この世界に君がいてくれるなら

伊東ミヤコ

君はあまりに遠く、綺麗すぎて



「え……?」


 一瞬、わたしを闇から救い上げてくれる手が、突然目の前に現れたのかと思った。周りの喧騒さえ、世界から消えた気がしたのだけれど。


「佐藤? どうかした? それ、集めるから。ワーク」


「ああ、ワーク。これね」


 次の瞬間、我に返る。ここはわたしの通っている中学校の教室で、いつものように、わたしは自分の席で一人休み時間を持て余していたのだった。机の上に置いておいた英語の問題集を、声をかけてきた水沢に手渡す。


「水沢、英語係だったっけ?」


「相変わらず、何も聞いてないんだね。日直が集めて持ってこいって、授業中に先生が言ってたよ」


 あきれたように、でも、慣れた調子で水沢が笑った。


「そんなことないよ。必要なことは、ちゃんと聞いてるし」


「だといいんだけど……ん? 俺の手に、何かついてる?」


「ううん」


 無意識に、水沢の手を見つめていたようだ。


「水沢の手、女子の手みたいだなって」


 本当は、純粋に綺麗な手だと思って、目が離せなかっただけなのだけれど。


「そう?」


 迷惑そうに、水沢が顔をしかめている。女子っぽいという言葉には、水沢もいいかげん飽き飽きしているのだろう。でも、それは決して、マイナスの評価というわけではない。がさつで、くだらないことばかりやっている他の男子とは違うという意味で、他の女子たちもよく言っているのだ。


「そうだよ。細いし、白いし。そういえば、ピアノも弾けたりするんだっけ。この前、合唱の伴奏とか頼まれてたよね」


「親に習わされてたから、少しはね。それより」


 水沢がちらりとわたしの机の表面に視線を向けたから、反射的に腕で隠した。いたずら書きを消した跡や、消しきれなかった跡で、汚く真っ黒になっている。ほぼ毎日、登校するとまず、わたしはこの消しゴムをかける作業に時間を費やすはめになる。


「大丈夫なの?」


「何が?」


「何がって。いつも、誰に何書かれてるの?」


「べつに、くだらないこと。どうでもよくなって、やめるでしょ、そのうち。気にしてないし」


 水沢と、こんな話はしたくない。とはいえ、水沢本人の気づかないところで自分が水沢に守られていることは、わたしも承知していた。このクラスに、正義感と強さ、そして、人当たりのよさを合わせ持った水沢の存在がなかったら、この程度ですんでいるとは思えない。


「そう言うと思ったけどさ。何かあったら、話しなよ」


「わかんない。水沢、頼りないし」


「あっそ」


 軽く息をついて、水沢が他の人のワークを集め始める。今度は、遠目に水沢をながめた。二か月前の入学当初よりも多少伸びた気はするけれど、わたしよりもまだ背は低いし、制服の新しい紺のブレザーは、全然余裕がありそうだ。


 色白で華奢で、きりっとした目鼻立ちも、そのへんの女子よりも全然整っている。そして、ちょうど切ったばかりなのか、中一らしい短い前髪が微笑ほほえましい。そんな見た目だけれど、何でも器用にこなし、自分の考えもしっかり持っている水沢は、女子にも男子にも一目置かれ、誰もが水沢と仲よくなりたがっていた。


 清潔感があって、人のことを平等に思いやれる水沢に、そうという名前も、ぴったりだと思う。わたしがそんな水沢に素直になれず、憎まれ口を叩いたりするのは、男子で唯一普通に接してくれる水沢と、対等でいたいと思う気持ちからだった。


『カオル菌』


 机の表面にうっすらと残る、男子の乱暴な文字。こんな子どもじみた嫌がらせは、小学校で終わると思っていたけれど、甘かった。カオルというのは、かおるという、わたしの三歳違いのお兄ちゃんのことだ。そして、わたしの名前は、佐藤 ひかりという。


 光という名前は、お兄ちゃんの名づけの際に候補に挙がって、最後まで残っていたひかるという名前の読み、一字だけを変えたものらしい。特に何のとりえもないわたしには、そんな平凡な名字に適当につけられた名前が、よく合っていると思う。


