彼女の死体は薔薇で覆われた

サトウ・レン

冬にも薔薇が咲く

 腹部の裂け目から腸の飛び出した彼女の死体を、真っ赤な薔薇が覆っていた。だから私たち寄宿舎にいた者たちは、あの事件を『薔薇色の殺人』と呼んでいる。彼女以外ならば、そう呼ばれることはなかっただろう。


 最後に彼女と交わした会話を、いまでも覚えている。


「私はずっと人間が嫌いでした。だけどすこし、好きになれそうな気がします」

 と彼女は私にほほ笑んだ。これから変わっていくはずだった彼女の未来は奪われてしまった。そして彼女を殺した犯人が捕まることもなかった。もちろんそんなわけはないのだが、もしかしたら彼女は自分に訪れる悲劇の未来について、予兆のようなものがあったのかもしれない、と思う時もある。だって最後に交わした言葉と、初めて彼女に会った時に交わした言葉が、やけにリンクするものだったからだ。急ぐように、彼女は私にそれを伝えなければならない、と考えたのかもしれない。


「私はあらゆる生物の中で、人間がもっとも嫌いなんです」

「きみ自身も人間じゃないか」

「私も含めて、という意味です。好きになれる要素がないじゃないですか。人間社会なんて消えてなくなってしまえばいいのに」

「まるで自分自身まで消し去りたいかのような言いぐさだ」

「否定はしません。誰かが私を消してくれるのならば、私はそれを喜んで受け入れるかもしれません」

「まったく困った性格だ」


 彼女の言葉は辛辣だった。彼女が私たちの通う学園に転入してきたのは、半年くらい前のことだ。物腰は柔らかだけど、決して凛とした態度を崩さない彼女の佇まいは、女性ばかりの私たちの学園において、憧憬の対象となった。見慣れぬ雰囲気が、私たちの目を惹いたところもあるかもしれない。寄宿舎のルームメイトとして、私が選ばれた時、多少、嫉妬のまなざしを向けられていたことなど、彼女は知る由もないだろう。ただ私に直接文句を言ってくる者はいなかった。たとえ冗談であったとしても。私はみんなからわりと恐れられていたからだ。初めから、彼女だけは私を恐れていなくて、それが不思議で、私の気を引いたことは間違いない。


「ここは、みんな優しいですね。前の学校とは大違いだ。最初からここにいたなら、私はどれだけ幸せになっていたのかな、とも思います」

「多分、それは気のせいだよ」

「それはあなたが私のいた学校を知らないから言えるんです」

「それを言ったら、きみだって別にこの学校のすべてを知っているわけでもないよね。例えば去年、自ら命を絶った子がいる。私とは別のクラスだったけどね。無口な印象のある子だったよ。周りから毎日のように嫌がらせを受けていたらしい。環境が変われば役割も変わる。役割が変われば世界の見方も変わる。きみにとって、たまたまここが良かっただけだよ。それが全員に当てはまるわけでもない。だから、あんまり美化しすぎないほうがいい。幻滅するだけだから」

「冷たいですね」

「私の血は冷たいんだ。とても。むかしから、ね」


 自分の所属するコミュニティに溶け込めない者は、決してめずらしくない。彼女以外にも、いままでに何度か出会ったことがある。迷い込んだように、心に闇を抱えていた。彼女もそうした中のひとりなのだろう。私自身は、人間も、彼女も、嫌いではないのだが、それを言うと、彼女は明らかに不機嫌になるので、あまり口には出さないようにしていた。


 同室で過ごす中で、私たちは色々な話をした。大体はどうでもいい話ばかりだったが、ときおり、抱えていた感情を吐き出すように自分の過去について話してくれることもあった。


「私は友達がいなかったんです。……ううん、この言い方は正しくないですね。いたはずのそれが、紛い物だと気付いてしまったんです」


 ある日、周囲の目が敵意に変わった。

 彼女の母親が原因だったそうだ。彼女の母親はひとを殺したらしい。いや厳密には、というより、法的に、と言ったほうが正しいだろうか。法的に、殺人と認められたわけではなかったみたいだ。


「でも、ね。残念ながら、法が許しても、心が許さなければ許さないのが、人間だったりするんです。全員がそうだとは言いませんが。そういう人間は思いのほか、多い。感情が理屈をこえてくるところが、心底、嫌いなんです。あなたはそうではないから、良かったです」


