垣間見《かいまみ》
仲津麻子
垣間見《かいまみ》
今は昔、のちに平安と呼ばれるようになる世のことでございます。
蒸し暑い夏の宵、涼を求めて小路をそぞろ歩く男がありました。
気だるそうに、開いた
ちなみに、
少し離れたところに、男と同じ年頃の従者と、馬を牽いた
「このようなもの、用意していたのですか、若君」
乳兄弟でもある従者は、あきれたように首を振りました。
「まあな、そろそろ四条あたりにも秋が来てな」
「おや、今はまだ夏でございますよ」
「はは、
男は閉じた
「ああ」
従者は理解したというように目礼して振り返ると、童に指示をしたのでしょう。童は従者から文を受け取って
「
男は道端に生えていた紫草を手折って童に渡しました。
「
男は自分に言いわけでもするようにつぶやきながら、早く行けというようにシッシッと手を振りました。
「さて、我らも行こうか」
男は月明かりの中をのんびりと
しかし思いがけず土塀は高く、瓦はすべらかでうまく体が持ち上がりません。
「
男は従者を呼ぶと、
「私が、ですか」
「うむ」
従者が恨めしそうに見るのに頓着せず、男はもう一度地面を指しました。
「はいはい、わかりましたよ」
従者はブツブツ言いながらため息を吐くと、地面に這いつくばるのでした。
「よし、行くぞ」
「どうぞ」
男は腹ばった従者の背に足をかけると体を伸ばし、エイヤッと塀に取りつきました。
「いかがですか」
「なかなか」
「お目当てのものが見えますか」
「うむ」
半ばまで巻き上げた
まさか垣間見ている者がいようとは思ってもみないのでしょう。女だけの気安さからか、なかなかに大胆な姿をさらしている者もおりました。
「おおお、
「若君、重いですよ」
男が従者の背中で体を揺するものですから、従者が文句を言いました。
「シッ、騒ぐな。見つかったらどうする」
「大丈夫ですよ、暗がりにいれば。あちらは
「うむ、そうだろうが、騒げば聞かれる」
「そうお思いなら、背中で跳ねるのはおやめくださいよ」
「うむ」
「それで、お目当ての姫君はいらっしゃいましたか」
「いや。あれらはおそらく側付きの女房たちであろう。聞いた話では、たまにお出になるだけだそうだから、今宵は見えぬかもしれぬ」
「そうですか、残念ですね」
「なに、急ぐわけでもなし。次の機会を待とう」
そう言って従者の背から降りようとした男は、足をすべらせて地面に落ち、したたかに腰を打ってしまいました。
「痛たたたた」
思わず声を上げるので、従者が慌てて立ち上がろうとしましたが、長い間主人に踏みつけられ、同じ姿勢を続けていた体はすぐには動かせません。こちらもまた、背中の痛みに声を上げて無様に転がってしまうのでした。加えて、かたわらでおとなしく道草を
「何ごとか」
騒ぎに気がついた家人が数人、
一瞬息を呑んだ従者は、深く息を吐いて落ち着くと、何ごともなかったかのように、体の埃を払いながら言いました。
「騒がせて申しわけない。こちらは右大臣家の……」
「おや、右大臣家の若君でしたか、こちらこそ失礼いたしました」
思いがけず相手が身分の高い貴公子と知って、家人は従者の言葉を最後まで言わせずに深々と頭を下げました。
男の方も、見つかってしまったからには忍んでも意味が無いとばかりに、従者に手を引かれて立ち上がりました。
男は手に持っていた
塀から落ちた拍子に華奢な骨が折れておりました。折れた骨から紙が外れて、無残にもふらふらと垂れ下がっているのでした。
主家の姫君が身分高い殿方と縁ができるのはめでたきこと。家人はおそらくそう考えたのでありましょう。近くにいた小者に何かささやくと、小者は急いで屋敷の方へ駆け戻っていきました。
男はそれを見て見ぬ振りをして、従者が乱れた男の
「騒がせたな。ああ、そうだ雪哉」
男が従者に目配せすると、従者は心得たように袂をさぐり、幾ばくかの
「世話をかけた。これでみなで酒でも飲むが良い。またよろしく頼むぞ」
従者は言って、主人が乗る馬の
従者はこれから主人が姫君の元に通うようになった場合を考えたのでありましょう。こういう根回しというのも、貴きあたりの恋路にはつきものでございます。
「お待ちくださいませ」
男が帰路につこうとしたところ、背後から声がかかりました。
従者が声の方に振り返ると、先ほど屋敷内へ駆けて行った小者が戻ってきて、手に持った何かを差しだしていました。
「どうした、雪哉」
「若君、こちらを」
従者が差しだしたのは、黒く塗った薄い板を五本束ねた
「これは、
男が首を傾げますと、従者も怪訝そうに答えました。
「はい。骨を折られたとお聞きしましたので、というお言葉です」
男は一瞬、あっけにとられたような顔をしましたが、やがて大声で笑い出しました。
「ははは、なるほど。げにも面白き、大胆な姫君とみえる」
「どうされましたか」
男があまりにも笑うので、従者は不思議に思ったのでしょう。心配そうに見上げると、男は渡された骨だけの
「いやなに、姫君が逢瀬のきっかけを作ってくださったようだ」
「はあ」
「ふふふ、姫君にふさわしい紙を求めて、この骨に張らせようではないか」
「ああ、なるほど」
従者がうなづくと、男は馬を屋敷の方へ向けました。
「雪哉」
「はい」
「姫君の好みを探れ」
「ええっ」
従者はまたかと言うように不満の声を上げました。
「ふふ、そなたの仕事ぞ」
男は上機嫌でそう言い放つと、まだ見ぬ姫君との逢瀬に心踊らせるのでありました。
(終)
垣間見《かいまみ》 仲津麻子 @kukiha
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