 水沢と話していたのが気にくわなかったのか、水沢が職員室に行ったのを見計って、数人の女子もあからさまにこっちを見ながら、「キモいよね」とお兄ちゃんの話をしている。クラスでは、女子ですら、わたしとまともに話そうとする子はいない。わたしは、何も悪いことをしていないのに。


 もっとも、その理由もわかっている。水沢の参加していないクラスラインで、定期的に誰かがお兄ちゃんの写真を上げているのだ。


 あのお兄ちゃんさえ、いなければ ————— 何千回、何万回、そう考えたことだろう。これ以上、わたしの生活をお兄ちゃんに振り回されるのは、まっぴらだと思い続けてきた。でも、まだ中学生になったばかりのわたしに、そこから逃げるすべなんて、わかるわけがなかった。






 家の玄関のドアの前に立つときに襲われる息苦しさに、わたしが慣れることはない。鉛のように重く感じられるドアノブを回し、足を中に踏み入れると、とりあえずはお兄ちゃんがいるかどうかを自然に確認するものの、どちらがいいということもない。


 同じ空間で同じ空気を吸うのも苦痛だし、外でクラスの誰かに見られたらと気をもむのも落ち着かないから、どちらにしても気が休まることはないのだ。今日も、靴箱の上に華々しく飾ってあるトロフィーや楯に出迎えられて、早々に気持ちが沈む。


 お兄ちゃんのかつての栄光を象徴する、それらのお母さんの宝物だけは、いつでも最高の状態に磨き上げられていて、ほこりが被っているところなど、一度も見た覚えがない。


「光? 帰ったの?」


「うん。ただいま」


 お兄ちゃんのスニーカーが玄関に出ているということは、お兄ちゃんは部屋にいるはずだ。


「もうすぐ、ご飯よ。着替えたら、すぐに下りていらっしゃい。お兄ちゃんも呼んできてくれる?」


 キッチンから出てきて、特に機嫌がいいわけでも悪いわけでもない、いつもの調子で声をかけてくる、お母さん。


「……わかった」


「また、そんな顔して」


 そして、そう言って、わたしをがっかりしたような目で見るのもいつものことだ。


「冷たいのよね、光は。昔、あんなにお兄ちゃんに優しくしてもらってたのに」


 毎日のようにしつこく、お兄ちゃんに優しくしてもらったのにと、お母さんはわたしに言うけれど、お兄ちゃんに優しくしてもらった記憶など、まるでない。昔から、お父さんやお母さんが見ていないときのお兄ちゃんは、ずる賢くて、いやらしい性格だった。わたしの感覚では、それは生まれついてのものなのだろうと思う。


 幼稚園くらいの頃は、ささいなことだけれど、食事中にテーブルの下で足を踏んだり、つねったりされることが苦痛だった。そのうち、外で気に入らないことがあると、わたしが大事にしているものを隠したり壊したりするようになった。


 いや、何もなくても、わたしを困らせることが、ただ楽しかっただけではないかと、今は思っている。報復を恐れて、わたしが誰にも告げ口をすることができなかったのをいいことに、お兄ちゃんはやりたい放題だった。


 でも、お母さんはそんなお兄ちゃんの歪んだ性格にいまだに気づいていないし、お父さんの方は多分、現実を認めるのが面倒で、仕事を理由に目を背け続けている。なぜなら、小学校を卒業するまでのお兄ちゃんは、勉強も運動も完璧にできて、友達もたくさんいる、自慢の息子だったからだ。


 先生からの評判もすこぶるよく、児童会長も引き受けたりして、ファンクラブみたいなものまであったとも聞いている。 今となっては信じられない話だけれど、髪や服に異常にかまっていたこともあり、当時は見た目もそれなりで、かなりの人数の女の子に告白されていたらしい。


