垣間見《かいまみ》

仲津麻子

垣間見《かいまみ》

 今は昔、のちに平安と呼ばれるようになる世のことでございます。

蒸し暑い夏の宵、涼を求めて小路をそぞろ歩く男がありました。

 気だるそうに、開いた蝙蝠扇かわほりを揺らし、空にまたたく星を見上げながら、これからどうしようかと思案しているようすでごさいました。


 ちなみに、蝙蝠扇かわほりと申しますのは、数本の木製の骨の片側に、紙を貼った夏の扇でございます。風を送って涼んだり、歌やふみを書きつけたりもいたします。後世の扇子せんすと言われるものに近い形とおぼししくださいませ。


 少し離れたところに、男と同じ年頃の従者と、馬を牽いたわらべが控えておりました。男は手招きして従者を呼び寄せると、たもとから一通の結び文むすびぶみを取り出しました。


「このようなもの、用意していたのですか、若君」

 乳兄弟でもある従者は、あきれたように首を振りました。


「まあな、そろそろ四条あたりにも秋が来てな」

「おや、今はまだ夏でございますよ」

「はは、雪哉ゆきや、野暮を申すな。今宵は行けぬと伝えておくれ」

 男は閉じた蝙蝠扇かわほりを軽く掌に打ちつけながら、先方に広がる築地塀ついじべいに目をやりました。


「ああ」

 従者は理解したというように目礼して振り返ると、童に指示をしたのでしょう。童は従者から文を受け取ってきびすを返しました。


ひろよ、待て。これを」

 男は道端に生えていた紫草を手折って童に渡しました。

ふみだけではあまりに無粋だからな」

 男は自分に言いわけでもするようにつぶやきながら、早く行けというようにシッシッと手を振りました。


「さて、我らも行こうか」

 男は月明かりの中をのんびりと築地塀ついじべいまで歩くと、おもむろに塀の上にいてある瓦屋根に手をかけて伸び上がりました。

 しかし思いがけず土塀は高く、瓦はすべらかでうまく体が持ち上がりません。


雪哉ゆきや

 男は従者を呼ぶと、蝙蝠扇かわほりで地面を指しました。

「私が、ですか」

「うむ」

 従者が恨めしそうに見るのに頓着せず、男はもう一度地面を指しました。

「はいはい、わかりましたよ」

 従者はブツブツ言いながらため息を吐くと、地面に這いつくばるのでした。


「よし、行くぞ」

「どうぞ」

 男は腹ばった従者の背に足をかけると体を伸ばし、エイヤッと塀に取りつきました。


「いかがですか」

「なかなか」

「お目当てのものが見えますか」

「うむ」


 築地塀ついじべいの上に首だけ出した男の眼下には、やや遠目ではありましたが対屋たいやの周りをめぐる広庇ひろびさしがあり、その一画を御簾みすで仕切って夕涼みしている女人にょにんたちの姿が見られました。


 半ばまで巻き上げた御簾みすの奥からは、夏用の生絹すずしの衣。打袴うちばかまひとえのみを羽織った姿で、杜若かきつばたや百合、撫子など色とりどりの薄絹からは、なまめかしくも柔肌やわはだが透けて見えるのでした。


 まさか垣間見ている者がいようとは思ってもみないのでしょう。女だけの気安さからか、なかなかに大胆な姿をさらしている者もおりました。


「おおお、眼福がんぷく、眼福」

「若君、重いですよ」

 男が従者の背中で体を揺するものですから、従者が文句を言いました。


「シッ、騒ぐな。見つかったらどうする」

「大丈夫ですよ、暗がりにいれば。あちらは篝火かかりびで明るい。あちらからは見えません」

「うむ、そうだろうが、騒げば聞かれる」

「そうお思いなら、背中で跳ねるのはおやめくださいよ」

「うむ」


「それで、お目当ての姫君はいらっしゃいましたか」

「いや。あれらはおそらく側付きの女房たちであろう。聞いた話では、たまにお出になるだけだそうだから、今宵は見えぬかもしれぬ」

「そうですか、残念ですね」

「なに、急ぐわけでもなし。次の機会を待とう」

 そう言って従者の背から降りようとした男は、足をすべらせて地面に落ち、したたかに腰を打ってしまいました。


「痛たたたた」

 思わず声を上げるので、従者が慌てて立ち上がろうとしましたが、長い間主人に踏みつけられ、同じ姿勢を続けていた体はすぐには動かせません。こちらもまた、背中の痛みに声を上げて無様に転がってしまうのでした。加えて、かたわらでおとなしく道草をんでいた馬も驚いて声高くいななきました。


