最終話 弔い後、次の旅へ

 命尽きた桜の大木の根元に、赤い髪の男が木に抱かれるように横たわっていた。

 まだ二十代半ばぐらいだろうか。それほど線が細いわけでもないのに、どこか儚げな印象を与える男だった。


「――じ、あるじ。おい、いつまで寝ている気だ」


 その傍らにいるのは、焦げ茶色の毛に全身を覆われた一匹の――犬。

 人語を話すその犬は、器用にも前足で男の身体に巻き付いた妖樹の残骸を取り払った。


「いい加減目を覚ませ――螢蛾けいが


 容赦なく肉球が頬を叩いた。微かに睫毛が震え、瞼が持ち上がる。


「――む、つ?」


「そうだ。私のことが分かるか? 主よ」


「――ああ。俺の大事な相棒だ」


 血の気の失せた青白い顔に安堵の笑みを浮かべながら、螢蛾はゆっくりと上半身を起こす。それだけの動作が身体に堪えたのか、顔を顰めて息を吐き出した。


「主はいつも無茶をする。今回もそうだ。こんな枯れ木の願いなんか聞いてやる必要はなかったのに。お人好しが過ぎるぞ」


「枯れ木じゃないよ、むつ。俺が叶えてやりたかったのは咲良の願い。れっきとしたひとりの娘の願いだ」


「あいつはとうの昔に死んだ。今はただの骸だ。言葉を交わせるわけでもない。あいつの願いなど所詮、桜の木に取り込まれた時に残った思念の滓だ。何の価値も――おい、何故笑う?」


 途中から微笑ましそうに睦を見守っていた螢蛾は、目の前の小さな頭に手を伸ばした。


「うんうん、お前は良い子だね。口ではそう言いつつ、何だかんだいつも手を貸してくれるんだから。これほど主に忠実な犬を俺は知らないよ」


 睦は渋々といった様子で螢蛾に撫でられていたが、尻尾だけは素直に喜びを表していた。


「――今回ばかりは、本当に助かった。お前が来てくれなかったら、俺はあのまま咲良の幻の中を彷徨い続ける羽目になっただろうからな。実際、お前が転校生としてあの世界に揺さぶりをかけてくれなければ、俺はあのまま、咲良の記憶の中にある幼馴染の太一と同化して離れられなくなっていた」


 お前がもう少し遅かったら、俺は四角い顔の坊主頭になるところだったんだぜ。あっけらかんと笑う螢蛾に、睦は呆れた目線を送った。

 螢蛾は地面に残った一枚の桜の花びらを、指先でそっと摘み上げた。


「怪桜妖樹――それ自体は珍しくもなんともないが、命尽きる間際まで、これほど強固な幻惑術を維持し続けることができる個体はそう多くはあるまい。元々の桜の樹齢によるものか、はたまた――」


 螢蛾は自分が腰をおろしている辺りの地面を見下ろした。この地面の下には、今でも咲良の亡骸が眠っている。


「――遺体を桜の木の下に埋めたら村が栄えるなど、そんな嘘を吐いてこの妖樹を誕生させた輩は、一体何者なんだろうな」


「もう、何十年も昔のことだ。誰も知りはしない」


「――そうだな」


 溜息のようにそう呟いて、螢蛾はそっと花びらを懐紙に包み、懐にしまった。


「ところで、睦。お前のあの転校生像なんだが」


 そう口にすると、睦は「悪いか」と不貞腐れた顔でそっぽを向いた。


「良いも悪いも、まだ何も言ってないぞ?」


「あれは名前の通り――お前の兄の清志郎をかたどった」


 風にはためく羽織の前を閉じながら、螢蛾は感慨深げに睦を見た。


「俺はてっきり、お前は兄貴が嫌いなものだと思っていたよ。末に生まれたお前を化け犬にするためだけに、他の兄弟を皆殺しにした男なのだから」


「好きとか嫌いとか、そういうことはもう忘れた。主以外に顔が思い出せる人間が清志郎しかいなかった――ただそれだけのことだ」


 睦はそう言って、目を閉じた。


 ――いいかい、お前は今日から睦だよ。


 兄弟を殺したばかりの手でまだ小さな命を包みこんだ清志郎の顔は、一生忘れない。

 それから暫くして、清志郎は忽然と姿を消した。

 まだ幼い螢蛾と睦を置いて。


「――さて、昔話もここまでにして、咲良の亡骸を弔うとしようか」


 主の声に、睦は再び目を開く。


「この村にはもはや誰も訪れやしないのだから、このまま放っておいても問題ないだろう?」


「まあ、この桜はもう死んでしまったし、放っておいても害はないだろうけどさ――」


 螢蛾は目の前に広がる村の景色を見渡した。

 ぽつぽつと建ち並ぶ古い民家のほとんどが植物に呑み込まれ、人知れず朽ち果てている。

 もう何十年も昔に死んだこの村で、一番最期に眠りについた咲良。


「――安らかに眠って欲しいんだ。咲良が大切に想っていた人たちの隣でさ」


 両親や、兄弟、そして好きだった太一のそばで。今度こそ、永遠に。


「好きにしろ。私は主の命に従うまでだ」


「うん、そうだな」


 螢蛾は膝に手をやり、ややふらつきながら立ち上がった。望んで取り込まれたとはいえ、桜の木に吸い取られた力は少なくないのだろう。


「村の墓所は一度見掛けた、案内する」


 つくづくお人好しの主にうんざりしながらも、睦はそう告げて先を歩いた。


「――なあ、睦」


 目の前をゆく睦の左右に振れる尻尾に、螢蛾は尋ねた。


「兄貴は生きてると思うか?」


 睦は立ち止まって振り返ると、のんびりとした歩調の螢蛾を叱咤した。


「そんなことより、さっさと歩け。墓穴はかあな掘っている間に日が暮れたらどうする」


「はは、手厳しいな」


 笑う螢蛾に鼻を鳴らして、睦は前を向いた。


「――清志郎は生きている。必ず見つかる。信じろ。そのための旅路なのだから」


 独り言のようだった。睦はまた、雑草に覆い尽くされた道なき道を掻き分けて先を行く。


「――そうだな」


 砂交じりの風が、誰もいない村を吹き抜ける。

 螢蛾は足を止めて、振り向いた。


 ――どうか、忘れないで。わたしがここにいたことを。


 もう二度と花をつけることはない桜の木を、今一度、その目に強く焼き付けた。




(了)

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桜の下に眠る幻 紫冬湖 @touko3141

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