 彼女の母親が何をしたのか。私は知らない。彼女が教えてくれなかったからだ。口にするのが怖かったのかもしれない。言ってしまえば、私が、私たちが離れていくとでも思ったのだろうか。馬鹿馬鹿しい。とりあえず私に分かるのは、彼女の母親が誰かを死に追いやって、彼女の級友たちが『殺人鬼の娘だ』と白い目を向けていた、ということだ。


「人間っていうのは、本当にどうしようもない生き物で、自分と『違う』と判断した相手には、どこまでも残酷になれるんです。ただ表立って私を攻撃してくるひとはいませんでした。私に復讐されるのが怖かったのかもしれませんね。私は、いないもの、として扱われたんです。まるで透明人間ですね。私の心は透かして見てもくれないのに、実体だけが透かされる」

「それは本当だろうか?」

「本当?」

「見えていなかったのは、きみのほうだったんじゃないかな。勝手に周囲を敵にして、世の中に拗ねていただけなんじゃないか、と私は思うんだ」

「それこそ勝手な判断です。何も知らないくせに」

「そう、私は何も知らない。だってきみの話はいつも抽象的で、具体的な話を何もしてくれない。きみ自身、あの頃、何があったのか、曖昧なんじゃないのかな」

「そんなことないです」


 怒ったように彼女が言ったが、それでも具体的な話が彼女の口から出ることはなかった。私自身、何故わざわざこんなことを言ってしまったのかよく分かっていないのだ。彼女の過去など、どうでもいいはずじゃないか、と。そうだったんだ、それは大変だったね、と嘘でも優しい言葉を掛けることだって、できたはずだ。彼女が死んでしまった今なら、すこしだけ分かるような気がする。私は彼女に、人間を好きになって欲しかったのだ。いやこの言い回しは正しくない。私は彼女に、彼女自身を好きになって欲しかったのだ。私のことは好きになってもらわなくて構わないから。


 私たちの学園には大きな講堂がある。

 彼女はよく寄宿舎の門限を破って、学園の大講堂に忍び込んでいた。彼女が部屋から頻繁に抜け出していたことは気付いていたが、最初は知らない振りをしていた。仮に誰かと密会していたとしても、そんなの私にはどうでも良いことだったからだ。だから初めて彼女を尾行したのは一緒の部屋で住むようになって、三か月くらい経った頃だ。


 目立つ、派手な講堂は学園長のたっての希望だった、と聞いている。金の龍の施された緞帳や席側に長く敷かれた真っ赤な絨毯。


「いつもここに来てるんです。夜は誰もこんなところには来ないですから。今夜は招かれざる客が来てしまいましたが」

 と彼女は薄くほほ笑んだ。


 この時にでも、彼女が今後、ここに来れないように、何らかの手を打っていたとしたら、彼女は死ななかったのだろうか。分からない。いくら考えたところで、これはただの仮定でしかない。


「いつも、ここに来てるんだね。きみは?」

「私は演劇部でしたから。と言っても、こんな立派な場所で何かを演じる機会なんてありませんでしたが。あぁ、でも人生で、ずっと道化は演じていたのかもしれないですね。今もそれが続いているなら、私はこの大講堂でも演じていることになりますか」

「演劇部?」

「意外でしたか」

「あぁいや、私にはあまり馴染みのない言葉だったから」

「ここにはないですからね。演劇部」


 半年。彼女と過ごした期間は、長い長い生のうちの、ほんのわずかな時間だ。たった、という言葉を付けて表現できてしまう時間を、何故、私はここまで思い返してしまうのだろうか。


 彼女が命を落としたから?

 何者かに殺されたから?


