆっくり作るんだよ、これ。……あー、ここ、明日は?」

「表向きは休みだけど」

 明日は休診日で、自治体の休日診療の当番にも当たっていない。当たってはいないが、休診日だからといって仕事をしない日ではない。そういう話だ。

 本を閉じた福島は、本越しに覗き込んできていた宮城の目を見て、呆れ半分、残り半分はいい思いつきをした、とでも言いたげな表情を浮かべる。

「表向きってアナタ。……まぁ、いいや。なら、多少寝坊しても許されるよな?」

「そうであってほしいね」

「なら、ちょっと付き合ってくれよ。はいそこ、立って」

 そこ、と指されたとおりにソファの脇に立てば、福島も本を持ったまま、ソファから立ち上がる。妙に近い。近すぎやしないか。

「……何」

「これ」

「骨格?」

 これ、と言いながら見せられたのは、大学の頃からお世話になっているテキストシリーズのうち、運動器――つまり、身体運動に関わる骨、筋肉、関節、神経などについて取り上げられた巻だ。実はこのテキストシリーズ、専門外の巻の方が多いような……と思いながらも手放せないまま、すべて事務室の本棚に並んでいる。どころか、改版されるごとに新しいものを毎度毎度買い揃えているのだった。

 それはともかく、開かれているのは全身骨格の概要が示されたページ。そういえば、最初に見かけたときに持っていたのも定期購読している雑誌のうち、筋力の衰えによる弊害、対処法などがまとめられた特集号で、骨格にも言及されていたのだった。

「そ。鍋の中身、手羽元と大根とゴボウなんだけどな、アクすくっても何しても骨にぶち当たるもんだから、気になって気になって」

 そう言いながら、これが側頭骨、ここは頸椎、と骨に近い、あまり肉のないところを指が辿っていく。探偵とは名ばかりで実態は何でも屋だと嘯く彼の指は、過半数を占めるという平和な――たとえば、犬や猫を探すような――依頼のおかげか、治っても残ってしまった傷痕と治りかけの傷とで少しガサガサしているし、宮城の指よりもいくらか立派だ。

 これはどの骨、と本と照らし合わせる声は低く、声量も落ち着いているのだが、余人のいない場での触れ方を想起させるように触れてくるのでいただけない。コンロの方から漂ってくる香りには空腹を刺激され、点々と身体を這う指に下腹が疼き、まったくもって平常心とはほど遠くなったところで、よし、と先ほどまでよりも張りのある声が耳に届く。

「なに」

「そろそろ、食べるか」

「どっちを」

「どっち?」

 問いかけられて目が合って、宮城は思い違いをしていたことに気が付いてしまった。思わず目を逸らすが、これは頬骨、これは上顎骨、これは下顎骨、と歌うように言いながら、福島の指が追いかけてくる。

 その後食べた鍋の中身――名もなき料理だよ、と笑われ、名前は教えてもらえなかった――は、箸で軽くほぐすだけで骨からすぐに身が剥がれるほどに柔らかく、美味しかった。

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