「何ごとか」

 騒ぎに気がついた家人が数人、松明たいまつを手に、横の門から飛び出して来ました。すわ夜盗かと武器を構えている武人もおります。


 一瞬息を呑んだ従者は、深く息を吐いて落ち着くと、何ごともなかったかのように、体の埃を払いながら言いました。

「騒がせて申しわけない。こちらは右大臣家の……」


「おや、右大臣家の若君でしたか、こちらこそ失礼いたしました」

 思いがけず相手が身分の高い貴公子と知って、家人は従者の言葉を最後まで言わせずに深々と頭を下げました。


 男の方も、見つかってしまったからには忍んでも意味が無いとばかりに、従者に手を引かれて立ち上がりました。


 男は手に持っていた蝙蝠扇かわほりで吹き出た汗を乾かそうとして、アッと小さく声を上げました。

 塀から落ちた拍子に華奢な骨が折れておりました。折れた骨から紙が外れて、無残にもふらふらと垂れ下がっているのでした。


 主家の姫君が身分高い殿方と縁ができるのはめでたきこと。家人はおそらくそう考えたのでありましょう。近くにいた小者に何かささやくと、小者は急いで屋敷の方へ駆け戻っていきました。


 男はそれを見て見ぬ振りをして、従者が乱れた男の直衣のうしを整えるのを鷹揚に待っておりました。それから近くにいた馬の背に乗ると、家人たちを見渡して言います。

「騒がせたな。ああ、そうだ雪哉」


 男が従者に目配せすると、従者は心得たように袂をさぐり、幾ばくかの金子きんすを出して家人の一人に握らせました。

「世話をかけた。これでみなで酒でも飲むが良い。またよろしく頼むぞ」

 従者は言って、主人が乗る馬のくつわを取りました。


 従者はこれから主人が姫君の元に通うようになった場合を考えたのでありましょう。こういう根回しというのも、貴きあたりの恋路にはつきものでございます。


「お待ちくださいませ」

 男が帰路につこうとしたところ、背後から声がかかりました。


 従者が声の方に振り返ると、先ほど屋敷内へ駆けて行った小者が戻ってきて、手に持った何かを差しだしていました。


「どうした、雪哉」

「若君、こちらを」

 従者が差しだしたのは、黒く塗った薄い板を五本束ねた蝙蝠扇かわほりの骨でした。


「これは、ふみもなしか」

 男が首を傾げますと、従者も怪訝そうに答えました。

「はい。骨を折られたとお聞きしましたので、というお言葉です」


 男は一瞬、あっけにとられたような顔をしましたが、やがて大声で笑い出しました。

「ははは、なるほど。げにも面白き、大胆な姫君とみえる」

「どうされましたか」


 男があまりにも笑うので、従者は不思議に思ったのでしょう。心配そうに見上げると、男は渡された骨だけの蝙蝠扇かわほりを揺らして、なおも笑い続けておりました。


「いやなに、姫君が逢瀬のきっかけを作ってくださったようだ」

「はあ」

「ふふふ、姫君にふさわしい紙を求めて、この骨に張らせようではないか」

「ああ、なるほど」

 従者がうなづくと、男は馬を屋敷の方へ向けました。


「雪哉」

「はい」

「姫君の好みを探れ」

「ええっ」

 従者はまたかと言うように不満の声を上げました。


「ふふ、そなたの仕事ぞ」

 男は上機嫌でそう言い放つと、まだ見ぬ姫君との逢瀬に心踊らせるのでありました。


(終)

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垣間見《かいまみ》 仲津麻子 @kukiha

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