 もちろんそれもあるだろう。だけどそれだって初めてのことではない。私は自分自身の中にある感情に気付きながら、奥底に芽生えたそれには気付かない振りをしていた。彼女よりも、私のほうが演じていたような気もする。彼女と接する時、私は普段以上に、素っ気なくなった。先生に一度、相談したことがある。


 先生は、私の話を聞いて、小さく笑った。

「それは、きっと……。あぁ、まぁ、いいか。その感情の正体には、自分で気付いたほうがいいかもしれない。ただ、とても大事な感情だよ、それは。きみがひとつステップアップするための通過儀礼みたいなものだ」

 先生の言葉は謎めいていた。


 彼女とふたりで散歩をしたことがある。寄宿舎からずっと歩いて、小高い丘に。秋の冷たくなった風が、草木を揺らしていた。私たちは隣り合って座った。


「ここに来るまで、大変だったんです」

「それはそうだろう。だってきみは普通の……」

「それ以上は言わないでください。改めて言われてしまうと、怖くなってしまいますから。私は、私、です。それ以上でも以下でもない。お願いします。私たちふたりの間だけでいいですから。禁句にしてください」

「分かったよ。きみは、きみだ。それ以上にも以下にも、私は興味はない」

「嘘っぽいですね」

「本気だよ」

「信じます。……すみません、話を戻しますね。私はあてもなく、さまよっていたんです。死のう、と思っていました。どうすればいいか分からなくて、人生の袋小路に入ってしまったかのように。この学園に拾ってもらえなかったら、私の人生はそこで終わっていたはずなんです」

「そうなんだね」

「はい。そして私自身、こんな感情はもう無縁なものになったと思っていたのに、気付けば、終わってしまったはずの空虚な心に色が付きはじめたんです」

「まるで詩でも書きそうな子の言い回しだね」

「本当に詩をたしなんでいる子は、もっとまともな言い回しを選びますよ」


 冬になった。彼女が殺された季節だ。そんな未来が訪れることも知らなかった頃、彼女が薔薇を買ってきた。


「冬に咲く薔薇だそうです。花屋のお姉さんがおすすめしてくれました。プレゼントにはぴったりですよ、って。こんな寒い季節に薔薇が咲くんですね。私のいた場所では、もっと暖かい時期にしか咲かなかったので」

「プレゼント?」

「えぇ、あなたに贈りたくて」

「きょうは特別な日なのかな」

「そう、特別な日なんです。聖なる夜として、大切な相手にプレゼントを贈ったり、そんなことをする日で」


 嬉しそうな表情を浮かべて、彼女が薔薇の花束を差し出してくれた。

 真っ赤な薔薇だ。


「私はずっと人間が嫌いでした。だけどすこし、好きになれそうな気がします」

 あなたのおかげで私自身を、と続けて、彼女が私にキスをした。


 彼女が死んだのは、その翌日だ。学園の離れにある寄宿舎から講堂へと向かう途中、夜空には小雪が舞っていた。彼女を追い掛けて、ふたたび夜の講堂へと行く気になった理由をもし誰かに聞かれたとしても、私自身、答えることができない。ただ予感のようなものがあった。虫の知らせとでも言ったらいいのだろうか。


 腹部を刺された彼女は、大講堂の壇上で横たわっていた。

 綺麗な鮮血が周囲に飛び散っていた。


 彼女を殺した犯人は、今も理解できていないはずだ。何故、自分の殺した死体に大量の薔薇が覆われていたか、を。私が何故、そんなことをしたのかも。いや、そもそも私が誰かも知らないまま、犯人は果てようとしている。


 犯人は怯えていた。

 おそらくこの名前さえ知らない犯人も、彼女と同じなのだろう。さまよって、偶然、こっちの世界にたどり着いた。自分を守るための反撃だったのかもしれない。哀れだとは思う。犯人にとってみれば理不尽な話なのかもしれないが、彼女も理不尽な目に遭ったのだ。おあいこ、ということで、許してもらえないだろうか。


 化け物……、化け物……、と犯人はつぶやきながら、やがて絶命した。

 皮肉なものだ、と思う。人間を嫌った人間が、人間を好きになれそうになった途端、人間に殺される。


 犯人を殺す時、私は指を切ったみたいだ。私の指から青い血が流れる。

 彼女の死体を見た時のことを思い出す。


 私は柄にもなく、うろたえてしまった。どうしていいか分からず、私は彼女から貰った大量の薔薇を使って、彼女の血を隠そうとした。どうせすぐに取り払われるに決まっているのに。

 感情が理屈をこえてしまったんだ。きみの大嫌いなタイプだ。


 笑ってしまうだろう。


 きみは、きみだ。それ以上でも以下でもないはずなのに。血の色を見た誰かが、そこに何かを意味付けてしまうことが怖かった、なんて。

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