「ご飯だって」


 いつまでたっても、お兄ちゃんのいる状況に慣れることはない。自分の部屋に荷物を置いて、着替えをすませると、お母さんに言われたとおり、隣の部屋にいるお兄ちゃんに呼びかける。一人ですぐに階段を下りてしまいたかったのに、タイミング悪く、お兄ちゃんもダイニングに向かおうとするところだったようだ。


 鈍い耳障りな音と共に、ドアが開いた。脂肪とむくみで埋もれ、目さえもかつての面影を失っているお兄ちゃんと、視線がぶつかった。食べものの腐敗臭と、もう何日もシャワーを浴びていない体臭の入り混じった生臭さで、鼻と頭に鈍い痛みが走る。


「何だよ? 何か、言いたいことでもあるのか?」


「……べつに」


 持ち前の要領のよさで、両親や周りの過剰な期待に応えて、そこそこ有名な私立中に入学することはできたものの、そこで努力をしなかったお兄ちゃんは、進級する頃には落ちこぼれになった。


 プライドを保てなくなったことで学校に行けなくなり、何日かに一回近所のコンビニで炭酸飲料やスナックを買い込んできては、部屋でゲームだけをしている生活。そんな自堕落な生活で、外見もすさんだものに変わった。不潔な長い髪と、百キロは超えているはずの膨れた体に、醜く荒れた肌。人はここまで変われるものなのかと、感心すらしたくなる。


「かわいそうなやつだよなあ、おまえは。昔は、学校の中でいい位置にいたこともあったみたいだけど、それは全部俺のおかげだろ?」


 ただただ、関わりたくない。その一心で、こんなお兄ちゃんへの嫌悪の感情すら押し殺そうとしているのに、こうして誰も見ていないところで必ず突っかかってくる。たしかに、お兄ちゃんがこんなふうになる前、わたしがクラスのリーダーみたいにふるまえていたのは、お兄ちゃんの存在が大きかったことは否定できないけれど。


「それが、今はどうだよ? おまえのことを特別に思ってるやつなんか、誰もいない。名前すら、親にまともに考えてもらえなかったくらいだからな。生まれたときから、どうでもいい人間だったってことだ」


「…………」


 誰のせいで、今のわたしがこんな状況に追い込まれていると思っているのだろう? 学校中のヒーロー扱いをされていたその陰で、お兄ちゃんは下の学年の男子、わたしの同級生などにも陰湿な暴力を振るったりしていたのだ。


 そんな恨みを買っていたからこそ、なおさら今の姿が面白おかしく広がって、その矛先がわたしにまで向かうようになったのに。何ともいえない気持ちで黙ってしまうと、お兄ちゃんは、わざとらしい声で「くくく」と笑った。


「どうしたの? 早くいらっしゃい。大丈夫? 薫くん。光? お兄ちゃんに、また何かよけいなことでも言ってるの?」


 階段の下からは、しびれを切らしたお母さんの声。


「何もないよ、お母さん。それに、光が俺を嫌うのは当然だから」


 まるで、自分が傷つけられたような空気を匂わせて、背中を丸めながら、お兄ちゃんが先に階段を降りて行く。逃げ出したい気持ちを抑えながら、わたしもお兄ちゃんのあとに続いた。


「はい、薫くん。今日は、薫くんの好きなハンバーグドリアよ。サラダも食べてね。薫くん、ポテトサラダは食べられるでしょ?」


「サラダは半分でいい」


「もう」


 一緒にテーブルに着いたお兄ちゃんと向かい合って、お母さんはうれしそう。まるで、恋でもしているようだ。お母さんの目に映っているのは、いつだって、みんなの先頭に立っていた全盛期のお兄ちゃんの姿なのだろう。


 毎日の献立は、お兄ちゃんの好きな肉や揚げ物ばかり。口にする前から、油とソースの甘ったるい匂いで、胸焼けがする。やがて、隣から、クチャクチャと不快な音が響いてきた。


 不意に、水沢のことが頭に浮かんだ。水沢はいいな、と思う。存在そのものに清潔感があって、綺麗だ。あの水沢とお兄ちゃんが、同じ人間だとは信じられない。水沢といるときだけ、わたしはお兄ちゃんの存在を忘れることができる。






「いいなあ、光ちゃん。ずるい」


 小学校の低学年の頃は仲よくしていたけれど、中学に入ってからは口をきく機会も少なくなっていた隣のクラスの女子に、廊下で突然話しかけられたのは、翌日のことだった。


「聞いたよ。これから、水沢くんの家に行くんだって?」


「行くけど」


 グループ学習で、放課後は数人で水沢の家に集まることになっていたのだ。


「何がずるいの?」


「だって、いいじゃん……! 水沢くん。わたしも仲良くなりたい」


 大げさにも感じられる目の前の反応に、水沢はクラスの違う女子にまでそんなふうに思われていたのかと、内心複雑な気持ちになる。


「そう? 水沢なんて、チビだし、そんな騒ぐような……」


「えらっそうに。佐藤も同じくらいだろ?」


「あ」


 ちょうど、教室から出てきた水沢に聞かれてしまった。ふてくされた表情をしている、水沢。


「出るよ、もう。佐藤、俺の家の場所、わからないでしょ?」


「あ……う、うん」


 タイミングの悪さに、むだに焦ってしまう。


「荷物持ってきなよ。待ってるから」


「わかった。ごめん、じゃあね」


 ただ、先生に出席番号で適当に同じグループに組まれただけなのに、心の中で優越感みたいなものを抱きながら、自分のリュックを取りに走ると、水沢のところに戻った。きっと、グループの中に女子はわたししかいないから、気を遣ってくれたに違いない。


「他の男子は?」


「一回家に帰って、スマホ持ってくるって」


「ふうん。そう」


 ということは、水沢の家まで、ふたりきりということだ。ちらちらと周りの視線を感じながら、校門を出る。水沢が言ったとおり、隣に並んでみると、いつのまにか、わたしの背と変わらない。


「ねえ、水沢」


「ん?」


「水沢って、好きな子とか、いないの?」


「…………」


 わたしの質問に、一瞬、水沢が目を見開いた気がした。


「何? それ。なんで、急に?」


「や、なんか、女子に人気あるみたいだし。わたしには、よくわからないけど」


 本当は、周りの女子が水沢をいいと思う気持ちは、わかりすぎるほど、わかっている。だから、気になってしまったのだ。


「俺も知らないよ。そんなの」


 少し動揺していたように見えた水沢が、いつも調子に戻って、眉をひそめる。


「知らなくてもいいから。いないの? 好きな子」


 何気ない好奇心で聞いただけなのに、引っ込みがつかなくなる。


「じゃあ、佐藤は?」


「はい?」


「佐藤は、どうなの?」


「えっ? あ……」


 そこで、我に返った。


「どうして、そんなこと、水沢に言わなきゃいけないの?」


「ほら。そっくりそのまま、佐藤に返すよ」


「……もったいぶっちゃって」


「変な佐藤」


 冗談めかして笑う水沢に、それ以上は何も言えなくなってしまう。でも、これでよかった気がする。自分から話題にしておいて、水沢が誰かの名前を口にしたら、きっと後悔した。


「いいよ、もう。わたしも本当は、水沢が誰を好きかなんて、どうでも……水沢?」


 ふっと隣の水沢の顔を見て、水沢が真面目な表情になっていることに気づく。


「佐藤」


 不意に、改まった真剣な口調。


「何……?」


「今の話は置いておいて。俺、佐藤に言っておきたいことが……」


「水沢! よかった。追いついたー」


 そのタイミングで、グループの残りの男子が水沢に勢いよく飛びついてきた。


「ああ。早かったね」


「おう。これ、家にあったから、適当に持ってきた」


 お菓子の入ったスーパーの袋を水沢に渡すと、水沢の肩を組んで、先に歩いていってしまう男子たち。


「そんな、気なんか遣わないでいいのに」


 一瞬、こっちを見たけれど、水沢も男子たちの話に応じ始めた。


「あ……ちょっと、待ってよ」


 慌てて、水沢の背中を追う。さっき、水沢は、わたしに何を伝えようとしていたの?



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